2433.次世代産業は江戸時代から探せ2



前回の「次世代産業は江戸時代から探せ」が好評なので、シリーズ
化することにした。今回は本草学について      Fより

本草学は今の植物学、動物学などの自然の文物を分類整理する博物
学であるが、中国の漢方を体系化した明の李時珍の「本草学綱目」
が、日本に江戸時代初期(1607年)、もたらされた。この書は
自然観に裏打けがあるという点で科学性があった。この研究を通じ
て、貝原益軒は日本の植物を中心にした「大和本草」を表し、自ら
の観察経験から分類していた。日本の博物学の確立へのさきがけに
なった。

江戸時代中期以後の幕府諸藩の殖産興業政策が、この博物学から生
み出される換金作物の採集や栽培などの実地の知識や技術を必要と
していたために、隆盛になる。

幕府諸藩から求められる産業振興策として、朝鮮人参の栽培を可能
にしたのが田村藍水であり、この栽培は中国や朝鮮でもできていな
かった。日本の特徴は、アマチア本草家が多数生まれて、研究会や
情報交換が盛んに行われていたことだ。薬品会や物産会といわれる
催し物である。

その成果として小野蘭山の「本草綱目啓蒙」や岩崎潅園「本草図譜
」ができる。日本の本草学は体系への志向が弱かったが自然物の観
察の知識集積としては大きな成果を挙げていた。

一番の有名人平賀源内も本草学の大家で、その姿勢が自然の徹底的
な観察にある。この徹底的な観察で電気などを源内は西洋書から知
ることになる。その観察する道具が有名な品々になっているのです
ね。それと薬品会を始める。これが博物学へと展開していく。

この本草学は、各種の作物の品種改良を引き起こして、その地方特
有な品種改良により、米やその他の作物の収穫高や質を高めた。
換金作物の種類なども増えている。都市では園芸が盛んになるが、
それもこの本草学の展開による。特に水稲の品種改良は目覚しいも
のがあった

農業技術の発展は近世農書の種類でわかる。農業労働論、品種論、
農業気象論、土壌論、肥料論、農具論、防虫論など多様な農業技術
が扱われている。江戸時代は適地適種の考え方であり、現在の75
%程度の収穫を上げている。しかし、豊凶の差を緩和する危険分散
に重点を置いた品種を選択している結果で、多収穫品種を選んでい
なくてもこういうことになるのは驚異的だ。

明治以後、多額の費用を掛け品種改良をして、化学肥料などのお金
を掛けて、かつ豊凶の差を緩和するとは考えていないのに、この程
度の差しかない。江戸時代は農薬も化学肥料も無いのにこれだけの
生産を可能にしたのだ。江戸時代の品種改良の成果ですね。

現在、不耕作自然農法を行っている農家の収穫量は現代農業をして
いる農家の収穫量とほとんど変わらないレベルにあるという。江戸
時代の農家は藁の多い米を作付けしたが、現在は藁の商品価値が無
いために、米自体の収穫量と味に力点を置いていることと、藁を収
穫後、田んぼに戻している。この藁の腐敗が栄養になっているよう
だ。

江戸時代、江戸の近郊農家もやはり大根、なす、小松菜などの生鮮
野菜を専作していたり、植木類の栽培や草花の種苗を専門に扱った
りしていた。盆栽や花木の栽培や観賞を都市の市民が鑑賞するよう
になり、この部分の品種改良も行われた。

このように日本人の遺伝子には、自然の観察を行い、品種改良や農
法の改良を地道に行う気質があり、それを趣味としているような人
が多いのでしょうね。私の友達にランの栽培を趣味にしている人が
いますが、趣味としては大変な金と時間を掛けていますね。どうも
団塊の世代が退職すると時間ができて、このような趣味に走る人た
ちも大勢出現するのでしょうね。

不耕作自然農業は化学肥料、農薬やエネルギーをほんとんど使わな
い農業形態であり、かつ、人力も使っていない。コストがほとんど
掛からない農業になっている。日本の気候が温暖化して、関東地方
も亜熱帯圏になり、農業形態は相当変化すると思うが、この温暖化
をうまく使うと、低コストでできる農業が可能になるような予感が
する。

そして、今後予想される石油価格の高騰で、再度材料革命が起きる
ことが明確になっている。この時、ジェミリ−ナ等の成長の早い木
を生育して、その木からエタノールや紙を作ることになるのでしょ
うね。ジェミリ−ナは3〜4年で人の背丈程度に成る。ユーカリやア
カシアは8年ぐらいかかる。材料革命は大きなビジネスチャンスに
なると感じている。今、石油の高騰で一大チャンスが訪れようとし
ている。

