226−1.天皇制議論の続き



NO.210−2(2000.06.19)に意見する。

まず、第一に、本文は読者の論評に著者が回答し、説明したもので
あり、決して「反論の再反論」などというセンセーショナルな見出
しが期待させるような内容ではない。
著者の説明がなければ、私を含めて多くの読者は本文がどのような
環境の元に書かれたものであるのかわからなかった。

次に、私はインターネットという公開の場で設けられているコラム
に掲載されていた文章に対して公開の場に投稿したのであって、そ
の回答において個人の性格や人格をうんぬんされるような処遇を受
ける覚えはない。これは電脳空間における最低限のマナーへの違反
であって、たかがあの程度の文章だけで「○○主義」「○○風」な
どと規定されることには強い不快感を禁じ得ない。

尚、期待を裏切るようだが、私がこれまで生活の基盤を置いたのは
日本と英国であり、次に大きく関わっているのは欧州大陸である。
もっとも、今時ジーンズをはいてハリウッド映画を見たからと行っ
て米国風などという者はいないだろう。

本コラムにおいては個人間の対話はルール違反であるので、私はそ
れを遵守する事を約束する。しかし、これすらを「成文至上主義」
と解する者がいるとすれば、それは私の関知するところではない。

さて、
> しかし「違憲であれば「君主」とは言えなくなる」という貴方の
>仰る意味はわからない。

この部分は、成文憲法上、政教分離をうたっていながら、その傍ら
で神事に仕える立場の者を君主と定義するのは可能であろうか、自
らの君主を違憲とする成文憲法は成りたつのであろうかと問うてみ
たのである。

>「国際慣習上」、天皇は元首として扱われているのです。

この部分が冒頭に数学的論証思考という言葉を掲げた理由であって
、元首として扱われている=元首という等式が成立するか?と問う
たのである。「等しい」と「類似」は同一ではなく、「全員がペン
を持っているの」否定は「全員がペンを持っていない」
ではなくて、「全員がペンを持っているわけではない」と命題が解
かれる。これは論理の問題である。

そもそも国際慣習自体が欧州の慣習であり、帝国主義の時代と共に
西洋の拡大によって成立した慣習であって、本来が西洋の発想であ
り、文化である。しかるに欧州諸侯のサロン外交の賜物を我が国の
天皇に処しているにすぎない。
礼砲が何発なろうとも、そのような儀礼における兵の動かし方自体
が傭兵の伝統を持つ欧州の文化(参考:『最終戦争論』石原莞爾)
そのものである。

だいいち、天皇がEmperorと誤訳され、明治天皇が馬にまたがって
ダヴィッドが描いたナポレオンのアルプス越え(「サンベルナール
峠を越えるボナパルト」)よろしく、サムライを率いてショーグン
を倒したと誤解されている国際社会において、どれだけ多くの人た
ちが満州のラストエンペラーなどと日本の「エンペラー」の違いを
理解しているのか。

>日本の長い歴史の中で、欧米列強のアジア侵略に抗し、ごくごく
>一時期、大日本帝国憲法(わたしはこの憲法を「鹿鳴館憲法」と呼
>んでいますが)上、天皇が「元首」と明記されたにすぎない。

その後も天皇は戦勝国によって存続が許された。日本のEmperorは
持続したのであり、それによって諸外国が「元首」時代から処遇を
変えなくとも、なんら不思議はない。当然である。

欧州の拡大によって成立した近代の国際慣習上、我が国にも「元首
」の処遇を受る立場の者がいて、それが天皇である、と、独自の文
化を誇ることができるだろうに、天皇を「君主」という枠にはめ、
型に流し込み、何がなんでも我が国を「君主」国にしなければなら
ないのだろうか。世界には大佐を名乗りながらも元首の扱いを受け
ている例すらあるのである。

