2272.全共闘と2・26事件



全共闘と2・26事件

地球浪漫 第2号

平成18年2月26日 得丸 久文
 
201) 2月最初の土曜日の午後、東大・安田講堂で開かれた公開
シンポジウム「サステイナビリティ学が拓く地球と文明の未来」を
聴講。

 サステイナビリティ学が何をどんな手法で研究し、社会にどう適
用しようとする学問か私は知らない。だが、70年代に「ソフト・エ
ネルギー・パス」という本を書いて、地球環境問題対策に代替エネ
ルギーの利用を訴えたエモリー・ロビンスが講師のひとりだ。30年
経った今、彼は何を提言するのだろう。計量(マクロ)経済学者佐和
隆光も講師だ。等身大の発想では理解しえない地球環境問題を、マ
クロ思考の専門家はどう受け止めているのか興味をもって参加した。

 安田講堂正面玄関と講堂部分に足を踏み入れたのは生まれて初め
てだった。開演前と中休みに2階部分を歩いて、正面の便殿、右翼
の旧・総長室、背後の講堂部分2階席の配置を確認した。

202)「安田講堂 1968-1969」(中公新書、2005)の著者島泰三氏
は、「はだかの起原」(101)の著者でもある。

  1969年1月の安田講堂事件のとき理学部学生だった島先生は、本郷
学生隊長として安田講堂にたてこもって逮捕され、懲役2年の刑に服
した。島先生がずっと在野で研究を進めてこられた理由は、これだ
ったのか。

(2) 事件当時機動隊を指揮していた佐々淳行は、「安田講堂で逮捕
された、377名の学生の中には、東大生は20名しかいなかった」、「
いざとなると <日和る>要領のよさと精神的なひ弱さは、いかにも秀
才・優等生ぞろいの東大生らしい」(「東大落城 安田講堂攻防72
時間」1992年)と、東大全共闘を「卑怯者」として貶めた。

  しかし、事件のとき「たてこもっていた東大の学生、大学院生、
青年医師たちの数はかなり多く、安田講堂だけで70人を超えていた。
彼らは全員が逮捕され、有罪判決を受けた。」(「安田講堂」)

「これらの青年たちは、36年後の現在に至るまで沈黙を続けた。(略)
それは怯懦(きょうだ)のためではない。(略)この事件に直接関与し
た当時の青年たちにとって、この事件について語ることは一種のタ
ブーとされている。そこには、重い意味がある。強い抑圧がある。
これほどに強く抑圧される出来事には、人間性の深い本質が隠され
ている。(略)」

(3) 佐々と島と、どちらの語ることが本当だろう。

 誰かが語る「歴史」を、ウソかマコトか聞き分けるのはとても難
しい。自分自身が正しい歴史観や歴史感覚をもつ、語られている細
部や語られない(隠されている)部分に気を配る、他の物語りと比較
し照合するなどして、やっと語り手のウソや誤解や誤見を見抜ける
ようになる。読む側・聞く側に、技術や力量が求められるのだ。

 歴史とは物語りである。英語で歴史(history, ヒストリー)がお話
(story、ストーリー)を含んでいるように、仏語で歴史(histoire、
イストワール)がお話 (histoire、イストワール)そのものであるよ
うに。

 物語る行為において、話者と物語る内容との関係には2通りある。
ひとつは、直接体験。自ら体験したことの物語り。成功・失敗談、
自分史、旅行記、記録、証言。被爆や水俣病の語り部。もうひとつ
は、間接体験。誰かから聞いた話、本や記録や調査したことに基づ
いた物語り。歴史家の描く歴史も、歴史小説も歴史教科書も、伝記
や評伝も、講談も神話も民話も、こちらの部類に属する。

 ごくたまに、複合(ハイブリッド)型の物語りが編まれる。直接体
験者が、自ら歴史家となって、同じ体験をした他の人たちの物語り
を総合する。自分の体験を、同じ体験をした他の人々の証言や当時
の記録と重ね合わせることにより、時・空間の個人的な限界を超え
た、より力強い物語りが生まれる。語ろうとする対象が複雑で、時
間的にも空間的にも広がりをもち、一個人の証言では語りおおせな
いとき、人々が知らない真実を伝えようとするとき、この手法がと
られる。

