2448.ダンマと心の不安の克服法は



案ずるより死ぬが易し  ー
釈迦の体得したダンマと心の不安の克服法は 
地球環境危機の時代にも有効である

得丸久文

 このレポートを書くにあたって、中村元著「原始仏教」(1970年)、奈良康明著
「釈尊との対話」(1988年)、アンベードカル著「ブッダとそのダンマ」(原典初
版1957年)など初期仏教に関する本を読み、さらに下谷・法清寺で定期的に開か
れている奈良康明先生の「ブッダ、最後の旅」についての講義(とくに八月二十
六日に行われた四諦八正道の講義を2克服法に反映させた)を聞いた。

右の本と講義を参考にして、釈迦の体得したダンマと心の不安の克服法につい
て、自分なりに考えたこと、その現代的意味について以下で報告する。

 なお、1で論じた「心」と「心の不安」についての考察は、心が電気エネル
ギー現象であるとする西原克成著「内臓が生みだす心」(2002年)、サルの裸化の
プロセスについて考察した島泰三著「はだかの起原」(2004年)、言葉の意味とそ
の限界について鈴木孝夫著「鈴木孝夫 言語文化学ノート」(1998年)を参考にした。


1 何が心の不安か:苦諦序説
■ 未経験なるがゆえの生老病死
・動植物は生老病死に不安をもたない

 心の不安とは何だろう。

 仏教では、生老病死という。この四字熟語の定義は辞書によれば、「避けるこ
とのできないこの世での人間の四種の苦悩。生まれること、老いること、病気を
すること、死ぬこと」とある。生は「日々生きていくこと」と置き換えて考えて
もよい。これらが四苦であり、人間に心の不安を引き起こす。

 だが生老病死は、人間以外の動物にも植物にも同じように訪れる。なぜ人間に
とってのみ、それらが苦悩や不安になるのか。

 西原克成著「内臓が生みだす心」によれば、心とは質量のないエネルギー現
象、腸管蠕動運動と消化吸収機能に伴う生命現象であり、すべての生命体がもつ
という。動物にも植物にも心はあるのだ。

 しかし、心の不安は、精神・思考活動なしには生まれない。これらの活動は交
感神経と錐体路系の発生した高等生物の体壁運動筋肉系の運動機能に宿る。高等
動物の心にかぎって不安は生じるのである。

 だが、高等動物たちがいだく不安は、今、現前の、直面する不安に限られている。

・不安の言語学的解明

 人間にだけ、死後への恐怖などの想像上の不安、あるいは将来への不安が、い
つも心に突き刺さってくる。これは人間が言葉を使ってものを考えるようになっ
たからである。

 動物の中で人間だけが独特の喉の構造をもつ。人間は、肺に収めた空気を気道
経由で口から出せる。そうやって言葉を発するようになり、言葉を使った精神・
思考活動を行うようになり、大脳前頭葉が発達した。

 言葉は大変に便利なコミュニケーションの道具である。喉をふるわせて音声符
号をつくり、それを口から発すると、空気中を音声符号が伝播し、それが相手の
耳を経由して相手の脳に複雑な意味をもつメッセージを送ることができる。

しかしながら、送り手がメッセージにこめた意味は、必ずしも受け手にそのまま
伝わるわけではない。

 なぜならば、言葉が空気中を伝播しているときは、意味を持たない純粋な音声
符号の連続に過ぎないからだ。あるいは、紙の上に書かれた文字は、文字という
符号にすぎず、それ自体に意味はないのである。

 話し手や書き手は、意味をこめて音声符号を発する、文字を記す。それを聞い
た受け手や読み手は、音声符号や文字符号をもとにして自分の知識と経験を駆使
して意味の再構築作業を行うのだ。

 鈴木孝夫がいうように、言葉の意味とは、「ある音声の連続(イヌならイヌと
いうことば)と結びついた,ある特定個人の経験や知識の総体である」。音声符号
である言葉そのものは意味をもたない。聞き手や読み手は、自分たちの経験や知
識にもとづいて、送られてきた符号を意味へと置き換える。だから、聞き手や読
み手が未経験、未体験の言葉を受け取っても、その言葉は正しい意味をもたらし
ようがないのである。

 卑近な例だが、九州出身者が、まっすぐな麺のとんこつスープのラーメンを頭
に思い浮かべながら、「ラーメンが食べたいね」というとき、それを聞いて「そ
うだね。」と答えた関東出身者が思い浮かべるのはちりぢりの麺の醤油ラーメン
である。

 その九州人に対して、関東の醤油ラーメンを初めて供すれば、「これはいった
い何?これがラーメンなの?気持ち悪い」とびっくり仰天するに違いない。

人は自分があらかじめ獲得していた経験や知識によって受け取った音声符号に意
味を与えるのであるが、逆に未体験の食べ物や現象を前にすると、それが何であ
るか判断できなくなって困惑する。九州人は、その醤油ラーメンを見ても、それ
までの人生で構築した経験・知識を駆使したあげく、それをラーメンとして認識
できないのだ。

 このように、自分が個人的に経験していなかったり、知識をもたないことがら
に対しては、人間は驚き、戸惑い、余計な心配や恐怖心を抱きがちである。

 昔話の「ふるやのもり」がよい例で、農家の馬目当てに忍び込んだ馬泥棒と狼
は、この世で一番おそろしいと老夫婦が話す「ふるやのもり」を過剰に恐れるあ
まり、心を取り乱して自滅したのだった。

 人間にとって生老病死が不安なのは、老いも、病も、死も、どれも自分では経
験していないから、想像を働かせて考えるほかないからだ。いわゆるとりこし苦
労、杞憂である。

