2501.社会の液状化を憂う



「個の欲望の追求」ということの為の、社会の液状化を憂う。 
                       虚風老   

教育問題が、大きくクローズアップされてきたの。
教育改革では、「規範の遵守」という言葉もでてきた。
これは、制度による行動の制約をいう。だが、問題は、単なる<学
校教育>だけではないことを、誰もが肌で知っておる。ただ、「決
まりを守りましょう」といっても、そう簡単に人は従うものではな
い、そうであったら、教育なんて楽だし、社会的悪もこれほど出て
はきやしないじゃろうしね。

しかも、本質的解決(つなり学校内にとどまらず、社会としての問
題を解決する方向にもっていくためには)外的な強制力ではなく、
内側(モラル)を強めなければならない。
(ゼロトレランスなどは、内的のことをあきらめて、強制力でとい
うことじゃろう。アメリカ型社会での教育の行き着く先なのじゃろ
うか)
法家主義的=厳格な法の運用と訴訟社会になるのであろうか?しか
し、この方法は実にコストが高いものになる。

学校教育のというのは、知育、徳育、体育という言葉で表わされる
ように、「学力指導」「生活指導」「成長問題」であり、それが、
一体(全人格的不可分)となっておるから、難しいわけじゃ。
まあ、学習塾なら、学力だけを向上させればええわけじゃから、問
題はない。しかし、そこが生活指導や成長問題を取り扱うわけでは
ないからの。

学力指導については、いろんな方法の模索があるし、伸ばす方法は
あるじゃろう。
だが、今根底的に、問題を引き起こし、解決が難しく、しかもそれ
によって、学習態度というものにまで影響を与えているのは、生活
・成長という、「こころ」の問題についてであるわけじゃな。そし
て、こころは、家庭・社会によって多様に形成される。
その多様に形成された「こころ」を学校という集団活動を通じて
「社会化」していくことになる。

しかし、この国の社会が、液状化とも言うべき状態であることの根
底は、個の欲望の追求の礼賛にあるじゃろう。

これは、戦後我々が、民主主義を取り違えたことにもある。
民主主義というのは、<自己決定権>の尊重であり自律・自立によ
る自由(貴族権力・宗教権威の一方的な桎梏から)の行使とそれに
ともなう責任の負担ということであるが、責任というのは、どこか
に転嫁霧消してしまっておる。

そして、その「自由」というのをどこかで、欲望追求の自由=勝手
放埓としてしまった。

例えば、仏教(禅等)では、自由と言う場合、常に、人間は、欲望
や不安に鼻面を引き回されているが、その欲望・不安から自由にな
ることをさしておる。
「欲望の追求」は、一見自由のようにみえて、反対に「欲」にがん
じがらめになることなんじゃがね。

そして、「個が、それぞれの欲を追求することが善」であるという
考え方は、経済システムの考え方としては、新自由主義や、消費文
明、消費を煽るコマーシャリズム、また、テレビ雑誌といった情報
メディアなど、産業経済社会の根幹を成している。

経済成長しなければ、、、うんぬんと言う言葉は、消費しなければ
(させなければ)というメンタリティを促進しておる。
我々が、環境問題を中心に社会矛盾を根本的に解決することが不能
なのは、経済・社会システムが、消費文明の上に乗っておるからじ
ゃともいえる。
江戸時代の「徳」を懐かしむ人がいるけれども、その徳は、島国と
いう限定空間において、基礎的な生産物に制限があって、循環的に
モノを利用するしかなかったことが、ベースにある。
(逆にいえば、宇宙船地球号といわれるように、地球規模での限界
を意識せざるをえなくなった現代から未来では、そのような節制の
徳にもどらざるを得ないのかもしれない)
しかし、その場合、世界のシステムは変更を余儀なくされるが、経
済のシステムは、産業社会や、政治権力と不可分なので、それらが
どう移行されるのはあきらかではない。

というより、完全な破綻がくるまで、その「甘い蜜」を舐めながら
、滝壷に落ちてしまうのではないじゃろうか?(その時落ちるのは
、全員一緒なのだが、自分達(勝ち組み)だけは生き残れると考え
ておる連中がおるのではなかろうか?)

では、このシステムからの離脱は可能であるか?それは、現時点で
は否といえるじゃろう。

共産主義は、理想が、「必要とする人が、必要とするだけ取る」と
いうのならば、すべての人が、修道院のような、聖人なら可能かも
しれないが、根本的に国家レベルの多様な人々には不可能なシステ
ムであることは壮大な実験とその失敗によって、あきらかになった。
その思想を徹底するならば、「思想教育」と呼ばれる苛酷な弾圧と
強制・自由の剥奪になるのは必然であるじゃろう。
しかも、中央がコントロールするわけであるから、それの失敗は避
けがたく、しかも巨大な官僚組織が腐敗するだけ腐敗することは歴
史の法則からみて請け合いじゃな。

個の欲望というのは、それほど生物にとっては「原理的」であるわ
けじゃ。
そうすると、「自由」をどう扱うかが焦点になるじゃろう。
<欲望をどう制御するか?>という、昔からある問題じゃな。