 複合型の物語りの代表作はソルジェニーツィンの「収容所群島」
(1973年)だ。ロシア革命直後から、1970年代までの50年以上にわた
って、ソ連邦各地で生成発展した強制労働収容所(グラーグ)。罪も
ないのにここに送りこまれ、劣悪な環境で無償労働を強いられた数
千万人の人々の無念と恨みの「物語り」は、この手法抜きに語れな
い。

 「安田講堂」も複合型の物語りだ。島個人の体験や記憶と、他の
運動参加者が集めた資料や書き残した文章、当時の新聞記事をもと
に、運動の発端からクライマックスの安田講堂攻防戦までを、細部
にこだわって、時系列に沿って整理している。  

(4) 本書は、1968年1月、ベトナム戦争に投入されていた原子力空
母エンタープライズの佐世保入港反対闘争にはじまり、日大闘争、
東大・医学部闘争、そして日大と東大の全共闘の合流へと展開・発
展し、クライマックスの69年1月の安田講堂攻防戦に至る出来事を
淡々と記述する。

 私は、時間の経過にともなって盛り上がる運動の状況を、淡々と
読み進んだが、全共闘の学生たちの純粋さに心を打たれた。彼らに
打算や邪心はない。大学側の処分や待遇がおかしいので改善せよと
求めただけである。彼らは、民主的な対話を要求した。大学当局や
教授たちが、学生の声に耳を傾けていたなら、暴力学生を動員しな
かったなら、あれほどの暴力沙汰にはならなかっただろう。

(5) 8の「安田講堂攻防」のところまで読み進んでくると、いやお
うもなく緊張が高まってきた。そして、「これは2・26事件に似
ている」という内なる声がする。私の中の歴史感覚が呼び覚まされ
たのだ。今年で満70年になる1936年2月26日の事件と安田講堂事件に
はいくつかの共通点がある。

i. 正義感の固まりの信じやすいエリートたちが私心のない純粋な
心で戦いに参加したこと。

ii. しかし、その純粋な行動は、当局からまったく無視され、問答
無用で制圧されたこと。

iii. 戦いに敗れた後も徹底的に弾圧されたこと。

 2・26事件の首謀者は、密室の軍事裁判によってほとんどが死
刑判決を受け、直ちに銃殺された。安田講堂事件では、大学の講堂
に立てこもっただけの学生たちが、懲役の実刑判決を受けた。思想
犯ならば禁固刑が妥当なのに、あえてこらしめの強制労働を伴う懲
役刑だった。犯した罪と比べるなら、あまりに重い量刑である。

iv. ともに事件後の強い抑圧によって、30年間、事件は語られるこ
となく、固く封印されたこと。

 2・26事件の語り部は生き残らなかったが、英霊たちが降霊し
、30年後の昭和41年に三島由紀夫の「英霊の声」が生まれた。霊が
憑依して生者に物語らせる、超常型の歴史物語りである。

 安田講堂の場合、島の著作が出るまでの36年間、まとまった記録
や証言は出ていない。

 ちなみに、三島は東大問題について、「戦後20年の日本知識人の
虚栄に充ちたふしだらで怠惰な精神に、決着をつけた出来事だ、と
いふのが私の考へである」と書いた。また、安田講堂落城の当日、
三島は佐々課長あてに「学生を飛び降りさせないよう、慎重に」と
電話で伝言を入れた。「当時の大人のなかではひとり三島由紀夫だ
けが、青年たちの叛乱というこのただ今進行する歴史に切りこもう
として、七転八倒したことだけは忘れることができない」と島は書
く。(P291)

 iii.の厳罰とiv.の歴史の封印は、双方の事件に共通する謎である
。まさにこの二つの事件の背後に、日本の政治の最高機密が隠され
ている。

203) 吉田喜重監督の映画「戒厳令 伝説・北一輝」(1973年)
のシナリオを担当した別役実は、戯曲「太郎の屋根に雪降りつむ」
(初演:藤原新平演出、文学座アトリエ、1982年)によって、2・26
事件を、演劇的に物語った。私は初演をみたが、最後の場面で絶叫
された磯部浅一の獄中記が、深く印象に残った。

