244−1.日本古代史の捉え方



 佐伯さんのものの捉え方は、一見度肝を抜くような“猫だまし”
のたぐいの意見です。
「日本国」にこだわるからものが見えなくなってしまう。「日本」
とわれわれが言い習わしているものの正体は「日本文明」です。

それは他の文明と明らかに違う特徴と領域と人々があって「それ」
とわかるものです。西欧的な国民国家概念で「それはこうである」
なんていうのはためにする議論でつまらないではありませんか。

 たいていの家庭では5〜6代前までの先祖がわかるのは当たり前
で、知人の日田在住のZ氏は神武天皇以来の家系図を見せてくれる。
我々日本人は連綿と続く日本文化のなかで呼吸し、この日本文化に
なにがしかの貢献をしながら、明日の日本文明の担い手にあとを託
して日本の土に帰っていくのだ。

  『「日本の歴史」はあきらかに他の文化圏を寸断して切り張り
したものとなっています』なんていうのは歴史的無知のきわまった
言説でしょう。
  文明はある種のストレスが加えられた時にそれに対する応戦と
して発生し、克服に成功するにしろしないにしろ、そのことがすな
わち新たな問題として応戦を喚起することにより成長し始めるもの
です。したがって、過去の一断面が現在と著しく違っていても、現
在の展開の一つ前の相であり、その一つ前の、という風に十分に了
解の出来る展開であるのだから、聖徳太子も神武天皇もその前の神
々もまた日本文明の十分な構成要素であることは論を待たないので
す。つまりは日本です。

 もうすこし説明するなら、日本文明は古代支那文明を古典古代と
し、現中国文明を兄弟文明として成長した文明であり、古典古代か
らの遺産を最大限利用しつつも日本独自の生成発展を遂げた文明で
す。中国文明との違いはなんといっても西洋的意味での封建制社会
をくぐり抜け、近代産業社会一歩手前まで、ほんの数十年遅れで世
界最先端に位置していたことだ。その象徴として例示すれば、家紋
は西欧のエンブレムに相対し、微積分学はニュートンより関孝和の
ほうが早い。この点、未だに中国は一皮めくると古代帝王制社会だ。

西欧に産業革命が起き、日本に起きなかった理由の大半は、西欧人
がどん欲かつ獰猛で、世界各地を侵略して植民地にし、途方もない
原料供給と途方もない市場があり、作れば作るほど儲かる仕組みが
出来ていたからほんの偶然に産業革命の循環ができあがって近代産
業資本主義社会が出現したというわけだ。日本はその時幸いにも侵
略だなんて考えなかった、その違いだけだ。明治維新の頃、数学の
教科書は江戸時代の教科書を縦書きから横書きに直したにすぎない。

 つまらない袋小路に論理を展開しないでもっと広く間口をあけて
ください。

大谷
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Fさんへ

 コメントしていただき大変感謝しております、
と同時に正直大変びっくりしました。
と申しますのは、私が今回のようなことを述べた時の
今までの相手の反応としては、
 1)そんな昔のこと言ったかてしょうがないやんけ、現実として
      いま日本列島で暮らす多くの人が単一民族として認識してい
      ることやし、これからのことが大事や
 2)まあ・・・そうでしょう・・それで
といったよな意見が多く、今回いただいたコメントよろしくそのよ
うに私の視点に立ち赤子を導くような親切なご意見をいただいたの
は初の体験だったのです。
本当にありがとうございました。
そこで今回も胸を貸していただくべく本文を送らさせていただきま
す。


>単一民族とはなにか?を規定しないと、難しい。

 非常に御尤もでであり、私はまさにこのことを問いかけたかった
のです。単一民族とはどういったものなのでしょうか。今回は下記
の二項に敢えて限定して考えたいと思います。

  1)同一政権を持つ人々
  2)同一言語を持つ人々

 実際のところ、朝鮮半島や中東あたりその他の地域などを考慮し
ますと上記二項では帯に短しですし、逆に過去の日本列島でそうい
った状況があったこともあるだろうし(そういった認識が重要だと
私は考えます)、といろいろ考えてしますのですが、今回は短いほ
うで次回は長いほうでとしたほうがいろいろなものが見えやすいと
思いますのでこのようにします。


 1)同一政権を持つ人々 に関して

 まずその政権の人々への浸透率を考える必要がありますが、それ
を判断するのは大変困難な作業です。というのも人々がどのように
考えていたのかは歴史には残りにくいものだからです。

 例えば現代のように大変情報を蓄積している時代でも千年後の人
々が我々と同様な認識(大体の大筋)をこの時代に対し持つかは疑
わしい。とりあえず人々への浸透率ということで次の二点を考えたい
 
  a;人々と政権の関係が、今の我々と日本政府であるならば
    単一民族とする

  b;人々と政権の関係が、今のフランスとヨーロッパであるな
   らば単一民族としない。 

 これがかなり乱暴な言い方であるのは百も承知ですし、aとbの間
が重要なことも重々承知しており、もう一ついえばaとbの間が存在
するという考え方も乱暴ではありますが、とにもかくにも一度こう
いう見方で日本列島の「歴史」という奴を見なおしたいのです。

