227.イギリスの君主制について



門田さんへのご返事の続き

日本の君主制(天皇制)とイギリスの君主制とを比較してみてくだ
さい。久保

1.立憲君主制の発達

 この国の政治制度の起源は、サクソン統治時代(五世紀から一〇
六六年のノルマンディー公ウィリアム一世の「ノルマン征服(Norman
Conquest) 」まで)に遡る。この時代に、君主制が生まれ、国王が
賢人たちの会議に助言を求める観念も生じた。

  一〇六六年以降の「ノルマン征服」時代は国王統治を非常に強め
たが、ジョン王 一一九九年−一二一六年) の行動が封建貴族と教会
指導者の対立を生んだ。かくて一二一五年、貴族たちはマグナカルタ
( 大憲章) に具現した一連の譲歩案に同意するよう国王に強要した。
王権乱用に対する封建地主の権利保護を規定したこの憲章は、一般
市民の国王に対する重大な権利表明となった。

  「議会(Parliament)」という言葉は、もし巨額の課税が必要にな
ると、国王が召集した封建貴族とカウンティー、タウンの代表者と
の会合を示すため、一二三六年に初めて公式に使われた。

 議会は一五世紀まで法律作成権を要求し続けた。かくて神権統治
を主張する国王と立法権を求める議会の軋轢は、一六四二年の名誉
革命(the Civil War) を勃発させ、国王軍は一六四九年に敗北、チ
ャールズ一世も処刑された。そして君主制と貴族院は廃され、合法
的支配の共和制となった。しかしその共和制も『護国卿オリバー・
クロムウェル』の死二年後の一六六〇年には終わりを告げ、チャー
ルズ一世の王子、チャールズ二世が復位した。

 チャールズ二世を継いだジェームズ二世は議会の同意を得ず統治
しようとした。そこで、一六八八年、指導者たちは、イギリスの「
侵害された自由を確保するため」オレンジ公ウィリアム( チャール
ズ一世の孫のジェームズ二世の長女メアリーの夫君) を招いた。ジ
ェームズ二世はフランスに亡命した。一六八八年の革命の翌年、議
会は、議会請願を無視した国王に厳しい「権利の章典(the Bill of
 Rights)」を通過した。

 それでもなお国王は行政の中心に残った。大臣たちや内閣は、政
府運営において国王と議会を協働させるため、行政部と立法部の連
結環となった。大臣たちは、国王から任命されるが、彼らは立法を
通過し、課税に賛成投票するよう議会を説得し、庶民院の充分な支
持を得ねばならない。

 ところが、一七一四年のジョージ一世の即位から数年後、国王は
閣議に出なくなり、継承者たちも出席しなくなった。代わって、首
相と呼ばれる「大蔵省第一総裁(FirstLord of the Treassury)」が
内閣を主宰するようになった。以来、内閣は行政権を相対的に拡大
した。逆に、国王の行政権執行上の影響力を徐々に減らした。一七
二一年から四二年までの首相、サー・ロバート・ウォルポールは、
内閣と議会を結び付け、今日の首相とほぼ同じ役割を果たしたおそ
らく最初の首相となった。かくて一九世紀半ば以降、首相は通常庶
民院の過半数を制する政党の党首となった。

2.今日における女王の任務と地位

 イギリスの長い歴史において、国王の権力は次第に削減されたが
、今なお国(女)王はイギリスを象徴している。実際、国(女)王
は法律上、行政の長であり、立法に欠かせない部分であり、また司
法の長でもある。また軍最高司令長官であり、英国国教の首長( 
Supreme Governor) でもある。その絶対的権力は減じたとはいえ、
国(女)王は大臣の助言に基づいて、今なお活動している。連合王
国は、国( 女) 王の名において統治されている。首相任命のような
稀な場合以外、「国王特権(royal prerogative) 」は、今日(議会
に責任を有し、特定の政策に関する質問を受ける)政府大臣たちに
使用されている。

議会はこうした国王特権を制限したり、廃止したりできるが、議会
権能はこれらの特権の行使を求められていない。

 【首相任命】国王にとり最も重要な任務は首相の任命である。国
王は、議会との関係では、一見、実質的権力を持っているように思
われている。なぜなら首相や政府の大臣選出に責任を持つのは国王
だからである。しかし、実際には、彼女は庶民院の過半数を握る党
首を選ばねばならない。しかもその最大政党を決定するのは選挙人
であり、党首を選ぶのは党員である。かくて女王の選択余地は実際
には極端に狭められている。そして一旦首相が任命されるや、政府
めんばーを選出するのは首相である。そして彼らは「女王の(her) 
」大臣として女王に提示される。

