2479.中国儒教文化で発展した大乗仏教



中国儒教文化の中で独自に発展した大乗仏教
From: Kumon Tokumaru 

皆様、ちょっと長いのですが、9月のテーマ、「大乗仏教」についてレポートが
できましたので、お届けします。

大乗仏教は、東アジア儒教文化圏において、儒教にない部分(呪術)が受けいれ
られました。
そして、思想としては、儒教があったために、大乗仏教としては、体系化される
ことがなかった。
また、中国人に受けいれてもらうために、インド式の輪廻転生から、儒教の祖先
崇拝の死生観に宗旨変えした。
つまり、仏教として名乗っているが、実は、儒教的死生観にもとづいている、儒
教を補完するものであったという試論です。

ちょっと長いですが、お暇なかたはお付き合いください。

得丸久文

大乗仏教論 : 中国儒教文化の中で独自に発展した大乗仏教

1 はじめに: 東アジアの独自宗教
釈尊の説いた仏教は、法(ダンマ)を知り、ダンマに従って生きなさいという生活
の道徳を論じるものだった。
このダンマ主義の生活哲学は、仏教にとっての聖書をめざして20世紀半ばに著さ
れたインドの法律家アンベードカルの「ブッダとそのダンマ」を読むかぎり、現
代仏教にも受け継がれている。
これに対して、大乗仏教の特徴とはなんだろうか。
大乗仏教は、発祥の地インドには残っていない。5世紀の仏教迫害以来、あるい
は13世紀初頭に密教が終焉して以来、インドにおいて大乗仏教の信者はいないと
いう。
「ブッダとそのダンマ」においても、大乗的な思想は紹介されていない。例外的
に、「空」について、「総ての事象は一時的で儚いと確信することがダンマであ
る」というダンマが後に「空観」を生み出すという説明が行われている。浄土や
本覚についての記述はない。
現在の大乗仏教は、中国や日本など東アジア儒教文化圏に地域的に限定して、漢
訳された仏典を経典として独自に発展したものである。形式的にはインド由来と
するが、内実は「漢訳以後の仏典にもとづいた東アジア儒教圏の独自宗教」とし
て受け止めるべきだというのが私の結論である。
その特徴は、
・ 呪術性が非常に強い
・ 宗教概念があいまい(内容理解不十分なままに輸入された概念であり、それ
を究明する切実さが欠如していたため)
・ 儒教的死生観を取り込んだ
である。
20世紀にインドで復興した仏教と、東アジアの大乗仏教は、21世紀にどのような
対話を行うのか、興味深い。

2 呪術性が非常に強い
・ 原典の不確かさ
インドにおける大乗仏教は、釈尊が寂滅して数百年後の時代に、仏陀崇拝、仏伝
文学、菩薩思想などが広まった結果として、紀元後1〜3世紀の時代に、般若経、
法華経、華厳経、浄土経など初期大乗経典が生まれ、紀元後3〜5世紀には如来蔵
思想や悉有仏性・法身常住思想、唯心などの思想が生まれ、さらに紀元後 7〜12
世紀に大日経・金剛頂経などの密教経典が成立したとされる。
奈良先生の「釈尊との対話」によれば、「5世紀に仏教弾圧があり、インドの仏
教人口は皆無にひとしくなった」ということなので、インドで大乗仏教が信仰さ
れた時期はそれほど長くはなかったようだ。
そして法華経ひとつとっても、それが「いつ、どこで、どのような社会に成立し
たか、これまでに特にわが国の多くの学者が関心を示したにもかかわらず、未だ
明確にされていないのが実情である」(岩波文庫「法華経」上、「解題」P429)。
本家の大乗仏教については詳しいことはわからないのである。

