262−2.文化と文明について



得丸です。

富山では昨日昼ごろ雷雨が猛り狂い、おかげで夜は涼しくなりました。
昨日朝4時に起きて、東京から富山に移動したせいで、早く床に着いた
こともあって、今朝は午前3時に起き出しました。窓の外からは、蛙の
泣き声、蝉の寝言(ジと小さな声が時々)、気の早い秋の虫の声が聞こ
えます。

何人かの方から、文明と文化についてご意見をいただき、ありがとうご
ざいました。それぞれのご意見について、いっしょに検討したいところ
ですが、その前にまず私がなぜ文明と文化について議論をしたいのか、
考えてみました。

1 有効で実り多い議論のための概念整理

 文化や文明をテーマに議論をしてきたし、これからもするので、定義を
はっきりさせておくべき。

 しばしば文化と文明は同じ意味だという議論に出会いますが、同じ意味
ならどうして二つの言葉が必要なのでしょう。それに我々は無意識のうち
に文化と文明を使い分けています。(古代文明というが古代文化とはいわ
ない、異文化体験というが異文明体験とは言わない、など)

 ふたつの概念がどのように使われているかという現状分析と、どのよう
に使い分けることが有効で実り多い議論につながるのかということを考え
ながら、私は文化と文明を定義しようと思ったのです。

2 文化と文明ですべてを語れる

 また、私の定義では、人間社会のすべての現象は、個々の人間の心次第
で変わります。ですから文化とそれを培う文明を議論することは大切です。
ほかの概念(民族、国家など)は無視しないまでも、後で考えても大丈夫
です。

3「文明 vs 野蛮」の対立を越えて

 ここで気を付けておかなくてはならないのは、文明という言葉は、そも
そも西洋諸国が「野蛮な、未開の」国々を植民地化し収奪を行うための概
念装置として生まれたらしいということです。

 おそらく多少なりとも良心や良識をもっている人が西洋側にいて植民地
化や奴隷化に違和感をもったとしても、「可哀想だが、野蛮なのだから仕
方ない」といいくるめられ、納得してきたわけです。

 植民地化や奴隷化や収奪の概念装置としての出自を持つということは、
つまり言語や社会発展や歴史を異にする二つの社会が出会ったときに、文
明という言葉は生まれたということです。このことは大事です。

 シルクロードの時代には、隊商によって物資が運ばれるだけだったけど、
大航海時代には、西欧は非西欧社会に植民者を送りだし、奴隷を連れてく
ることができるようになった。ジャンボジェットが飛ぶ、20世紀末には
もっと大規模な人間の移動が行われるようになった。現代のかかえる問題
を解くうえで、「文明」という概念は役に立つと思います。

4 文化は民族のアイデンティティーという迷信を取り除くため

 文化が民族のアイデンティティーであるかのように議論されているが、
これは誤りではないかと思うのです。

 文化相対主義という考え方ですが、これは文化を民族という人間集団の
中に閉じ込めてしまい、向上心にかける存在に貶めます。民族の生活スタ
イルを文化とすると、ご飯を食べても文化、のんびりくつろぐのも文化、
風俗でもなんでもかんでも文化となってしまいます。

 現実には、地球社会はボーダーレス化しているため、世界のどこに行っ
てもランバダ(古い?)が流行ったり、子供たちがポケモンに熱中していた
りするわけです。

 実は「文化」も、そもそもは単数形で、西洋啓蒙思想が非西洋社会への
優越していることの記号として使われていたそうです。1970年代になって、
かつての植民地が独立国となったときに、さまざまな不満を爆発させかね
なかった途上国側をなだめるために、「すべての民族(=国民)が独自の
文化をもち、それらは全て平等である」というイデオロギーが採択されて
現代にいたっているそうです。
(アラン・フィンケルクロート著「思想の敗北」河出書房新社)

 文化を、民族(=国民)のもととすると、まるで文化が非人格的に、生
身の人間から独立したものとしてこの世に存在するかのような錯覚を与え
られませんか。そんなものは何一つないと私は思います。私の定義では、
文化と文化財、文化遺産は別であり、分けて考えるべきものです。

5「民族」という人を惑わす概念を葬り去るため

 旧ユーゴで起きた内戦を説明するときに、やれ民族紛争だ、何百年前か
に起きた事件の怨みが今も生きているだの、いろいろ言われました。

 正直言って私は、民族が違うから殺しあうということが理解できなかっ
た。民族間の結婚も数多くあっただろうに、一家にして複数の文化、言語
をもつ人々のことは話題にされなかった。おかしい、と思いました。

 おそらく実際に戦っていた人たちも、どうして昨日までの隣人や友人と
殺しあわなければならないのだろうかと疑問に思ったことでしょう。その
ような素朴な疑問を無理矢理押しつぶすのが「民族」概念であり、実体の
ない「民族」に実体を与えて支えているのが「文化」ではないでしょうか。

