240−2.国民主権の『裸の王様』



Fさん、皆様、国際戦略コラムでおほめの言葉をいただき光栄
です。私は自分では一生懸命考えているつもりなのですが、
なかなか誉めていただくということはないのです。だからとて
もうれしいです。

今回のは、「権力」という本の感想です。少しでも共感してい
ただければ幸いです。

得丸久文
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国民主権の『裸の王様』

民主主義って、国民が主となる政治かと思っていたのに、、、
現実にはどこにも主のいない無責任体制どなっていた。

きまじめ読書案内 杉田敦著「権力」(岩波書店、2000年,1200円)

1 国民主権への疑問
  日本国憲法をめぐる議論において、国民主権そのものが問題と
されることはない。たとえば、国民が日本国の主権者として尊重
されていないではないか、国民が主権を持っていない現状は憲法
違反ではないかとする意見には出会ったことはない。

  法律学小辞典(第一版、有斐閣)によると、国民主権とは「国の
政治のあり方を終局的に決定する力(主権)が一般国民にあるとい
う原理。(略)国民主権という以上、国家のあらゆる活動は結局は
国民の意思に基づくことが必要であるが、それは代表民主制の下
では国民の選挙権の行使によって確保される」とある。

  専門書に「国民主権とは選挙権の行使である」ときっぱり書か
れてしまうと、おそれ多くて疑念を表明しづらい。しかし、明治
憲法下では選挙権と主権は別の概念であった。また、私は20年間
国政選挙で投票してきたが、それによって国民主権が確保された
という実感がからきしない。辞典の説明をすんなりと受け入れて
いいものだろうか。

  もしかすると、選挙権の行使によって国民主権が確保されると
いう考えそのものが、間違っているのではないか。そして、国民
主権が実現していないから、政治がおかしいのではないか。あま
りに基本的な部分についての疑問だから、口にすること自体ため
らわれるが。

  杉田敦著「権力」を読んで、私はこのような根源的な疑問を持
った。本書は国民主権を現実化することで世直ししようとする、
「コロンブスの卵」のような試みのための理論書である。

2  神の無過失性に支えられた主権
  主権概念は、人類史上それほど古いものではない。またそれは
西洋の一神教的世界観の中で生まれた概念であって、東洋政治思
想にはない。

  そもそも主権の発祥は、西欧の絶対王政下で、「領域内のすべ
ての事柄について、最終的な決定権力をにぎる主権者としての王
の権威は、それが神に由来するものであるという王権神授説によ
って支えられた」(杉田敦「権力」より、以下同じ)ことにある。

  神の無過失性と完全に同義な権威を王に与える概念装置として、
主権は国家秩序の中に取り込まれた。一神教世界において唯一絶
対神がこの世のすべてのものに責任をもつように、「すべての権
力の源泉として主権という特権的なものが想定」されたのだ。

  その後、「王権神授説がもはや維持できない程度にまで世俗化
が進むと、主権論は今度はある種の契約論と結び付いて延命」し、
「フランス革命で王の首が切られると、ついに神から下降した権
力は民衆のレヴェルにまで至」り、人民主権となった。

  しかしながら、主権がそもそも神の類似品として発展したため
か、現実の人民があまりに無知で非理性的であったためか、人民
に神性を求めたり、人民を主権者として帝王学を仕込もうという
試みはついに起こらなかった。むしろ、国民国家の時代には、学
校で共通語を強制したり、兵士に愛国心を植え付けたりと、統治
される客体として国民を教育する努力が払われた。統治主体とな
るための教育ではなかった。

 こうして権力は、王がいなくなっても、どこかひとつの中心点
から発し、「御上」から下に行使されると受け止められて今日に
至っている。「王様は裸だ」と叫んだ子供にならえば、「玉座に
は誰も座っていない」と叫ばなければならないだろう。

3 主権者の責任
  西欧キリスト教社会において、神の権威が社会の隅々まで浸透
していた時代には、およそすべての問題の責任を神に帰すことが
できた。ところが、「神が死ぬ」と、人間の中に責任者を見つけ
なければならなくなる。

  人はそもそも(生まれながらには)、自分で責任をかぶることを
嫌がり、誰かに押し付けたいと思うのではないだろうか。この傾
向は、大人にも子供にも、民間人にも公務員にも、西洋人にも東
洋人にも、認められる。

  人民主権の体制下にあって、国民が自ら主権者の地位を主張せ
ず、統治される客体に安んじてきたのも、責任の重さに恐れをな
したからかもしれない。

  たとえば、「極東軍事裁判では、日本の戦争責任をA級戦犯に帰
した」ことによって、天皇のみならず、「国民の責任をも一律に免
責」した。「戦争や植民地化によって、仕事が増え、暮らし向きが
良くなると目論んで、そうした政策を陰に陽に支えた人々」もいた
であろうに。