 カトリックのシスターである鈴木秀子先生の「生の幸い、命の煌き」(1997年)
には、いくつか臨死体験が紹介されているが、「朝日のような輝くような光に包
まれて、体中、ゆったりして、安らかで、つかえていたものがみんな溶けて、幸
せそのもので、ここにいつまでもいたいと思いました。あの世は海のようなもの
ですね」といった感想や、「いい気持ちだった、とってもいい気持ちだったよ」
という言葉が報告されている。死後の世界を知ってしまえば、死とて少しも怖く
ない。

 ブッダがこの想像上の不安、将来の不安をどのように克服せよといったかにつ
いては、2で述べる。

■ 文明の不安

・地球規模環境問題

 さて、現代社会においては、古典的な生老病死の不安のほかに、文明の危機と
よぶべき状況が存在している。いわゆる地球環境問題である。これはブッダが生
きた時代には、まだ顕在化していなかった。インダスやメソポタミアの古代文明
は環境問題によって滅んだと言われているので、地域的にはとうの昔に起こって
いたことだが、少なくとも地球規模ではまだ起きてはいなかった。

 地球環境問題は、想像上の危機ではなく、また現今の問題であって将来のもの
ではないが、あまりに規模が大きすぎ、一般の人間がもっている時間意識や空間
意識ではその存在を認識しきれないのである。

 二酸化炭素の増加と酸素の減少、温暖化や異常気象、森林破壊、砂漠化、生物
種絶滅、海洋汚染(プラスチック類、水銀・すずなど重金属、PCB・ダイオキ
シンなど有機化学物質、水温上昇、富栄養化など)などの現象は、さまざまな人
がいろいろな場で口にするけれど、誰も地球規模で問題となる現象を見たことも
なければ経験したこともないため、言葉が意味をなさないのである。それらの言
葉が指す内容がどれほど深刻であるのかを、おそらく話している人間も、聞いて
いる人間も正しく理解しきれていないのだ。

 たとえば、海の中にペットボトルのキャップを間違って落としたとする。十三
億立方km(これも想像のつかない数字であるが)の海洋水中に、たったひとつ、
2cm角のプラスチックのキャップが紛れ込んで誰が困るだろうかと思うのが普
通である。悩む必要はないではないか。

 だがしかし、それが十万個だったら、一億個だったら、百億個だったらと考え
ると、どれくらいのダメージを、海洋や海洋生物に与えるのか、想像することす
らむずかしい。

プラスチックを誤食して苦しんでいる魚やイルカや海鳥、誤食のために死んでし
まった生物は、いったいどれくらいいるのだろう。PCBや水銀によって病気に
なった魚や鯨も数多くいるだろう。統計をとる術もないが、実際に相当数存在す
ると思われる。

 ほかにも旱魃や台風やハリケーン被害の増加、温暖化による生物分布の変化、
魚介類に蓄積された重金属や有機化学物質量の増加など、個別の事象はある程度
は理解されているが、それらすべてが、地球規模でどれだけの被害を生んでいる
かを理解することは不可能である。そして、それらはすべて人類の文明活動に
よって引き起こされ、もはや後戻り不能としかいいようのない状況にきているこ
とも認識されていない。

 一九七二年の国連人間環境会議、一九九二年の国連環境開発会議、二〇〇二年
の持続的開発のための地球サミット、これまでに行われた国連主催の環境会議で
行われてきた議論は、だんだん本質を外れているようにすら受け取れる。人類
は、自らが引き起こした地球規模の環境問題から、目をそらそう、何も考えない
ですまそう、何もしないですまそうとしているように見える。

・人々の不安

 地球規模環境問題から政治家や官僚が目をそらしていても、それは漠然とした
不安として、我々の意識を脅かしている。

 この八月下旬、青森県八戸市でまだ一五、六才の高校生の男女が心中するとい
ういたましい事件の報道に接した。

 事件の背景は一切知らないが、見ず知らずの自殺願望をもつ若者が、ネット上
で知り合って、レンタカーの窓を目張りして車内で練炭をたいて一酸化炭素中毒
で集団自殺することに比べると、まだましかと一瞬思った。

 しかしよくよく考えると、心中なんて、この世では添い遂げることができな
い、家のしがらみに束縛されたり親の猛烈な反対にあっているカップルか、不倫
の男女がするものではなかったか。

前途のある高校生カップルが心中するとは、今日の社会の絶望はついにそこまで
に至ったかと、思い至った。同じ社会を生きる一員として、この社会の希望のな
さの深刻ぶりに、あらためてため息をついた。

 心中を考えている高校生たちに出会うことがあったなら、私たちは何を語りか
ければよいのだろうか。死ぬのは間違いで、生きることが正しいとしたら、どう
生きればよいのだろうか。どうすれば心の平和を得て、前向きに生きることがで
きるのだろうか。

おそらく生きる希望を求めているであろう日本の若者たちに語るつもりで、以下
で心の不安の克服法について考えてみたい。

2 心の不安の克服法

 1では不安とは、悩みとは何かについて考えた。これは四諦八正道の苦諦に対
応する。

 以下では、八月二十六日の奈良先生の講義(『ブッダ最後の旅』(9) 第二章、
段落1-4について)にしたがって、あらためて四諦八正道の教義を考えてみたい。

■ 四諦八正道

 仏教の教えの中心といえる四諦八正道は、心の不安を克服するためのものであ
り、仏教の中心となる教えである。

 この四諦八正道を、どう自分の日常の中でバランスの取れた形で実践するかが
大切である。

実践しようとする意欲は、すなわち菩提心であるが、これこそが生きる意欲である。

 実践にあたっては、不当に束縛して、自分を抑制しすぎるのも問題であるが、
一方で自我をむき出しにして人に迷惑をかけるのも間違いである。中道を心がけ
る必要がある。

・四諦

 入塾式後の奈良先生の特別講義にもあったように、諦めるとは、「明らめる」
ことであり、まず自分が現在置かれた状況を直視して正確に把握し、つぎにその
状況下で前向きに努力して生きていくことである。