>あくまで「成文化」「明記」されていないと気の済まない

とのことだが、著者がなぜそれほどまでにあくまで「君主」と「明
言化」にこだわるのか、これがまったく理解できない。
天皇は日本にしか存在しない日本の文化であって、そのような「歴
史と文化の体現者」とさえ形容される立場の者が近代民主主義のも
と、「(本来の)天皇ではない」状態におかれ、欧州諸侯のマネご
とをやらされている。こんな自らの文明を粗末にしている話はない。
しかし、たとえこのような天皇の状態が現行憲法の矛盾によるもの
であったとしても、天皇制は制度であって、天皇家の存在=天皇制
とは異なる。あくまで天皇「制」である。現行の天皇制と旧天皇制
は異なっているが、同時にそれらは遣隋使や遣唐使を派遣した時代
の天皇とも異なっているし、しかも再び天皇にそのような役割を期
待している者などいない。森首相の「『神の国』発言」はマスコミ
によるゴシップであったが、その言葉がゴシップとして通用するほ
どかつての天皇の地位の再来には社会に強い反発心があるのである
。むしろ曖昧と凡庸の中で生き延びてきたのが天皇家ではなかった
か。

もっとも、今回の議論は著者が説明したように極めて特殊な環境で
書かれた文章を発端にしているので、これ以上の議論は不毛である
と思われる。

尚、ConstitutionとConstitutional lawの違いは理解しているつも
りであるが、著者の指摘に感謝して文を締めくくりたい。

-----<蛇足>---------------------

近代日本は英国とプロシアを手本としてスタートしたところから、
久保氏の指摘のように慣習法と成文法の混在した国になったのは当
然でしょう。また、政教分離では、それぞれの国でそれぞれなりに
政教分離できていないのは確かです。

例えば、イギリス国教会は国王がその長ですが、その英・国教会は
ダイアナ妃の葬儀においてブレア首相に聖書を朗読させています。
その一方で、社会においては「クリスマス」という言葉がますます
公において使われなくなっています。(米国も同様)

更に、英米とも裁判での宣誓式において聖書の上に手を置いて宣誓
するので司法も「教」と分離されていない。しかしこの場合は特定
宗教の教典としての聖書ではなく、キリスト教文化に基づく自らの
国の伝統として聖書が用いられているにすぎません。
ゆえにその宗派を問わない。

ところが、西洋においては「政」と「教」が互いを牽制しあうこと
で距離を置く事が可能となるのでしょうが、日本は「教」の力が弱
すぎて「政」と対峙できず、お互いに牽制できないので政教分離で
きないのではないでしょうか。ゆえに言葉遊びのような機械的な「
分離」しかできない状態になるのだと思います。

政教分離の好例は、ペルーの日本大使館占領事件です。大統領府と
カトリック教会は最後までそれぞれの立場を貫きました。方や我が
国ではどのような事件が起ころうとも宗教界が何らかのコメントを
発することはないし(ましてや天皇が神道を代表してコメントする
事もない。しいていえば正月の一般参賀くらいか?)、表だってボ
ランティアをかって出ることはありません。京都の仏教界ですらそ
の「目立った」行動は反・拝観税運動くらいです。

---(まとめ)-----------------------

東京都・原田さんのご意見、光栄です。
本コラムの天皇の回に期待していたのは、型にはまった試験の模範
解答のようなものではなく、柔軟な発想に基づく意見でした。例え
ば、社民党の辻本議員は天皇について「好きな人が維持すればいい
」と述べていました。「政」との分離でしょうか。決して彼女の指
示・不支持ではなく、このように現在から未来の日本社会にとって
の天皇について想像力あふれる議論がでてこないものだろうかと思
っていたのです。呉智英氏などは「幕府制」を唱えていますね。

以前、某中央官庁の役人(当時)から聞いたのですが、東京遷都の
際に朝廷の一行を見た江戸庶民は大して気にも留めず、そのまま見
送った。それを見ていたお抱え外国人のプロシア人が「カイザーに
対してなんて不忠な国民なんだ」と呆れ果てたという逸話が残って
いるとのことです。

現在の天皇は遣隋使を送るような天皇でも、京都に鎮座する朝廷で
も、大日本帝国元首でもありません。みなさん、何か想像力あふれ
るユニークなアイデアはありませんか?