エタノールを作るには、発酵という過程が必要であるが、この発酵
菌を上手に使っているのが日本の江戸時代ですね。次回は発酵に焦
点を合わせて、検証しましょう。

カナダや米国の森林も後10年すると無くなる可能性があり、日本
の森林を再度、生産拠点にしていく必要がある。森林国家日本の復
活が近い。

この栽培を手助けするビジネスや品種改良した種を販売するなどの
ビジネスなどが考えられるように感じる。
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日本植物研究の歴史をさかのぼる―小石川植物園三百年の歩み―
大場 秀章
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/museum/ouroboros/01_02/shokubutsu.html

都心の緑地の減少は著しい。まるでビルの大海に浮かぶ小島のごと
くであるが、そのひとつが小石川植物園である。四季折々の植物を
観察できるだけでなく都民の憩いの場でもある。 

この小石川植物園が300年余の歴史をもつことはあまり知られていな
い。樹令250年を超えるイチョウの大木、サネブトナツメの古木があ
るのはその長い歴史があってのことである。 

小石川植物園は東京大学理学部に附属するが、貞享元(1684)年に
小石川御殿(白山御殿ともいう)と呼ばれた館林藩の下屋敷の一隅
に設けられた、徳川幕府の薬園がその始まりである。小石川御殿と
いえば、五代将軍綱吉が館林藩主松平徳松として、幼少の時を過ご
したことでも名高い。この御殿地にできた薬草園は、小石川(御)
薬園とか白山官園と呼ばれ、薬草を栽培するだけでなく、園内と役
宅に薬種製法所があり、製薬もした。また、二代将軍秀忠の園芸愛
好の遺風により、薬園内には梅、桃などの花木や花卉も栽培されて
いた。 

八代将軍吉宗は、徳川幕府中興の祖と呼ばれるが、新しい産業の振
興に努め、サツマイモやサトウキビなどの作物の導入をはかった。
医薬にも強い関心があり、当時対馬藩が一手に朝鮮から輸入してい
た朝鮮人参の国産化を推進した。元禄以降、朝鮮人参の需要が高ま
り、販売は統制され、偽物も出回っていた。 

吉宗の時代に小石川薬園でも人参の栽培が試みられたが、成功しな
かった。人参に代わって多種多様の薬草がここで栽培されることに
なった。また、享保20(1735)年には大岡忠相の進言により小石川
薬園で青木昆陽によってサツマイモの試作が行われ、関東でもサツ
マイモの栽培が可能となり、食料の安定化に役立った。 

寛政3(1791)年には114種の薬用植物がここで栽培されていた。栽
培植物の多くが実際に薬として利用され、大奥の女官が使用した糸
瓜水も毎年五斗から多い年で一石五斗が納められていた。製薬の一
部は、享保7(1722)年に町医者、小川笙船の建議で小石川薬園内に
設けられた民間人への施薬院である養生所(日本で最初の病院とい
える)での治療に用いられた。 

近代植物学が誕生したのはヨーロッパであったが、その萌芽は本草
学にあった。本草とは、「薬のもと(本)になる草」という意味で
、本草学は、薬の調合から実際に野外で薬草を探す採薬まで、医学
、薬学、植物学にかかわるさまざまな研究が含まれていた。本草学
は洋の東西で隆盛を極めたが、ヨーロッパでは16世紀には薬になる
ならないに関係なく、植物そのものを研究の対象とする植物学が誕
生した。ヨーロッパでの、歴史の古い植物園の多くは薬草園をその
前身としているのもこうした歴史によっている。 

日本ではどうであろう。江戸時代初期の本草学は明の李時珍の「本
草綱目」を中心とした文献学・解釈学で、日本の植物を中国の本草
書に記載された植物に当てようとした。植物分類学の知識が欠けて
いたため、日中の植物相には大きな相違があるとは考えなかった。 

宝永5(1708)年に完成した貝原益軒の「大和本草」をもって、日
本における本草学者が自ら植物を観察研究する時代が始まると一般
に考えられている。益軒以後、多くの本草学者が山中を巡り歩き、
薬効のある植物を発見することや今日の民俗植物学的資料の収集に
努めた。深山幽谷に限らず、野外に赴いた本草学者が直面したのは
、書物の知識だけでは到底理解できぬ日本の動植物の多様さであっ
た。水谷豊文のような一部の本草学者は自からの観察結果を書きと
め、魚拓ならぬ葉拓図や写生図を作り研究を重ねたのである。 

小石川薬園は幕末に至るまで豊文のような植物研究を推進した本草
学者とは直接関係をもつことがなかった。あくまでも製薬のための
栽培園、製薬場として機能したのである。 