これを続けることこそが「悟り」の生き方であるということを、私たちは四月の
奈良先生の特別講義で習った。

<苦諦>

 苦は、生老病死の四苦であり、それに「怨み憎む人と出会う苦しみ(怨憎会
苦)」、「愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)」、「求めるものが得られない
苦しみ(求不得苦)」、「物質に執着する苦しみ(五蘊盛苦)」の人間として味
わう精神的な苦しみ四つを加えて八苦がある。

<集諦>

 集とは、原因のことである。

 生きようとする欲望は野生動物も人間も同じである。四苦は本来どのような動
物にも植物にも平等にくる。淡々とあるがままに生きていくならば、悩みも苦し
みも生まれないはずである。

 ただ野生動物であれば、言葉をもたないから、そこにあるものしか見えない、
今の危機しか感じない。

ところが、人間は、言葉をもつために、そこにないものも想像することができ
る。そのためないものねだりをする、もっと欲しいと限りなく求めることになる。

何もしないでいてもいつか必ず経験するであろうことを、事前に考えようとする
から知識も不十分で不安になり、悩みが生まれる。

<滅諦>

 滅(ニローダ)とは、欲望そのものを亡くすという意味ではない。欲望を抑制す
る、向きを変える、遮断することをいう。

欲望は生きようとする本能に基づくため、根を断ち切ることはできない。欲望の
存在を認めた上で、しかるべき抑制をすると、欲望の働きを止めることができる
ようになる。欲望が自分を苦しめる働きを止めることができる。

<道諦>

 道というのは、頭で考えるのではなく、歩くもの、体を動かして考えるという
ことをいっている。

 道であるので、終わりがない。いつまでもどこまでも歩き続けるのである。理
想どおりに歩き続けることができたら、それが悟りである。

道元は、どんな初心者であろうと、歩き出したときに悟りの道を歩いていると
いっている。

・八正道

 心の不安の克服は、八正道を通じて行われる。

 その一は、<正見>である。これは、正しくものを見る、理解するということで
ある。世の無常、縁起の働き、生命の働き、それらを正しく見ることが、基本と
なる。

 ここで、何が正しいのかということが問題になる。正しいかどうかの判断基準
が、法(パーリ語でダンマ、サンスクリット語でダルマ)である。

 法とは、宇宙の法則。人間の常識や知識を超えた存在である。

道元は、「学道の人は、人情をすつべきなり。人情を捨つると云うは、仏法を順
じ行ずるなり」といったそうだが、この人情というのは人情味があるという文脈
での人情ではない。むしろ身長二m足らず、寿命百年足らずの人間がもつ常識的
理解や判断をさすとと私は理解する。仏法は、人間の常識を超えたところに存在
しているのである。

野生動物にも四苦はあるのに、どうして人間だけがそれを不安に思い悩むのかと
考えれば、四苦なんて気分の問題、気持ちの持ちようにすぎないということに気
づく。

 続いて<正思>、<正語>、<正業>という身口意の三業がある。ダンマに従って、
考え、語り、行動せよ。

いうのは簡単だが、実践はなかなか簡単ではない。

 この三業ができたら、人生は正しいものとなるというのが<正命>。正しく生き
たといえる。

 正命をえるためには、努力する必要があるというのが<正精進>。人を恋してい
るときに、寝ても覚めてもその人のことを思っているように、仏陀と法とともに
正しく生きることを考えよというのが<正念>。日々行を行えというのが<正定>。
念仏でも、お題目でも、座禅でも、なんでもいい。毎日行を行うことが大切である。

■ 八正道の実践についての補足

・対象との関係について

「スッタニパータ」805に「人はこれは『私のものだ』と考えるもののために
苦しむ。なぜなら、『私のもの』として所有しているものは常住ではないから。
この世のものはただ消滅するのみ。」とあるように、自分が対象を所有してい
て、自由にできると思う心、思い通りにしようとする心を抑制しなさい。そうす
れば、心は安らかになる。

 たとえば、恋人に振られたときなど、これでまた少し成長したと考えるなど、
心の持ち方ひとつで安らかな心となることができる。

 しかし、心の持ちよう、心がけだけでどうしようもないこともある。生命倫
理、戦争、平和、地球環境問題などが、それである。このような事態に巻き込ま
れると、否応なしに社会の現象によって体や心が傷つけられ、対応することが必
要となる。この場合には八正道の実践だけで、心の不安は取り除かれることはな
いであろう。別途考える必要がある。

・勇気をもって正しいことを実践せよ

「スッタニパータ」790に、正しい道、正しい法の他に参考にすべきものはな
い。「修行者は(正しい道の)ほかには、見解、伝承の学問、戒律、道徳、思想
のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されること
なく、自我を捨て、この世において(禍福の原因を)作らない。」とある。

 これは、道元のいう、「人情を捨ツべき」と通ずる話である。

昨今の日本では、自分が本心で考えていることを表に出さない傾向がある。他者
と違った意見を出したり、違った行動をとると、浮き上がってイジメにあうの
で、「臭い」と敬遠される。結果的に周りをみて、周りの反応に合わせて心にな
い発言をし、行動するという主体性のない生き方が蔓延している。

 だが、もっと強く、生きてよいのではないか。

 この「スッタニパータ」の言葉に素直にしたがえば、一般にこうであるべきだ
と考えられている行動規範である戒律や道徳は、いざとなれば無視してよいので
ある。自分の心を清めるために乗り越えるべきものは乗り越えなさい。正しい
道、正しい法のみに従って、それ以外のものは破り捨ても構わないのだ。

(2は、奈良先生の講義にほぼ忠実であるものの、私の理解不足のために、きち
んと講義を聞き取って理解し消化しきれていないところがあることを予めお断り
する。)

