267−2.教育問題の提言



 yanchabooyaさんからのメールで、再度このコラムを議論した方
がいいとの指摘ですので、再度コラムに載せます。(管理人T)
NO.185−1の再録
==============================
NO.179−2の下記の記述に、多少のコメントを付けたいと思
います。
(数学と教育に関するものです)

mag2 wrote:

> 数学は答えがいくつもあることはないのでしょうが、社会の場合
> ただでさえ事象の多面性のために見る角度によって様々な見方
> になることはこのマガジンの読者の方ならば十分理解できると
> 思います。けれども彼らは答えを一つに決めなければならず、
> 出題者の意図する答えを出さないと点数にならないのですよね。

以下は、数学に関する私の意見です。
(勉強不足で若輩者の意見ですが聞いてやってください)

数学関係に携わるものとして言わしてもらうと、
「数学的解答は無限に存在する!」。
さらに、数学的解答とは、
「結果の解をさすのではなく、経過と結果をさす」
のであると思う。

大学の数学科等へ進学した人達は、次のようなことに気づくであろう。
「結果以上に、その結果に辿り着くまでの過程が大事である」
ということに。

素朴な例として、大学の数学の試験において、解答の結果が拙くて
も、解答の内容や問題のアプローチの仕方が素晴らしいと、150点
、200点といった点数を得られたりする。
つまり、数学的アプローチとは、
「ある命題に対し、あらゆる方向から論理的かつ誰にでも説明できる
ように、検討し導くものである」と私は考えます。
つまり、人によって、その命題の見方、捕らえ方、アプローチの方向
、論理的組み立て、そして、結果、が違うということです。
さらに、その人の背景や立場によって、命題の最終的解すら異なる
場合があります。
(古典的には、数学的無限に起こる議論等)

最近、数学的アプローチ(論理的考え方)というものが、社会的に
重要になってきていると思われるが、いかがでしょうか?

> 私は小中学校で一学年7〜11クラスあり、一クラス45〜47人
> 程度いましたが、なんの不自由なく勉強できた記憶があります。
> その年代のものにはわからない事情もあると思い、様々な人の
> 意見を聞きたくもあり国際戦略とは離れる内容かとも思いました
> がメールを出させていただきます。

どんな凶悪犯罪でも、その犯罪を侵す前に、犯罪者が、論理的に物事
を考えられるならば、起こらないであろうと思われる(倫理的教育が
それなりに施されているという仮定の元だが)。

追加で、私の教育に関する意見です。

私の友人に教師が何人かいまして、生徒の進学等の悩みの話の相談を
、間接的に受けることが結構あるのですが、最近の中高生に関しての
私の持っている感想は、「勉強に疲れているというより興味がなく、
人間関係(友人、教師、親)に信じられないような幼稚な問題がある」
という感じがします。
例えば、ある教師が他の先生や生徒に、影で自分の気の食わない先生
や生徒の前で中傷したり、あげくのはてに、嘘の噂を広めたりしてい
る、といったものであります。結果、被害者はそのことが原因で苦し
むわけです。特に、生徒はそのことが原因でイジメがスタートしたり
する場合もあるそうです。

要は、教師が子供なのでどうにもならん、という印象です。

因みに、私の知り合いの教師は、
「人生で、学校という社会しか経験したことの無い人間が、学校以外
の社会に飛び立とうとする人間を、教育することには限界がある」
といっていました。
また、1クラス20人強の生徒の学校の教師は、次のように言ってい
ました。
「1クラス40人のときと、大変さという尺度で現状を比較すると、
最初は生徒に目が届いて楽に感じたけれど、今は前とあまり変わら
ない」
昔と今の学校の現状を単純比較することは出来ませんが、人を教育
するということに、「楽」という言葉はないようです。

大学とかでは、社会的経験のある人を、講師として招いて、学生に聞
かせたり、教員として来てもらったりします。
そのことにより、学生の何人かは、興味のある分野や仕事に関係する
話等を聞けたりするわけです。非常に勉強になると思いますし、自分
の学問する意味も不明瞭であっても、うっすらと方向性を見つける
ことが出来たりし、意欲の変化を見て取れたりします。

中学校、高等学校ではあまり無い様に思われます。
よって、例えば進学や将来のことを生徒が教師に相談してきたとき、
学校社会しか経験の無い教師が指導しても、限界があるように思わ
れます。