・呪術師のような三蔵法師
原典も不確かなこれらの大乗経典は、鳩摩羅什(350-409)や玄奘(602-664)をはじ
めとする、三蔵法師たちによって漢訳された。シルクロードを横断し、インドと
中国の両方の文化に通じた彼らの勇気と情熱と能力と幸運とによって、とくにイ
ンドと中国両方の文化に対する理解度の高さ、仏教に対する造詣の深さと類まれ
なる言語能力によって、漢訳大乗仏典が生まれたのであった。
「中国文化思想事典」(東大出版会、2001年)の「仏教」の項によれば、「イン
ド・西域から渡来した訳経僧(三蔵法師)は、たんに経典の翻訳者として活躍した
だけでなく、不思議な術を使う呪術者としてあがめられ、また軍事に関する予言
者として重用された。最初期の訳経僧である安世高はあたかも魔術師のように描
かれ」、鳩摩羅什も「翻訳僧としてよりも呪術者あるいは予言者」として『晋
書』に描かれている。経典の漢訳よりも、経典を誦して祈りを捧げる呪術行為に
よって、彼らは名を上げたのだった。
 呪術性という点では、現代においても大乗仏教は、護摩を焚いたり、念仏行が
中心であり、呪術的性格は根づよい。
むしろ、中国に存在しなかった呪術的性格ゆえに、大乗仏教は東アジアで受け容
れられたのではないだろうか。

・儒教と似ていた原始仏教は忌避?
これはあくまで試論であるが、釈尊の説いた原始仏教が中国で受容されなかった
のは、ダンマ主義の道徳・哲学が、孔子の説いた儒教の教えと重複しているとこ
ろが多かったからではないか。また、道徳教義としては、孔子の教えのほうが馴
染みがあってわかりやすく、体系化されていたので、中国人は原始仏教に見向き
もしなかったのではないだろうか。
たとえば孔子についての表現や孔子本人言葉の中で、「子、怪力乱神を語らず
(怪異、怪力、無秩序、神を孔子は議論しなかった)」、「いまだ生を知らず、
いずくんぞ死を知らん(生の意味さえつかめていないのだ。ましてや死など)」
というのは、原始仏教の教えに近くないか。
孔子の死後、弟子たちが集まって「論語」をまとめたように、釈尊の死後、弟子
たちが結集して釈尊の言葉をまとめたところも、仏教と儒教は似ている。

・漢訳の難しさ
インドの仏典を漢訳するというが、宗教理論や概念という形のない、抽象的な内
容をさす異言語は、そうやすやすと理解し、翻訳できるものではない。まして
や、翻訳した概念を、その概念がもともと存在していない言語空間に住む人間に
理解してもらおうというのは、土台無理な話である。
インドと中国両方の思想や宗教などの精神活動に関わる概念を体得し、理解した
り、比較できる人間の数は当時少なかった。そもそも、両方の文化によほど精通
していなければ、出来上がった翻訳が正しいかどうかを判断することすらできない。
仮にうまく翻訳できたとしても、読む者がその概念を理解できる保証はどこにも
ない。五官で感じることのできる食べ物や樹木のような具体的な事物であれば、
インドから中国に持ち込むことによって体験させることもできるが、「悟り」や
「空」といった抽象的な宗教概念の場合、それを指し示して見せることも、触れ
させたり、味わわせてみることもできないからである。
さらに仏教が持ち込まれたときの中国にはすでに儒教や老荘の思想が存在してい
たために、抽象概念を受容する行為そのものは容易であったが、それが既存の抽
象概念に訳出された場合、理解や翻訳が正しいかどうか、確かめる術もなかった
のである。
「初期の翻訳経典には儒教や老荘などの思想用語が多く援用され、外来の宗教・
思想である仏教を中国人が理解し受容するために役立ったが、逆に仏教をきわめ
て中国的に理解してしまうという欠点をもっていた」(中国思想文化事典)という
のも、もっともなことである。

