184−2.日本文化の再興について



 国際戦略コラムno175.非常に楽しく読ませていただきました。
確かに、日本には「お上のやることはわからん」という言葉が昔
から(?)あるように、自分と周囲の生活によほどの支障を来さ
ない限り、自分の所属する枠組みーーー
それは、国家であったり藩であったり、村であったりーーーに過激
な姿勢で意見を申し立てません。所属する組織の構造は、なんと
なくピラミッドになっていて、自分の上にいるだろう人にやわら
かく意見して、その人がさらにその上に意見するというシステム
ができあがっていたと思われます。それをスムーズにする慣行として
お歳暮や、お中元なども存在し、自分が強く望むことに対しては、
当たり前に賄賂を渡していたのではないでしょうか。そうやって、
ちょっと困ったことには対処して、後は自分たちの生活を大いに
エンジョイできるようなシステムを作り上げていったのではないで
しょうか。つまりは、文化の隆盛です。

 食事に困っている間には、「文化」と一般的に呼ばれているもの
はできあがらないと考えています。そういう意味では、戦後の日本
に、独自の文化を創り上げる余裕などはきっとなかったと思います。
今の50代、60代を中心とした人々が、必死になって日本を経済
大国に押し上げた結果、お金やブランドで価値判断をしてしまう、
という社会的に豊かなのか、豊かでないのかワカラナイという、
矛盾を生んでしまったのではないでしょうか。

 この文化の空洞に対し、80年代までの日本は「アメリカナイズ」
で答えていたように見受けられます。90年代に入ってから、
少しずつアメリカの呪縛から離れ始め、four dragons(tigers)など
と言われた近隣諸国、いわゆるアジアに目を向け始めました。
勃興する発展途上国を、客観的に見るにつけ、経済的に潤うには、
それまでの既存の伝統文化を捨て、うすっぺらいマクドナルドの看板
をつけなければならない現実を発見したと思います。つまり、
アイデンティティーの喪失を見るにつけ、私たち自らが
アイデンティティーを喪失したことに気づいたのです。

 このことに気づいた時期が、丁度バブルの崩壊と重なり、まさに
自分の身の置き所に困り果てて今日に至るわけです。文化的空虚に
もっと早く気づいた国家としては、シンガポールがあります。
経済的には裕福になったけれど、経済がなくなったときの身の置き所
がないのです。シンガポールの場合、日本よりたちが悪いのは、彼ら
に深く宿った伝統文化がないのです。そこに移り住んだ人々、インド
人であったり、華僑であったり、に移民元の文化はありますが、
しかし、「シンガポール人」としてのアイデンティティーに悩んだ
わけです。

 日本人はこれから、明治維新において、分断された文化をとり戻す
時期なのではないかと考えています。もちろん、それ以前の文化を、
いきなり現代に持ってきても滑稽に見えることもあります。そのよう
なものに関しては、現代的なアレンジを加えながら、宗教的な意味を
廃したジャパン・ルネッサンスを行う時期ではないかと思います。
アメリカとフランスは仲が悪いように見えます。しかし実際、
アメリカ人は文化のあるフランスに尊敬の眼差しを、一方フランスは
経済大国としてのアメリカを尊敬の眼差しで見ています。「軍事的に」
はお互い一歩も譲りませんが。日本は幸福なことに、文化(歴史的)
と経済を兼ね備えています。今は、文化の確立と、経済の復興(得意の
モノマネで)を同時に行うステップに来ていると考えます。

 これまでにイッセー・ミヤケやヤマモト・カンサイなど、日本の伝統
の価値を見出した人々も存在しますが、それは決して自分たちの
アイデンティティーの証明ではなく、西欧に対するアピールであった
と思われます。方向性は日本に向かって無く、西欧に向かっていたの
です。

 思ったことを徒然に書いていたら結構な長さになってしまいました。
途中からなんだか横道にそれたようにも見えますが、私の中では
きっちり繋がっています。ご意見などをいただけましたら幸いです。
ちなみに私のアドレスyedransは「えどらんす」と読みます。江戸
トランス・ミュージックを創りたいなー。という欲求の現れです。

           それでは、失礼します。

牧野
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(得丸さんのコメント)
戦後の日本人が「文化(私の定義では心を耕すこと)」的で
ないこと、衣食足りても礼節をわきまえなかったこと、ブラ
ンドや見るスポーツにうつつを抜かし、教養を深める努力を
怠ったこと、、、、  それらの原因について議論している
暇はありません。

我々自身を文化的な存在に深める(高める)ことが急務です。

昔の日本人は、雪月花を見ては自分の心も雪月花のように清
くあらねばと思ったということです。私たちは、美しいもの
にもっと接する必要があるでしょう。(荒木博之著「日本人
の心情論理」講談社現代新書438)

残念ながら、私たちの周りには、あまり美しいお手本があり
ません。

マスコミの態度は、野次馬的で下品です。テレビや新聞は見
ないほうがいいかもしれません。評論家になっても何の得に
もなりません。すべてを自分の問題として受け止め悩んでく
ださい。

大人たちの中にも、文化を身につけていない人がいますから、
その人たちの悪影響を受けないように気を付けましょう。

お勧めできるのは偉人伝や古典を読むこと、伝統文化を習う
こと。(「論語」と「孟子」はやはり学ぶところ大です。ま
た、一昨日、高知市にある牧野植物園を訪問しました。牧野
富太郎博士の生涯が紹介されていましたが、貧困の中も研究
を続けられたその熱意や信念に敬服しました。)

偉人に限らず、よく生きた先達、美しく生きた人生は、我々
の励みになります。偉人も我々も同じ人間ですから、我々だ
って偉人と同じことができないわけはないのです。

少しずつでも自分を深め(高め)、自分の中の美意識(善)
を目覚めさせ、美しく生きること、美しくいきるよう努力
することが必要なのではないでしょうか。

私だって、まだまだ修行中の身ですし、美しく生きれなくて
反省することしきりです。でも、反省を繰り返し、どうすれ
ば自分の人生をより美しくできるか、自分と接触する人の中
に道に迷っている人がいたら、どうすれば救えるのか、とい
ったことを日々考えながら生きようと思っています。求道す
なわち道なり、だと思いたい。

牧野さんが明治維新の前の時代を思うことは正解だと思いま
す。物まね好きな日本人が、珍しく自分たちでものを考えた
時代だったのではないでしょうか。日本文化の最良の部分が
江戸時代に花開き発展したように感じています。(江戸徳川
文明の豊かさについては、渡辺京二著「逝きし世の面影」
(葦書房)をぜひお読みください)

孔子が唱え、吉田松陰ほか江戸時代の多くの学者や思想家が
最重要の徳目と説いた「仁・智・勇」、無私の真心、どん欲
な学習、迷いのない決断、この三徳を我々の文化として、
21世紀の日本と世界を心豊かで美しい社会にしたいもので
すね。

得丸久文(2000.05.16)


追伸:
マービン・トケイヤーの「日本人は死んだ」が復刊されまし
たね。この本は今の日本の状態を25年以上前に予測したと
いう点でも、一読の価値ありかも。

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