 国王は、首相を選ぶ時、近年まで比較的広汎な活動余地を持って
いた。国王の選択が曖昧になった今世紀でさえ、国王によるいくつ
かの首相選出例がある。例えば、一九二三年、首相は継承順が次の
外務大臣・カーゾン卿と予想されたが、ジョージ五世は、ボナー・
ロウの後継者にスタンレィ・ボールドウィンを決めた。二〇世紀に
は、首相には貴族院議員でなく庶民院議員が相応しいという国王の
観念によって、カーゾンは無視された。

また一九四〇年、ジョージ四世は、個人的にはハリファックス卿を
好んでいたが、戦時には庶民院議員が良いと判断し、ネビル・チェ
ンバレンの後任にウィンストン・チャーチルを選んだ。しかし、首
相は、必ずしも庶民院と貴族院議員の間で選択しているわけではな
い。

一九五七年、多くの人々は、R・A・バトラーを有力視していたが
、サー・アンソニー・イーデンの辞任後、ハロルド・マクミランを
首相にした。また庶民院が貴族院に対して常に勝ったわけでもない
。というのは、一九六三年、マクミランの後継者として貴族院議員
ホーム卿が選ばれた( 当時、バトラー氏は国民に人気がなく、また
ホーム卿は貴族を事実上拒んでいた) 。

 首相辞任もしくは在任中死亡が明白な場合、首相の与党はその党
手続きに従い(保守党は議員選挙で、労働党は労働組合代表者、選
挙民および議会内政党で、また自由民主党の場合は全党員によって
)新党首を選ぶことになる。

かくて選出された党首は国王から首相就任を要請される。もし女王
が政党意志を無視し、女王の理論上の首相選出権を強行するなら、
関係政党はおそらく女王推薦を拒むはずである。

ただ、近年、自由党と社会民主党が自由民主党を作るために合同し
、第三党になったことは、事実上「hung Parliament ( どの党も過
半数をもたない議会)」の可能性を生じた。

もしどの政党も明白な過半数を獲得しえなかったなら、おそらく君
主の役割に関する極めて多くの議論が噴出したであろう。事実、一
九八七年と一九九二年の総選挙の世論調査はいずれの党も過半数を
確保できないと予想していた。
しかし、実際には、両選挙とも保守党が絶対過半数を獲得し、連立
の問題は生じなかった。

もしこの問題が生じたなら、国王はどのグループが連携するかを見
極め、最大に連携したリーダーに政府形成を要請するため、政党間
の様々な議論に耳を傾けねばならなかったであろう。
 しかし、諸困難が生ずる。もし明確な合意がなければ、例えば、
ある政党内の諸グループが政党連携を拒めば、国王は政治介入を避
けるため、細心の注意を払わねばならない。

明らかことは、国王は議会に支持されない政治家を首相にできない
。事実、議会支持のない者は政府を作れない。勿論、政権を持たず
に首相となることは不可能である。理論的には、女王は政府を形成
を貴族院議員に要請することもできる。

しかし現実には、既述したように、貴族院議員が首相となることは
最早認められていない。そしてもしこうしたことが起これば、おそ
らく一大事となり、国王の地位も取り返しのつかない危機に瀕する
であろう。

 【議会解散】
議会は国王によって解散される。ただ、議会の同意がなければ、解
散しえない。かくて、首相が国王に解散を求めることから、首相に
解散権を与えるべきか様々な意見が出ている。わずか三人多い多数
党であった一九六六年と、少数党の党首として七四年に再選された
ハロルド・ウィルソンのごとく、もし政府がその仕事を行う充分な
多数者を握れないと見るや、首相が国王に解散を求めることは正当
な事であろう。

ただ、首相がもしつまらない理由で解散を求めたり
、対立政党差が代りの政府を提供できない程小さい時、国王は首相
の解散要求を拒否しうる。しかし後者の場合、もし首相が政権維持
を拒否し、他の党員も政権を担うことに承諾せず、また反対党の誰
もが政府を形成しない場合、その結果はおそらく混乱を生み、解散
となろう。この様な事態になれば、議会の信用はおそらく下落し、
国王の政治介入要請が増えるであろう。

