2511.江戸の思想3(大蔵永常)



今回は、農学者、農業ジャーナリストで農家の安定的な経営を目指
した大蔵永常を見たい。Fより

江戸時代農業の特徴は、商品作物の多様な発展があることで、その
仕掛け人が大蔵永常(おおくらながつね)である。

1768−1860 宮崎安貞 佐藤信渕とともに江戸時代の三大農学者の一
人。明和5年日田郡隈町(日田市隈2丁目)に生まれ、安政7年(万延
元年、1860)江戸で没す。行年93。

永常の祖父伝兵衛は綿屋と称して、町はずれに畑を持ち綿を栽培し
て、その実から 繰綿(くりわた)を製造販売していた。伝兵衛は農業
にくわしく特に綿作りには精通していて、「農作はただ仕事であっ
てはいけない。わが子を育てるという心が大事だ。」と教えた。

永常も祖父の死後鍋屋に奉公した。年少のころから読み書きを習い
読書が好きだった永常は向学の心しきりで師匠について学ぶ。これ
を見た父は、学問は悪いことではないが百姓は働くことが第一だ。
読書をしてはいけないと禁じ、師匠に息子が来ても教えないで欲し
いと頼んだ。

このことがあって永常は書物による学問はあきらめたが、物事をよ
く観察し人の話を聞いて吸収する実地の学問につとめるようになっ
た。伊助も愚直一方ではなく、仕事については研究熱心な職人肌の
人物で製 蝋(ろう)の技術にすぐれ、蝋の原料となる 櫨(はぜ)の植
栽についてもくわしかった。

日田では天明3年(1783)と同7年に、飢えに苦しむ農民が大勢町に
出てきて富商から 粥(かゆ)を恵まれるいたましい状態を、永常は目
のあたりにした。米や麦をつくる農民が飢えて町に出て町の人々に
食を恵んでもらう姿は永常に強い印象を与えた。

金銭をもっている商人が、自給自足の生活をしている農民に食を与
える姿を見て、永常は農民も換金性のある作物で収入の増大をはか
ることが必要であると痛感した。

永常はまず九州各地を働きながら転々として、農作物やその加工の
知識 技術を習得していった。ある時期に薩摩に潜入して藩が秘密に
していた 甘蔗(かんしょ)の栽培や三島流という新しい製糖法を身に
つけている。

享和2年(1802)苦心の『 農家益 』3巻を刊行した。35歳の時であ
る。為政者に副業の利を説き、ハゼの栽培や製蝋について力説した。
永常は農学者として有名になったが、勉学の必要を感じ、大坂にい
た 蘭学者 橋本宗吉について植物学 生理学などの手ほどきを受けた。

西洋の化学の知識を基にして肥料について科学的に説明した『農家
肥培論』の再版と『農家益後編』『豊稼録』を刊行。『後編』の中
で永常は日田の蝋取引や櫨植栽について触れている。

文政8年(1825)江戸に移り専心著述に打ち込む生活に入った。10年
間で11種の著作を刊行。天保4年以後田中藩 田原藩、水野忠邦の浜
松藩で土地に応じた殖産興業の指導に尽力した。永常の著作は57年
間に35種。文章が平易で、多くのさし絵を入れて分かり易く科学的
である。異彩を放つ著書は『農具便利論』であり、彼の著作の集大
成は『 広益国産考 』である。

永常の所論の特徴は、経験を踏まえての国産論にある。米麦中心の
自給自足型農業から、天候に左右されず、しかも貨幣収入を目指す
経営型農業への転換を主張した。

厖大な彼の著作の中で圧巻は、何といっても特産品づくりのコツを
説いた「国産考」である。(ここで国は藩のこと) 

行政は口を出さず民主導でやれ、ただし行政はマーケットリサーチ
に精を出せと指摘する。多くの失敗の原因を「適地適作の作物でな
いこと。領主側が早く利益をあげようとして費用をかけすぎること。
専売制によって生産者の自由な売買を妨げていること」などをあげ
、そして国を富ませるためにはまず、下の者(民衆)が豊かになり
、その後で領主が利益をあげることを提唱し、「民富」の優先を主
張した。

現在、地方は特産品づくりのノウハウがほしいはずですが、このノ
ウハウを示す大蔵農学の今日的意義は大きい。


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