以下蛇足です。
私の勝手な学校制度の意見としては、

小学校、中学校で、社会的(色々な職業の人々とふれあう等)道徳的
(挨拶の意味、人の命とは等)教育を、今の授業時間数を減らして
でも(今のカリキュラムの小学校6年分ぐらいでよい)、徹底して行
っては如何であろうか。

高校で、徹底して基礎的教養を学問する。
 (今の、中、高、大1年生の内容を容赦無く勉強する)
大学1,2年で、基礎的教養をある程度完成させる。
(2年間かけて、前述の高校の内容を復習しながら今の大2年レベル
の内容を学ぶ)
大学3,4年で、一般的教養と興味のある学問分野(既存の学問で
なくともよい)を連動させながら自発的に学ぶ。
大学5,6年(大学院修士相当)で、興味のある学問分野の徹底。

知り合いの高校の先生に、この案を示したところ、
「高校でさらに、中途退学者が増えそう」
と言われてしまいました。

長くなったのでこの辺で止めます。
最後に、大学6年制はいかがでしょうか?
以上です。

TAKAHASHI
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(Fのコメント)
いい提案だと思います。論理的な観点と人間の価値の観点の2つの
教育が必要を考えています。この人間観の教育が不足しているので
あろうと思います。会社を退職した人を中学校の準教師に採用する手
などを考えたほうがいいです。社会生活の現実を教える。
===============================
Fさんへ

いつも、興味深く読ませてもらっています。
国際戦略フォーラム、No.176のバスジャック事件を発端とする「日本
の教育問題」への意見です。

日本の教育の矛盾を端的に表現するなら、以下のようになるのでは
ないかと思います。

「トーマス・エジソンやアルバート・アインシュタインの伝記を読ま
すくせに学校の成績で100点取らすことを強要する。」
「学校の成績がすべてじゃないと先生は言うが、じゃあ、他に何が
あればいいんだ。事実、偉い人は東大生がばっかりじゃないか」

これは、私が大学入りたての頃から感じていたことです。

私も、論語教育には、賛成です。
義務教育段階で、論語や聖書の一部、その他道徳哲学の書を優しく、
宗教的神秘的意味合いをのぞき合理的に解釈したものを学ばせること
は、非常に重要なことではないでしょうか。宗教は科学と紙一重で、
科学と道徳は、二つで一つですから。

家庭・学校・地域社会(自治体)で、何か、しっかりとした結論を出
せる話し合いを持ち、児童教育に対する明確な役割分担をしていく
ことが肝要であると考えます。子供は好奇心の固まりです。しかし、
我々社会で生きる人間よりかははるかに動物的です。人類学の観点から
見た場合、思春期を終えていない若人は、まだ完全な人間ではないの
です。

 私はアメリカへの留学経験があります。確かに、そこでは自由には
義務と責任がありました。中には、今の日本の平均的若年層よりひどい
貧弱な精神の人間(今回の事件を起こしそうな)もおりましたが、
少なくとも、他人への理解をしようと言う努力はお互いにありました。
これは、英語という意志疎通を前提にした言語の発達が要因の一つと
考えています。しかし、日本語は上下や左右の関係を把握することを
前提にし発達した言語です。

 皮肉な話ですが、黄色に白を混ぜても、完全の白にはならないで
しょう。これに関しては、いろいろな反論がでてくるかとは思います
が、私たちなりの個人としてのグローバル・スタンダードを構築する
、即ち、自己にとっての自由と平和を愛するが故、義務と責任を重ん
じる。日本に住む全員が日本をよくしようと思わなければ、良くなる
わけがない。今回のバス・ジャックの事件をどれだけ、いずれは我が
身と危機を認識し、捉えることができるか。もう、こんな事件はこれ
きりにしようと言う気持ちが、みんなどれだけ待てるか。そういった
ところではないでしょうか。私は、日本に期待しています。日本人
ですから。
以上です。

蓮の花より
===============================
(Fのコメント)
日本には、戦後今まで、多様な価値観がなく、勉強をして大会社に
入って偉くなりなさいと教育したし、親も思っていた。しかし、
この価値観が崩壊しようとしているのだと感じます。

 この次のモデルは多様性モデルで、それぞれが好きか興味のある
職業を選択する。または、個人でベンチャーを始める。この方が、
生涯賃金が多いということになると、今までの大企業就職モデルが
変化するはずです。そうすれば日本企業も欧米型に変化するでしょう。


コラム目次に戻る
トップページに戻る