2546.レバノン内戦の危機



レバノンが内戦の危機にある。この検討。    Fより

11月30日、いまや野党連合の総指揮官とも言うべきナスララ師
は遂に首都ベイルートにおける無期限デモ開始を宣言する。
イラク戦争で米国の敗色は濃厚で、米国はイランやシリアと話し合
いをする必要に迫られている。力でヒズボッラーを武装解除しよう
とするイスラエルは武装解除の国連決議までは行ったが、しかし惨
憺たる失敗に終わろうとしている。

親シリアのヒズボラは、シーア派の閣僚を辞任させて、ハリリ元首
相暗殺事件を裁く国際法廷を邪魔し、かつ今の反シリアのシニオラ
首相政権を倒そうとして、無期限座り込みデモに突入した。この親
シリアにはマロン派キリスト教のラフード大統領も居て、シーア派
と大統領が共闘し、スンニ派のシニオラ首相とキリスト教と2分さ
れている。

数の上ではシニオラ首相政権が優位であるが、親シリア野党は、ダ
ウンタウンの集会場にテント500張以上を設置。簡易トイレや給
水車も設置して、長期間座り込みを続ける体制を整えた。
一方、首相府にはシニオラ以下10数名の閣僚が寝泊りを続け事実
上の篭城状態だ。

与党支持の一般市民は、対抗のデモなどを予定していず、平静な日
常生活を勤めて送っている。しかし、今後、この与党支持者と野党
支持者の激突も予想され、どうなるか行方が見えない。
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ヒズボラが倒閣へ座り込みデモを開始(サンケイ)
現政権下での国際法廷設置で摩擦
民主主義受け入れの基本的スタンスないアラブ世界

 レバノンのイラン系イスラム教シーア派過激組織ヒズボラは一日
から、「シリアの操り人形」と揶揄(やゆ)されるラフード大統領
ら親シリア派グループを巻き込み、座り込み戦術を含めた大規模デ
モを開始、反シリア派の現政権打倒を目指して、強い姿勢で揺さぶ
りを掛けている。(カイロ・鈴木眞吉)

 ヒズボラを主勢力とする親シリア派勢力が始めた大規模デモは、
当初十一月下旬に行われる予定だった。しかし、反シリアのキリス
ト教マロン派系政党ファランヘ党を率いるピエール・ジュマイエル
産業相暗殺事件が十一月二十一日に発生、ヒズボラ自身が事件への
関与を疑われたこともあって、反シリア派との衝突を避ける意味合
いから延期されていた。
 同デモの目的は、シニオラ現政権を打倒することにある。その理
由の一つは、シリアが関与したと国際社会からも疑われている
二〇〇五年二月発生のハリリ元首相暗殺事件を裁く国際法廷が、現
シニオラ政権下で、設置される可能性があるからだ。事実、同内閣
は十一月二十五日、閣議で設置に関する国連提案を承認した。

 イランとシリアの支援を受けるヒズボラは設置反対が本音。しか
し、表向き反対できないことから、シニオラ内閣の総辞職と親シリ
ア派を増やした「挙国一致内閣」の樹立を要求、国際法廷設置を葬
り去ることをもくろんでいる。

 この目的で、十一月中旬には親シリア派の閣僚六人が辞任した。
二十四人いる閣僚の三分の一が不在となれば内閣は総辞職となる規
定があることから、産業相の死亡により、もう一人の閣僚が欠けれ
ばシニオラ内閣は崩壊することになる。もう一人の閣僚が殺害され
たり、辞任したりすれば、同内閣は崩壊する。まさに瀬戸際に立た
されている。

 国際法廷の発足には、レバノン国会とラフード大統領の承認が必
要であることから、反シリア派の思い通りに事が進むかどうかは予
断を許さない。なぜなら、議案の決定権を持つ親シリア派のベリ議
長(シーア派)は、親シリア派閣僚六人を欠いた内閣による決定は
違憲との立場を取っており、ラフード大統領も「違憲で無効」との
立場を取っているからだ。

