263−3.マックとマクドのグローカリズム



YS/2000.08.16
◆マックとマクドのグローカリズム

 ある家庭の子供部屋のがらくた箱には、プラスティック製のおもちゃ
が山のように入っている。マクドナルドのハッピーセットのおまけがこ
の箱の主人のようだ。テレビCMでお好みのおもちゃが登場すると、そ
の週末にはマクドナルド一家となる。

 実はその父親も嫌いではないらしい。週に2〜3度利用することも少
なくない。混雑する時間を避けて、早々とビックマックを飲み込みノー
トパソコンを開いてなにやら仕事をしているようだ。牛丼も捨てがたい
が、さすがにカウンターで仕事をする勇気はないようだ。

 その父親は今でもたまに「マクドへ行くぞ」と言って子供から『?』
を投げかけられる。千葉で生まれた子供にとってマクドナルドは「マッ
ク」であって「マクド」ではない。関西の方はくれぐれも気をつけよう。

 この父親は、たまにビッグマックをみつめてしまう。「できるだけ米
を食べなさい」と言われて育ったために罪悪感を感じてしまうのだ。そ
んな時の飲み込むスピードは半端なものではない。

◆マクドナルドの世界

 日本でのマクドナルド1号店は1971年7月に銀座三越1階でオー
プンした。今では日本国内だけで3000店を超えている。本社はアメ
リカイリノイ州オーク・ブルックにあり、世界で見ると119カ国約
27,000店鋪という大変な数字が出てくる。まぎれもないビッグ・
カンパニーである。

 当然のことながらこのマクドナルドも毎年アニュアル・レポート(年
次報告書)を拝借しているが、社外取締役にはウォルマートのジェニー
・ジャクソンCEOと非常に気になる大物が就任している。

 現在のCEOであるジャック・グリーンバーグが企業向け保険分野で
米国最大の規模を誇るアメリカン・インターナショナル・グループ(A
IG)のグリーンバーグ・ファミリーの一員だったらさぞかし面白いは
ずだが、このあたりの分析は広瀬隆氏にお任せしよう。

 とにかくある会社との関連性をずっと捜してきたのである。そんな時、
待望のニュースが届いた。

◆マクドナルドとカーギルとの関係

 マクドナルドは今年7月25日、世界の卸売、小売業者、レストラン
などと取引がある食品関連の大手3社と提携し、インターネット上で食
材を取引する「電子商取引所」を設立すると発表した。互いの売買注文
を効率化することで、在庫を抱えるコストなどの大幅削減を狙う。

 マクドナルドと提携したのは、穀物商社カーギル、食品サービス大手
シスコ、食品加工大手タイソン・フーズ。4社の共同出資で、合弁会社
「エレクトロニック・フードサービス・ネットワーク」をイリノイ州に
設立する。

 世界で約2万7000のチェーン店を展開するマクドナルドの食材調
達体制を中心に、各社の取引ノウハウを活用しながら企業間の電子商取
引を運営、管理する計画で、他の食品大手にも幅広く出資や参加を呼び
かけているようだ。

 捜してきたある会社とは世界最大の穀物商社カーギルである。マクド
ナルドとカーギルとの取引関係が明らかになったことでアメリカの食糧
戦略の全体像がより鮮明となった。

=======マックとマクドのグローカリズム(2)=======
                -----放棄された食糧自給-----    
YS/2000.08.19

◆米農務長官のスーパーセールス

 1999年2月、グリックマン米農務長官は、前年12月末に合意し
たロシアへの約300万トンの食糧援助に続き、鶏肉5万トンおよび種
子1万5千トン(トウモロコシ1万4千トン、野菜1千トン)のロシア
への追加援助に合意したと発表した。

 当初ロシアは、自国の農業生産建て直しのため、トウモロコシおよび
野菜の種子の援助を要請し、鶏肉については援助希望品目に挙げていな
かった。しかし、米国産鶏肉の最大の輸出相手国であったロシア向けの
輸出量が、大幅に落ち込んだため、鶏肉業界が大きな影響を受けている
ことから、米農務省(USDA)側が5万トンの鶏肉の援助輸出を提案
し、結果的にロシアがこれを受け入れる形となった。

 これにより、鶏肉3千万ドル(約34億円)相当とその輸出に係る輸
送コスト550万ドル(約6億3千万円)が、政府間によるPL480
号タイトル1(低利融資による輸出プログラム)に基づき輸出されるこ
とになる。

 援助輸出された鶏肉は、ロシア市場で販売され、その収益はロシア年
金基金に配分されることとなっているようだ。

 さて適応されるPL480号は別名「平和の為の食糧援助(FOOD
FORPEACE)」と呼ばれている。1954年に制定された農業貿
易開発援助法であり、アメリカの余剰農産物を売却することを目的とし
ている。

 第二次大戦後、アメリカの食糧輸出は主にヨーロッパに送られていた
が、復興するにともない新たな売却先を探し求める為に戦略的に制定さ
れた。そのプログラムとしてタイトル1、 タイトル2、 タイトル3に分
類される。

