264−2.文明と文化について



議論を少し整理してみようと思います。

文明とは何か、文化とは何か、についてはさまざまな定義がありま
す。これらの概念の定義を統一しないことには、お互いに思ったこ
とが伝わらない、コミュニケーションが取れないと思います。

また、現代の抱えるさまざまな問題を解決するための思考装置とし
て文化と文明を使おうというのが私の意図です。

ですから、繰り返しになるかもしれませんが、文化は個々人の心
(意識と無意識)であり、文明は人間を取り巻く環境(自然環境、
建築環境、社会環境)です。
ひとりひとりの人間は個別に意識形成するのに、その集合体として
文明というものが、アイデンティティーをもったひとつの生命体の
ように存在している。ここに文明というものの不思議さがあります。
文明と文化(個々人の心)の不思議な相互関係があります。

文化を民族のアイデンティティーだとする意見がありますが、ここ
のところは、Nation(国家であり国民である)という概念の怪しさ
をまず押さえておく必要があります。
文化的な一体性をもった人々が国民というものにまとまったわけで
はありません。

近代国家が生まれて、その領土内にいる人たちに運命共同体を意識
するために国民という概念が用いられた(「想像の共同体」)ので
す。言語だって、もともとばらばらだったのを、国語統一運動によ
って、無理やり統一したのです。

面白いのは、国家と生息環境がダブる国民のことはネイションと呼
ぶのに、国内で少数民族が分離要求すると、彼らはエスニック・グ
ループと呼ばれ、けっしてナショナルムーブメントとは呼ばれませ
ん。国家と表裏一体の場合にだけ国民(nation)となれるのです。

文化は、個人の心に着床し根付かなければ文化たりえません。
文明は、衰亡すると文化創造力を失います。

(合気道の例)
たとえば、今ぼくは地方都市にいて、合気道の稽古をしたいと思っ
たとします。

武道は日本の文化ですが、外人でも学べます。東京には沢山外国人
が合気道を学びにやってきます。民族や国籍に関係ありません。

でも、この地方都市には、それを教えてくれる先生がいないとしま
しょう。私は外人でも身につけることのできる合気道を日本人の中
にいて身につけることができない。

この状況をどのように説明しますか。

道場や、師範制度は文明的です。この地方都市においては合気道は
再生産されませんから、合気道については文明機能を喪失しており
、その結果、誰も合気道を学ぶことができません。

これが私のいう文化と文明の相互作用です。

(少年犯罪の例)
あるいは、「文芸春秋」9月号に養老孟司さんが上智大学の福島章
さんと対談しておられますね。
「犯罪や非行を犯す人々の脳の多くが<完全>ではないという事実
」について話しておられます。
私に言わせれば、これは少年犯罪についての文化アプローチです。
家族関係、家庭教育、食生活、、、は多く文化的なもの、個別な問
題ではないでしょうか。

この議論自体では<完全>な脳とはどんな脳か、どれだけの人が完
全な脳をもっているのか、不完全な脳を持っている人はみんな犯罪
者か、といった疑問が生まれますよね。ちょっと乱暴、怪しげな議
論だと思います。

実際養老先生も、「けっして因果関係はない」とか、「こどもは社
会全体で育てなければならない」といいつつ、「社会は基本的に脳
の機能でできている。脳と人の行動には密接な関係がある」てなこ
とを言っていて、ちょっと議論が混乱しています。

少年犯罪が、社会全体の問題なのか、個人の脳の物理的構造なのか
、全く違ったことを言っているのに、ぐちゃぐちゃにして議論を混
乱させている先生方の脳の完全性を確かめてみたいという誘惑にか
られますね。

少年たちのおかれた環境も問題にするのが、私のいうところの文明
アプローチです。
家の外では遊ぶところはない、だからテレビゲームをする、体を動
かさないのでスカッと汗を流すこともない、飽食、核家族化して親
戚の葬式に行く回数も少ない(生死を身近に感じたことがない)、
町はコンクリートだらけで生き物もいないし緑もない、近所付き合
いもない、、、、、、

