179−1.「ブレイク・ワイフ」について



「ブレイク・ワイフ」について

切実な日本の現状の一面を捉えている記事だと思います。
記事の内容とは少し離れてしまうのですが、いつもの感想も含めて、
一言。
これからの日本をより、良くするために、良い子供達(表現がイマイチ)
を育てていかなくては、日本はこのまま滅び行く国になってしまいそう。
・・・・でも、それは「良い親」を育てることが先なのでしょう。
どうしたら?その事実をアピールすべき対象は、一番、目覚めなくては
いけない人たち、そして、それが可能な人たち。やはり「母親」達では
ないかと、思うのです。
そこまで、考えて、でも具体策はない。私には。でも、何もせずにいら
れない。・・・・。
 
Uta.
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読者の声に対し

 感想に対して何か反応せよということですが、なかなか難
しいですね。私自身模索中のことですし。でも、できるかぎ
り正直に、自分の意識の上に浮かぶこと、これまで考えてき
たことを思い出しながら言語化してみようと思います。


ー1ー 自分の問題であった

 おそらくこの「ブレイクワイフ」の書評が力をもったのは、
実は私もブレイク・ファミリーの危機を経験したからだろう。

 最終原稿の段階で削除した段落を、紹介する。

> 実は著者は、うちの女房と同い年で、家族構成も同じ。別
>居まではしていないが、うちでもかなり冷たい関係の時期も
>あった。

>  大学を出て、大手銀行に職を得、結婚と同時に家庭に入っ
>た妻は家事やその他もろもろの分野での夫の非協力に文句を
>いう。私は家にいるときはできるだけ子供たちといっしょに
>いるようにしているのだが、なにせ家にいる時間が短い。

> いつもふらふらと友だちと飲む夫、誘われるままに旅行す
>る夫、「はた迷惑な勉強会」を開いて好き勝手している夫
>(=私)に対する風当たりは強い。私が友人のために時間を
>割くと、「私(=妻)には使わないのに」と不満をあらわにする。

>  子供さえいなければ離婚していたかもしれないが、子供の
>ことを思うと、お互いにいまさら別の人生を歩むことはでき
>ない。今の家族といっしょに生活しながら、どのように自己
>を実現していくのかという枠の中で考え行動するほかはない。
>著者と同様の消去法の結果、限られた制約の中で少しでもい
>い関係を作り出す方向に舵を戻したのだった。


ー2ー 近代の矛盾のごみ捨て場とされた母

 家族がこれほどまでに壊れてしまった背景には、いくつか
の原因があるだろう。今ここでそれらを分析するゆとりはな
いが、ブレイクワイフの書評を読んだ友人が、ある本の一節
を送ってくれたので紹介したい。

> 鹿野政直「戦前・家の思想」創文社(1983年)からの抜粋です。
>
>「ベビーシッターということばがある。・・現今の家庭で妻=
>主婦=嫁は、夫シッター、子供シッター、老人シッターの三機
>能を兼ねることを余儀なくされ、その意味で『母性』ないし擬
>似的『母性』をつよめつつある。いいかえれば、総母子家庭化
>の進行である。その関係において家庭は、かろうじて一つの単
>位として存在するとの様相を強めつつある。

>こうして『母性』は、国家によってあらゆる矛盾の投げすて場
>所として意図的に称揚され、男たちによって日常的”些事”を
>肩がわりしてくれる美徳として価値づけれられる。・・(略)

>『母性』の観念は、太古のその発生期にあっては、『豊穣』の
>観念と結びつき、普遍愛への展望をもちえたのであったとして
>も、私的所有を原理とする現今の社会では、すべてを私物視せ
>ずにはおかない資本主義的価値意識に思うままに攻めこまれ
>『子供』一般ととらえるのとは対極の”わが子”意識をのみ肥
>大させつつある。