東京都
門田
==============================
(久保教授のコメント)
 門田さんへ ご返事に代えて 
 以下、私の論文の一部です。  久保憲一
… … … … … … … … … … … … … … … 
 同じ「立憲君主」国でも、イギリスと日本では、その在り方にお
いて似て非なるものがある。

1.歴史上における天皇の政治的地位

 天皇は、有史以来、常にわが国の政治・社会に君臨する存在であ
った。大まかにみれば、西暦四五〇年以降は「大王」として、西暦
七〇〇年の大宝律令以降は「律令的君主」、また一九〇〇年以後は
「憲法的君主」として君臨してきた。

 ただこの間天皇が実際に「最高政治権力」を保持した時代はそう
多くない。明治憲法下の天皇でさえ、実態は今日同様、むしろ今日
以上「象徴的君主」であったと思われる。

  幕府時代、とりわけ徳川幕府二六五年間における天皇も、今以上
に「権力なき君主」であったようである。例えば、慶長一一年
( 一六〇六年) 四月、徳川家康は、武家の官位を家康の推挙なしに
与えないよう、武家伝奏を通じて朝廷に申し入れ、さらに元和元年
( 一六一五) 七月には「禁中并公家諸法度」を発布し、「武家の官
位は、公家当官の他たるべし」と明記した。それ以来、官位叙任は
幕府が行なった。

  幕府時代はまた、現在以上に天皇は「無財の君主」であったと思
われる。事実、幕府の消極的態度や圧力により即位儀礼「大嘗祭」
経費さえ捻出できないありさまであった。
 当時、ザビエルやトルレスなど外人宣教師は、将軍を事実上、日
本の「皇帝(キング)」と観、最高政治権力者と捉えていた。

 しかしこうした時代でさえ、国民は天皇を「権威の源泉」に据え
ていた。事実、最高政治権力者の多くは、日本の長い歴史を通じ、
天皇にとって代わろうと敢えて企てなかった。
企まれても、結果として、何らかの形でそれは必ず挫折した。むし
ろ最高政治権力者たちは、天皇の権威を政治的に利用しようとした
。彼らは自らの「権力の正統性」を「宣下」に求め、国民にその権
力を認めさせようとした。

 1「宣下」による政治権力の正統化

 例えば、幕府を開くにあたり、鎌倉、室町および江戸の各幕府創
始者は天皇から「将軍宣下」を受けた。「征夷大将軍」の宣下は、
単なる「天皇の武官」に過ぎなかったにもかかわらず、最高政治権
力の追求者にとりその政治的意義は極めて大きかった。
 例えば、源頼朝は建久三年( 一一九二) 七月、宿願の征夷大将軍
に任ぜられ、以来、彼の発する「下文」には「将軍家政所」の名称
が使用された。

 足利高(尊)氏も、一三三八(慶応元) 年八月、征夷大将軍に叙せら
れた。
 徳川家康は、慶長八年二月一一日、後陽成天皇より征夷大将軍を
任ぜられた。この「将軍宣下」は、形式上は家康が武家の頭領として
天皇を守れという命令であるが、事実は豊臣氏に代わって徳川氏が
国内の武士と主従関係を持つよう認めたことであった。

 ただ豊臣秀吉の場合、幕府は開かなかった。また将軍でなく「関
白太政大臣」となり、天皇を頂点とする秩序をより積極的に利用し
た。彼の目的は、天正一六年( 一五八八年)四月一四日から五日間に
わたった聚楽第への「行幸」でひとまず果たされた。すなわち、秀
吉は後陽成天皇を関白公邸の聚楽第に迎えて諸大名を「召集」、華
麗な儀式を行い、起請文を出させた(次図を参照されたい)。つま
り、関白秀吉は諸大名に天皇への服従を誓わせ、彼の命に背かない
ように仕向けるためであった。