3 地球規模環境危機の時代のダンマ

■ 良寛の心

 文政十一年の大地震のあと良寛和尚が書いた手紙に、「災難に遭う時節には災
難に遭うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はそれ災難をのがれる妙法
にて候」とあるという。

 これは先のことを考えてあれこれと取りこし苦労しない、野生動物のような憂
いのない生き方であり、心の不安を克服する方法である。

 私たち凡人はなかなかこのような心境にはなれないが、とりあえずは、この言
葉を心にとどめておくだけでもよい。

 奈良先生の「明らめる」、現在置かれた状況を直視して正確に把握し、その状
況下で前向きに努力して生きていくという生き方、今だけを見つめ全力を尽くす
生き方も、良寛の心に近い。

 しかし、野生動物のように生きることで安心が得られたのは、地球環境がまだ
調和をもっていた平和な時である。今日のような未曾有の地球環境危機は、私た
ちがどんな心がけでいても、情け容赦なく厄災をもたらし、さまざまな悲しい状
況を生み出すであろう。

このような時代状況とは、どのように関わるのがよいのだろうか。

■ アンベードカルとの再会

 このレポートを書くために近所の図書館で原始仏教に関する文献を探してい
て、私は、約三十年ぶりで、ビーム・ラオ・アンベードカルの名前を見つけ、そ
の「ブッダとそのダンマ」という本にめぐり合った。

 二十八年前、大学のゼミで南アフリカの人種隔離政策アパルトヘイトについて
勉強しているときに、ゼミ教官が参考文献として荒松雄著「三人のインド人」を
紹介されたので読んだのだが、その本の中で紹介されていたアンベードカルに衝
撃を受けた記憶がある。

 不可触民出身で、インド建国時の初代法務大臣で、憲法起草に関わった秀才。
そういえば亡くなる直前に仏教に改宗していたことを思い出した。

 「アンベードカルの生涯」、「ブッダとそのダンマ」、さらにアンベードカル
の遺志をついでインドのナグプールで仏教の普及に精進しておられる佐々井秀嶺
上人の半生を描いた伝記「破天」と続けさまに読んでみた。なんと今年二〇〇六
年は、アンベードカルが仏教に改宗して満五十周年であり、アンベードカル没後
五十年であることもわかった。

・ダンマとは智と慈悲

「ブッダとそのダンマ」は、聖書がないために仏教が広まらないと考えたアン
ベードカルが、仏教の聖書とすべく、彼が死の床につくまで推敲を重ねた渾身の
書である。

 ブッダの生涯を通史として描いた部分と、ダンマについての解説と、主だった
教義が、アンベードカルなりの理解と想像を交えて、わかりやすく書かれてい
る。さまざまな仏典に散らばってある逸話が、アンベードカルの立てた体系に
沿って紹介されなおしているので、わかりやすい。

 本書に、法とは智と慈悲であると書かれていた。

「ダンマとは何か? 何故それは必要なのか? ブッダによればダンマは智(プ
ラジュニャー)と慈・悲(同情心、カルナー)から成立つ。」「プラジュニャー
は英知であり、ブッダは迷信を根絶したいが故にプラジュニャーを彼のダンマの
礎石の一つとした。」「慈・悲とは愛である。これなくして社会は生きることも
発展することもできないが故に、ブッダはダンマの第二の礎石としたのであ
る。」「英知と慈・悲のこのユニークな結合体こそブッダのダンマなのだ。」

■ 地球環境危機の時代のダンマ=智と慈悲

 地球規模環境危機の時代に、新たなダンマが明らめられる必要がある。

未曾有の危機の時代に心の不安を克服するためには、なぜ地球規模環境危機がお
きたのか、そもそもなぜ人類は文明という不自然なものを構築しないと生きてい
けないのかということを明らかにする必要がある。これが<智>である。

 続いて、これから到来する危機の時代に、どのような心構えが必要か、他者に
対して、動植物に対して、何を考えてどのように付き合う必要があるのかという
<慈悲>について論じたい。

<智>

・失われた絆:ヒトは洞窟で裸化したサル

 ある宗教では、造物主(神様)は自分に似せて人間を作ったと教えているが、こ
れは真実ではない。人間が自分に都合のよい神話を作り出して、自己正当化のた
めにそれを信じているだけである。

 自分に都合のよい神話があれば、科学は無用というわけか、サルから人間への
「失われた絆(=ミッシングリンク)」の研究はさほど進んではいなかった。

 たまたまニホンザルの野外調査をやっていた研究者島泰三は、あるとき突然
「なぜヒトには毛皮がないのだろうか」という疑問に出会った。これをきっかけ
として、「はだかの起原」を著したのだった。

 島の研究によれば、裸化した小型哺乳類は実に珍しく、いても一属に一種だけ
の完全に孤立した例外的な現象で、世界でもハダカオヒキコウモリ、ハダカデバ
ネズミ、コビトカバなど、洞窟やトンネルの中に住む種に限られる。洞窟の中は
温度や湿度が一定であり、飲み水も手に入りやすく、雨露をしのげるために、毛
皮が必要なくなったのだろう。

 また、遺伝学者の研究によって、世界中のすべての人類は、二十五万年前に南
アフリカに住んでいた一人の女性のDNAを受け継いでいることがわかった。

 これらのことから、現人類は、南アフリカの洞窟生活によって裸化したサルの
子孫ではないかと類推できる。

 安全で快適な洞窟の中で、ヒトは余暇を手にいれた。壁に絵を書き、顔にお化
粧をするようになった。それまで敵の襲撃から身を護る必要から後背位で行って
いた性交を対面して正常位で行うようになったことをきっかけとして、言葉を交
わしたいという欲求が生まれ、喉の構造が変化して言葉を発するようになった。
こうして文化が生まれた。

