229−2.戦後民主主義と世界



  今年のノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏の文学の主
題は、脳に障害を持って生まれた息子を持つ父親の心理であ
り、日本的な私小説を彷佛とさせる。障害児を一個の尊厳あ
る人間として見まもり、対等な人間関係を築きながら自立へ
と導く真摯な親の姿には胸をうたれる。

  文学者であり、障害児の父であり、10歳で敗戦を迎えて
後は日本の戦後社会をよく生きようとする一人の市民として、
大江氏は安保闘争や連合赤軍事件に共感し、被爆者運動や反
核運動に自らもかかわってきた。これが氏の文学の変奏部で
ある。氏の傷つきやすいナイーブな感受性こそが戦後文学に
特徴的な感性であり、戦後民主主義の精神として平和と民主
主義を純粋に追い求めてきた。

  今回の受賞をめぐっては、「日本の戦後文学が特殊であだ
花ということではなくなる」(川村湊氏、毎日新聞)という
発言があった。また、大江氏は「『戦後民主主義者』に『国
家的栄誉』は似合わない」として、文化勲章を辞退した。こ
こで戦後民主主義(ならびにその思想的・文学的表現として
の戦後文学)」について考えを整理しておく必要がありそう
だ。

  大江氏は、ノーベル賞はスウェーデン市民から贈られたも
のとしてありがたく受け取るが、文化勲章は日本国家のもの
だから受け取れないという。

  しかしノーベル賞はダイナマイトと無煙火薬を発明し、そ
れが兵器に利用されることで巨万の富を築いた化学者の遺産
によって運営されている。選考も市民の合議により民主的に
行われるのではなく、少数の委員たちが密室で決める。スウ
ェーデン市民から贈られるというのはこの歴史と現実にそぐ
わない。これまでの選考結果を見ると、文学賞や平和賞では、
旧共産圏や第三世界の反体制勢力を支援したり地球環境ブー
ムをあおったりと、政治的意図が働いていることも否定しが
たい。

  一方、大江氏をはじめとする戦後文学者たちは一様に日本
の国家、象徴である天皇、行政を司る官僚機構を忌み嫌って
いる。しかし、日本国憲法には国民が主権を持ち、官僚は全
体の奉仕者にすぎないと書いてある。これまでの憲法論議で
この点について違憲状態があるという指摘は行われていない。
すると少なくともタテマエ上は、文化勲章こそ市民によって
贈られる賞だといえる。

  では大江氏はこの単純明解な論理(の可能性)をどうして
やすやすと否定することができるのだろうか。それは戦後民
主主義の出自が、敗戦国日本を連合国が裁いた東京裁判史観
にあるからではないか。そのため戦後民主主義の思想におい
ては、日本の国家・官僚が行うことはすべてうす汚くて信用
できない、欧米には真の民主主義が花開いている、という命
題が何ら疑いを持たれることなくあらゆる議論の前提に置か
れてきた。

  しかし世界の歴史を冷静に見つめるならば、戦争による大
量殺戮や植民地主義による人間性の否定をもっとも大規模に
かつ長期的に行ったのは欧米である。日本は今世紀前半の東
アジア諸国への侵略を除けば基本的に対外侵略的でない平和
な国家であった(だからといって東アジア侵略の罪の重さが
わずかでも軽減されるわけではないことを申し添える)。

  これは歴史の皮肉としか言いようがないが、戦後民主主義
という平和への祈りに満ち満ちた思想が根付いたのは、日本
人がもともと平和愛好民族だったからだと思う。おまけにお
人よしの日本人は、自分たちにこの思想を押し付けた連合国
は自分たち以上に平和を愛しているはずだと信じこんできた。
こうして国連信仰・国連幻想という国連(=連合国)の現実
からかけ離れた認識が日本ではびこるようになった。

  おそらく東京裁判史観を押し付けた連合国の人間たちも、
日本人がこれほどまでにそれを固く信じるとは思ってもみな
かったことであろう。彼らには、そんなにも平和を愛する民
族がいるということ自体が理解できないのだ。

  だが現実とかけ離れているからといってその思想を捨てる
必要はない。少なくともそれは日本では根付いて花開いたの
だ。常任理事国になるかもしれない日本は、これを機に戦後
民主主義の思想を世界に広めることをその使命としてはいか
がなものであろう。

(追記)
  このような文書を書いたところ「新右翼」ではないかと知
人から批判を受けましたが、本人は一切そのような人的・思
想的つながりをもっているつもりはありません。むしろ、私
をはじめとして1960年代前後に生まれた世代は、大学で
も大した騒動もなく、世間もあくびの出るほど平和であった
がために、絶頂期にあった戦後民主主義の平和の無菌室で生
まれ育ってしまったのではないかと思います。大江氏のよう
な偏向した戦後民主主義はもう卒業して、純粋な民主主義を
実現しようではないかと思うのです。新右翼というよりは
「民主主義純愛派」とでも呼ばれるのがふさわしいのではな
いでしょうか。

(毎日新聞社「エコノミスト」'94.11.29「読者から」より)
得丸 久文

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