 今回のデモは、デモ隊がそのまま座り込み、倒閣まで無期限に続
けるという「ごり押し的」実力行使を伴ったもの。ヒズボラの幹部
カッセム氏は一日、「政権が倒れるまで行動を継続する」と言明し
た。デモ隊の一部は一日、首相府に通じる三本の通りを封鎖して、
首相府を約三時間にわたって完全包囲する挙に出た。隠然たる武力
を背景に、「力ずくでも政権を奪取する」というやり方は、ヒズボ
ラの非民主主義的で、横暴な性格の表れとみることもできよう。座
り込みデモは既に一週間以上も続いている。

 反シリア派のシニオラ首相は三十日夜、このヒズボラ主導のデモ
について、「クーデター行為」だとして非難した。

 米国務省のケーシー副報道官も、同デモを主導したヒズボラとと
もに、シリアとイランを、「レバノンを不安定化させようとしてい
る」と名指しで批判した。

 欧米先進国など民主主義国家には評判の悪いヒズボラだが、アラ
ブ諸国民の間で同組織を悪く言う人をほとんど見掛けない。民主主
義実現よりも対イスラエル闘争の方がより大きい現実となっている
からだ。その点で、イスラエル・パレスチナ問題の解決なくして、
中東に自由と民主主義がもたらされないとの主張は説得力がある。

 ただ、アラブ・イスラム世界に蔓延(まんえん)する偏屈な宗教
的発想も、自由と民主主義の浸透を事実上阻んでおり、王国や独裁
国家による情報閉鎖の現実とも相まって、同世界には自由な発想に
基づく個の確立ができない状況にある。民主主義を受け入れる基本
的スタンスがないというのが実態だ。

最近のレバノン情勢

11月中旬 親シリア派閣僚6人が辞任
  19日 ヒズボラのナスララ師、シニオラ政権打倒を目指す大衆
     行動を呼びかけ
  21日 ピエール・ジュマイエル産業相、暗殺
     国連安保理、議長声明で暗殺を非難
     国連安保理、ハリリ元首相暗殺事件を裁く国際法廷の設
     置規定を承認
     米大統領、シリアとイランがレバノン情勢の不安定化を
     図っていると非難
  25日 シニオラ内閣、ハリリ元首相暗殺事件に関する国際法廷
     の設置に関する国連提案を承認
12月1日 レバノンのイラン系イスラム教シーア派過激組織ヒズボ
     ラを中心とする親シリア派が、反シリア派の現内閣打倒
     に向けた数十万人規模のデモを開始
  3日 反シリア派と親シリア派との間で投石や殴り合いなどの
     衝突。シーア派の男性1人が銃殺
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レバノンの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1975年から1990年代にかけての詳細はレバノン内戦も参照

古代はフェニキア人の故地であった。この地からフェニキア人は地
中海を渡り植民地を形成した。その後勢力が弱体化し、アッシリア
帝国に飲み込まれた。その後民族としてのフェニキア人は消滅した
と言われている。古代末期にはローマ帝国に征服され、中世にはイ
スラム世界に組み込まれた。

レバノンは歴史的にはシリア地方の一部であったが、山岳地帯は西
アジア地域の宗教的マイノリティの避難場所となり、キリスト教の
マロン派、イスラム教のドルーズ派がレバノン山地に移住して、オ
スマン帝国からも自治を認められて独自の共同体を維持してきた。
19世紀頃からマロン派に影響力を持つカトリック教会を通じてヨー
ロッパ諸国の影響力が浸透し、レバノンは地域的なまとまりを形成
し始める一方、宗派の枠を越えたアラブ民族主義の中心地ともなっ
た。

第一次世界大戦後、フランスの委任統治下に入り、キリスト教徒が
多くフランスにとって統治しやすかったレバノン山地はシリアから
切り離されて、現在のレバノンの領域にあたるフランス委任統治領
レバノンとなった。この結果、レバノンはこの地域に歴史的に根付
いたマロン派、東方正教会と、カトリック、プロテスタントを合計
したキリスト教徒の割合が35%を越え、シーア派、スンナ派などの他
宗派に優越するようになった。現在でもフランスとの緊密な関係を
維持している。

