2366.記憶する遺伝子



「記憶する遺伝子」   S子   
   
 ▼グラスノスチ(情報公開)と資本主義の本質
1985年3月ソ連共産党の書記長に就任した若き指導者ミハイル
・ゴルバチョフは、1964年に失脚したフルシチョフの改革に再
着手、ソ連の硬直化した体制を抜本的に改革するためにペレストロ
イカ(再建、建て直し)を提唱した。

1986年4月に起きたチェルノブイリ原発事故を契機としたグラ
スノスチ(情報公開)の推進では、ソ連共産党の秘密主義体制を根
底から揺さぶる結果となり、これが端緒となって東欧の民主化革命
が起こり、ソ連は一気に崩壊へと突き進んだ。

このような背景を知ると、我々人間にとって生きてゆくために必要
な「知る権利」としての情報開示が、いかに重要であるかがわかる
。そして、その得た情報で人がそこでどのような動きをみせるのか
、また、それでどのような生き方に人は変化してゆくのかというこ
とが、そこから観察できる。

グラスノスチ(情報公開)によるソ連共産主義の敗北は、勝利した
資本主義を優位に立たせたことはもちろんのこと、資本主義はより
一層の情報開示にまい進し、我々を取り巻く状況は情報過多社会を
通り越して、今や情報汚染社会を生み出しているのは誰の目にも明
らかである。

こうなると資本主義にとっての本質は、実体経済や実体なき経済で
はなく、偽善や嘘でもなく、ただ「情報」のみであるということが
明確に浮かび上がってくる。

ソ連共産主義にとっては、いかに上手く情報を隠遁、遮断して国家
を生きながらえさせるかが重要なテーマであったわけだが、資本主
義にとっては「情報」は不可欠であり、「情報」なくしてはモノも
人も動かなくなってしまっているのであるから、資本主義を発展さ
せてゆくためには情報開示度はますますエスカレートしてゆくしか
ない。だから情報汚染社会という現象は、資本主義の本質である「
情報」そのものが生み出した当然の帰結だと言える。

▼情報に介在する言葉
資本主義においてマネーはあくまでも経済の手段であるにも関わら
ず、支配層は情報を一方的に提供、それを利用して、マネーという
手段を目的化させてしまった。物事の価値判断をマネーで数値化し
てしまえば、経済社会に依拠して日常生活を営んでいる一般国民に
は非常にわかりやすく、誰もがすんなりと納得しやすい。

それはまるで科学が希求している「統一的視点」そのものである。
【「統一的視点」とは誰もが理解できるような言葉で、多くの人々
の想像力にアピールし、一貫した世界観を満足させるような方法で
表現されなければならない、というもの】(「DNAに魂はあるか」
p354より)

つまり、マネーの目的化は、誰にも受容されやすく一般化しやすい
というマネーの魔力を巧妙に利用した我々を陥れるための罠である
ということだ。

また、資本主義の本質である「情報」提供は、そこに言葉が介在す
るということであり、言葉は人と人が互いを理解し合うためのコミ
ュニケーションの手段のひとつであるということだ。が、支配層は
ここでもまた科学の「統一的視点」を利用し、言葉が人間相互を理
解し合う全てであるかのように振舞っている。

言葉が人間相互を理解し合う全てであるのなら、この世界から争い
や暴力、武力攻撃等はとっくの昔になくなっているはずである。そ
れが未だにこの世界から消え去ることはなく、むしろあえて戦争を
輸出している大国があるのを知れば、言葉が人間相互を理解する全
てではないということを我々はよくよく認識しておく必要がある。

言葉は「推測の産物」であり、資本主義は実はこの「推測の産物」
という言葉の「情報」提供によって動いている。例えば、今年はは
しかが流行しそうだから早めにワクチンを接種しておいたほうがい
いとか、女性にうつ病が増加しているという情報を知れば、気分が
落ち込んだ日が続くとそうではないかと勝手に自己診断して不安に
陥るとか、介護保険制度が導入されれば、老後は介護を必要とする
生活になるのだと我々の意識に無意識に刷り込まれたりするとかで
ある。

また、出生率が1.25と最低を更新したことを受けて日本政府は
その対策に追われるようだが、それは出生率の最低更新を良くない
と政府が推測判断したことから生じることであって、これがカオス
における自然な秩序の調和の始まり現象だと捉えるとまた違った見
方ができ、国家の未来像がここで大きく分かれてくる。

要するに、資本主義は言葉(言葉は頭脳知である)を介した「情報
」提供をすることによって、我々の意識に容赦なく無断で絶え間な
く働きかけ、我々の意識や欲望を無意識下で操作し、支配層が望む
ような世界を創造、構築しようとしているための隠れ蓑ということ
である。

そして、支配層は経済社会における手段としてのマネーを目的化さ
せたこと(マネーの目的化を我々の意識にきっちりと刷り込んだこ
と自体は彼等にとってひとつの勝利かもしれない)により、我々を
マネーという魔力の呪縛から逃れられないように仕向け、弱肉強食
の世界を生み出している。