これらは現代の日本の子供たちに共通する環境です。これが現代日
本の文明状況です。
今の日本の文明はまさに末期的です。犯罪や事件はますます増える
のではないでしょうか。

文明と文化の違いをわかっていただけるでしょうか。

得丸久文
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得丸久文さま

議論がかなり脱線するかもしれません。
さらっと流してやって下さい。

以前少しコラムでも触れたことがありますが、
私にはふたりの女の子がいます。
上の子は今小学校1年生で下の子は幼稚園の年長さんです。

近くに生きた自然が少ないので、小さなころからたびたび泊まりで
キャンプに出掛けています。

上の子は、虫が苦手なのであまり積極的ではないようです。
このあたりを配慮して時期や場所を考えて行くようにしています。

上の子の虫嫌いは母親の影響があるように思います。
母親が小さな虫でさえ大声をあげて逃げ回るのをみて
「虫=恐いもの」と思い込んでいるようです。

ただ、下の子も同じ環境で育っているわけですから
必ずしも母親だけの問題ではないかもしれません。

先日仕事で高崎の工場で打ち合わせしたときに
この時期恒例の虫取り接待を決行しカブト虫2匹とクワガタ虫1匹
をゲットしました。

これまでは持ち帰っても家中大騒ぎになって、
結局御近所さんのものとなっていましたが、
今年は下の子の発言権が増しているので、
ねらいどうり我家で飼っています。

オス一匹しか持ち帰っていなかったので、
昨日メスをホームセンターで飼ってきて昨夜は早速頑張っていたよ
うです。(始めて知ったのですが、頑張っているときに何やら妙な
声がしますね)

子供達は自分達で勝手に名前を付けて遊んでいます。
上の子の反応を興味深く観察していたのですが、
最初は逃げ回っていたのが、
最近では背中ぐらいは触れているようです。

もうすぐ卵を生んで死んでしまうでしょう。
そのときの子供達の反応が気になります。

少しは泣いて欲しいと思います。
できれば小さなお墓ぐらいは作ってやってほしいと思います。
自分もそうだったから。

つまらない話が長くなってしまいました。
夏休み恒例の日記帳風にて失礼いたします。

YS
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Y S 様

このMLやコラムは、力を抜いた議論ができるところがいいですね。
キャッチボールになるかどうかわかりませんが、思いついたこと
など。

自然がない都会には住めないから、田舎暮らしをしようという人が
います。そのような選択が、自分のやるべき仕事なり働くべき場所
と一致してるのならば、それはそれでいいことだと思います。

しかし、社会的なつながりや現存する人間関係を断ち切ってまで
移住するのはどうかな、と私は思っています。時代の変遷ととも
に、ある人間の果たすべき役割は変わりますので、自然の中に
ばかりいるわけにはいかないでしょう。すべてをなげうって自然
生活を送ることが果たしていいことか、いずれにせよ、私にはでき
ないことです。人間は人と人の間に生きるものですから、どうして
も社会を離れては生きていきにくいものでしょう。

だから、人間がたくさんいるところを逃げ出す必要はないと思うの
です。そうではなく、自然の少ない都会を、少しでも自然の多いと
ころに変えていくよう努力することが大切なのではないかと思いま
す。

自然の大切さを理解すれば、都会に緑をよみがえらせることは不
可能ではないと思うのです。これが文明を構築することです。

今の東京や日本の都市を見るかぎり、自然を大切にする心が感
じられない。これは文化、心の問題です。

 農地の宅地並み課税などは、緑を軒並み宅地に変えてしまおうと
いう意図がありました。土の庭や緑地をすべてコンクリや住宅に変
えて、換金してしまえという意図が感じられます。そこがだめなの
です。

 心と環境は相互に作用します。拝金主義の心が、心に安らぎを与
えない、殺伐とした、子供の遊び場のない街をつくり出します。その
ような環境で子供が育つと、かならず悪い子になるとは思いません
が、意識の形成にとって決していい影響を与えないでしょう。げんに
最近の日本には詩心が減ったと思いませんか。