・土着思想の格子(パラダイム)で取捨選択
中国思想文化事典によれば、インドで生まれた仏教の思想は、中国土着思想の思
考枠組によって、意識的・無意識的に取捨選択されて受容された。
「中国固有の伝統思想にもとづいて仏教を理解することを『格義仏教』といい、
これが四世紀後半に活躍した釈道安によって批判されてのち、仏教は仏教そのも
のとして理解されていくようになる。ただ、格義的解釈の前提として、格義的翻
訳とでもいいうる翻訳段階での中国化があった」。
その結果「中国的に潤色された漢訳仏典は、漢字文化圏のなかで中国固有の経典
と同様に絶対的な価値をもつものとして組みこまれていき、原典は顧みられるこ
とがなかった。
インド仏教が伝来する以前、中国固有の思想にすでに類似した思想があった場合
(利他行と経世済民、兼愛など)は、類似しているがゆえに共感し受容されやす
かったと推定することも可能であるし、類似しているがゆえに受容する必要がな
かったと結論づけることもできる。
また、逆に類似する思想がなかった場合(宗教的悟り、絶対者による救済、輪廻
思想など)、ないからこそ学び受容した場合もあるし、類似した思惟がなかった
ため理解されずに反発され、あるいは関心さえ示されずに受容されなかった場合
もある。」

3 宗教概念があいまい
・翻訳文化の限界の例
奈良康明著「釈尊との対話」(NHKブックス、1988年)は、仏教概論のレポート
を書くために読んだが、異文化理解がいかに大変であるかを感じさせる逸話があ
るので、紹介したい。
奈良先生がインドに留学しておられた「ある時、指導教授の家に招かれ、お茶を
ご馳走になったことがある。奥さんがだして下さったのが、ミルクの中に米粒が
はいっている食べ物だった。甘くて、スパイスがたっぷりきいていて、良い匂い
がして、いかにも滋養がありそうで、まことに美味しいものだった。名前を聞い
たら、パヨシュだという。
『美味しいものですね。初めて食べました』、と私は言い、何げなしに昔からあ
る食べ物かと尋ねた。
先生は教えてくれた。釈尊が苦行を中止した時、村娘のスジャーターが捧げ、そ
れを食べて釈尊が元気をつけ、菩提樹下に赴いて悟りを開いたのが、このパーヤ
サではないか、お前は仏教を勉強していてそんなことも知らなかったのか!」
乳粥という名前を知っていても、その味は体験することができない。インドに留
学していても、インド人の家庭に招待されなければそれを味わう機会すらなかっ
た。そしてそれを実際に自分で食べておいしいと思っても、その感動を表現し、
『昔からある食べ物か』という何気ない質問を幸運にも思いついて、相手をあき
れかえらせるまで、それが釈尊が悟りの直前にスジャーターに捧げられた食べ物
であることに気づくことはないのである。文化の壁というのは、意外に高いとい
うことがこの逸話によって確かめられる。
おそらく何年インドに暮らしても、パーヤサを食べる機会のない留学生もいるだ
ろう。異文化が、いかに盲点に隠されていて見えにくいかを、あらためて実感した。
誰もがその名を知っている「乳粥」であっても、それを体験すること、それを自
分の知識と結び付けることが、これほどまでに難しいのである。抽象概念の「悟
り」や「空」を理解することが、いかに難しいかについて、想いを馳せてみると
よい。