 追い詰められた母、そのとばっちりを受けて苦しむ子供た
ち、妻と子の受難を救えるのは、夫しかいない。夫たちはも
っと自覚すべきだろう。


ー3ー 西洋と日本で自我の向きが逆

 家族の崩壊は、全世界的な傾向でもあるが、西欧社会と比
べると、日本のほうが急激で深刻な気がする。

 その原因は東西の自我の違いに求められる気がする。一言
でいうと、日本人は孤独に弱く、確立した自我をもたず、付
き合う相手や世間との関係性によって自己の存在が浮き彫り
となる自我をもっている。だから今のように世間(地域社会、
ムラ社会、会社)が共同体として機能しなくなると、とたん
に自己を見失って、自己喪失状態に陥るのではないか。(サ
ラリーマンが男同士焼き鳥屋で群れて社内のうわさ話や人事
の話題で盛り上がるのも、日本的な現象かもしれない)

 一方一神教の世界では、個人が唯一絶対神と直接結びつく
という論理なので、他人のことなど気にしないで生きていけ
る。これが個人主義の土壌なのだろう。

 かつて私は河合隼雄さんの「明恵 夢を生きる」を読んで、
以下のような感想をもった。(地球浪漫第29号所収)

>河合隼雄著「明恵 夢を生きる」(講談社+α文庫,1995年)
>は、12世紀後半から13世紀前半を生きた華厳宗の僧明恵
>が40年にわたって記録し続けた夢日記の分析を行っている。
>(略)
>
> 私は日本と西欧で自我の確立方法が逆であるように常々感
>じてきた。西欧では、自分を多少誇張してでも積極的に自己
>主張を続け、積み木を積み上げるように自我を打ち立ててい
>く。これに対し、日本では、私を捨て無私になる行為を深め
>極めることにより、自分の中に真空な空洞をつくる。この真
>空の空洞が懐の深さであり、腹の太さであり、いざというと
>きの力の源泉となる。
>
> 河合もまた東洋と西洋で意識の磨き方が逆方向を向いてい
>ると指摘する。
>
>「西洋近代の意識は、言うなれば高く高く構築されてゆき、
>ふと気がついたときそれは地面から離れたものとなってしま
>っていて、そこに疎外や孤独の問題が生じてきたり、自然破
>壊へとつながっていったりする欠点をもっている。これに反
>して、東洋の意識は、言うなれば深く深く沈潜してゆき.....」
>
> 河合はそれが「地上の明るさを忘れた、途方もなくあいま
>いなものになる危険性」を指摘するが、深奥から全世界を抱
>擁する禅的な境地もありうるのではないかと私は思う。

 自我という目に見えない意識の構造が、西欧と日本で違う、
と説明してもなかなかわかっていただけないかもしれない。

 たとえば、三島由紀夫の「豊穣の海 四部作」に登場する人
物の自我は、どちらかというと足し算的に描かれている。言い
換えると、それぞれの人間が自分で合理的に考えて行動してい
る。1+1=2という計算(足し算)によって行動がきめられ
ていく。このあたりが三島文学の面白みのなさではないか。

 対極にあるのがカズオ・イシグロの小説「浮き世の画家」の
主人公。戦前は著明な画家であった男が、戦争を賛美した絵を
書いたことにより世間と疎遠になり、戦後はひっそりと暮らし
ている。ところが娘の縁談が持ち上がると、自分の過去によっ
て破談になるのではないかと恐れ、昔の友人たちのところひと
りひとり訪ね、自分と友人との関係を確認していくというもの
だ。(手許に本がないため、間違っていたらごめんなさい)

 ここに登場する老画家は、自分とは他人の意識のうえに構築
される自分の像であると思っているらしい。日本人の自我とい
うものは、実際このようなものかもしれない。

 深く深く穴をほっていくというのは、人間関係(世間)を広
げることであり、できた穴の壁面に「人さまがどう思っている
か」「ひと様にどう思われているか」のタイルが張られる。我
々はタイルがよごれないように、対人関係の維持保全に日夜勤
めなければならない。面倒臭い作業だが、これを怠ると、自分
がなくなるから、旅行のたびにお土産を買い漁り、盆暮れには
贈り物を送るという慣習があるのではなかろうか。

 このような自我形成・自我保全が日本人的な自我であるとす
れば、地域共同体や親戚付き合いや会社一家主義が薄まった今
日において、自我(日本的な意味での)の危機に陥っている人
が増えているのかもしれない。ちょっとやそっとでは西欧的な
足し算の自我を身につけることはできないので、引き算の自我
(世間と交わる自分)もなく、足し算的自我(自分とは何か説
明できるもの)もない。