 民族という概念を葬り去るためにも、文化を明らかにする必要があります。

6 国民は、同一民族であるというフィクション

 すでにこのコラムでも何回か試みた議論ですが、近代国民国家は、国家
(nation)の成員を国民と呼び、国境の中に住んでいるということのほかに
なんの共通点もなかった国民に、共通語としての国語を押し付けることで
民族(nation)というものをでっちあげ、国民=民族に運命性を持たせまし
た。

 よく「日本は一民族一国家だから、、、、」という議論が行われますが、
近代国民国家はどこも通常は「一民族一国家」なのです。というより、ひ
とつの国がまずあって、その領土内で、国語を制定し、国民に国語教育を
施したわけです。

 民族なんて概念はもういらない。それは実体のない概念だ。単に人間に
レッテルを貼って、人間集団を分断し区別するための装置でしかない。民
族なんて概念なくても、日本語はなくならない。民族という概念装置がな
くなれば、殺し合いの口実を民族にすることはもうできなくなる。

 そのためにも文化を明らかにするべきです。

7 文化は自然には身につかない。環境(=文明)の中で培われる。

1) 緑に包まれた都市という文明

 週末に家族で鎌倉の銭洗い弁天、大仏、鶴岡八幡宮を散策してきました。
古都鎌倉は条例の規制が厳しいのか、緑がたくさん残っており、目に入る
景色が山の緑ばかりで、とても心が安らぎました。歩いていて気持ちがよ
かっただけではなく、木陰では涼しい風が吹いているのに驚きました。緑
がたくさんあればクーラーはなくてもいいのですね。

 おそらく4,50年前の日本は、全国どこでもこのような風景だったの
だと思います。それがわずか1世代の間に、大都市近郊はコンクリートで
固められた殺伐とした風景になってしまいました。海岸もコンクリートで
護岸され、単調な景色になりました。

 40年前の日本人と、現在の日本人とで、意識構造は同じだと思います
か? 違っているのではないでしょうか。

 渡辺京二著の「逝きし世の面影」(葦書房)によれば、19世紀の江戸
はそこらじゅうに緑のある田園都市だったそうです。渡辺氏によれば、江
戸こそは文明であった。私たちは明治以降文明を失った、ということにな
ります。そして、金、金、金のために、あらゆる緑地を住宅やビルに変え
て換金してしまった、20世紀末の東京は文明の終焉に近いのかもしれま
せん。

2) 少年犯罪は家庭のみの問題でなく文明の問題

 17歳の少年たちによるむごたらしい事件がいくつも起き、そのたびに
少年たちはどのような家庭に育ったのかということが話題にのぼります。
週刊誌などは、犯罪を起こしやすい家庭や食生活を類型化までします。

 しかし、少年たちの心がバランスを失ったり、殺伐としているとすれば
それは家庭だけの問題でしょうか。私は違うと思います。

 私は、文明的な問題だと思います。つまり、自然の喪失、道路で遊べな
くなったこと、地域社会の崩壊、テレビゲームの台頭、無人煙草・酒販売
機、などなどのさまざまな環境の劣悪化が、彼らの心の発達を阻害したの
ではないかと。もちろんこの中に家庭環境も含まれますが。

 人間の心が潤いを失ってきていること、死者への思いが薄れてきている
こと、すぐにカーッとなること、などは個々人の心(文化)の問題ですが、
これが同時代的な現象として起きていることは文明的です。

3) 心を育てる都市環境(=文明)は私たちが作ろうと思えばできる

 私たちは、まっすぐで、すこやかで、詩心(ポエジー)のある心を培う
ために、もっと文明(=環境)について配慮するべきではないでしょうか。

 荒川修作は、養老天命反転地の延長として都市を、都市文明を作りたい
といっています。これはそこに住む人の心が安らぐ環境、そこを歩く人と
人が自然にあいさつしたり立ち話をしたり、ちょっと休んで俳句なり和歌
なり作りたくなるような町のことではないでしょうか。

 みなさんもちょっとパソコンの前を離れて、自分の町を歩いてみて下さ
い。そこがどのくらい文明的であるかを確認してから、議論を続けましょ
う。(とくまるくもん、2000.08.10) 
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(Fのコメント)
 得丸さんの本番が始まる予感がする文ですね。私も、得丸節に、
飲まれそうです。民族という言葉は虚構ですか?

そう考えれば、国際化とは言わずに、一体化でしょうかね。日本
民族ではなしに、人類に一体化すること。日本という小さな範囲を
自分で決めないで、日本文化という型を決めないで、もう少し広く
捕らえようとする。その中から、次の文明を見出そうする行き方も
、議論の方向としては、面白いですね。
やはり、得丸さんは詩人だ。

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