小石川薬園は、幕末の混乱期にも存続した。幕府瓦解後、明治元年
6月11日医学所頭取前田信輔、大西道節がこれを請け取り、東京府の
管轄に移し、大病院附属御薬園となった。その結果、混乱による壊
滅的な破壊からまぬがれることができ、植栽されていた樹木などが
残ったのである。明治2年にはこれが大学東校の管轄となり、医学校
薬園、明治4年7月には大学東校薬園と呼ばれた。明治6年3月には太
政官博覧会事務局へ併合された。このような目まぐるしい変遷を経
て、明治8年2月に文部省所管教育博物館附属となって、ここに小石
川植物園と呼ばれることになった。明治10年に東京大学が創立され
るとともに、植物園は大学附置となったのである。 

水谷豊文の弟子であった伊藤圭介は、本年(1996年)が生誕200年に
なるドイツ人シーボルトに植物学を学んだ。東京大学の設立と同時
に東京大学の員外教授(後に教授)となり、園内に栽培される植物
の分類を研究した。一方、コーネル大学に留学した矢田部良吉は、
初代植物学教授となり、植物園の管理と運営に携わった。   

本学が東京帝国大学と呼ばれるようになった明治30(1897)年に植物
学教室は植物園内に移転した。この時代の小石川植物園は、日本で
の植物学の研究の中心となったばかりか、生きた植物の収集と並ん
で「おし葉標本」が収集されることになった。おし葉標本は植物を
安全にかつ場所もとらずに保存する最良の方法として、今でもその
右にでるものはない。おし葉標本からDNAさえ抽出でき、花粉のよう
な微細な構造の解析にもおし葉標本が活用されるのである。 

おし葉標本を収蔵することは、矢田部良吉がコーネル大学で実際に
見聞したに違いない。また、圭介の師シーボルトも日本の植物のお
し葉標本収集に精力を傾けていたし、圭介もこれに協力し、自家用
のおし葉帳も作っていた。矢田部らは必死になって大学の標本室に
おし葉標本を収集した。矢田部以後も標本の充実に努めるとともに
、標本を研究に積極的に用いた。5000点を超すタイプ標本をはじめ
論文に引用されたオーセンティックな標本が多いのはそのためであ
る。点数でも現在約170万点に達し、植物園と当館に分蔵されている
。数量だけでも、大学としては世界の十指に入る世界的コレクショ
ンである。 

伊藤圭介も矢田部良吉もおし葉標本と並び、植物画の作成に努めた
。圭介の弟子の一人で豊後学派の本草学者として名高い賀来飛霞が
小石川植物園に勤務していたことはあまり知られていない。彼は日
本画にもすぐれた才能をもっていたが圭介・飛霞のもとで画作に励
んだのは日本画の系統を継ぐ加藤竹斎である。矢田部の植物画は洋
画の作風をもつ渡部鍬太郎が描いている。 

はやくも大学への附置が定まった明治10年の10月には「小石川植物
園草木目録前編」が理学部印行として出版された。これは東京大学
の最初の出版物であろう。小石川薬園が植物園となってただちに世
界の植物園に並ぶ活動を開始することができたのは、江戸の本草学
に端を発した植物研究の水準が相当のレベルに達していたことが大
きい。大学の植物学教育に先だって、圭介ら本草学者が日本の植物
についていかに深い知識を有していたかを証明するものである。
明治14年に圭介と賀来飛霞が著わした「小石川植物園草木図説巻一
」は当時の植物学の世界水準に達しており、欧米の注目を集めた。
多くを描いたのは加藤竹斎である。 

ところで小石川植物園の名物といえば、必ずそのひとつに加えられ
るのは、旧岡田屋敷にあった大イチヨウだろう。樹齢は250年を超え
るが、幹はまっすぐに伸び、いまなお盛んに葉を繁らせたその樹姿
は素晴らしい。その小石川植物園の大イチョウで、いまからちょう
ど100年前に精子が発見された。この発見は当時の学説を根本からく
つがえすものであり、創設まもない日本の植物学が世界に注目され
る契機となった。 

ところで、今日の植物園は二つの役割をもっているといえる。一つ
はいうまでもなく植物学の専門研究と教育それに系統保存などの事
業であり、他は植物と植物学についての知識の普及である。小石川
植物園が設立の当初からこの双方の役割を果してきたことはあまり
知られていない。小石川植物園は大学創設とともに一般に公開され
てきたが、これは当時の日本の大学としては異例のことであった
(明治21年からは観覧料を徴収した)。 

御薬園から数えれば300有余年の歴史をもつ小石川植物園を中心に、
日本における植物学の黎明期の様相を展望してみたのが、秋季特別
展「日本植物研究の歴史をさかのぼる――小石川植物園三百年の歩
み」である。 
(本館専任教授/植物分類学)


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