・ 本家インドを顧みない伝統
大乗仏教は、仏教発祥の地とは異なる言語空間、異なる文明領域で、異なる死生
観や家族観の支配する土地で発達した。
世界に広がるキリスト教教団の中心にバチカンが位置して、世界各地で繰り広げ
られている宗教活動や教義内容をチェックするシステムはなかったし、幸か不幸
かインドで仏教が消滅してしまったために、本家の教義や実践のことを気にする
ことなく自由に解釈し実践することができた。
外来思想をいいことに、あるいはより一層呪術めかして見せるために、翻訳の難
しいところや雰囲気のあるところは、意味をまったく問わないで音だけを味わう
「呪文」にしておくという寛容さ、いいかげんさも持ち合わせていた。
たとえば般若心経の最後の部分、「ギャーテイ、ギャーテイ」以下は、呪文扱い
されている。訳出が難しかったのかもしれないが、呪文のほうがありがたいと思
われたのかもしれない。
儒教という大理論体系があったために、東アジアの人々はそもそも仏教に理論や
意味を期待しなかったということもある。
「まるでお経だ」という表現は、「おまじないみたいで、さっぱりわからない」
という意味で通用するが、それが許されるのである。
一方で、般若経典において重要な意味をもつ「Sunnyata (sunya)」を理解するに
あたって、インド仏教においてそもそもSunnyataがどう理解されているかという
ことはあまり議論されることはなかった。すでにインドにおいて仏教が終焉して
いたこともあっただろうが、我々の頭は、原語であるSunnyataよりも、漢訳語で
ある「空」とは何かに興味が向いていた。
漢訳された後の概念である「空」とは何かについて議論すると、「空」という漢
字が合わせもつ「空しい」とか「空っぽ、空虚」という意味に、本来それらの意
味とは無関係であるかもしれない仏教概念Sunnyata理解が影響を受けることにな
りかねない。
大乗仏教の「Sunnyata」という概念が、たまたま「空」という文字で翻訳された
からといって、必ずしも「むなしい」とか「空っぽ」という意味と結びつくわけ
ではないはずである。しかしながら、我々の頭はどうしても、漢字の「空」の併
せもつ意味に引きづられてしまう。巷で売られている般若心経の解説書は、その
ような説明が一般的である。
これは「空」を理解する上で不毛な混乱を招くことになった。「色即是空」の
「空」を理解するためには、可能であったならば、なぜSunnyataは「空」として
訳出されたのか、翻訳者はどういう意味として訳したのかも、問題にしたいとこ
ろである。
そして、国際交流が可能となった現代、オリジナルのインドで、「Sunnyata」が
どんな意味をもつのか、どんな文脈で使われているのかということに、もっと関
心を示してもよいと思う。 

・議論を不明快なまま放置
議論が収束しないのに、混乱したままで放置されていたことも問題ではなかったか。
中村元博士は、1994年に書かれた「空の論理」という本の中で、「<空>は大乗仏
教の根本概念であるということは、だれでも知っている。では、<空>とは何か、
ということになると、なかなか答えが簡単には出て来ない。<空>を説いた文献に
関する研究は、毎年無数に多く刊行されている。しかし「<空>とは何か?」とい
う端的な問題にたいしては、かならずしも答えが与えられていない。学者はとか
く避けて通っているという傾きがある。」という。
そういいながら、中村博士は、大乗仏教における「空」の概念は、「実体がな
い」という意味だと断定して、般若心経の説く最上のさとりとは、「<一切空>を
体得することにほからなない。智慧の完成というのは、あらゆる現象が実体性を
もたないという道理をさとることにある」と書いておられる。
あるところでは「答えがない」と書き、別のところで「実体がない」と言い切る
のはいかがなものか。まじめな読者が混乱しないだろうか。
そもそも、「あらゆる現象が実体性をもたない」ということは、私の理解を超え
ている。
実体とは何のことなのだろうかといぶかってしまう。
このように議論が混乱し錯綜したままで放置されているのは、中村博士一人の責
任ではない。
おそらく東アジアにおいては、すでに儒教や老荘の思想によって、独自の宇宙
観・人間観が確立されていたために、誰も仏教に体系だった思想や哲学を求めな
かったのだ。人々が仏教に期待したのは呪術性であった。
だから<空>が何であろうと、誰も困らなかったのだ。そのため、中途半端なわけ
のわからない説明であろうと、「答えはない」などと無責任に放り出されてし
まっても、鷹揚に受け止め、問題にする人間がいなかったのではないだろうか。
法事でお坊さんの話の内容がよく理解できなかったとしても、悩み、落ち込む必
要はない。おそらくお坊さんだって、よくわかっていないのだ。