  【他の権限】
国王は国会を召集し、議会を停会する。
 議会を通過した法案に承認(Royal Assent to Bill)を与える。
 政府各大臣、裁判官、軍隊官吏、外交官、英国国教会主教や他の
何人かの高等牧師を含む多くの主要官職保持者を任命する。
 有罪宣告を受けた者に恩赦を与え、貴族爵位、ナイト爵および他
の栄誉を授ける。
 国際的には、国王は、元首として、戦争宣言し、諸外国や諸政府
を承認し、条約を締結し、領土を併合・割譲する権限を有する。
  国王は、枢密院会議を主宰し、大臣や英国・外国の官吏と謁見し
、閣議決定の報告を受け、特使を派遣し、公文書に署名する。国王
は国民生活のあらゆる局面について、相談されねばならない、しか
も完全に公正無私を示さねばならない。

  国王が全く無能力な場合に国王の任務を代行する「摂政(regent)
」任命の用意がされていなければならない。王位継承には、摂政は
、国王の長男で、成年、プリンス・オブ・ウェールズでなければな
らない。国王の部分的無能力や外遊中の不在には、例えば、現女王
は、国王の一部機能を諸大官(Chancellors of State)、エジバラ公
、継承順次位の四人の成年、および女王の母君) に委任することが
ある。ただし、例えば各大官は、国王の命令無く議会を解散できな
いし、貴族も作れない。

  国王は儀式に出席する。まず儀式はイギリス君主制と密接に関わ
り、君主制への国王や国民の見方が変化したにもかかわらず、今な
お多くの伝統的儀式が行われている。王室結婚式や葬儀は公開の儀
式として行われ、国王の誕生日には近衛騎兵連隊の閲兵分列行進が
公式に催される。国家主催の宴会は、外国の君主や元首の訪英時に
行われ、認証式は、名誉心をくすぐるためにバッキンガム宮殿やエ
ジンバラのホリールード宮殿で行われる。また国会開会式の時など
の王室パレードも重要な意味をもつ。

 また、毎年、国王や王室メンバーは国内各地を訪問する。彼らの
諸行事への出席は、国や地方にとって重要な意義を有し、国民に大
きな関心を起こさせる。

 さらに、女王は、エジンバラ公と外国に公式訪問することもある
。また帝国内の国々にも訪れる。他の王室メンバーも、女王の代理
として、また彼らの関係機関との関係で海外に公式訪問することが
ある。

3.政治権力の正統性

(1) 国王の政治的影響力

  イギリス政治は、一政党に国王の支持表明を求める「政党政治」
を意味している。
しかし、今日では、国王は政党や個人的利害に密接に関わっている
ので、完全な中立が求められる。( ビクトリア女王が自由党党首W
・E・グラッドストーンを嫌い、彼の党も信頼しなかった。にもか
かわらず、彼を首相として四度も認めねばならなかった) 。

 一方、政府も「女王陛下の政府(Her Majesty's Government)」
であり、大臣たちは国王から官職を与えられる「女王陛下の大臣(
Her Majesty's Ministers )」である。反対党の国王との関係も「
女王陛下の反対党(Her Majesty's Opposition)」と呼ばれる。

  一九四五年から七〇年代にかけ、イギリスは「二党制議会政治」
であったと一般に言われている。すなわち政府を形成する保守党か
労働党いずれかの政党と、野党の反対党である。自由党の残党は最
早政党として重視されていない。一九八〇年代には、自由党と社会
民主党( 大部分は労働党右派議員)が連携し、一九八七年、公式に
自由民主党 (Liberal Democratic Party) となった。今や批評家の
多くがイギリスは三党制だと言っているほどである。しかし、今日
、反対党党首に率いられる唯一の公的政党が依然として存在し、給
与も支払われている。

かくして、政府と反対党は哲学や政策では対立するが、憲法制度を
代表する国王には忠誠を払う。さらに、枢密院メンバーに関し、そ
の組織に国王への助言を委ねられている事が強調される。政府や反
対党党首および多くの他の幹部議員は、様々な政治連携上の大物議
員( 全然いないこともあるが) を含む枢密顧問官である。

 国王の政治不介入は、いくつかの興味深い効果をもつ。議会の各
会期は、その会期の詳細な政府プログラムを含む「女王の演説
(Queen's Speech)」で開められる。かくて労働党政権では、演説は
国有化や経済全体の計画に国家介入を拡げる立法を提案するであろ
う。しかし次の選挙で保守党が政権復帰すると、女王の演説は産業
非国有化を含み、国家介入を縮小する内容となるはずである。

