174.「ある」ものとしてではなく、「作り出す」ものとしての家族



ーーーきまぐれ読書案内ーーー 

石川結貴著「ブレイク・ワイフ」扶桑社、1999年

ー1ー 
 30歳代のサラリーマンをターゲットにしていると思しき
週刊 SPA の連載コラムの中で、いつも気になるのが石川
結貴の「ブレイク・ワイフ」だ。

 記事の内容は、首都圏の新興住宅街に生活する若い主婦た
ちの不満や不安、心の葛藤が中心。短い記事の中に、本音が
語られている。
 
 記事の下には、読者である主婦たち(夫が買って帰ったSPA
を読んでいるのだろうか、自分で買うのだろうか)から送られ
てくる「私の好きな場所」という写真も掲載されているのだ
が、この「場所」がなぜかいつもとても寂しく私には感じられ
て、主婦たちの心の内が気になってしまう。

 週刊誌の連載をまとめて昨年4月に本にしたものを、ゴー
ルデンウィークに読んでみた。

ー2ー 妻の問題、夫の問題

 寂しい妻たち。夫との性生活は拒否される。相談事をもち
かけても、上の空か、君のすきなようにしろと言われるか、
うるさい、仕事で大変なんだから勘弁してくれ、と突き放さ
れる。

 夫にとって自分は、家政婦以上の存在ではないと感じる。
このままセックスなしで死んでいくのだろうか、と不安にな
る。

 子供は、自分にまとわりついてくる。夫が子供を欲しがっ
たのに、生まれるとほっぽらかし。母親同士のつきあいでは、
○○ちゃんママという名前でしか呼ばれなくなる。だんだん
と自分という存在がなくなってしまう。

 知らず知らずのうちにわが子を虐待してしまう。だが、ど
この誰に相談すれば状況が変わるのかもわからない。

 首都近郊の住宅街には、心をときめかせる対象はあまりな
い。心を安らげてくれる並木道もなければ、傷付いた心を癒
してくれる地下のジャズ喫茶もない。いやたとえそのような
場所を知っていても、子供がいては入れない。

 結局、寂しい妻たちの心の隙き間を埋めるのは、マルチ商
法まがいのネットワークセールスから、テレクラ、新興宗教
などなど。ありうはアルコールに依存する、パソコン通信に
はまる、お受験に熱をあげる、などなど。

 でも、それらはけっして本質的な解決は与えてくれない。
彼女たちの問題は、孤独なのだ。夫の理解や協力なしに、
何も解決するわけがない。だが、夫たちは、妻の不安や不満
を意識的無意識的に「知らない」ですませようとする。

 長距離通勤、残業、職場の人間関係で疲れ切っているとい
うこともあるのだろうが、どちらかというと逃避か甘えでは
ないかとも思える。彼らは家庭の事にはなるべく関わらず、
睡眠と栄養の補給基地としてのみ家庭を利用する。

 妻たちは夫次第で救われたに違いないと思う。問題を抱え
ている妻と、同じ数だけの夫が問題から逃避するか無理解で
あるのだ。 

ー3ー 生きるパワーが失われ、人生の目標がすり替えられ

 公園ママのグループ内の閉鎖性は、猿山のサルよりひどい。
狭量で最低限の社会性すらない。しかし排他的なグループを
組織している主婦たちの心性を知るともっとさびしくなる。
「何よりも感じるのは、みんなもうパワーないんですよ。同
じような生活を繰り返していると変化が恐くなるんですね。
だから無気力のまま何となく団体行動していたら安心みたい
に考えてしまう」消極的な団体性。

 なんか救いがない。生きているのか死んでいるのかがわか
らないというか。でも、この無気力に流される感覚は、なに
も妻たちの専売特許ではない。会社のサラリーマンの中にも
同じような思いで日々くらしている人間もいるはずだ。妻を
家庭にほっぽらかしにして、テレクラで別の女の電話を待つ
夫たちがいるらしいことも紹介されている。

 向上心のあるエリート女性の場合には、気力がある分だけ
悩みも大きくなる。男女平等の総合職を辞めて家庭に入ると、
とたんに妻と母だけの存在に変わってしまう。付き合う人間
の量も質も急激に下がる。サラリーマンが定年で名刺を失っ
てたじろぐのと似た気持ちもあるだろうか。

 この環境の変化に妻たちは思い悩む。「なぜ自分は良き妻
になれないのか。あるいは良き妻、良き母をしていても、ど
うして私はこんなにむなしいのか」という切実な悩み。だが
夫も親も誰もこの素朴な疑問に答えてくれない。

 子供のころから、「あなたはお勉強だけしていればいいの
よ」と親に言われ続けてきたのに、結婚したとたんに、「ち
ゃんと家事してるの。だんな様のいうこと、よく聞いて」と
同じ親から言われるようになる。自分は何のために勉強して
きたのか、騙された気持ちになる、という。