 見なおし方として〜「人々と政権の関係が、今の我々と日本政府
であるならば単一民族とする」ならば、日本列島に暮らす人々ほぼ
全員が単一民族であるのは今しかないやんけとか、ヨーロッパに政
権があるのかよ〜ではなく、それぞれの過去をこれはaに近いこれは
bに近いというようにみていくものです。


  2)同一言語を持つ人々
 
 これも1)同様、人々への浸透率で考えたい。1)同様歴史に残
りにくいので難しいのですが、次の二点を挙げさせてもらいます。

  a;人々と言葉の関係が、今の我々と日本語であるならば
    単一民族とする

  b;人々と政権の関係が、今のフランスと英語であるならば
    単一民族としない

 これも乱暴ですが、進めます。

 いま、国際的には英語が広く流通している言語だと認識してます
。過去、日本列島において公式の言語が流通していたとしてその言
葉に対する人々の認識はどのようなものだったのでしょう。
フランス人の英語に対する認識と同様に日本列島の人々が「日本語」
を使用していたときがなっかたのでしょうか。「日本語」と日常語
とは文法は似通っているが単語がまるで違うといったような認識と
して「日本語」を使用していた時代が無いとはいえない。
 その場合、日本列島は単一民族として考えてもよいのでしょうか。

 ということで私の単一民族にたいする考え方を述べさせていただ
きました。
 ところで、なぜこんなにも私が単一民族という思想にこだわるの
かと疑問を抱かれる方がいると思います。
 答えは一言で足ります。危険なのです。特にあいまいになんとな
く日本はずーと昔から日本だったんだーと思っている方が特に危険
です。そういうかたがまかり間違うと強烈な思想に取り込まれるの
です。いまさら天皇、右翼がとは申しませんがちょっと私にも想像
できかねるのですが、10年後には誰もが明確にこういった形で我々
は突っ走ってしまったのか、と反省や後悔をする人々であふれる世
の中に私はしたくないのです。

 そのまず第一歩がこの「単一民族思想」なのです。
 日本は特別な国ではないのです。昔から平和ではなかったのです。
たくさんの人を殺してきたのです。日本はなんとなく今の日本に
なったのではないのです。他の地域と同様、戦争の歴史なのです。
「島国」ではないのです。世界と閉ざされていなかったのです。
 今、我々は我々の歩んできた足跡を見なおすべきなのです。

私は旅好きで海外を渡り歩いたのですが、そこで出会う日本人は
極端な方が多かった印象があります。極端、つまり極端に右、
極端に左。しかし、その根拠、でどころは同じなのです。作られた
足跡に振り回されているのです。まあ、歴史というのはよく云わ
れるように勝者の歴史であるからどこの国でもつくられたもので
あることには違いが有りません。

しかし、作られた内容があまりにも単一思考なのです。
ローマ帝国以前の歴史は消えたのでしょうか。アメリカ建国以前の
歴史は消えたのでしょうか。なぜにこんなにも日本列島の歴史は
消えているのでしょうか。

最後に一言だけ
>九州政権があったとしても、白村江で負ける663年

敗北国の民族は滅びるのでしょうか。
 私はそのへんのちゃんとした知識をもっているわけではないの
で言葉尻を捕まえて発言するのは大変恐縮してしまうのですが、
ただし、負けた則滅びる というのはおかしいと考えます。
 負けた場合、自治を認められる場合認められない場合(他もあ
るとは思いますが)が考えられると思います。当時がどうだった
かは知りませんが。


以上です。不勉強で申し訳ありませんが、思いだけは伝わったと
考えたいです。

サエキチカラ
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(Fのコメント)
 やっと、議論できるレベルで、挑んできましたね。前回より考察
が深い。

 中国をみると、中国語が広東と北京では、ほとんど、通じない。
この民族は漢民族ではないのでしょうか?
ここでは、漢字文化圏かどうかが重要だそうだ。漢字による会話が
できるかどうかで決める。

 インド人はどうか?大きく分けて、2つの民族がいる。ドラビダ
民族とアーリアン民族。しかし、言語は100以上あり、共通語は
英語となっている。ここで、言語形態をいっても無意味。

 やはり、政権の覇権が確立し、見た目に大きく違わない人たちが
いる範囲で、かつ、少数民族に独自文化がないこと。分離独立運動
がないこと。その観点から、前回はコメントしました。すると、
東北地方平定が801年ですから、この時期には、天皇の政権は確
立したはずですし、独自文化の観点では沖縄が現時点で別文化と言
える程度です。

 九州政権を最も最近まであったと主張しているのが、古田史学で
すが、この主張が、白村江の戦いにより政権が崩壊し、大和政権の
軍門に下ったといっているのです。この白村江でさえ、663年で
す。古代の議論をするなら、古田史学は知っておいてほうがいいで
すよ。URLは、下記の通り。古田教授の本が紹介されています。
http://www.os.xaxon.ne.jp/~sinkodai/jfuruta/jfuruta.html

 あとの日本古代史家は、それより随分前、古代前期に九州地方は、
大和政権になったと主張しているのです。この証拠に古代天皇家の
本宮である宇佐八幡神宮が九州にあるというのです。

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