175.身体感覚を蘇らせた憲法論議を



憲法調査会で憲法制定に携わったアメリカ人の証言があったと
新聞に報道されていました。

「世界のモデルになる憲法だから改正されなかった」という発
言もあったようですが、私はそうは思いません。

なぜなら大日本帝国憲法も、改正されなかったという点では、現
行憲法以上の記録をもつからです。大日本帝国憲法も世界のモデ
ルだといってもいいのでしょうか。

私は憲法と日本人との間の関係性に興味があります。以下は私の
試論です。ご意見を賜れば幸いです。


得丸久文
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2000年5月3日 憲法記念の日に

 護憲でもなく、改憲でもなく、身体感覚を蘇らせた憲法論議を

1 身体と憲法の間のギャップを肌で感じる

 昭和34年生まれの私は、学校で日本国憲法は一番大切な法律だと
習った。大学で法学部に進んで「憲法」の授業を受講したものの、
憲法と自分の関係性、憲法と日本社会の関係性が、どうにもつかめ
ないでいた。

 とくに「民主主義」とは何か、どのような具体的な行為や意識が
民主主義なのか、自分は主権者なのかどうかの理解には苦しんだ。
民が主であるというわりには、民はないがしろにされ、政策決定過
程に組み込まれていないという印象をもっていた。

 日本国憲法が素晴らしい法律であるとするならば、それをていね
いに読んで、自分の意識の上に憲法条文を根付かせてみるといいか
もしれない、と思って、実際に条文を何回も何回も繰りかえし読ん
だ。

 1986年から一年間語学研修の為に南フランスに滞在していた時に、
憲法第12条前段の「この憲法が国民に保障する自由および権利は、
国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」とい
う条項に気付いた。これを読んで、「そうだ、努力が足りないのだ」
と思って、日本に帰国して後に市民運動にも参加してみたが、なん
となくそのような行為がむなしく思えた。

 二度目のフランス滞在(1991-93)のときに、私は国際機関の中で自
己喪失の危機に陥り、そのときに岡倉天心「茶の本」や内村鑑三
「代表的日本人」と出会って、日本には西洋的価値観とはまったく
異なる美意識や行動様式がある(あった)ことを知った。

 その結果、日本国憲法と自分の間には確かなギャップがあると思う
ようになり、日本国憲法が日本人の歴史や文化に無理解な進駐軍がく
れた着丈もそで丈も大きすぎるぶかぶかの洋服に感じられた。


2 カメレオン国家=日本

 その後ロンドンで4年暮らした(1993-97)。

 いまだに階級社会の色濃いイギリス社会を見ていると、明治以降の
日本の「和魂洋才」の西欧化における「和魂洋才」の本当の意味は、
表向きだけは洋風にして一刻も早い条約改正を実現しなければならな
い(戦後は、アメリカの不信を拭わなければならない)が、それは表面
的な制度だけにとどめておいて、内実は日本の伝統的なやり方を踏襲
するという、内外で態度を切り替えるというものではなかったかと思
い至った。

 たとえば名刺の表は縦書きにして名字名前の順番にしておいて、裏
はローマ字で横書きにして名前名字と欧風の順番に入れ替えて何の不
思議さも感じないという意識構造は、欧米人の前では彼らの流儀に従
い、日本人同士では日本的しきたりを守るという態度がすっかり身体
に染み付いた結果であるといえる。

 これはよくいえば相手に合わせる行為である。実際に外国の都市の
名前を日本人ほど現地の発音に忠実たろうとしている民族はいないの
ではないか。わざと相手を欺こうとして、名刺の表と裏で姓名の語順
を入れ替えているばかりとは思えない。

 あるいは会社の労働組合で、非管理職の間は組合員で、管理職にな
ると組合員でなくなるという慣行は、日本にはあってもイギリスには
存在しない。イギリスでは一旦職工で入社すると定年まで同じ仕事と
給与待遇で、やめるまでずっと組合員のままだ。