4 儒教的死生観に変容
大乗仏教は、東アジア儒教文化圏において、釈尊の説いた生活や道徳に関する法
の教えとは異なって、より呪術的な行、あるいは禅の精神集中法として、独自の
発展をとげた。
また、死生観を異にする中国人に受け入れてもらうために、仏教は自ら中国に固
有の儒教的死生観・祖先信仰を取り込んだ。その結果、インド仏教には存在しな
い位牌や墓地や年次法要が始まった。この点については、加地伸行著「沈黙の宗
教―儒教」(筑摩書房、1994年)が詳しい。

・インドは輪廻転生の死生観
そもそも、中国とインドでは、気候風土が異なる。
インドは「暑さの上に、雨が少ない。(略)村から1キロ、時には10キロも離れた
井戸へ水を汲みに行く。それを何回も往復し、午前中はそのことで時間がつぶ
れ」る。「釈尊の時代の前六世紀ごろのインドでは、子供はたいてい乳幼小児期
に急性罹患で倒れ、母親も産褥熱でよく死亡し、25歳を超えた成人は少なく、40
歳ともなれば灼熱の地における体力の消耗で老化し、諸々の感染、脱水などで死
亡したであろうと言う。すなわち老いと病と死とは同時に出現したであろう」。
「仏教のみならず他のほとんどすべてのインド諸宗教が、人生そのものが苦であ
ると言うのは、インドの現実の上に立っての考え方であろう。生・老・病・死こ
の四苦は、インドにおいて現実であった。」
「せっかくこの世に生まれてきたのに、苦のままに寿命も短く死んでゆくという
のはいやなことだ、つらいことだと考えるのがふつうであろう。(略) 儚い人生
ながら、なにか希望を与えてほしいと願うのが自然である。短い人生を生きる者
のための安心できる死生観を宗教者に説いてもらい、死の不安や恐怖を取り除い
てほしいという要求」に「応えたものが、インド諸宗教を貫く輪廻転生という死
生観であった。」(pp22-23)

・中国は招魂再生の祖霊信仰
一方、「中国人には、仏教が伝来するまで輪廻転生という考えかたはなかった。
輪廻転生とは全く異なる死生観をもっていたからである。」
「中国人はインド人と異なり、この世を苦と考えず、楽しいところと見る。五感
(五官)の楽しみー美しい物を目で見て楽しみ、心地よい音を聴いて楽しみ、気持
のよい物に触れて楽しみ、おいしい物を食べて楽しみ、芳しい物の香りを楽し
み、それらを大切にする。」
現実的で即物的な中国人の死生観は儒者が説明した。
「人間は精神と肉体とから成り立っているとし、精神を主宰するものを<魂>、肉
体を支配するものを<魄>とした。(略)この魂・魄は、人間が生きているときは共
存して蔵まっているが、死ぬと分裂」して「魂は天へ浮遊し、魄は地下へ行く」。
天地に分裂した肉体と精神を再び結びつける儀式を行うと、死者は<この世>に再
び現れて、なつかしい遺族と対面することができるのである。
「儒教の発生はシャマニズムにある。死者の魂降しである。しかも魂(精神)降し
だけではなくて、魄(肉体)も呼びもどす。そして神主に依りつかせ< この世>に
死者を再生させる。招魂(復魂)再生である。」

・儒教の大理論体系
シャマニズムは世界各地にあるが、「儒教は後に天才孔子の手を経て家族道徳に
つながり、さらに中国に皇帝制が確立した前漢王朝時代に政治理論を作るまでに
大成して、以後、内部発展を続けながら、中国を支える大文化として存続した。
このようにシャマニズムを基盤にして歴史を動かす大理論体系を作ったのは、世
界においておそらく儒教だけであろう。」(p44)
「死者の魂・魄をその命日の日に招き寄せるとき、依りつくべき場所が必要であ
る。そのために儒教は神主を作った。こうして依りついた魂・魄は、その儀式が
終わると、神主から離れて元の場所に帰る。魂は天上へ、魄は地下へと。天は広
く、魂はそのまま浮遊しているが、魄は管理場所である墓へ帰る。残った神主は
宗廟へ、あるいは祠堂や住居内の祠壇へ移し、安置する。これが儒教の祖先祭祀
の大筋である。」(pp46-47)
「儒教が東北アジアにおいておそらく普遍化していた1〜2世紀ごろ、仏教が中国
に伝来した。この仏教を生んだ南アジアのインドと、儒教を生んだ東北アジアの
中国とは、イデオロギー的に共通するものはない。当然、仏教と儒教との両者は
衝突した。」