▼適者生存のルール
マネーの目的化により、我々にとってはマネーそのものが生きてゆ
くための指標となり、マネーが全てであるという世界が生まれ、そ
こに持てる者と持てない者という二項対立構造が生じた。勝ち組、
負け組みという言葉も生まれ、我々は容赦なくそこに振り分けられ
、位置づけられ、弱肉強食の世界へと放り込まれてゆく。

弱肉強食世界に生き残れない者は、この世界からどんどん脱落して
ゆく。詐欺、殺人、放火、精神病、自殺等、脱落してゆく理由は人
それぞれだろう。が、本当にこの世界は弱肉強食の世界なのだろう
か、ということである。

マネーは経済社会におけるモノとの交換手段として我々人間が作り
出したものであり、我々はその自らが作り出したルールの中で生き
ている。調和と循環の中にある自然界に生きている他の生物にとっ
ては、これはまったく無用なルールであることは至極当然だ。なら
ば弱肉強食は人間界だけの生存ルールだということになる。

我々が生息している地球を含めた広大無辺な宇宙にはカオスという
自然な秩序としての「方向性」があるだけであり、そこにはどんな
決まりもない。カオスの「方向性」にあるのは「変化」と「進化」
のみだけであって、我々はカオスの調和と循環をただ受け入れ、そ
こで自らを「変化」、「進化」させて適応しながら生きるしかない
のである。我々人間はそうやって今日まで生き延びてきたのではな
かったのか。

我々の現実にある世界は弱肉強食のルールではなく、適者生存のル
ールが本質であり、弱肉強食というルールはあまりにも表層的な一
面にしかすぎないということを我々はしっかりと認識しなければな
らない。現実をしっかりと見極めるとはそういうことである。

しかしながら、我々自らが作り出したルールに我々自身が呪縛され、
そこから解き放たれずに苦しみもがいているのは一体何故か。

▼視覚文化の光と闇
今や我々の世界は視覚文化全盛期である。自動車、電車、飛行機、
船舶、テレビ、スクリーン、携帯電話、パソコン等、居ながらにし
て仕切られた四角い画面を視覚に訴えるだけで我々は様々な情報を
得ることができるし、遠くの目的地に短時間で身体を酷使すること
なくして辿り着くことができる。

今まで知らなかった世界が眼前に広がり、我々の好奇心は刺激され
っぱなしである。身体を酷使することなくして娯楽を手に入れられ
るとは何て素晴らしく、我々は何て自由な世界を生きているのだろ
う。こうして視覚文化の光的側面は見事に我々に甘受されている。

しかし、視覚文化は頭脳知に依拠しており、我欲が暴走してしまう
ということは以前にも指摘した通りである。身体を使わずに頭脳に
頼りすぎると、我々は物事の表層的な部分しか捉えることができな
くなり、楽をして得た情報というものは記憶が曖昧になり、すぐに
薄れてしまう。要するに、頭脳知依拠の視覚文化は知識を得ても非
常にうすぺっらなものでしかないということだ。

また、視覚文化は我々の「目」を奪う。実は我々人間は「目を動か
さずにはほとんど何もできないのだ」。(「DNAに魂はあるか」p
91より)そして、この「目」の動きは我々の意識や思考に大きく
関与しているようだ。

更に、我々の注意の仕方でものの見方が大きく変わるのは誰もが経
験していることだが、この注意という行為は連続的であり、それは
「目」の動きよりもうんと速いそうだ。

このように視覚文化の中で我々の「目」だけが異常に酷使されてい
るという状態が生まれているということが、ここから観察される。
ということは、それだけ我々の意識や思考が視覚文化に支配されて
いるということである。視覚文化で我々が失った闇の側面がここに
ある。

こうして見てくると、我々の意識は視覚文化と資本主義の「情報」
で絶え間なく揺さぶられ、操作されて、自らの意思で生きることな
どできなくなっている。

視覚文化と資本主義の「情報」は、我々の意識を均質化、画一化さ
せようとし、行過ぎた頭脳知依拠の世界に身体全体はバランスを失
い、我々は発狂寸前の状態に追い込まれているのだ。今日多発する
異常な事件は、実は我々人間の身体全体が発する助けを求める叫び
の信号ではあるまいか。

▼日本人の食習慣とその気質に見る身体知
日本人の食習慣に刺身を食べるという行為がある。特に釣りたて、
獲れたての新鮮な魚の刺身の味は格段においしく、呑み込むと同時
に刺身の新鮮さが身体中に染み渡るように感じられ、自然に笑みが
こぼれ嬉しくなってくる。

新鮮なものには普遍性が宿っていると伝えられており、古来から神
への貢物として献上されてきた。その普遍性を日常的に食すことで
日本人は身体にそれを取り込み、細胞へと記憶させているのではな
いかと私は思っている。

生きるために新鮮な刺身を食べるというあまりにも何気ない行為で
ありながら、知らぬ間に日本人は身体で普遍性を体得してしまって
いるのである。誰から教わるわけではなく、我々日本人は食べると
いう行為そのもので知恵を身につけていたのだということがわかる
。