タイトル1  外貨不足の開発途上国に、 長期、 低利で食糧を供給する
       制度で、 90年農業法では、 7年間の据え置き期間を設
       定し、 最長30年間の償還期間を設定していた。 96年
       農業法では、 据え置き期間が5年に短縮された。 援助対
       象の選定においては、 食糧援助の必要性とともに、 『そ
       の国の将来の米国産の農産物の輸出市場への発展の可能
       性』に重点をおいて選定することとされた。

タイトル2  飢餓や栄養失調の解消、 天災被災国への緊急食料援助等
       を目的とした無償食料援助事業である。

タイトル3  開発途上国の中でも最も経済基盤の弱い国で、 貧困や飢
       餓問題に悩む食料援助の必要な国に対する政府間ベース
       の無償食料援助事業である。

 96年農業法では、 事業の一般的な管理事項を規定したタイトル4に
おいて、 事業の2002年までの延長とそれぞれの事業予算の15%の
流用を認めることなど、 予算支出に柔軟性を持たせる規定が定められた。

 この50年近く前に制定されたPL480号が今でもアメリカの食糧
戦略の中核として生きている。余程の成功例があったに違いない。そう
「呆れるほど見事な成功例」がある。

◆学校給食の歴史

明治22年(1889) 山形県鶴岡町私立忠愛小学校で貧困児童を対
            象にし昼食を与えたのが学校給食の始まりと
            されている。
        
            当時の給食は、おにぎり・焼き魚・漬け物。

昭和 7年(1932) 文部省訓令第18号「学校給食臨時施設方法」
            が定められ、はじめて国庫補助によって貧困
            児童救済のための学校給食が実施。

昭和19年(1944) 6大都市の小学生児童約200万人に対し、
            米・みそ等を特別配給して学校給食を実施。

昭和21年(1946) 文部・厚生・農林三省次官通達「学校給食実
            施の普及奨励について」が発せられ、戦後の
            新しい学校給食がスタート。

昭和22年(1947) 全国都市の児童約300万人に対し学校給食
            を開始。
            
            連合軍の物資放出、LARA物資の援助によ
            って急速に復活し、12月にアメリカ政府援
            助の脱脂粉乳が給与されてミルク給食が開始。

昭和25年(1950) 8大都市の小学生児童に対し、アメリカ寄贈
            の小麦粉によりはじめて完全給食を開始。

昭和26年(1951) 給食物資の財源であったガリオア資金資金(
            アメリカの占領地域救済資金)が6月末日で
            打ち切り。

昭和27年(1952) 小麦粉に対する半額国庫補助が開始。
            4月から全国すべての小学校を対象に完全給
            食が実施。

昭和29年(1954) 第19国会で「学校給食法」成立、公布。

昭和31年(1956)「学校給食法」が一部改正、中学校にも適用。

           「米国余剰農産物に関する日米協定」の調印に
            より、学校給食用として小麦10万トン、ミ
            ルク7500トンの寄贈が決定。

◆放棄された食糧自給

 特に1945年は凶作となり大都市での食糧欠乏が予想された。日本
政府は1946年の分として400万トンの食糧をSCAP(連合国軍
最高司令官)に要請したが、折衝は順調には運ばず、わずか70万トン
が保証されたにとどまる。

 都市部における摂取量は最低生存水準まで落ちていたが、幸いなこと
に農家が隠匿した食糧があったので、飢餓は回避される。占領当初2年
間のアメリカの援助は、陸軍予算の一部であるガリオア資金(GARI
OA:占領地域救済政府基金)による食糧援助が主要なものであった。

 終戦から年間の食糧消費量の4分の1程度は米国の援助に依存してい
た。従ってこの期間の米国による援助は、日本における飢餓の回避に重
要な役割を果たした。

 この当時アメリカが食糧政策に戦略性を見い出していたかどうかは定
かではない。しかし1954年に制定されたPL480号が日本をター
ゲットに置いたことはまぎれもない事実であろう。
 
 この年、アメリカは条件案付きで日本に経済社会構築のための防衛上
の再軍備実施と食糧増産の打ち切りを要求する。そして財政投入型の食
糧増産をやめて日本はアメリカの余剰農産物を円で買う、そのかわりに
アメリカは受け取ったその円を日本への防衛投資や日本製品購入に当て
るという内容のMSA協定を提示する。

 日本政府は、アメリカ側の新しい援助だとして飛び付き、即座にMS
A協定を締結すると、これまでの方針を大転換し米麦を中心とした食糧
自給を見事に放棄し小農保護政策の中止を決めていく。

 97年に公開された外公文書で、実際には1954年秋に愛知揆一通
産相訪米の際、アメリカが小麦など大量の余剰農産物の対日売り込みと、
その売却資金による日本の自衛力拡大の一石二鳥をねらい、在日米軍の
「撤退の希望」表明することで日本側に揺さぶりをかけていた事実も明
らかになったいる。

 かくして時には「米を食べればバカになる」との宣伝に後押しされな
がら、パンは日本人の食文化に浸透していくのである。

 10年後の1964年にはマクガヴァン上院議員は次のように述べて
いる。

「アメリカがスポンサーとなった学校給食プログラムによって日本の児
童がアメリカのミルクとパンを好むようになったことにより、日本がア
メリカ農産物の最大の顧客となった」

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