2472.薩長因縁の昭和平成史(2)



YS/20060925


薩長因縁の昭和平成史(2)



■近衛上奏文のターゲット

 木戸幸一の実弟・小六の長女正子は1939(昭和14)年に都
留重人と結婚する。戦後日本を代表する経済学者として一橋大学学
長や朝日新聞論説顧問を歴任した都留は、戦前のハーバード大学で
E・ハーバート・ノーマンと深い親交を結び、二人はマルクス主義
者としての時間を共有していた。

 長野県軽井沢でカナダ・メソジスト教会の派遣宣教師の息子とし
て生まれたカナダ人外交官ノーマンは、戦後連合国軍総司令部(G
HQ)の対敵諜報部(CIS)の調査分析課長として政治指導者や
政治犯の情報収集を行い、最初の仕事が米国外交官ジョン・エマー
ソンとともに行った府中刑務所からの志賀義雄や徳田球一ら16名
の共産党幹部の釈放、次に行ったのが近衛文麿と木戸幸一に関する
意見書の作成であった。

 この意見書は近衛と比べて木戸には寛大だった。工藤美代子はノ
ーマンと都留が合作した作文が近衛を貶めたと主張する。またノー
マンが近衛を憎んだ最大の理由が「近衛上奏文」とマッカーサーと
会見した際の「軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けを
なした者は、実はマルキストである」とする近衛発言にあったと書
いている。

 敗色濃厚の終戦年2月14日の近衛上奏文には、日本の敗戦は必
至としながら、「最も憂ふべきは、敗戦よりも敗戦に伴うて起るこ
とあるべき共産革命」にあるとし、「コミンテルン解散以来、赤化
の危険を軽視する傾向」を「皮相安易なる見方」と指摘しながら、
「軍部内一味の者の革新論の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとす
るも、これを取巻く一部官僚及び民間有志(之を右翼と云ふも可、
左翼と云ふも可なり。所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり)
は、意識的に共産革命に迄引きずらんとする意図を包蔵し居り、無
知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て大過なし」と書かれてい
る。

 ここで工藤美代子は重大な見落としをしているので指摘しておき
たい。この近衛上奏文にある「これを取巻く一部官僚」とは、明ら
かに木戸と「特別の信頼関係」にあった岸信介をも指していた。ま
たその上、木戸本人を指していた可能性すらある。

■革新勢力を右翼と云ふも可、左翼と云ふも可なり

 岸信介が満州国総務庁次長として満州国という実験場で実行に移
した「満州産業開発5か年計画」を描いたのは宮崎正義である。金
沢の下級武士の家系に生まれた宮崎は、ペテルブルグ大学留学中に
ロシア革命前夜に遭遇し、満鉄きってのロシア・スペシャリストと
なる。宮崎は世界恐慌の最中にあって驚異的な成功を収めたソ連の
経済五カ年計画に着目、関東軍参謀の石原莞爾や戦後国鉄総裁とし
て新幹線建設に尽力した十河信二らと経済調査会を発足させ、ソ連
の経済五カ年計画を取り入れた日本独自の官僚統制経済システムを
企画立案した。
 
 岸と星野直樹は鮎川義介の協力を得て満州重工業開発を設立し、
鮎川はここで官僚統制経済システムに修正を加える。末端の下請け
産業の底上げを目的とした系列システムを統合させることで、より
重層的なシステムに作り替えたのである。

 満州国から帰国した岸は阿部・米内・近衛内閣のもとで商工次官
を勤め、革新官僚の活動拠点になっていた企画院や陸軍「革新派」
と連携しながら革新勢力を形成、満州産業開発5か年計画に端を発
する戦時統制経済を日本に持ち込もうとした。

 しかし、岸は阪急東宝グループの創業者として知られる自由主義
経済人であった小林一三商工大臣と対立、企画院事件も重なり、小
林は岸に対して「お前はアカ(共産主義者)だ」と辞任を迫った。
このことは岸本人も『岸信介の回想』(文藝春秋)の中で触れてい
る。この時、岸解任を決めたのが近衛文麿だった。これを機に過激
な統制強化に反発する国会や財界は「革新官僚はみなアカだ」と非
難し、岸もアカと見なされるようになった。(『岸信介の回想』の
他に『「日本株式会社」を創った男』小林英夫・小学館、『岸信介』
原彬久・岩波新書参照)