また、日本人の国民気質として「曖昧性」が特徴のひとつとして挙
げられるが、今日のグローバルな世界を生き抜くには、この「曖昧
性」は非常に不利な立場に置かれる。特に、外交面ではイエスかノ
ーかどちらかの明確な選択を迫られる。日本の政治家は、相手の解
釈によってはどちらともとれるような曖昧なものの言い方をするの
を得意としていたが、最近ではそう言う政治家も少なくなった感が
する。

この国民気質としての「曖昧性」が実は、我々身体の免疫細胞のあ
り様そのものの特性と一致している。胸腺(1960年以降に登場
した比較的新しい言葉)は、「自己と非自己を識別する能力を決定
する免疫の中枢臓器である」(「免疫の意味論」p74より)が、
その働きは非常に複雑である。

胸腺における免疫システムは、刻々と変化する外部環境や内部環境
に適応しながら自己を組織化しているために、免疫における「自己
」というものは次々と変容している。

そして、「非自己は自己というコンテキストの上で認識される」(
「免疫の意味論」p40より)ために、「非自己」も「自己」の変
容とともに変化しているという、相互な曖昧性の関係の上で両者は
繋がっているのである。その免疫細胞の特性がそのまま日本人の国
民気質として表出しているのを知ると、日本人は身体知に依拠して
生きている国民なのだということがわかる。

しかし、溢れかえる視覚文化と資本主義の「情報」の波は絶え間な
く我々を刺激し、揺さぶり、次第に身体知としての記憶を絶たれて
ゆくような危機感を覚える。

▼記憶する遺伝子
こうして見てくると、視覚文化の中では身体の頭脳という臓器ばか
りがクローズアップされ、頭脳こそが我々人間自身を支配している
全知全能の神であるかのように錯覚されてくる。頭脳という臓器が
他の臓器を駆逐、圧巻してしまっているために、頭脳の支配下に置
かれた他の臓器は、頭脳からの指令がないと動けないように我々自
身が思い込まざるを得ない状況が生まれている。

それは我々人間が二足歩行で立って歩いたために生じた二項対立構
造が、気の遠くなるような長い長い人間の歴史をかけて今日顕在化
した結果だった。確かに頭脳は身体のどの臓器よりも高い位置にあ
り、視覚文化の中で核心的存在にある「目」とともに優位を誇って
いるのは間違いない。

しかし、我々の世界はガチガチの物質界であることを忘れてはなら
ない。物理学が科学の分野では最底辺に位置しているように、我々
人間の肉体というものは、足の文化という身体知そのものなのだ。
二本の足で大地を踏みしめ、そこから得られる地球のエネルギーを
実感、吸収し、身体に取り込み循環させ、またエネルギーを散逸さ
せてゆく。

地球という物質界と我々の身体がそこで繋がっているということが
重要なのである。

視覚文化の中で頭脳は確かにひとつの帝国を築き上げはしたが、頭
脳だけで得る知識は所詮「借りもの」でしかない。物質界において
は想像、思考したものを具現化させ、創造、構築してゆくという行
動が大事であり、その体験を通して自らの身体へそれを覚えさせる
のである。それが独自のスタイルとなり、独自の知恵を生み出す。

実は記憶は頭脳ではなく身体の細胞がおこなっていた。体得したこ
とを身体の細胞が記憶し、それを頭脳へ指令として送り出している
というのが本質である。が、視覚文化ではこれが逆転現象となって
表出しているために、頭脳に優位性を持たせ、誤った認識を我々は
抱いてしまった。そこから我々はものごとの本質を捉えることがで
きなくなったのである。

▼平和の遺伝子
しかし、幸いにして我々日本人は食習慣や国民気質に見られるよう
に、身体知の記憶が遺伝として継承されている。そして、我々日本
人にはもっと重要な記憶が遺伝されているようだ。

それは、江戸時代の鎖国を体験した「平和の遺伝子」の記憶である
。今日ではその「平和の遺伝子」も「平和ボケ」であると我々は自
らを卑下している。が、260年間も平和が続き、調和がなされた
鎖国時代を体験した我々の先祖を思えば、たかだか60年間平和を
享受しただけで「平和ボケ」だとは何とも情けない話ではないか。
それこそ「修行が足りない」のである。

我々が今後思考しなければならないことは、江戸時代の鎖国をも超
越するような平和と調和を達成してゆくにはどうしたらよいのか、
ということである。それをこの世界で具現化、創造、構築しようと
我々ひとりひとりが行動に移し始めた時に、地球という惑星にひと
つの結晶化現象が開花するのではないだろうか。

参考文献 
「DNAに魂はあるか」  F・クリック著  講談社
「免疫の意味論」  多田富雄著  青土社
「宇宙には意志がある」  桜井邦明著  徳間文庫
「地球人類 28の真実」  上宮知樹著  今日の話題社

「自立の精神を育む情報開示」
http://www.hokukei.or.jp/hiroba/yamazaki/0402.html

「ソ連崩壊」 フリー百科事典「ウィキぺディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%B4%A9%E5%A3%8A

「ミハイル・ゴルバチョフ」 フリー百科事典「ウィキぺディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%......


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