 女王はたとえ自分自身の明確な見解を持っていても、個人的見解
に留めねばならない。
事実、あらゆる論争的な問題については、女王や他の王室メンバー
は、思慮深く沈黙を続けるはずである。もし女王が公的演説を行う
なら、大臣の助言によって演説し、演説は大臣によって用意される
。論争的問題については国王が大臣の助言を求めるように、国王も
大臣への助言権を持ち、その最終的権限は国王が持っている。退位
という稀な事以外、国王は終生在位するが、大臣にはごく短い在任
期間しかない。また国王は非常に多くの政府経験を長い間蓄積して
いる。かくて公文書や重要文書は、元首としての女王の閲覧のため
、毎日宮殿に届けられる。彼女はまた省・政府において全体として
何が進行しているか報告され、首相や大臣とも定期的に会う。一八
三七年に戴冠し、一九〇一年に崩御したビクトリア女王は、憲法過
程の専門意見を大いに持っていたので大臣に積極的に助言した。

 (2)国の体現者

 「女王陛下の政府」が「女王陛下の大臣」によって構成されてい
ることは既に述べた通りであるが、イギリスでは、あらゆる場所で
女王と出会う。例えば、  通貨や切手には女王の肖像が印刷されて
いる。
  法律は、形式上、女王の名において可決される。
  裁判所は「女王陛下の裁判所(Queen's Court) 」であり、
  官吏は「女王陛下の官吏(Her Majesty's 0fficer)」である。
  国民は「女王陛下の臣民(Her Majesty'sSubjects) 」という言葉
が使われる。
  郵便は「英国王立郵便( Royal Mail) 」に  よって配達される。
  「大英帝国海軍(Royal Navy)」の軍艦は「女王陛下の軍艦(Her 
Majesty's Ships')」である。
  公文書は「王室御用達(on Her Majesty's Service'」として無料
で送達される。
  「女王陛下の検察官(Her Majesty's Inspectors)」の下に徴税さ
れる。
  犯罪者は「陛下の刑務所(Her Majesty's prison)」に送られると
宣告される。
 特に面白い表現として、囚人は、俗に「女王陛下の客人(Her 
Majesty's guest) 」と呼ばれているという。

こうした「王立(Royal) 」「女王陛下の( Her Majesty's)」という
接頭語は、女王の権力が今なお極めて大きいことを示し、大英帝国
が歴史的に女王の『所有物』であったことも如実に示している。た
だ、女王はそれらを細かく監視・監督しえない。かくて、今やこれ
らの接頭語が公的に使われる場合、「国家(State) 」や「大英帝国
(British) 」の象徴として使われていることは明白で、女王の名で
行われるすべての事柄についての女王の直接統治を意味しない。事
実、政府活動のすべては女王の名で行われ、女王がそれに関し直接
知らなくとも、彼女の承認が自動的に与えられる。

  国王は大英帝国の体現者でもある。「朕は国家なり」と述べたと
言われるルイ一四世のように、かつて国王は絶対君主と見られてい
た。今やイギリス市民は、女王は国の体現者であり、国の象徴(今
日の君主の真の機能は、事実上、すべて儀式的)であると見ている。
彼女は議会を開くが、審議に加わることはない。また庶民院に着席
することも事実上禁じられている。チャ−ルズ一世は、一六四一年
、無謀にも彼の認めない五人の議員を逮捕した。国王が拒否すれば
、いかなる法案も法律にならなかった。しかし拒否権は二世紀以上
使われていない。

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久保憲一
電子メール アドレス : mizunoya@mx3.mesh.ne.jp

久保関連URL

水廼舎の日本学   (詳細は、JOG Town 掲示板で) 
http://www.simcommunity.com/sc/jog/mizuya

日本世論の会三重県支部
http://www.ztv.ne.jp/mizuya/yoron-index.htm

水屋神社
http://www2s.biglobe.ne.jp/~mizunoya/

国際戦略コラム(久保教授コーナ)
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/index.htm

長尾誠夫のHOTPAGE   -三重県の教育問題-
http://homepage1.nifty.com/1010/index.htm

九九九のホームページ
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20000326.html
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4759/20000328.html

インターネットタイムズ(久保事件)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6334/

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