 やがて個体数が増えると、洞窟の外で暮らすほかなくなった群れが生まれた。

快適で安全な洞窟暮らしを続けていたヒトは、自然への適応能力を大幅に失って
おり、外部の自然を脅威として感じるようになっていた。洞窟内で獲得した言語
機能によって、あらぬ想像力や恐怖心が生まれ、夜もおちおち眠れなくなった。

 手先が器用になっていたヒトは、そこで自然を改造して家を作った。

これが文明の始まりだ。

文明とは野外に擬似的な洞窟を作ってそこに住むことだった。

・文明領域の過剰拡大

 地球環境問題は、人類が文明領域を広げすぎたために起きた。

 二千年前には世界人口は一、二億人程度であったとされるが、現在では六十五
億人にまで増加した。

 人間ひとりが食べる穀物は年間約二百Kgと言われている。穀物生産量は、一
定の定数をかけて耕地面積に換算できる。つまり人口増加に見合った耕地面積が
増えたことになる。

 逆にいうと、耕地面積が増えた分だけ、天然自然の森林の面積が減ったことに
なり、そこに住んでいた野生動物は餌場を失って滅んだのである。

 現在起きている現象は、森林の切りすぎや有害物質の過剰投棄などによって、
ついに人類文明が地球規模で破局を迎えつつあるということである。

かつてエジプト、メソポタミア、インダスの古代文明では、都市周辺の森林を切
りつくしたために文明が滅んだが、いまやそれが地球規模で発生して、人類全体
の生存が危うくなっているのだ。

・ 人類自らが地球環境を破壊している

 私たちは、今日の救いのない状況を、明らめる必要がある。

 ミッシェル・ボー著「大反転する世界 地球・人類・資本主義」(藤原書店
2002年)によれば、「紙、排気ガス、家庭ゴミから始まって、化学汚染物、重金
属と放射性廃棄物にいたるまでのゴミと廃棄物を現代の人類は世界中に撒き散ら
している。」

「現代の人類は、自分さえよければいいという考えに陥って次の世代、こどもた
ちの世代のことを考えずにいる。二〇一五年には、『こうなるまでどうしてほっ
たらかしにしておいたの』という問いかけが若い世代から寄せられるであろう。」

「未知の病によって人々は次々に死んでいく。女も動物も、大地も不毛のまま。
テーベの地を襲ったこの呪いからどのように逃れたらよいのか。この呪いの原因
を尋ねるギリシャ神話のオイディプス王に対して、盲目の予言者テレイシアス
は、逡巡の末に答える。

『聞くがよい。それはあなただ、この地を汚す罪人はあなた自身なのだ。』

 これは聞くに耐えない真実なのである。」

「私たちの社会も自分自身も、地球、生物、人間と人類に対して深刻な脅威を生
みだすような生活しかすることができない。そして依然として現代社会の大きな
底流となっている進歩主義のイデオロギーは、歴史の必然性の迷路の中で、人々
を行き止まりから行き止まりへと引っ張りまわしている。」

 自分たち自身の存在と生活が、この地球上に災厄をもたらしているのだという
厳然たる事実をひとまず受け入れなければならない。勇気を出して、現実から目
を背けないで。厳しく悲惨な現実を直視するところからはじめるほかはない。

・最後の外部経済と外部不経済

 最近、BRICsといって、ブラジル、ロシア、インド、中国の経済発展が注
目されている。これらの国の経済発展の背景には、環境破壊がある。たとえば、
残り少ないブラジルの熱帯林やロシアの寒帯林が大規模に伐採されている。

 自然林は、人間が何の努力もしなくても金儲けすることができる外部経済源で
あるが、もう地球上にはほとんど残されていない。

 また、インドや中国では、先進国の古い船舶を解撤する作業が行われている
が、これは先進国では環境放出が許されなくなった汚染物質や有害物質が、イン
ドや中国では法規制がなかったり監視体制が不備であるために、野放図に自然界
に放出できるからだ。

有害物質を海に垂れ流すのは、金をかけずにごみ処理を行うという点で、外部不
経済の典型であるが、もはやそんなことは地球上のどこであっても許されない状
況になっていることが理解されていないようだ。

海洋水は、地球規模の海洋大循環、蒸発散と降雨による水大気循環、深層水と表
層水の熱塩循環などさまざまな形で循環しているため、どこで海洋中に放出され
ようと、有害・汚染物質は、汚染水として、魚類の体内に蓄積されて食品内汚染
物質として、魚類の生育数の減少として、先進国にも影響は戻ってくるのである。

 こうして地球環境は今もなお悪化の一途をたどっている。

<慈悲>

 このように考えてくると、我々がちょっとやそっと努力したとしても、地球規
模での環境危機は、もはや回避することができそうにない。

 未知の病が蔓延し、砂漠化や異常気象により農作物は不作となる可能性があ
る。そうなると大量の病死者、餓死者が生まれるであろう。それにともなって、
孤児や身寄りのない老人も増えるであろう。

 そのときがきたら、私たちは、どのように生きればよいのだろうか。

・誰を恨んでも仕方ない

 地球規模の環境危機は、人類というハダカ化したサルが、文明という生活スタ
イルを始めたことの結果として、必然的に訪れたものである。

 もちろん一部の企業や生産様式や消費形態が、相対的に大きな環境被害をもた
らしているという事例もあるだろう。森林伐採を指示した責任者や、汚染物質を
海の中に垂れ流しした責任者もいるだろう。

 また、現代の政治家、知識人、ジャーナリストたちが、もっと正しく問題を見
つめて、問題解決のために精進していれば、わずかでも回避したり、一部でも悲
劇の発生を未然に防ぐことができたかもしれない。

 一部の宗教のように、人類に自然破壊を戒めたものもあったが、人類全体に戒
律を課すことはできなかった。

 今ここでおきていることは、人類文明のもつ本質的な問題である。特定の個人
に責任があるというものではないし、どんなにがんばっても、誰も人類と地球の
破局、カタストロフィーを未然に防ぐことはできない。