      省略

  この起請文の署名も興味深い。この儀式における秩序は、天皇・
関白を頂点に、内大臣・平(織田)信雄、大納言・源家すなわち徳
川家康から一般の大名に至るまで、天皇制の位階・官職によって編
成された。

 さらに「武家の頭領(統率者)」たろうとする者は、さらに「源氏
長者」か「平氏長者」たることも欲したようである。

 事実、足利高(尊) 氏は「源」氏を名乗り、織田信長は「平」氏
を名乗った。徳川家康はこの起請文にも示されたように「源家」と
称した。
 ただ秀吉の場合、源氏・平家のいずれも名乗らず、幕府も開かな
かった。推測するに、彼が幕府を開きうる「出自」を持っていない
のは衆目の見るところであったからであろう。
彼は貴族を望み、結局「関白太政大臣」となった。

 2近代における政治権力の正統化

 近代においても変わりない。その事例も枚挙に暇がない。
 幕末、「倒幕令」が天皇によって発せられた。薩長土肥各藩は、
これによって官軍の『錦の御旗』を立てることができた。

 明治には、「脱亜入欧」「富国強兵」「殖産興業」政策の下、西
欧に擬した「中央集権化」国家を目指し、当時の政府はその政策遂
行のために天皇を利用した。当初は英国のエンペラー・スタイルが
大隈重信・黒田清隆らによって採用された。「明治一四年の政変」
以降はプロシャのカイザー・スタイルが伊藤博文、桂太郎らによっ
て採られたように思われる。ともかく天皇の外観は西欧の皇帝その
ものであった。その時代背景を考えれば、これもやむを得ない現象
であった。

  この時期、天皇の権威は効果的に利用された。例えば、明治一〇
年の西南戦争では天皇の「西郷討伐令」が出るや、西郷軍は「賊軍
」となり、敗走のやむなきに到った。
 昭和に、二・二六事件が生じた。それも「勅命」が出され「反乱
軍」は投降した。
 しかし、これで天皇が政治的実権を持っていたと見るのは、皮相
的である。天皇は明治憲法第四条によりあくまで立憲君主であった
。そして実際の政治形態は「天皇の名」による「補弼政治」であっ
た。

 例えば、天皇にお出ましを願う「御前会議」も、一つの意見が事
前に纏まっており、天皇にそれを報告し、形式的に裁可を仰ぐとい
うものであった。二・二六事件、終戦の聖断などは、内閣や最高戦
争指導会議で意見が纏まらなかったことによる異例であった。
  確かに、明治憲法第六条において、天皇は「法律裁可権」を有し
ていた。しかしそれは形式で、不裁可の事実は一度もない。

 3今日における天皇の政治的地位

 以上のように、歴史上の政治権力者は天皇の権威を利用し「政治
権力の正統性」を獲得してきた。現行憲法下でも同様である。

 【マッカーサーによる天皇の政治利用】
 天皇の権威と利用価値を認め、日本占領を最も効果的に遂行した
のは、他ならぬ占領軍最高司令官マッカーサーであった。

 まず、学界では現行憲法を「民定憲法」とする見解があるが、そ
れは全く誤りである。
事実は「マッカーサー憲法」と称すべきものである(本稿では省略
)。ただ制定手続きは、明治憲法の改正条項にあくまで従い、一見
「欽定憲法」のようにも見える。事実、現行憲法草案要綱発表に際
する「勅語」にマッカーサーも「欣快の意」を表明している。
また冒頭には「上諭」が付され、天皇による現行憲法の正統化が図
られた。

  共和主義者マッカーサーは、天皇を封建的遺物と見ながらも日本
占領には絶対不可欠と考え、「君臨すれども統治せず」というイギ
リス型「エンペラー」として存続させようとした。しかし従来の天
皇と明確に区別するため、現行憲法では「元首」を明記を避け、元
首の一特性「象徴」機能のみを明示し、元首たることを「含意」ま
たは「黙示」するに止めた(例えば、アメリカ大統領が明白な外交
の第一人者であるにもかかわらず、憲法上「外交長官」とは明記さ
れず、諸外交権限の列記によって含意または黙示されたのと同様で
あろう)。