 全編を通じて妻たちのやりきれない、さびしい、むなしい
思いが直接話法で紹介される。簡単に解決策が見出せるよう
には感じられない。

ー4ー 妻よ、ブレイクせよ

 本書中で紹介されている唯一の救われた(?)事例は、ママ
さんバレーに参加して友だちを作っていった女性くらいか。
悩んだら、一旦その悩みを忘れて、まず体を動かしてみると
いいのかも。

 あとはみんなもがいてももがいても救いが得られず、さら
に深みにはまるのではないかと心配になるような事例ばかり。

 だが、希望というものは徹底的な絶望を乗り越えなければ
生まれない。その意味でこの本は希望の書だと思う。妻たち
が自分の不満や不安と直面することからしか、現状の打開は
できないだろう。

 実は「ブレイク・ワイフ」というタイトルは、「壊れる(自
己崩壊する)妻」という意味のほかに、「壊す(自己の殻を打
ち破る)妻」という意味も込められているそうだ。「ブレイク、
ワイフ(妻よ、壊せ)」ということだろう。

ー5ー 家族の殻をブレイクする時

 本書を読み終わって、妻たちの問題は、家族の崩壊の問題
であるという印象をもつ。妻が苦しんでいるのと同じ数だけ
のパートナー(夫)たちが、自覚の有無は別として家庭の危機
に直面しているのだから。

 ひとくちで「家族の崩壊」というが、それはまるで家族と
いうものが、まず存在していて、それが壊れていくような印
象を与える。

 実はオスとメスがくっついて、生殖活動を行って、コドモ
が生まれたからといって、自動的に家族が機能すると期待す
ること自体が間違っているのではないか。

 ましてや、現代のように女性の社会進出や核家族化が進ん
でしまった時代というのは、人類にとって未曾有である。そ
のような時代に、自分の子供時代や親のやってきたことは、
まったく参考にならないのではないか。

 今の時代は、どこにも手本がない時代。自分自身で切り開
いていくほかない時代。このような孤立無援な状況にいると
いうことを、自覚するべきだ。

 人間にとって、社会生活はぜったいに必要なものだ。その
ときに家族は、個人が属する上ではもっとも小さく身近な共
同体、生活をともにする仲間として、個人の自我と広い世間
の中間領域に位置する。

 家族は、明らかに自分の意識を越えた範囲に存在している
という点では、社会なのだが、子供の期間は甘えが許された
り、何の気兼ねも遠慮もなく無防備になれるという点では、
自我の延長のようなところもある。

 必要なのは、家族を作り出す意志である。作り出すものと
して家族を認識することだ。

 個人としてのそれぞれ別の人間同士が、ひとつの家族とい
う共同体に参加することによって、ぶつかり合い、けんかし
あい、傷つけあい、そして思い遣りあい、助け合い、守りあ
い、尊重しあい、といった行為の結果に、いつしか共同自我
のようなものがだんだんと形をなしてくるのではないか。

 著者は二人の子供を連れて1年間別居した後に、再び同居
を始め、日々夫と対決している自分自身の体験を、現在進行
形のまま提示してくれる。ここに解決への糸口があるように
感じた。

 作り出す共同自我のようなものとして家族を定義し、認識
すること、そのようにして家族を作り出すだけの精神力と体
力と技術と忍耐を身につけることによって、私たちは現状を
ブレイクしなければならないのだろう。

 そもそも今のような核家族の時代に、家族の単位をお父さ
んとお母さんと子供という必要最小限の人数で、余分な人員
がまったく存在しない(失敗の許されない)切羽詰まって孤立
した単位に求めること自体が間違っているのかもしれない。

 オウム真理教などの新興宗教に、少なからぬ数の人間が救
いを求めて集っていることには、そのような時代を反映して
いる。

 寺山修司はかつて「おふくろの味」信仰をこう批判した。

  かつて、私の少年時代に「愛国心とは、よその国を憎む
 こと」であった。そして、「わが家を愛すること、家族を
 愛することは、よその家を愛さないこと、他人を排除する
 こと」であった。
  マイホームによって隔離された食卓の幸福の閉鎖性を解
 体し、町中のいたるところに食卓がある社会を夢想するた
 めに、子どもたちが外食を望んでいることは、ささやかな
 希望だと言っておくべきだろう。
	(「おふくろの味を踏みこえて」)

 さきごろ福岡で、御飯をつくってくれない母親を誤って殺
してしまった中学生の兄弟のことが報道されていたが、彼ら
をとにもかくにもぎゅっと抱き締めて、暖かい御飯を食べさ
せてあげたいと思った人もいたことだろう。核家族の機能不
全によって苦しんでいる人たちを救うことのできる社会を築
きたいと思う。

得丸久文(2000.05.03)
============================
(Fの感想)
 17歳の多感な青年たちが、凶悪犯になるのは戦後教育や
家庭に問題があるはず。その問題の家庭編になっている。
今後も、家庭と教育に焦点を当てて分析が必要でしょう。

 家族が崩れていく。これは、祖先と繋がる自分という感覚を
母親が、持てなくなったことによるのではないでしょうか??
戦後教育の個人主義は大きな問題があると思う。利己主義に
家族全員がなり、特に両親がそうなっているのが問題だ。

コラム目次に戻る
トップページに戻る