2497.続・蹄の音の響く村から



続・蹄の音の響く村から

矢部 顕
朝日新聞10月7日、アメリカ、ペンシルバニア州のアーミッシュの学
校での銃撃事件を伝える記事の見出しは次のようであった。
−少女「私から撃って」−
−容疑者家族に「許し」−
アーミッシュ流にメディア驚嘆

暴力を否定し、徹底的に平和主義を貫いてきた歴史は、300年続いて
いる。宗教弾圧からのがれ信教の自由を求めて、旧大陸から海を越
えて新大陸アメリカへ渡ってきた苦難の歴史をもつ彼らは、独立戦
争、南北戦争、二つの大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争と、いずれの
戦争にも徴兵拒否を貫いた。平和を愛し暴力を拒否し、自動車や電
気をも拒否して生活するライフスタイルは変わることがない。

クエーカー、ブレズレン、メノナイト、アーミッシュなどの
Historic Peace Churchと呼ばれるプロテスタントのいくつかの宗派
の人々は、聖書に忠実に生きようとする宗教的理由で徴兵を拒否し
てきた歴史をもつ。それは宗教を超えて、思想としての良心的徴兵
拒否=CO(Conscientious Objector)の制度を勝ちとってきた。

9.11同時多発テロの直後9.14には、メノナイトUSAは大統領あて
に報復攻撃中止を求める書を送っていたことを最近知った。あの当
時、報復に熱狂した雰囲気のなかでのこの行為に驚くとともに、彼
らの信仰や信念がいつの時代にもぶれないことに感動する。

 夜明け前、まわりの農家のあちこちから鶏がときの声をあげる。
それがおさまると小鳥がさえずり始め、朝日が昇る。夏時間、朝6時
30分。黒や黄色の幌をつけた馬車が行き交い、一日がはじまる。

この夏1ヶ月ペンシルバニアの草深い田舎で過ごし、そのうちの2週
間は毎朝、馬車の蹄の音で目覚めた。私はメノナイトの家庭に滞在
していたが、近所にはアーミッシュの人々がたくさん暮らしている。
別にアーミッシュの人々だけが閉鎖的なコミュニティをつくって住
んでいるわけではない。

滞在先の家のガレージの隅にある冷蔵庫にアイスクリームを預かっ
ていて、時々、近所のアーミッシュの人が勝手にとりにくる。彼ら
は電気を使用しないからだ。その、あご鬚を伸ばし始めたばかりの
新婚の若い男性と親しくなった。既婚の男性はみんなりっぱなあご
髭をたくわえる。彼は英語で話をするが、ペンシルバニアダッチと
ジャーマンの3つの言葉を知っていると言う。全米のアーミッシュの
村のニュースを伝える週間新聞「The Budget」を読んでいると
「English Guy」という単語にでくわした。アーミッシュでない人は
「英語をしゃべる人」なのか。彼の馬車の幌は黄色であった。教会
のグループによって幌の色が違う。

このあたりでは黒と白と黄色の馬車を見た。彼の馬小屋に敷くオガ
屑を製材所にもらいに行き、運搬するのを手伝った。
トラクターを使わないので、馬で曳くかなり古くさい農機具を使っ
た農作業があちこちで見られる。『大草原の小さな家』の時代から
ほとんど変化していないように見える。

「スローライフ」ということばが日本では流行っているが、彼らこ
そスローライフを実践している人々だ。
陽が沈むのは午後8時30分。一日の働きを終え、夕食の団欒の後は、
明日のために家々の明かりは消える。真っ暗な庭のあちこちで蛍が
乱舞している。

 あの平和な村のひとつの学校で事件は起こった。私が滞在した村
からは2時間くらいのところ。彼らは彼ら独自の学校で子どもを教
育する。公立の学校には行かない。自動車を拒否しているからスク
ールバスを使うことはなく徒歩でしか通うことができないから、白
いペンキの小さな学校があちこちに点在する。1年生から8年生まで
の子どもたちがひとつしかない教室で学ぶ。家庭ではペンシルバニ
アダッチと呼ばれる古いドイツ語の方言を使用しているので、子ど
もたちは学校で英語を学習する。このプライベートスクールは英語
を教えることを条件に合州国から認可されている。連綿として言語
と信仰を家庭で守り通し、彼らの伝統と文化を保持し育てるための
学校をもっている。若い女性の教師を生徒の親たちが支えている。
 
 ニュースの第1報を知ったとき思った。何故アーミッシュの学校
で? 銃をもつ人はいないのに。よく読むと犯人はアーミッシュで
ないことを知りホッとした気持ちがよぎる。

第2報の見出しが冒頭に記したものだ。その記事は、悲惨な事件では
あるが、アーミッシュの歴史と信仰の強さを証明するかのような感
銘的な事態が報道されていた。知識人の一部にはアーミッシュは尊
敬すべき人々という思いをもたれているが、隣人は別として一般的
アメリカ人にとっては昔風の服装をした風変わりな人たちという認
識しかない。

 生き残った子どもの証言による年長の子の「私から撃って」のこ
とば。13歳の子にそう言わしめたものはなんなのか。この勇気と
寛容はどこで宿ったものなのか。深い精神の営みというか信仰が生
きていることを思わずにはいられない。
娘を亡くした父親が言ったという。「犯人の家族に伝えてほしい。
私たちは彼らのためにも祈っている」と。

第2報は伝えている。―― 一般に「力」が信奉される米国で、悲嘆
にくれる中にも暴力を許しで包み込む生き方に、米国メディアは「
慈悲の深さは理解を超える」「女の子の驚くべき勇気」などとして
報道している――
アメリカだけではない、世界中で、国家関係、社会関係、人間関係
などさまざまなレベルで力への信奉に陥っている。日本の国家も、
社会も最近いちじるしい。

かつて非暴力行動が、人を、国家を、世界を動かしたことを忘れて
いる。非暴力平和主義で暴力や戦争を否定するがために、ヨーロッ
パで、国家から、国教会から迫害された長い歴史を背負う人々は、
それゆえにもつ勇気と寛容さなのか。

この報道から、アメリカの人々は失った大切なものを再発見したの
ではないか。犠牲になった子どもたちがたくさんのことを教えてく
れている気がする。信仰心という枠でくくることではない人間の普
遍的な価値観が私たちの心に響いてくる。
玉葱への信仰をもつ彼らの行動は、それを超えて、それを知らない
私たちの心をうつ。 (2006.10.12.) 

タイトルの「続」でないものは、12年前にも同じ場所を訪れた時に
書いた拙文がありますので、またの機会に。


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