 また彼は、最も重要な現行憲法第一章に(明治憲法同様)天皇を
規定し、身分上国民と明確に区別し、君主たることを黙示した。
  勿論、天皇の地位に関し「国民平等の原則」も「男女平等の原則
」も除外された。

 【君主および元首としての伝統的任務】
天皇が君主であり、元首たることは、現行憲法上の伝統的「国事行
為」において明白である。また「内閣の助言と承認」は、前述の「
禁中并公家諸法度」を彷彿とさせる。

 現在でも、内閣総理「大臣」や最高裁判所長官は「天皇の任命」
である。これによって国会指名は「正統化」される。

 恩赦の認証は、栄典の授与と共に君主の慈愛、栄誉、権威の表象
とされ、明治憲法下では「天皇大権」として扱われた。

 国会の召集は、天皇の命によるあくまで議員「召集」であり、「
招集」ではない。
 憲法改正、法律、政令および条約の公布は、天皇がその成立を国
民に告知することであり、法律等の効力発生要件である。

衆議院の解散、国務大臣や大使・公使の認証、外国大使・公使の接
受、儀式の挙行も君主と元首特有の任務である。

 その他、親書親電・訪問など外国元首との交際、国会開会式への
出席とお言葉、園遊会、正月一般参賀、行幸、謁見、内奏、講書始
、歌会始等「公的行為」といわれる公務も同じである。

 4天皇の公務量の拡大

 天皇陛下の国事に関するすべての行為は、内閣の助言と承認に基
づいて行われる。
具体的には、各事項を内閣が閣議決定し、書類を宮内庁へ送付する
。そして侍従を通じ天皇に届けられる。かくて天皇はこれを閲覧さ
れ、毛筆で署名、または押印される。これらの書類は、平成三年に
は約一、一四〇件にもなった。

 また、国事行為たる儀式(新年祝賀の儀など)やそれに関連する
儀式がある。親任式、認証官任命式、外国特命全権大使の信任状お
よび解任状捧呈式など国事行為に関連する儀式は、平成三年には約
四〇回行われた。

 また天皇の立場上催される儀式・行事、会食・茶会、拝謁・引見
も約一九〇回あり、外国元首との親書・親電交換は約五二〇件あっ
た。また天皇陛下に差し出される以上の関係書類も相当数にのぼっ
ている。

  かくして、天皇の「実質的公務量」が今日ほど増大した時代は有
史以来なかったであろう。「植樹祭」「国民体育祭」「国民文化祭
」など、戦後生まれの「行幸」も勿論増加している。むしろ元首(
国を代表する役割)としての公務量は、目を見張る増加をしている
とみられる。なぜなら、今日のわが国の国際的地位向上、多くの戦
後独立国(国連加盟国)の増加は、元首としての任務を必然的に増
やしていると思われる。マスコミ報道でも、その一端を推し量りう
る。昨今の天皇の公務日程は実に苛酷である。

  四.立憲君主の正統性

1.君主制の今日的意義

  今日最も安定し、最も成熟した国々は「立憲君主国」である。ア
メリカのように成文憲法や法律のごとき人為的契約にのみ依拠する
理性社会が必ずしも盤石というわけではない。

著名なアメリカの社会学者ダニエル・ベルは、今日のアメリカの不
幸は、この国が「権威への尊敬」を失いつつあることだという。換
言すれば、理性のみでは強い社会的絆は保てない。
国の存立にはアイデンティティーが不可欠で、そのためには愛国的
・情緒的帰依の対象として、国旗、国歌、憲法典のみならず、カリ
スマ的指導者も必要である。

もちろんそれは権力的でなく権威的存在で、選出君主・大統領のご
とく一党一派の代表でなく、国民の大多数が認めうる「正統性」を
持つことが必要である。しかし国民的支持を一身にあつめ、長く保
持しうる人格の出現は一朝一夕、簡単には望めない。

