271−3.文明と文化について



得丸様、(NO.264−2に対して)

今まで、個人的に質問させていただいていたのですが、せっかくで
すので、今までの分と合わせて私の考えを述べさせていただきたい
と思います。

> 文明とは何か、文化とは何か、についてはさまざまな定義がありま
> す。これらの概念の定義を統一しないことには、お互いに思ったこ
> とが伝わらない、コミュニケーションが取れないと思います。

1. まずこの部分で気になりましたのは、「これらの概念の定義を
統一しないことには」という部分です。一方で「文明とは何か、文
化とは何か、についてはさまざまな定義」があると認めておられな
がら、それを「統一する」というのは少し違うのではないかと感じ
ます。

もし、「文明」と「文化」の議論をするには、各人の様々な定義を
先に述べた上で、その有用性を述べるということが必要であると思
います。また、得丸様のように定義を述べられた上で、社会問題を
考えるにあたっての自分の考えを述べられるのは有効なことである
と考えます。

ですが、「お互いに思ったことが伝わらない、コミュニケーション
が取れない」というのは別の話になると思います。つまり、自分と
違う定義を持っている人を一切排除するような議論はコミュニケー
ションが取れないものになりますが、相手の定義の強みと弱みを理
解して議論するならば、そうはなりません。

ですので、「定義を統一する」のは別問題ではないでしょうか?
また、あえて申し上げるならばその必要はないと考えます。もし、
異なった定義があるならば、どれがどれだけ有用であるかといった
議論をすべきであると思います。

2. 私は、漠然とながらも「文化」と「文明」は両者とも何かしら
の要素を基に、「集合体」と捕らえられるものであると考えていま
した。

ですので、得丸様のおっしゃる、

>文化は個々人の心(意識と無意識)であり、文明は人間を取り巻
>く環境(自然環境、建築環境、社会環境)です。

特に、「文化」=「個人」の心であるといった定義にはいささか疑
問を感じるわけです。また、「文化」=「心」、「文明」=「環境」
とされていますが、「違う言葉であるから」という理由で、文明と
文化を区別されたように、「文化」と「心」、「文明」と「環境」
を区別しなくても良いのか、という疑問も湧きます。

つまり、もう少し具体的に申し上げれば、得丸様が具体例として出
されている事柄は、「環境」を「文明」、「個人の心」を「文化」
と置き換えるだけで、あたかもこれらが文明と文化の問題として提
起されることになってしまいます。(もちろん、これはこれでよい
のですが、ここには「文化」と「心」、「文明」と「環境」の区別
が存在しません。)

3. Nationについて

前回、いくつか挙げられていた項目の中に「文化と文明ですべてを
語れる」というものがありました。(もちろん、得丸様の定義によ
ればそうなると思います。)さらに「文化は民族のアイデンティティ
ーという迷信を取り除くため」という項目もありました。(その中
で突如、文化相対主義の話が出てきたため、あまりにも極端な展開
ではないかとびっくりしましたが。別に文化相対主義者でなくても
このような議論は数多くありますよ。)さて、人間社会の主要現象
の一つであると思われる「Nation」や「アイデンティティー」問題
を文化や文明で説明しないのは得丸様のおっしゃるところと矛盾し
ないのでしょうか?または、Nationや「民族のアイデンティティー
」自体が存在しないという議論になるのでしょうか?(ちなみに、
ベネディクト・アンダーソンの言うところの「想像の共同体」はあ
くまでも「Nation=Fake」ではなく「Nation=Imagined」ですね。)


> ひとりひとりの人間は個別に意識形成するのに、その集合体として
> 文明というものが、アイデンティティーをもったひとつの生命体の
> ように存在している。ここに文明というものの不思議さがあります。

話は違うかもしれませんが、この部分は、「文明」を「Nationalism」
や「Nation」と置き換えて問題提起しても、違和感の無い文です。
つまり、これがNationとNationalismを考察する際の基本的な問いか
けです。

私は、得丸様にお返事を書かせていただくまで、文明と文化につい
て考察することはほとんどありませんでした。ですが、例として日本
を挙げつつ、「日本であると言える何かしらの「要素」が文明であ
って、その要素が変形・変質していくものを、またはその要素を時
代に応じて維持している「力」を文化と呼べるのかもしれない」、
そして、そこには、「結局明確な区別は無いのではないのではない
か」、と申し上げました。

古代エジプト文明の数千年の歴史で、やはりその環境は違ったので
はないでしょうか?それでも、エジプト文明はある。(概念上であろ
うが何であろうが。)その数千年の間に、様々な文化が形成されて
ゆき、消えていく。両者とも何かしらの「集合体」であると捉えた
場合、この二つを明確に区別するのは難しくなる。

つまり、議論の際に違いが生じるのは「前提の問題」であるわけで
す。ポスト・モダン的議論では、それを無くそうとしますが、きっ
と通常の議論では無理でしょう。

得丸様の主張されるところは、納得させられることが多く、また参
考にさせていただいております。が、定義を統一してしまっては、
新たな見方による議論が生まれにくくなるのではないでしょうか?

柳太郎

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