・仏教が儒教的死生観を取り込む
だが、やがて「仏教側としては、儒教と抗争するよりも、すでに普遍化している
儒教の本質的なものを取り入れることによって、儒教信奉者の自分たちに対する
抵抗感をなくしてゆこうという考えかた」をとった。
すなわち、「祖先祭祀の導入 − その具体化とは、1 神主を建て、招魂するシャ
マニズムを認めること(すなわち神主をまねて位牌を作った)、2 墓を作り、形魄
を拝むことをなんらかの形で認めること(仏教においては、遺骨を拝むことなど
はありえない。釈迦の遺骨だけは特別に神聖視しているが、それは偉大なシャカ
の想い出、敬慕を表しているだけである)、3 儒教式喪礼を取り入れた葬儀を行
うこと、などである。」(p50)
ただし、インド仏教にはない考え方を、『盂蘭盆経』という偽経、インドに原典
がなくて、中国において作り出された仏典で、祖先祭祀の理由を説明した。
「釈尊の弟子の目蓮は、神通力をもっていたのでいろいろな世界を見ることがで
きた。或るとき、自分の母親が、輪廻転生をしているうちに、あろうことか餓鬼
の世界で苦しんでいるのを見た。その母親を救い出す方法を釈尊に問うたとこ
ろ、僧侶によって盛大に経典を読誦することを教えられたので、そのとおり行な
うと、母は救われたという。これは目蓮の孝心に基づくものだとし、ここから先
祖を供養する<お盆>という行事が行なわれるようになった。」 (p51)という話に
なっている。
だが、よくよく考えてみると、これでは毎年お盆の行事を行なうことの説明には
ならない。これは後からつけた苦し紛れの説明だからで、実際は、儒教の祖先祭
祀をやっているにすぎないからだ。
「先祖供養・墓という儒教風を取り入れ、その様式化を徹底した日本仏教は、葬
儀もまた儒式を取り入れていることは言うまでもない。葬儀のときの祭壇を見る
がいい。柩を置き、白木の位牌を建て、死者の写真を添える。それは事実上は死
者のための設営である。仏教者として拝すべき最も大切な本尊は、最奥部に、あ
たかも飾りもののように置かれているだけである。(略)
大半の参列者は本尊を拝まず、死者の柩を、位牌を、特に写真を拝んでいる。そ
れは、亡き人を想うことであり、ことばを換えれば儒教流の招魂再生をしている
のである。」(p55)

・インドと中国の併存する日本の仏壇
儒教的な祖霊崇拝や死生観が取り入れられたからといって、もちろん全面的に中
国化しているわけではない。
日本の仏壇は、「最上段の本尊に対して花を捧げて祈り、中段の位牌に対して
は、灯明をもって祖先を幽暗のところからこの世に導き、線香をあげて位牌に依
りつかせ、回向をする。すなわち、(インド仏教の)<本尊と花と>、(中国儒教の)
<位牌と灯明・線香と>、という組み合わせである。われわれの日本仏教は、こう
いう形で、輪廻転生のインド仏教と招魂再生の儒教とを、仏壇においてみごとに
併存させているのである。
われわれは仏壇に向かって、毎朝、仏に祈り、そして祖先と出会っている。毎朝
―ここには、大きな意味がある。それは、家族の連帯を知らしめる行動だからで
ある。」(p81)