 あるがままの現実を、黙って受け入れる以外に選択肢はないのである。

・案ずるより死ぬが易し

 危機の時代を生きる私たちは、良寛の「災難に遭う時節には災難に遭うがよく
候ふ」という言葉にしたがって、ひたすら危機の時代を耐え忍んで生きるほかは
ない。

 悪あがきだけは絶対にやってはいけない。自分だけ、自分の親族だけ、自民族
だけ、生き延びようなどという利己的な悪あがきは絶対にやってはならないし、
仮にやったとしても無駄である。自分の生存のために、他者や他生物を犠牲にし
ようなどと考えてはいけない。

ことここに至ったならば、「案ずるより死ぬが易し」とひらきなおるほかはない。

 この危機の時代に、いかに高邁に生きるか、他の人間や他の生物の生命の輝き
に思いをいたすことができるか、傷ついた人の心を癒すことができるか、慈悲の
心を発揮するかが問われている。それこそが、人類文明のつくりあげた数少ない
よい部分ではないか。

 このように考えてみると、結局、地球環境危機の時代であろうと、四諦八正道
の実践をするほかはないようだ。

これがわかっただけでも、仏教塾に入塾して、学んだかいがあったというものだ。

危機の時代が思っていたよりも早くくるという予感にもとづいて、私は仏教塾に
入塾したのだということを思い出した。

       (二〇〇六・八・二十八)
==============================
宗教概論
From: Kumon Tokumaru

橋本治「宗教なんかこわくない!」を読んで、「宗教とは、この現代に、生き
残っている過去である」についてのレポートです。


宗教概論レポート 

得丸久文

 橋本治の著作は初めてだったので、最初は「宗教なんかこわくない!」を難解
で理解しづらいと思った。しかし、三回、四回と通読するうちに、著者の呼吸や
リズムに慣れてきて、鋭い歴史感覚や人間心理分析を読み取れるようになって、
面白く感じはじめた。

 以下、■「宗教とは」、■「この現代に」、■「生き残っている過去である」に
ついて、順に論評を試みる。

■ 「宗教とは」をめぐって

 我々は宗教に幸福を求める。

 そもそも幸福とは何なのだろう。心の安らぎ、自分の自己実現、家族の健康、
子孫の繁栄、財産、出世などいろいろと考えられるが、ここではその中身につい
て深くは掘り下げない。思想や宗教が示す生き方に従うことで、我々は幸福にな
ることを期待する。

 ちなみに、本能が生き方を規定する野生動物の場合は、思想も宗教も必要とし
ないし、そもそも幸福も不幸も思わない。本能が弱体化して、文明という特殊な
環境の中でしか生きられない不自然な動物であるヒトだけが、言語を生み出し、
思想や宗教を発展させた。ヒトは、言葉をもつことによって、将来や死後の世界
について不安や畏れを感じるようになり、幸不幸を思い煩うようになった。ヒト
の思い煩いを救済するのが、宗教や思想の役割である。

・ 思想と宗教を分けて考える

 幸せになる生き方を、自分で考え、自分で模索し獲得していくことを著者は思
想とよぶ。初期仏教は、自分の頭で考える人間が、「自らが自らであることを獲
得していくための思想」(p239)だった。悟りを開いて、自分の人生を自分のもの
にして、ただの人になる、というのが仏教本来の教えである。ただの人とは、野
生動物のように、思い煩わずに、自然に生きることをいうのだろう。

 スリランカや東南アジアの上座部仏教は、「ゴータマの教えに従って修行する
出家者を崇める」(p235)ものであり、自分の修行や実践によって悟りを開こうと
する。ゴータマの教えを、修行や実践行などの直接的身体体験によって、自分の
身体に刻み込むのは、思想的行為である。

 自らの試行錯誤の末にたどりつくもの、自力で選び取り構築するものが思想で
あるのに対して、宗教は、自分の頭でものを考えることのできない人間に提示さ
れる生き方のパッケージであり、信仰の対象である。自分の人生上の悩みや不安
を自分で解決することを諦めた人間が、誰かが用意した答えにとびつき、丸呑み
してすがりつく対象が宗教である。

 信仰とは、信ずること、疑いをさしはさまないこと、自分の頭で考えないこ
と、鵜呑みにすることである。宗教とは、この点で、マルクス主義や共産主義と
同じイデオロギーであるというのは、著者の達観である。

 だからといって、思想が正しく宗教が誤っているというものではない。他人の
言うことを丸ごと信ずる宗教よりも、自分の頭で考え体に汗して獲得した思想の
ほうが結果的に正しい可能性は高いだろうが、思想にも宗教にもそれぞれ正邪は
ある。

・大衆を悟りに導く技法としての大乗仏教

 上座部仏教は思想的であり、大乗仏教は宗教的である。

 本来、出家して修行することができない多数派の衆生を救うのが大乗仏教だっ
た。橋本流にいえば、大乗仏教の大衆性とは、修行などしなくても、誰でも「悟
りを開いて、自分の人生を自分のものにして、ただの人になる」ことができると
いうことである。

 ところが、大乗仏教は「大衆を救済しようとするくせに、それとはウラハラ
に、とっても難解」(p252)なのである。これは、貧しい労働者の救済を掲げなが
ら、難解な“路線方針”や議論ばかり繰り返してきた共産主義の前衛党指導部と似
ている。

 本来であれば、仏法とは何かがすっきりと提示されて、念仏行や坐禅など悟り
に導いてくれる簡便な身体技法と、日々の生活を送る上で守らなければならない
戒律が具体的に示されて、大衆はそれに従いさえすれば悟りを開けるのではな
かったか。