 ヒラで入社して、雑巾がけや廊下トンビなどの下積みをして、社内
で徐々に役職が上がっていくというのは、階級の存在しない日本なら
ではのもの。この慣行と労働組合を整合させるために「非管理職の間
だけ組合員」という制度ができたのではないか。これも西欧列強の慣
行に合わせようとする気持ちから出たものではなかったか。

 日本はカメレオンのように周りの色に自分の体色を変えて、身を守
ってきた。このカメレオン性は、周辺国家日本ならではの行動様式だ
ろうが、日本の現代史にまで一貫して流れている。たとえば自社55年
体制も、米ソ冷戦構造に保護色化するためのカメレオン現象だったの
ではないか。その証拠に冷戦が終結するやいなや55年体制も崩壊した。


3 日本にとって憲法は、お飾りでしかない

 そのようなことを考えていたときに、中川剛さんの「日本人の法感
覚」に出会い、さらに「憲法を読む」を読むという僥倖を得た。

 つまるところ、大日本帝国憲法も日本国憲法も、「不磨の大典」と
して神棚に飾られていた。それは、日本人がそれを欧米諸国との付き
合い上備えておかなければならないと思っていたから。内容にはこだ
わらない、憲法を持っていること自体が大切だったのだ。日本人が両
憲法をいい法律だと思っていたからではない。そもそも憲法なんて誰
も読まないものと相場がきまっていたのだ。

 法律として比べると、日本国憲法と大日本帝国憲法の間に大差はな
い。日本国憲法になって民主主義が実現したとする学校の教育は過度
に誇張されている。片や国民主権、片や天皇主権と言われるが、実質
的には国民も天皇も政治的な決定権をもっていなかったという点では
変わりなかった。

 どちらも日本的な政治文化や法慣習をいっさい反映していないとい
う点で、非日本的な法律である。

 ただ憲法は単なるお飾りにして祭り上げて、内実は日本的な政治の
やりかたをきちんととってきていたから、問題は生じなかったのだ。


4 ボーダーレス時代の憲法はどうあるべきか

 今日、憲法調査会が開かれ、改憲が議論されるようになったが、日
本社会において憲法が果たした役割(欧米社会との同質性を偽装するた
めの単なる「お飾り」)を冷静に評価しないことには、誤った結論を導
くことになるだろう。

 たとえば小選挙区制の導入のように、日本社会にはまったく適さな
い制度なり法律を、誤って導入することになりかねない。(英国では
いまだに階級によって支持政党の異なっている度合いが大きいが、日
本の場合には、自民、社会、自由などの政党支持がプロ野球球団支持
と同じくらい趣味的であり、そもそも階級利益を代弁する政党政治の
必要性がないのである。)

 ボーダーレス時代の今日、いつまでも国内と海外で態度を使い分け
ることはできない。

 かといって、英語を公用語にして、欧米流のやり方を日本のすみず
みまでひろく行き渡らせることがいいことかどうかわからない。

 欧米社会の荒廃ぶりを見ると、まだ日本社会のほうが、治安もよく、
各種手習いごとを終身にわたって続けている庶民が多い様子様などは、
理想的な社会に近いといって過言はない。

 むしろ日本人がこれまでホンネの部分で政治や社会を運営してきた
やり方を自覚して、どうすればより幸福で文化的な社会を築けるのか、
どうすれば隣人(韓国、北朝鮮、中国、ロシア、アメリカ、オーストラ
リア、東南アジア諸国など)たちと仲良く暮らしていけるのか、既存の
概念にとらわれることなく、考えてみることが大切なのではないかと
思う。

 今はなくしてしまったかもしれないが、かつては確かに存在した日
本的な智恵を、どのような形でグローバルに提案していくかというこ
とが問われているのではないか。
(終わり)
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(Fのコメント)
 憲法論議のもう1つの問題を提示している。日本人が憲法を飾りと
考えている。その通りの部分がある。憲法解釈で逃げる。
このため、憲法上の日本語用法は、普通の日本語用法と違うことになる。
日本人はそれをいいと思っている。いいか悪いかは別ですが。

 この背景は、大宝律令などの律令が、明治まで1000年以上、
日本の律令制を保ったことによるのです。この律令制を破棄しなかった。
今、この感覚で憲法を見ている可能性がある。

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