(2) 北一輝(傷病兵1)の台詞を一部紹介する。

傷病兵1 連中はこう考えている。正義というものがどこかにある
はずだとね。(略)しかし、あるはずの正義が我々の目に見えないの
は、それが一室に閉じこめられていて、しかもそのまわりを、私利
私欲を肥やすことにのみ血道をあげる奴等が、十重二十重に取り巻
いているからだ。そこで連中は、びっしりとへばりついたそいつら
を、一枚々々ひっぺがして、部屋の扉を開け、閉じこめられている
正義を開放しようとする・・・(略)
傷病兵4 でも、それじゃあ何故、奴等は連中にやらせるんです?
傷病兵1 そのカラクリをあばこうとするものがどうなるかを、知
らしめるためさ。そうしておけば、もう二度と、そんなことをしよ
うとする人間は現れない・・・。(略)
男1 無駄死にですよ。みすみす、無駄死にしようとしているんで
す、(略)・・・
傷病兵1(ほとんどつぶやくように)それが無駄死にかどうかなん
て、誰にわかる・・・。もしかしたら連中は、奴等の壁の内側に、
踏みこめるかもしれないじゃないか・・・。
男1 でも、そこには何もないんでしょう・・・?
傷病兵1 何もないとしたら、そのことを知るのは悪いことじゃな
い・・・。連中にとっても、我々にとってもね。(略)人間は、そ
んな風にして死ぬべきだ・・・。絶望して、野垂れ死にすべきだ・・・
(やや間・・・。かすかに雪が降りはじめる。)
傷病兵1 それに、いいかい・・・。あの壁は、その内側に正義が
存在すると、固く信じて疑わないものにしか、突破できない。あの
連中がそれだよ。(略、やや間)
傷病兵1 どうだい・・・? 連中にその疑いを吹きこんで思いと
どまらせるかい・・・? 私はそうしたくないね・・・。連中には
、連中の信ずるままに、行動させるべきだ・・・。壁を突破させて
、そして・・・、絶望させるべきだ・・・。(略)奴等はね、皮肉
な話だが、そこに正義が存在することを、そんなにも固く信じてい
る連中がいるなんて、思いも及ばないのさ・・・。(間)
傷病兵1 行くべきだよ、連中は・・・。もしかしたら我々は今、
明治の建国以来、はじめてそのチャンスを、迎えようとしているの
かもしれないんだから・・・。(遠い号令が、いくつも交叉して、
軍靴の音も、それに重なる。雪が降る。)

(3)  <<撃てーっ>>の声。銃声。
声(絶叫) 全日本の窮乏国民は一致して特権者を討て、倒幕を断
行せよ、然れどもその戦場を法廷に求むるなかれ、その武器を合法
的弁論に求むるなかれ、余は言わん、全日本の窮乏国民は神に祈れ
、而して自ら神たれ、神となりて天命を受けよ、天命を奉じて暴動
と化せ(略)
  <<撃てーっ>>の声。銃声。
声(絶叫) 天皇陛下、この惨胆たる国家の現状を御覧下さい、陛
下が、私共の義挙を国賊反徒の業と御考えあそばされておられるら
しいうわさを刑務所の中で耳にし、私共は血涙をしぼりました。真
に血涙をしぼったのです。天皇陛下、なんという御失政であります
か。なんというザマです。皇祖皇宗に御あやまりなさいませ。(略)

204)佐々は、「ベトナム戦争と中国の文化大革命の余波を受け
て起こった<香港暴動>」時に、香港政庁の治安当局との情報連絡と
、在留邦人脱出計画を担当していたため、香港「総領事の希望であ
と1年留任することになっていた」が、風雲急を告げる第2次反安保
闘争の嵐の中で急遽帰国命令を受け、1968年6月29日に、3年4ヵ月
の香港総領事館勤務を終えて日本に帰国する。(佐々、前掲)

 佐々が香港で学んだ英国式危機管理とは、「投石の届かない安全
距離をとって対峙し、遠慮会釈なく催涙ガス弾を斉射し、「木弾」
を撃ち、追い散らしてしまう」ものだった。この英領植民地の暴徒
鎮圧手法を、学生に向けて採用すべきだとの意見具申をした後の帰
国命令だった。