かくて世襲で公正無私な「立憲」君主が求められる。実際、共和制
すなわち合法的支配国を一度は経験したが、結局は成功せず、立憲
君主制または議院内閣制に戻した国はいくらもある。

 旧くはイギリスであり、前述したように、この国はかつて合法的
支配を経験した。
一二一五年に君主に対する「奪権の証文」マグナカルタを定め、
一六四二年の名誉革命ではチャールズ一世を処刑し、共和制となっ
た。しかし、一六六〇年にはチャールズ二世を復位させ、立憲君主
制に戻した。

 フランスも、一七八九年に革命を起こし、成文憲法典を持つ共和
国となった。しかし、周知のごとく、この国は今や極めて伝統回帰
し、「君主制のためにつくられた議院内閣制」を採用、君主に似せ
た権限を有する大統領を戴いている。(ただこの国のエリート支配
や官僚制はわが国よりもはるかに閉鎖的、特権的あるという)

 韓国も近年、君主制と不離一体の政治制度、議院内閣制を採用し
た。

 スペインは一六世紀末以降、何回か共和制を経験したが、成功し
なかった。かくて一九七五年に立憲君主制を復活した。

 カンボジアも一九九三年、恐怖政治ともいえる共和制から、亡命
中のシアヌーク殿下を帰国させ、立憲君主制を回復した。

 ネパールは一九九四年、共産党が議会第一党になった。にもかか
わらず、今でも君主制が維持されている。

 現代の君主制は「立憲」という合法的支配であり、しかも君主は
生まれながら尊厳的部分すなわち「カリスマ」を有している。ウォ
ルター・バジョットがその著『英国の国家構造』で述べた通りであ
る。今日では立憲君主制の価値が再認識されつつあるようである。

しかしたとえ伝統的支配の価値が再認識されても、一旦崩れた伝統
的支配を再び回復することは容易ではない。かつて朴大統領が韓国
にも君主が存していたならと、日本の天皇制を羨望したという。こ
の話は以上の事実を雄弁に語っている。

2権威の源泉

 同じ君主制でも、イギリス女王と日本の天皇とは、その「政治権
力の正統性」根拠と「権威の源泉」上、大いに異なる。

 ・信仰の擁護者としてのイギリス女王

 現女王の正式の名称は「神の恩寵により、グレート・ブリテンお
よび北アイルランドおよび他のあらゆる版図並びに諸領土の女王、
連邦の首長、信仰の擁護者であるエリザベス二世(Elizabeth the 
Second,by the Grace of God of the United Kingdom of GreatBri
tain and Northern Ireland and of Her other Realm and Territo
riesQueen,Head of the Commonwealth,Defender of the Faith') 」
とある。

 ところで、ヨ−ロッパ諸国では幾多の分裂、廃絶および征服が繰
り返され、古代ギリシャ、ローマの文化伝統を受け継ぐ王室はもは
や存在しない。国王と国民の人種が異なる場合も多い。事実、現女
王はわずか三八代にすぎず、直接の祖先は一八世紀のジョージ一世
(一七一四〜二七年)神聖ローマ帝国ハノーバー家出身のドイツ人
である。

 またイギリス国王はあくまで英国国教の「擁護者」であるに過ぎ
ない。
 また戴冠式における王位継承者は、ウェストミンスター寺院にお
いて、本国イングランドとその征服国スコットランドの王冠、ガウ
ンをそれぞれ大司教から授けられる。イギリスの王位は征服者の徴
でもある。

 なお最近の王室スキャンダル、特にチャールズ皇太子、アン王女
、アンドルー、エドワード王子それぞれの別居、離婚騒動を見ると
、信仰の擁護者たる女王の一家とはとても思えない。これらの結果
は女王の信仰心や信仰姿勢の反映であり、王室の使命感欠如とみる
他ない。