個の欲望を集団に昇華させる道徳に、昔ならば儒教があった。
「孝」とは、血族家族に対して、欲を従わせ、「忠」とは社会秩序
に対して個を溶融させることで、欲を克服し、その個を越えたモノ
は「義」という名で褒賞することによって、心理的葛藤を乗り越え
させる。
しかし、それは、氏族社会=農業などの土地と人の生活が結びつい
た基盤の生産社会の中でしか機能できないじゃろう。「個」が自由
に働く場所や職業を変えていくことが求められる社会では、浮いた
感覚になってしまうおそれがある。
今では、血や地域が粘土のように人々を強く結び付けることができ
ないからの。

「個」が絶対化したところでは、「個」同士の繋がりは、砂粒のよ
うになってしまう。そこで、個の「利益・快楽」に直接的に結びつ
かないところでは、たやすく液状化してしまうというわけじゃ。
これが無責任体質を生み出し、手抜きや、イジメや、ことなかれを
生む。われわれは、「利己主義者」を卑しむが、それは、見えない
形で、野火のように蔓延しておる。ミーイズムとも呼ばれたが、
それらの欠片は、たやすく自分自身にも発見できる。
社会(公共)にたいしての責任を感じない人が増大し、注意をうけ
れば、ガキから、いいとしをした老人まで逆切れするありさまじゃ。

アメリカなどでは、この自立した個人(市民)が積極的に公共を支
える体制を共和主義というのじゃが、日本では民草は、自立した「
市民」というのはあまりいないし、国もいわゆる「市民」というの
を警戒する。まあ、国民という言葉は、国の民がみんな家族的な紐
帯にありますよという感じじゃな。国民も政府もそうゆう関係を望
んできたともいえる。
じゃから、すぐに行政は何にもしてくれないと不満になるし、行政
も事細かに面倒をみようとする。

まあ、アメリカは建国以来「理念」において、人々の枠組みを維持
しよううとしているが、それが、「自由と民主主義」という言葉に
集約され、その伝導に余念が無いといえるじゃろう。まあ、「理性
」というのも、わしゃ「制御システム」の別名であると考えておる
がね。
まあ、日本の保守党の名前が「自由民主党」であるのは、戦後アメ
リカ主導でこの国が変化させられてきたこえとを如実に意味するじ
ゃろう。

日本の平等感を求める感覚は、マルクス主義とも人権主義とも関係
はない。みんな家族内なのだからあまり切り捨てるのはね。という
感覚じゃろう。
大陸国家のような多民族入り交じる、というより「融合民族」であ
る日本が、明治をつくる時に取った「国民製造」計画は、うまくい
ったといえる。その手品の種が「民族の宗家」としての「天皇」の
存在にあるじゃろう。
民族感を日本人は無意識ながらもっておる。(多くは、日本語とい
う他で通じない言葉を使用しているためでもあるし、島国というは
っきりとした境があるからじゃが)
。
今でも懐かしく思われ、使われる「道徳的」という言葉が持つメン
タリティの基礎には「家」があり「村」があったわけじゃ。それを
明治には、そのままの倫理構成を「国家」まで拡大したといえるじ
ゃろう。家や村は自然発生的であるから、この倫理性はわりと生理
性(感覚肌合い)に近いものであったといえるじゃろう。しかし、
その後「人工社会」への転換があった。
それは、「都市」と類似しておる。
モダン(近代)というのは、全社会システムが「都市化」すること
を意味しておった。

教育の<規範>というが、その基礎部分なあり方が、すでに変質し
ておるわけじゃ。
我々が、昔と違う困難な問題にであうのは、社会価値観のアメリカ
化に伴う「アメリカ型社会の病理」ともいえるじゃろう。
欲望(生理)と理念(観念)の矛盾でもある。

「家」のシステムも「村」のシステムも崩壊し、それにかわる基礎
が必要とされる。しかもそれは、産業社会に適合していなければな
らないことになる。
その中で、<個の欲望をどう制御するか>という問題になる。
個の欲望は、集団(社会)の利益とぶつかるから、それによって制
限されるのが普通であるわけじゃが、個のほうに<大きな集団>に
対しての帰属意識と責任が無くなっている。
あるのは、利益と結びついた小さな個人的帰属感が持てる「中集団
」=仲間内への参加意識だけである。いわば、みんなが内向き化し
ている。内以外の外を敵(もしくは関係がないモノ)と考えてはば
からない。

公務員をはじめ、<公>の価値は下がるばかりで、人々が<公>の
為にというメンタリティで結びつけることはとても難しくなってい
る。

時々、いろんな国にもみられるが、外に大きな敵を作って、内をま
とめるという手法はよく見られるもんじゃ。これは人間の生理(心
理)をよく利用しておる。
だが、本当の解決方法とはいえんじゃろう。
わしゃつらつら思うに、右といわれる人はこの内外感がはっきりし
ている人達で、左ちゅう人達は内外感があいまいな人かと思うとき
があるな。(理屈より心理的な見方じゃが)

脱線したが、「教育」の問題に戻ろうかの。
学力を上げるにはいろんな方法があるじゃろう。まあ、それにはわ
しゃ立ち入らん。
しかし、本当に問題なのは「個の欲望の制御」=「自由のコントロ
ール」が、重要なわけじゃ。
その支点に何を持ってくるかになるとおもうんじゃ。

まあ、長くなりすぎたから、この点を考えてみてくだされ。

                        虚風老


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