 二回目の鹿野山合宿で思ったのだが、大衆を悟りから遠ざけている原因のひと
つは、職業僧侶たちの生臭生活ではないだろうか。本来、厳しい戒律と修行を実
践することによって、大衆に先んじて悟りを開き、大衆を悟りへ誘うべき立場に
いる僧侶が、現実には、酒や淫行を禁止する戒律を破って、ぶよぶよに太ってし
まったなら、自分たちの悟りすら開けないではないか。

 指導する僧侶たちは、自分たちが悟っていないことを誤魔化すために、教義を
難解にし、公案の内容は秘密扱いとした。ブッダの生の声を記録した直截的で明
快な教えや戒めを伝える原始仏教の経典ではなく、長くて複雑で、具体的な戒律
を示さない大乗経典をありがたがる傾向にあるのも後ろめたいからではないか。

 指導僧たちが悟れないときに、どうして弟子や大衆が悟ることができるだろ
う。大乗仏教は、悔い改めるべきではないか。

 大乗仏教は、原始仏教の簡潔な教えや戒めと、坐禅や念仏で用いる呼吸法、身
体を使って汗水たらすための勤労や作務、酒や食べ過ぎや淫行を控えさせる戒律
をうまく組み合わせることで、大衆を悟りに導く具体的技法へと高められえると
期待するのだが。

■ 「この現代に」をめぐって

 日本社会は、江戸時代の檀家制度のもと、仏教が信仰の対象でなくなり、どこ
にも信仰の契機のない社会として発展した。宗教的な信仰はなかったものの、平
素から一木一草の命を大切にする信心深さが身についた社会ではあった。

 明治以降の国家神道は、ナショナリズムを思想的に裏付け、国民の尊い生命を
積極的に国家のために捧げさせる役割を果たした。

敗戦後は、原爆の報復を恐れる占領軍によって日本のナショナリズムは徹底的に
潰され、それとともに神道も再び宗教性を失って、日本は再び信仰の契機のない
社会となった。

 敗戦後の日本社会は、高度経済成長を迎えたが、成長の過程で、村落共同体の
多くがバラバラになり、道路工事や農業土木工事によって故郷の美しい山や川の
風景は失われ、野生動物も激減した。

 近代化にともなう精神の危機に対応するために、明治維新以降の日本には、数
回にわたる新宗教ブームが訪れた。社会構造の変化や農村離脱による共同体喪
失、さらに大東亜戦争敗戦の心理的ショックによって個人の不安が増大すると、
それに呼応するかのように、新しい宗教が生まれてきた。残念ながら既存の仏教
が、時代の不安に対応することはなかった。崩壊する檀家制度の維持管理で手一
杯だったのかもしれない。

 新宗教に救いを求めるまで不安定化しなかった人々が、戦後の日本社会で、心
のよりどころとしたのは、会社であった。家族のように社内旅行をしたり、家族
ぐるみで運動会や忘年会に興じたりした。もちろん出世競争や社宅内の人間関係
など、いいことずくめでもなかったが、会社は失われた共同体に代わるものとし
て機能していた。

・ 二〇世紀末から二十一世紀初頭の現代=グローバル化と環境危機

 オウム真理教や、幸福の科学やパナウェーブ研究所のような現代の新興宗教が
登場するのは、この会社社会に翳りがみえた時代である。もはや、会社は大運動
会を開かないし、社内旅行もなくなった。

 終身雇用したくとも会社自体が倒産したり、合併する時代になり、個人の好き
嫌いに関係なく転職することが当たり前になった。職場にいるのは正社員だけで
はなく、同じような仕事を派遣社員が手がけるようになり、待遇や身分の安定度
もばらばらになって、職場で気安く話をすることもできなくなった。

 グローバル化により生産拠点が途上国に移転して空洞化したものの、経営拠点
が残っていたために、働かずして収入に恵まれる植民地貴族のような生活を送る
ことができた。そして、きつい・きたない・危険の3Kの肉体労働は外国人労働者
に任せるようになる。必然的に、若者が身体を鍛える機会が少なくなり、仕事を
しない若者が増え、自宅から外に出ることのない引きこもりが増えることになる。

 東西冷戦の終結にともなって湾岸戦争、コソボ紛争、アフガニスタン侵攻、イ
ラク戦争と、地球各地で熱い戦闘が続く。これまで海外の戦火とは無縁であった
自衛隊が、いつの間にやら、インド洋や中東で恒常的に任務につくようになった。

 変化する時代の背景には、人類文明が地球規模で環境危機に直面しているこ
と、いわゆる「成長の限界」に達したこともあるだろう。

 言語学者の鈴木孝夫によれば、意味とは、個々の人間が「ある音声形態と結び
つけて頭の中に持っている知識及び体験の総体」である。言葉と結びつけるべき
経験のないもの、まったく初体験の言葉は意味をもたない。

 成長の限界、森林喪失、砂漠化、海洋汚染、異常気象、石油枯渇、人口爆発、
生物種絶滅、地球環境問題それぞれの言葉は重たいはずなのに、あまりにスケー
ルが異なっていることと、個別の経験がないものだから聞いたものの意識の上
で、意味をもたない。

 言葉は飛び交うが、意味は空転する。言葉は危機をあおるのに、誰もそれを危
機だと感じない。この不気味なズレだけは、おぼろげに感じられる。

 意識される不安に加えて、意識の限界をこえたところにある不安を感じなが
ら、現代人の心理はますます不安定になっていっている。

 二十一世紀は、ふたたび宗教や思想が求められる時代となるだろう。

■「生き残っている過去である」をめぐって

 橋本は、「宗教とは、近代合理主義が登場する以前のイデオロギーである。だ
から近代合理主義が登場した段階で、宗教の生命は終わる」(p52) という。

 実際、フランス革命も、ロシア革命も、明治維新も、およそ近代の革命はすべ
て宗教弾圧を行った。

また、国家が特定の宗教を独占的に保護することをやめた時点で、すべての宗教
が新興宗教、特殊で風変わりな“主義”となった。

 それでも、宗教が生き残っているのはどうしてだろう。

 近代合理主義の時代は、人間が合理的だと思えることだけを合理的とみとめた
時代だった。啓蒙主義は、光を当てることができるところだけ明るく照らして明
瞭に見るものの、それ以外の暗いところは見ない傾向がある。