第二次世界大戦中にレバノンは独立を達成し、金融・観光などの分
野で国際市場に進出して経済を急成長させたが、PLOの流入によっ
て微妙な宗教宗派間のバランスが崩れ、1975〜76年にかけて内戦が
発生した(レバノン内戦)。隣国シリアの軍が平和維持軍として進
駐したが、1978年にはイスラエル軍が侵攻して混乱に拍車をかけ、
各宗教宗派の武装勢力が群雄割拠する乱世となった。混乱の中で、
周辺各国や米国や欧州、ソ連など大国の思惑も入り乱れて、内戦終
結後も断続的に紛争が続いたため、国土は非常に荒廃した。また、
シリアやイスラム革命を遂げたイランの支援を受けたヒズボラなど
過激派が勢力を伸ばした。

1982年、レバノンの武装勢力から攻撃を受けたとしてイスラエル軍
は南部から越境して再侵攻、西ベイルートを占領した(レバノン戦
争・ガリラヤの平和作戦)。イスラエルはPLO追放後に撤収したが、
南部国境地帯には親イスラエルの勢力を配し、半占領下に置いた。
この混乱を収めるために米英仏などの多国籍軍が進駐したが、イス
ラム勢力の自爆攻撃によって多数の兵士を失い、一部でシリア軍と
米軍の戦闘に発展した。結局、多国籍軍は数年で撤収し、レバノン
介入の困難さを世界へ示すことになった。

1990年にシリア軍が再侵攻、紛争を鎮圧し、シリアの実質的支配下
に置かれた。シリアの駐留は一応レバノンに安定をもたらしたもの
の、ヒズボラに対する援助やテロの容認など、国際的な批判をうけ
た。シリアが撤退するまでの約15年間は「パックス・シリアナ(シ
リアによる平和)」とも呼ばれる。現在も政府高官を含めシリアの
影響は強い。

1996年にイスラエル国内で連続爆弾テロが発生し、ヒズボラの犯行
としたイスラエル軍はレバノン南部を空襲した(怒りのブドウ作戦
)。この時、レバノンで難民救援活動を行っていた国連レバノン暫
定駐留軍フィジー軍部隊のキャンプが集中砲撃され、イスラエルは
非難された。イスラエル軍は2000年に南部から撤収するが、空白地
帯に素早くヒズボラが展開し、イスラエルに対する攻撃を行ってい
る。

2005年2月14日にレバノン経済を立て直したラフィーク・ハリーリー
前首相が爆弾テロにより暗殺、政情は悪化し、政府と国民との軋轢
も拡大した。その要因となったシリア軍のレバノン駐留に対し、国
際世論も同調し、シリア軍撤退に向けての動きも強まり、シリア軍
は同年4月に撤退した。

2006年7月にヒズボラがイスラエル兵士2名を拉致、イスラエル軍は
報復として7月12日に南部の発電所などを空爆した(参照:レバノン
侵攻 (2006年))。続いて空爆は全土に拡大されてラフィク・ハリ
リ国際空港など公共施設が被災、ベイルートは海上封鎖された。
7月22日には地上軍が侵攻し、南部の2村が占領された。7月27日、
国連レバノン暫定軍の施設が空爆され、国連職員4人が死亡した。
7月30日にカナが空爆され54人が死亡する。イスラエル軍がレバノ
ン南部での空爆を48時間停止することに同意。8月2日空爆再開。
8月7日レバノン政府がイスラエル軍の攻撃による死者が1000人に達
したと発表。8月13日にイスラエル・レバノン両政府が停戦決議(国
連安全保障理事会)受け入れを表明。8月14日停戦が発効し、
10月1日にイスラエル軍が撤収した。

レバノンの政治
憲法により、宗派ごとに政治権力を分散する体制が取られており、
国会の議員数も各宗派人口数に応じて定められている。キリスト教
マロン派は34人、イスラム教スンナ派は27人、イスラム教シーア派
は27人などである。大統領はマロン派、首相はスンナ派、国会議長
はシーア派から選出されるのが慣例となっている。


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