ー4ー 近松門左衛門「心中天網島」にみる引き算的行動様式

 引き算的な行動様式の例として、たとえば近松門左衛門の
「心中天網島」に登場する女郎小春と女房おさんの心理。(手許
に資料がないため、人名や筋書きが間違っているかもしれません。
御容赦ください)

 紙屋治兵衛が女郎小春に入れあげて商売が傾いてしまったため、
女房おさんは秘かに小春に治兵衛と別れれくれるよう手紙を送る。
それを読んだ小春は、治兵衛と別れる決意をし、別の男の身請け
話を受諾する。

 おさんは、小春と別れて沈みこんだ治兵衛から、小春が別の男
のもとに身請けされるという話を聞くと、小春は自殺するに違い
ないと思う。そして、小春が身を引いたのは自分が出した手紙の
せいであると治兵衛に打ち明け、家中の有り金を集めて小春を身
請けすることにする。治兵衛がおさんに「お前はどうするのか」
と聞くと、おさんは「女中にでもしていただいて子供の面倒をみ
ます」という。

 治兵衛は、有り金をもって女郎屋に行くが、身請けするには金
が足りない。小春と治兵衛は、死出の旅路につき、心中して果て
る。

 このストーリーは、合理的には説明できない。小春は、おさん
の手紙をもらうと、手切れ金を要求することもなく、何も言わず
に身を引く決意をし、治兵衛への操をたてるために自決を決意す
る。小春の心中を察したおさんは、自分には関係ないわとそ知ら
ぬ顔をするわけではなく、今度は自分が身を引いて小春を生かそ
うとする。治兵衛と小春は、自分たちがいっしょに暮らせないと
わかると、流浪の生活に逃亡することなく心中する。

 近代合理主義的に考えると、心中天網島の生き方は、不条理で、
わけのわからない、非近代的なものに感じられるかもしれない。
命が一番大切とか、妻の権利とか、そんなお題目とは無縁の世界
である。

 それにしても、日本人は心中が好きだ。数年前の直木賞は「赤
目四十八滝心中未遂」だった。テレビドラマ「高校教師」のエン
ディングも心中だった。

 小林恭二の小説「ゼウスガーデン衰亡記」には、心中を見せ物
とする場面が登場する。たしかに、生まれも育ちも異なる二人の
人間が一度に同じ場所で死ぬというのは、どのような人間にとっ
ても、絶対に一生に一回きりしかできない、言葉通り命がけの、
一世一代の大イベントであり、スペクタクルになりうるかもしれ
ない。

 よくよく考えてみると、「引く」という態度は、そこにないも
のを求めるのではなく、すでにそこにあるものを減らす行為であ
るため、絶対に確実に実行することができる。不確かなものが排
除されていて、いさぎよい。

(サミュエル・ベケットの「ゴドーを待ちながら」は、だらだら
とゴドーを待ち続けるだけの芝居だが、キリスト教的な絶対神は、
概念でしかないため、いくら待っても絶対に姿を現さない)

 ないものを夢見るのではなく、あるもののなかでいかによく生
きるか、ここに引き算の美しさがある。


ー5ー まずは自分の身体から

「ブレイクワイフ」の中で、唯一自分で道を切り開いたのは、マ
マさんバレーを始めた女性だった。

 私自身、9年前にパリのユネスコで勤務したころ、せっかく会
社をやめて国連で働くつもりだったのに、仕事らしい仕事がなく、
その上、信頼して相談できる相手も見つからず、自己喪失の危機
に陥ったことがある。そのときに、妻が「日本の武道でも始めた
ら」と助言してくれたことをきっかけに、合気道を始めた。

 そのときに、どれほど孤立しようが、誰も救ってくれなくても、
自分の手や足は自分の思い通りに動かせるということは、すばら
しいことだ、と感じた。
 
 途方もない夢を追いかけるのではなく、まず手近なところから、
自分肉体的精神的健康を獲得し、それから家族のことや回りの人
たちのことを思い遣る、そんなアプローチがいいのかもしれない。

得丸久文(2000.05.13)

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