 それに比べれば、ヒトが知覚できない領域や現象があることを認めている宗教
は、近代合理主義よりは正しい世界認識であるといえる。そのために宗教は生き
残ったのであろう。近代合理主義こそ、二十一世紀の荒波に呑まれて跡形もなく
消えてなくなるかもしれない。

・宇宙の法=仏法を、科学の力で甦らせる

 とくに屋外の瞑想や坐禅を重んじる仏教では、あるがままの自然や宇宙を感じ
取ることが心がけられている。仏教は、人間の能力や知覚や認識を超えたところ
にある大自然の営み・宇宙の法を仏法と名づけ、仏法に自らを適合させていきて
いこうとする契機を含んでいた。

 隅っこに懺悔室を置いた薄暗い教会の中に、外光の作用で輝くステンドグラス
を飾ったり、荘厳な音色のパイプオルガンを設置するキリスト教には、どうして
も嘘くささがつきまとう。キリスト教と仏教には、野外の瞑想を重んじるかどう
か、自然や宇宙をありのままに受け止めようとするかどうかの違いがあるのでは
ないか。

 今日、ゴーダマ・ブッダが活躍した時代には明らかではなかった生命や人類の
進化仮説をとりこむことで、仏教は二十一世紀にふさわしい科学思想・科学宗教
として再生できないだろうか。

 たとえば、現人類はすべて東アフリカの高地に住んでいた一人の女性の子孫で
あるとする「イブ理論」や、ヒトの手と歯の構造を手がかりとした初期人類の主
食についての島泰三氏の仮説(「親指はなぜ太いのか」)や、人類裸化の検討に
は、二十一世紀の人類が共通の認識とすべきものが含まれている。(ただし島氏
は「はだかの起原」の中で、突然変異によってヒトは裸化したというが、むしろ
雨露をしのぐことができた洞窟の中で暮らすようになり、だんだん温度調節する
必要性がなくなり、また、他の動物の毛皮を身にまとったことによる摩擦によっ
て、ヒトは毛皮を失ったと考えるほうが自然であると私は思うが。)

 また、「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルの法則や、「生物進
化において、必要な器官はより複雑に進化し、不用な器官は退化する」とするラ
マルクの用不用の法則などを踏まえた、西原克成氏の進化論(「重力対応進化
学」、「内臓が生みだす心」、「免疫 生命の渦」)は、人類の自己理解のため
に実に重要である。

 これらの新しい理論を取り込むことによって、仏教はより科学性を獲得して、
以前より以上に人々に説得力のある仏法を伝えることができるようになるだろう。

 人類は、文明の名のもとで行ってきた自然破壊を反省して、自分の目の先の利
益しか考えない狭い了見にもとづく自然観を改めて、これからより仏法に即した
生活態度をとらなければならない。

自然のことは何も知らないに等しい人類は、地球上のすべての生命に敬意を表し
て、ヘレン・ケラーのようにおずおずと自然を敬いながら生きていくべきときで
はないか。

(平成十八年七月四日)
==============================
草ぼうぼう:第一回修行
From: Kumon Tokumaru 

5月の連休中に千葉県の××寺で合宿したときの感想です。
得丸

第一回修行感想文
草茫々と生い茂っているのも「きれい」かもしれない文明の終わりに

得丸 久文

「悟りとは、一瞬の頭の転換、見性でもあるが、むしろ見性を得た後の毎日を生
き続けるプロセスである」という先生の特別講演が感動的だったので、
第一回修行にも期待していた。唱題行も講義も作務も食事もそれぞれに充実し、
修行をともにした同期生たちとの短い交流も楽しかった。

 私にとっては、静座も食事作法も風呂場の沈黙も難しくも辛くもなかった。ひ
とつだけ、心が痛み、体が動かなかったことがあるので、報告し感想を述べさせ
ていただきたい。

 二日目の午後の作務は、××寺が造成した分譲墓地の草取りだった。我々はま
だ墓石のたっていない長方形の花壇のような土地に生い茂った「雑草」の草取り
を命じられた。いったん更地となった造成地に、たくましく生い茂った草花を、
刈り取り引き抜く必要は本当にあるのか。雑草という呼称は人間が勝手につけた
ものだ。それぞれ一生懸命に花を開き、実を結んでいる草花を食べるためでもな
いのに刈り取ることが許されるのか。墓石を立てるときに邪魔なものだけを刈り
取っても間に合うのではないかと私は訝り、悩んだ。

 それでも最初のうちは、これは修行だ、作務だからと自分に言い聞かせて、心
を鬼にして草を刈った。ところが草を取り払うと、ウサギのものらしき糞がそこ
ら中に転がっている。ああ、この草花は、ウサギの餌なのだと直観した。それを
奪い取ることがなぜ自分に許されるのかと考え始めると。私は草取りを続けるこ
とができなくなった。

 それでもみんなは作務を続け、草はあらかた取りつくされた。事務局長が
みえられて、「きれいになったね」とおっしゃられたとき、神社の玉砂利や寺の
庭のように、落ち葉ひとつない状態が理想なのだとわかった。だがここは、幽玄
を求めた客がくる場所ではない。人類文明を基準とした美意識、道元が捨てろと
いった人情を貫いてよいのだろうか。

 私にはさまざまな草花が入り混じって一生懸命に生い茂っている姿も綺麗に見
える。直線で区切られた長方形の区画より、無定形に見えて自然の秩序に基づい
て繁茂する草花の姿のほうが美しい造形に感じられる。私が間違っているだろうか。


コラム目次に戻る
トップページに戻る