5 さいごに:インド仏教とどう付き合うか
・現代インド人による「空」の説明
日本人や中国人は、大乗仏教の理論のなかで重要である「空」を「空」として明
らかにしようとするが、インド人は”Sunnyata”とはなにかと考える。
グローバル化の進んだ21世紀に、この二つの概念の摺りあわせを行ってもよいの
ではないだろうか。
インドが独立当時のネルー政権で法務大臣の任にあり、インド憲法を起草した
ビーム・ラオ・アンベードカルは、不可触民だった。
アンベードカルは、1920年代から、宗主国英国とインドの各社会集団(ヒンズー
教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、不可触民)が行ったインド独立交渉にかか
わった結果、ヒンズー教徒であるかぎり、不可触民は救われないことを確信し、
20年以上さまざまな宗教を吟味したあげく、1956年10月に改宗して仏教徒になった。
仏教がなかなかインドで広まらない原因のひとつは、聖書がないからだと考えた
アンベードカルは、1956年12月の彼の死の直前まで「ブッダとそのダンマ」とい
う本を書いた。本は彼の早すぎた死の後に出版された。
これはブッダの生涯と、主だった教えを、一冊にまとめたものである。
本書の「第3部 ブッダは何を教えたのか」の「第3章 ダンマとは何か」の「(5)
総ての事象は一時的で儚いと確信することがダンマである」では、「空」につい
て記述がなされている。

・空=■t
「一時性の側面は普通人にはいささか理解し難いところがある。総ての生きもの
はいつか死ぬだろうということは容易に理解できる。
だが、人は生きていながらいかに変化しつづけ生成してゆくかを理解するのは容
易くない。
『これはいかにして可能か?総てが一時的であるが故に可能なのだ』とブッダは
いう。これが後に“空観”と呼ばれる理論を生み出したのである。仏教の“空”はニ
ヒリズムを意味してはいない。それは現象界の一瞬毎に起る永久の変化を意味し
ているにすぎない。
総てのものが存在しうるのはこの“空”故であることを解するものは極めて少な
い。それなくして世界には何ものも存在しえないのである。一切のものの可能性
が依拠するのは正にこのあらゆるものの姿である一時性なのだ。
“空”は広がりも長さもないが内容のある点のようなものである。(略)
“空”は、時間概念であり、「広がりも長さもないが内容のある点のようなもの」
としてアンベードカルは説明する。数学的に評点すると「空とはΔt (時間の最
小変化量)」ということができる。

・日本仏教と初期仏教の対話を
核家族化や少子化によって、日本仏教の基盤となって支えていた檀家制度がたち
ゆかなくなってきている。また、擬似家族的に運営されてきた会社も、効率化や
グローバル化の波によって、だんだん家族的経営ではなくなりつつある。
社会福祉のばら撒きの限界や地方への公共事業予算ばら撒きの削減、さらに評価
基準の不透明な成果主義導入や外資系企業の参入などによって、日本社会は格差
社会の様相を見せている。カースト制のインドにも通ずる希望のなさを見せはじ
めた。
そもそもカースト制度の差別社会への対抗として生まれた仏教は、現代日本にお
いて、新たな存在意義を示すだろうか。
今日の日本では、スリランカからみえられたアルボムッレ・スマナサーラ長老が
中心となって、釈尊が説いた初期仏教テーラワーダ仏教を布教しておられ、初期
仏教の教えに触れることも容易になった。
儒教的教育がなされなくなって久しいこともあり、初期仏教の教えは、今日の日
本人には新鮮味をもって語りかけてくるであろう。
奇しくも今年は、アンベードカルがインドの不可触民たちとともに大量改宗をと
げたことによって、インドで仏教が復興して満50年である。一億人といわれるイ
ンド仏教徒の先頭にたっておられるのは、日本からインドに渡られた佐々井秀嶺
上人である。日本人とインド仏教の間には、すでに橋が架けられている。
これから、日本仏教は、生きとし生けるものの救済を目指した大乗仏教本来の利
他行、菩薩行を実践できるだろうか。
日本仏教の出自を明らかにし、初期仏教、現代インド仏教に学び対話すること
で、21世紀の生きとし生けるものの平和を願う菩薩の宗教となることができるか。
我々の課題は大きい。
      (2006・9・26)


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