環境(文明)は、一朝一夕に構築できるものではありません。しかし、
心(文化)は、ひとりひとりの心がけ、信念、感受性の問題ですから、
より簡単に変えることができる。そして緑を愛する心が日本中、世界
中に充満すれば、この列島、この惑星は人間にとっても動物や虫に
とっても住み心地のよい文明的な惑星へと進化するのではないでし
ょうか。

もっと自然を愛する文化を、詩を愛する文化を、、、、、
それにしてもFさんやTさんのおかげですが、こうやって見ず知らずの
人とくつろいで意見を交わすことができるのはすばらしいことですね。

得丸久文
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得丸久文 樣

今日の高校生が起こした事件をニュースで見ていました。

まるで井上陽水の「少年時代」に出てくるような風景の中で発生した
この事件になにか底知れぬ恐怖を感じています。

確かに御指摘のとうり単なる距離的な問題ではないようです。
結局のところ「心の問題」なのでしょう。

自然を愛しく思う気持ちは大切です。
ただ人間は残念ながらそんなに利口な動物ではないようです。
失って始めてわかる。失うまで気付かない。
従って、この先、地球レベルで共有できるまでには
相当な痛みがともなうような気がします。

本来文化とはそうした人間の愚かさを補う役割を果たしていたよう
に思います。
ただ合理的な思考に基づいた現在の社会システムによって寸断され
ています。
そして教育そのものもそのシステムに組み込まれている。
ここに本質的な問題が潜んでいるように思えてなりません。

現在そのシステム自体が一人歩きを始めているように思います。
このあたりを「193−1.エンデの問いかけ」にて描いてみたつも
りです。

このコラムは萬晩報(http://village.infoweb.ne.jp/~fwgc0017/)
にも掲載されたため、多くの方から御意見をいただきました。
そのひとつを御紹介させていただきます。
それにしても政治経済ものより身近なテーマのほうが圧倒的に反響が
多いですね。そのギャップにいつも悩んでいます(笑)。

そろそろ柳太郎さんも御参加を!!

園田義明(YS)

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園田さん

はじめまして

萬晩報での記事を読ませていただいて感想を送らせていただきます。

一読させていただいて同意しきりな部分が多く、こうして感想を書か
せていただいています。「拡大成長を基本とする」といま経済活動を
していることが子供達=未来人との戦争である、という導入からひき
こまれました。拡大しか許されない(選択としてではなく強制として
の成長)というのはつらいなというのは大いに共感しました。

大いに文章全体の主旨に同意した上でひとつ問題提起させていただき
ます。

ひとつは
「ではどうするのか」が僕には見えないのです。これは園田さんの
文章に限ったことではありませんが、じゃあ僕たちは、現存の僕たち
はどうしよう?という部分の方法論が見えてこないということですね
。ここに向かっていかないと個々人の心の癒しが社会的なアスペクト
で見えてこない。個々人が現状経済システムからドロップアウトする
ことでしかないというか。

共生とはなんでしょう?イメージはわかりますが、では例えば共生的
世界の住人はなにをするのでしょう。
たぶん特に僕を含め多くの凡庸なる市民にとって最大の問題はその
共生をめざした人々は「現状の経済システムの中では敗退するであろ
う」ということです。

いまのシステムはやわらかい生活を目指す人たちをドンドン比較的
重要ではないヒトにしていきます。経済システム適合のひとたちに富
を与え、社会的地位をあたえることによってです。経済合理性の低い
ひとたちの社会的地位は比較低下が余儀なくされる。たとえば20
年、50年でいまの経済システムは敗退していくでしょうか。では
100年では?自己増殖というメカニズムを搭載した現状の経済シ
ステムはすでに暴走するコンピュータのようなものでおいそれとは
止められない可能性の方が高いと思うのですね。

その人生の多くを経済的に敗退することを承知してまでどれほどの
ひとが経済システムに反する生活ができるでしょう?たぶん多くは
共生の夢はもちつつも経済合理性に付き従わねばならない、と考え
るのではないでしょうか。それなら現状となにも変わりません。別
に多くの人々が働きたくてカリカリはたらいているわけではないで
しょう。働かなければと思っているから、働かなければ子供達に多
くを残してやれない。