 そもそも統制という言葉が法律語として初めて登場するのは、満
州産業開発5か年計画以前の1931(昭和6)年4月に公布され
た「重要産業統制法」である。これを立法起案したのがドイツのナ
ツィオナリジィールンク(国家統制化)運動を学んで帰国した農総
務省時代の若き岸だった。その実施にあたったのが岸とその上司、
木戸であったことも『岸信介の回想』で岸本人が語っている。木戸
と岸の特別な信頼関係は農総務省時代の上司と部下の関係によって
培われた。

 また木戸と近衛は京都帝国大学時代からの学友であり、岸を中心
とする革新勢力の期待を一身に担ったのが、近衛であり、木戸であ
る。近衛と木戸は原田熊雄(西園寺公望の秘書)とともに「宮中革
新派」を形成し、宮中内部の権力を掌握すべく、軍部や右翼と手を
握りながら牧野伸顕を支えた関屋貞三郎宮内次官を辞任に追いやり、
この関屋辞任工作によ って薩摩系宮中グループから主導権を奪い取
ったのである。

 尾崎秀実をもブレーンとして重用していた近衛が、その上奏文で
自身の「過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亙り交友
を有せし不肖」を「反省」しているのもこのためだ。

 従って、工藤美代子が主張するノーマン・都留策略説はいささか
公平さに欠いている。先に仕掛けたのは近衛である。近衛上奏文こ
そが木戸や岸ら長州系宮中グループへの裏切り行為を意味した。内
情をよく知る近衛と原田は長州系宮中グループから薩摩系宮中グル
ープに寝返ったのである。また同時に、近衛上奏文は木戸や岸をも
「アカ」とするレッテル貼りが行われていた可能性すらある。


■天皇のインナー・サークルとしての宮中グループにおける対立構図
    
 それでは、誰がそのレッテルを貼ったのか。
 
 近衛上奏文は近衛文麿と吉田茂率いるヨハンセン・グループ(吉
田反戦グループ)の合作である。ヨハンセン・グループこそが薩摩
系宮中グループである。その中心には牧野伸顕(薩摩藩士大久保利
通の二男、吉田の岳父)、樺山愛輔(海軍大将・樺山資紀の長男)
に吉田茂を加えた3名がいた。

 この近衛上奏文は悲しいほどに非力ながらもヨハンセン・グルー
プ最大の成果となった。しかもここで行われたレッテル貼りには、
戦後を睨んだしたたかな戦略が読みとれる。そして、陸軍とともに
長州系宮中グループもこの時点で敗北が確定した。

 そもそも長州の山県有朋の権力が宮中某重大事件で失墜した直後
の1921(大正10)年に薩摩の牧野が宮内大臣に就任、192
5(大正14)年に内大臣となった。しかし5・15事件の影響か
ら牧野の身を案じた牧野の女婿・吉田の意見もあって1935(昭
和10)年に辞任する。木戸は1940(昭和15)年に内大臣に
就任、牧野に代わって宮中政治を牛耳った。宮中某重大事件につい
ては諸説あるが、関屋辞任工作に見られるように宮中側近の座をめ
ぐって長州と薩摩は熾烈な権力争いを行っていたのである。

 このヨハンセン・グループには二・二六事件で予備役へ追いやら
れた陸軍皇道派の真崎甚三郎と小畑敏四郎も関与している。皇道派
主導の二・二六事件で吉田の岳父であった牧野も狙われたことを考
えれば、吉田と陸軍皇道派の協力関係は奇妙に見えるが、吉田らは
東条率いる陸軍統制派に陸軍皇道派をぶつけるために手を組んでい
た。また彼らを結びつけたのは「反ソ・反共」であり、日本が赤化
することへの強い危惧を共有していたからだ。

 陸軍省防諜課によって監視されていた吉田は、1945(昭和2
0)年4月15日、「近衛上奏文」に関連する容疑で憲兵隊によっ
て逮捕される。この逮捕はヨハンセン・グループの反戦信任状
(『吉田茂とその時代』ジョン・ダワー)となり、戦後において極
めて有利な経歴となった。

 この反戦信任状の威力は、木戸(終身禁固刑)や岸(巣鴨拘置所
収監)に対してヨハンセン・グループに関与した約20名の内、誰
ひとりとしてA級戦犯起訴されていないことからもわかる。唯一の
例外になり得た近衛も自ら死を選ぶことによって免れた。

 また、有罪判決を受けた25名のA級戦犯の内訳を見ると、陸軍
軍人が15名に対して海軍軍人が2名、さらに極刑となると東郷、
板垣、武藤ら陸軍軍人が6名に対し、海軍軍人は一人もいない。長
州の陸軍、薩摩の海軍の棲み分けと反戦信任状の威力を思い知るこ
とになる。


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