 学生たちを、植民地の暴徒と同一視して、力ずくで制圧すること
に、佐々はいささかも疑問を感じていなかったようだが、私にはそ
れがひっかかる。このために民主的対話が成立しなかったのではな
いか。これが真の敵ではなかったか。

 佐々をはじめとする官僚や政治家たちが、学生を植民地の暴徒と
同一視して疑問に思わなかったのは、なぜか。佐々たちが卒業した
戦後の東大法学部は、学生や民衆への慈愛の精神を忘れ、大局や大
義を求めない、命令されたことだけ実行する植民地官僚を育てる機
関になり下がったか。

(2) 1月19日の安田講堂攻防戦で、機動隊は、安田講堂正面玄関に
道具をもってくれば楽々とバリケード解除ができたはずなのに、そ
れをしなかった。「これが分からない」、「さっぱり分からない」
と「安田講堂」の中で島は疑問を呈する。

 その答は、佐々の物語りに隠れていた。

「安田講堂のバリケードは、1月9日の乱闘事件のあと、『日大工兵
隊』が応援にきて、格段に堅牢なものに強化されたという。/ まと
もに攻めたんでは殉職者が出かねない。
『ようし、非常手段だ。ビル取り壊し用のクレーンと1トン鉄球を借
りてきて正面玄関のバリケードをぶっ飛ばしてやろうぜ。(略)』
下稲葉部長に報告して、どんどん手配していたら、総監がお呼びで
すという。(略)
『あのなあ、それだけはやめろ。ありゃあ国の指定文化財だぞ』」

 このときの総監のお言葉は、実は、『正面玄関の上にはなぁ、天
皇様のお部屋があるんじゃあ』ではなかったかと、私は推測する。
ちなみにこの鉄球案は、浅間山荘事件の時に陽の目を見る。

 1月に島先生に教えて頂いたのだが、安田講堂建設の目的は、講
堂ではなく、帝国大学に行幸される天皇のご休憩所だった。講堂は
あくまで付け足りで、正面部分とは別棟のようになっている。

 天皇の部屋は便殿(玉座の間)と呼ばれ、大講堂正面の2階中央部分
にある。しかし、講堂を占拠した学生たちは、最後までその部屋に
気づかなかった。「もし部屋に入っていたら、運動は変わっていた
かもしれない」と島先生はいう。「どうして入らなかったのですか
」と伺ったところ、「総長が一番偉いと思っていたから」だそうだ。

205) 以下は私の浪漫派的戦後史解釈である。

 敗戦後、天皇が主権者の座から降り、日本は主なき状態、主権者不
在になった。国民は忠誠の対象を失い、国家は責任者を失った。

  最高責任者がいなくなった日本は、総長も総理大臣も、政治家も
官僚も、誰も責任を取らない無責任な国になった。各自が自己の責
任を果たさないことには、民主主義は成り立たないのに。

  東大法学部の憲法学講座では、昭和20年8月15日の敗戦時に革命が
起きて、主権が天皇から国民に移ったとする「八月革命説」が唱え
られた。だがこの説は敗戦国国民の実情や意識とかけ離れており、
戦前の「現人神説」と同様に荒唐無稽だ。出自も怪しい。主権者の
不在を隠蔽するため、或いは学生や教授の頭を惑わせるために、
GHQが東大に押し付けたのかもしれない。

  青年将校が現人神に片恋したように、愚直な全共闘学生は国民主
権=民主主義を真に受けて行動し、弾圧を受けた。彼らは獄中で、主
権者のいない敗戦後の現実に気づいて絶望しただろうか。国民が主
権者となってこの国の全てに責任を持たなければならない仕組みに
気づいただろうか。

 2・26事件の叛乱将校たちには、まごころの血を流して忠義を
尽くす相手がいたが、戦後教育を受けた全共闘の学生には、純心を
捧げる対象がいなかった。そのことにすら気づかなかった。

 2・26事件の英霊たちは、裏切られた怨みと憤りを天皇にぶつ
けたが、全共闘は、挫折の原因も不条理な弾圧の理由もわからず、
いまだに無念や憤りを処理しきれていないのではないか。
(とくまるくもん2006 (C))

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