義務感ですよね。経済的に比較敗退(これは日本では敗退してもた
ぶん世界中の多くの人たちよりはずっとよい生活ができるという意
味を含んで言っているのですが)することを選ぶひとがより子供達
のことを考えている、というのはパラドクスになってしまう。
(ことばが足りないでしょうか)

自己増殖メカニズムを搭載した経済システムはおいそれとは止めら
れない。強制リセットでもしない限り。残念なことにコンピュータ
と違って現実社会には強制リセットのスイッチはありませんので、
世界戦争かなにかドラスティックなことしかないかも。
だけどそんな風に一度リセットした社会ですら、できるだけ早く立
ち直るためには「拡大主義的資本主義」を導入するのもまたわかっ
てしまいます(戦後日本のように)。

たいへん不躾ですが以上のような感想をもちました。ご参考になれば。

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(返答)
メールありがとうございます。

御指摘の件は、エンデにとっても非常に重要なテーマだったようです。
エンデはその解決方法として『エンデの遺言』にて地域通貨(ローカ
ルマネー・エコマネ−)を取り上げています。
死の直前には、その取り組みですら、極めて非観的に考え直したよう
ですが。

私にとっても長年のテーマですが、その解答は今回のコラムに書いて
います。『その答えは、自分でみつけるしかない。』という一文です。

グローバリゼーションに対極的に位置する究極のローカリゼーション
が『個』に行き着くと考えることで、その良心に希望を見い出すしか
ないように思います。

いつもコラムを通じてこうした意見交換をしていると、インターネッ
トが『個』の連携を一層強める働きを担うのではないかと思うことが
あります。
そのあたりに「芽生え始めた変化」を感じとっています。

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大分で生まれた得丸です。

現在の野津町のことは知りません(テレビがないので事件を起こした
少年の住んでいる町の様子はまだ見ていません)が、野津町といえば
なんといっても、きっちょむ(吉四六)さんです。

子供のころ、おばあちゃんの家にいくと、寝る時に必ずきっちょむさ
んのお話をしてもらっていました。両親にしてもらった記憶はありま
せん。祖母で終わりです。

僕の両親が、僕の子供達(つまり彼らにとっての孫たち)に、寝物語
りにきっちょむさんをしてくれたということもありません。

おそらく他に楽しみやメディアのなかった時代には、自分で昔話を覚
えるほかになかったから、みんな民話を覚えたのではないでしょうか。
それはある世代で終わってしまった。

スイッチをひねれば音楽でも映画でもなんでも飛び出してくるのが、
文明です。個人の意識の上から、昔話が消えてしまったことは文化の
喪失です。文明とは、文化喪失、文化の外部化、あるいは文化疎外で
もあるのです。

これは機械文明、消費文明といった文化と限り無く近いところで、
(背中合わせで)用いられる「文明」概念について共通に言えること
です。

機械文明の中で、人間はかつては人力で、人智で行ってきたことを、
機械(動力機械やNC=数値制御)によって行います。これによって、
人間の意識に構築されていた独特の職人的な勘や経験を積むことに
よってのみ培われてきたことを、やすやすと行うことができるように
なりました。しかし、伝達はできないのです。文化伝承ができなくな
るのです。

消費文明も然り。コンビニ弁当でけっこうおいしいものが手に入るよ
うになると、家で料理をしなくなります。料理だって立派な文化です。
経験や才能や勘がものをいう世界です。外食は文化疎外でもあるので
す。

機械や消費によってできることであっても、あえて手でやらせて覚え
させなくてはならないことがあるのではないかと思います。そうでな
ければ、我々は自分たちの中に何一つ芸のない、無能な、テレビを見
て、消費するだけの存在になりかねないのです。

伊勢神宮の遷宮の伝統は、20年ごとに神社を建て替えさせることによ
って、建築の技を世代を越えて伝えようとするものです。その智恵に
学ばなくてはならないと思います。

上の議論の中においても、文明とは環境、文化とは個々の人間の心
(意識と無意識と)であるとする基本的な定義は外れていません。
念のため。
(得丸久文、2000.08.15)


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