 ・祭祀王としての天皇

 わが国の場合、天皇は今や世界最古の一二五代を数える。そして
天皇と信仰(神道)の関係はイギリス国王のそれよりはるかに緊密
である。天皇には自ら「祭祀を司る」伝統的任務があり、これは天
皇の最重要の任務である(次表を参照されたい) 。事実、鎌倉時代
に順徳天皇が著された禁秘御抄にも「神事を先にし、他事を後にす
」とある。これは今も変わりない。共産党の野坂参三も制憲議会の
代表演説において「天皇は、国民の間に半宗教・半分宗教的な役割
を演じてきた」と述べたが、真実である。
   以上

 【ご参考】

 @ 大嘗会は、土御門天皇文正元年以来二二〇年間中絶した。し
かし「幕府側の消極的態度」ないしは「圧力に対する不撓不屈の意
志により、東山天皇の貞享四(一六八七)年、簡略化されたとはい
え、再興した。
  またその後も五〇余年中絶したが、八代将軍吉宗の理解を得、
桜町天皇の元文三(一七三八)年に再々興された。

 A和気清磨呂によって挫かれた弓削の道鏡の野望、「日本国王」
と称して不可解な急死を遂げた足利義満の二件はあまりに有名である。

 B後陽成天皇は慶長七年正月六日、内大臣正二位徳川家康を右大
臣に進め、従一位に叙した。翌八年二月十一日には右大臣に進め、
征夷大将軍に任じ、淳和・奨学院別当、源氏長者も兼ねさせ、牛車
参内することも許した。

 C官位とは官職と位階を併せたことばである。将軍宣下を受けた
家康の官職は右大臣であり、位階は従一位である。大納言は正三位
で、中納言は従三位、侍従は従五位下、武蔵守・相模守などの国の
守は従五位から従六位の位階でなければ任官しえない仕組みになっ
ている。

 D室町・鎌倉幕府以来、幕府創設者は源氏・平氏長者いずれかた
ることで「天皇の武官」たる正統性を得たようである。

 Eイギリスでは、いずれの政党も議会の過半数を制しえない場合
、または二党制が崩壊した場合など、緊急事態においては国王自ら
首相選出することがある。国論を二分するような国家的危機におい
ては、君主はその意義を発揮する。勿論、国王は、普段政治介入す
ることはない。

 F国事行為の中には『栄典の授与』がある。大宝令の「勲位−文
位」の宮中席次が起源である。現在は都合五種類二八階級の勲章が
あり、勲一等以上の勲章は宮中において天皇から「親授式」が行わ
れ、勲二等以上は宮中において内閣総理大臣から、また勲三等以下
の勲章、褒章などは所轄大臣から伝達される。
  位階は、旧く「座位」と称し、推古天皇時代の一六種一二階に
遡る。明治二〇年以降、正一位から従八位まで一六階に定められ、
現在に至る。但し死没叙位である

 G臣(おみ)=朝廷に仕える人。臣下。かつて吉田茂がしばしば
「臣茂」と称し、中曾根康弘も「臣中曾根康弘」の書を残している。
  また中曾根は通産大臣在任中、昭和四八年の中近東訪問におい
て、イラン首相との会談で「日本はアジアの東にあって王制の国で
す」と述べた。戦後日本政治を舵取りした少なくとも二人の首相経
験者がこうした認識を持っていた事実は、重視されねばならない。

 Hフランス大統領のミッテランも「英国や北欧には国王がいるが
、フランスにも王様がほしい(朝日新聞、昭和六三年五月一〇日)
」と嘆息したという。

   「宮内庁要覧(平成4年版)」より
 付言
天皇の権威(カリスマ性)の源は、余人に代え難い『祭主』として
の伝統的任務にあり、一般国民の内から選ばれた大統領や首相には
絶対真似ることのできない行為である。
==============================
(管理人Tのコメント)
失礼しました。今後、門田さん、題名も本文に入れて、原稿を投稿
していただければ、そのようにします。このコラムは、皆様の希望
を優先しますので。反論内容には責任を持てませんが。

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