  日本国民は、GHQの占領政策にまんまと乗っかって、「軍部が悪
かった」、「騙された」と思い込んで、自らの戦争責任から目をそ
らしたのだった。

  しかし、もし国民があの戦争の責任を我れと我が身に引き受けて
考えを深めたならば、日本の行った戦争や東京裁判の意味が、世界
史・人類史の枠組みの中で見えてきたのではないか。

  すなわち、「そもそもアジアの植民地化は日本が始めたことでは
なく、西洋諸国による植民地化を稚拙に模倣したものである。西洋
諸国にも植民地化の重大な責任があり、それらがアジア・アフリカ
の植民地化についてほとんど謝罪したことがなく、裁かれたことが
ないことも」見えたであろうし、日本の責任について考えて行くこ
とで、「天皇のみならず、日本国民の責任、さらには西洋諸国の責
任についてもまた、考えを及ぼして行く他ない」地平へと到達した
であろう。

  著者は、このような普遍的な視座、世界史的・人類史的視座で考
え、行動することが、主権者にとって必要だと考えている。

4  21世紀の主権者像
  本著は、わずか100頁強とコンパクトであるが、西洋で発表された
多くの研究を読み解いて、それらを批判的に消化した結果として、
きたるべき21世紀の主権者の心構えを示してくれる。

(1) 権力と抵抗の遍在性、時空間の連続性
  突然革命が起きて、世界が非連続的に変わることはない。ローカル
な人々の抵抗とそれに触発された実践の積み重ねによってしか、世界
は変わらない。

  権力は「御上」から下降してくるものではなく、ありとあらゆる場
面で多元的に存在している。自分自身が主権者であるという意識をも
って、常日頃から責任ある言動を取らなければならない。

(2) つくられるものとしての主体
  あらかじめ定められた基準によって自明なものとして存在するもの
としてではなく、状況の中でつくられるものとして、権力や主体を捉
えなければならない。

  21世紀には国境線の意味がますます薄らぎ、異文化接触が増える。
すでに島国日本でも外国人の居住が増えている。宗教や言語を異にす
る「異質な他者」を排除するのではなく、「異質な他者」と関係性を
築くことによって、彼らを自らの社会や意味のシステムの中に取り込
んで新しい主体に変わることができるだろうか。

(3) 国民国家が正統性を喪失し、人類に普遍的に適用されるルールが
必要となる
「絶対的な正統性を主張できるようなルールが、国民という特定の単
位によってつくられるという主権論的な理論構成が、もはや認められ
な」くなる。

  たとえば現在は地球環境問題は、個々の国民国家の代表たちによっ
て話し合われており、そのために個別国家の利益が地球環境問題に優
先されて混乱が生じている。環境問題の重要性を考えると、近い将来
国民国家に代わる新しい政治主体が登場する必然がある。

  その際に、文化や宗教を異にする全ての人間がひとしなみに理解で
き受け入れられる客観的・絶対的な「正しさ」をもつ簡潔なルールが
必要になるだろう。そのような普遍的なルールは、著者が見たかぎり
西洋社会にもまだ構築されていない。

5 君子になる
  以上が本書の私なりの理解だが、著者が求める質の高い主権者をど
のように育てるかは、西洋においても方法論が確立していない。この
点について私なりの感想を述べたい。

 おそらく著者の提示する主権者に一番近いのは、孔子や孟子の説い
た君子ではなかろうか。

「論語」や「孟子」の教えには、権力や主権という言葉は出てこない。
権力は、ある地位にある者が、その地位で求められた、その地位にふ
さわしい行為を行うというかたちで行使される。そのときに客観的に
正しい行動が取れるように、君子たれというのである。

  君子は私利私欲から自由になって、徳を身につけることが要求され
る。その徳が正しい結果、成果をもたらす。君子は、価値観が転換す
る時代にあっても、自分を見失わず、道を誤ることなく、時を失する
ことなく必要な行動を取る。古典として二千年以上読み継がれてきた
だけあって、現代においても大変参考になる。

  孔孟の教えについての詳しい説明は省略するが、日本には「論語」
や「孟子」をテキストにして、庶民から政治エリートまで人格形成す
る伝統がつい最近まであったという事実は肝に銘じておくべきだ。明
治維新において思想家の役割を果たした吉田松陰も、孔孟の教えを基
本とした。

 孔孟の教えが、著者の理論を補完し、読者を一歩主権者へと近付け
る。これは私の願いでもある。
(2000.07.17)

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