2213.ギリシャの戦略とは



ギリシャ系のMさんの話が面白いので紹介する。  Fより

日本人のお母さんとギリシャ人のお父さんから生まれたMさんは、
ギリシャで教育を受けて、その後日本に来た。このため、いつも日
本とギリシャを比較して見ている。

彼によると、エーゲ海に面したギリシャは岩山しかない不毛の土地
であり、農業ができない土地である。なぜこのような場所で文化が
栄えたのか世界の七不思議であるという。ギリシャの繁栄を支えた
のは、ギリシャの国家戦略が非常に良かったことによると。

まず、周辺諸国間の貿易で財を成した。この後、世界的に通用する
思想・文化を作り、その思想を習いにくる世界からの学生を通じて
ビジネスを作り、かつ軍事力を増強した。アレキサンダー大王のよ
うな軍事力で世界を制圧したこともあった。ローマ帝国時代はギリ
シャの思想をローマに教えて、かつローマ帝国最後のアルカディウ
ス帝はギリシャ人であったことで、衰えたローマ帝国を分裂させて
、東ローマ帝国を立て、かつギリシャ正教を国教として、ギリシャ
人を宣教師とした宗教により支配を行う。

ビザンチン帝国が長く続いたのは、各勢力のバランスを取り、いろ
いろな都市や国家と提携して、強くなりそうな国家をけん制したこ
とによる。ベネチアやシチリアなどの地域を提携やけん制を繰り返
す。

ビザンチン帝国時代にギリシャ正教を域外にも移動させて、ロシア
や東欧で盛んにさせていく。それと、ギリシャに修道院を立てて、
そこを聖地化した。現在もロシア正教の信徒が大勢ギリシャに押し
かけている。しかし、イスラム教世界にビザンチン帝国が敗れた。
そして、中世の終わりには、復古運動ルネッサンスを起こして、ギ
リシャの思想を再度注目させている。
このように思想や宗教は大きな力をギリシャにもたらした。また、
オリンピックなどの祭典や遺跡などがあるために今でも観光が大き
な産業になっている。

このように国家戦略を駆使して、不毛のギリシャを繁栄させようと
してきた。ギリシャの弱点はギリシャ人はまとまらないことである
ようだ。このため、トルコからの独立戦争でも派閥間のいざこざが
絶えなかった。

この国家戦略の変形を今の英国や米国が行っているだけであるよう
に見える。というより、ギリシャの思想の中に現在でも通用する国
家戦略理論がある。そして、米国のブッシュ大統領のプロテスタン
ト宗教主義は衰えた帝国の建て直しに宗教を使っているように見え
るし、フルブライト留学制度は米国の思想を伝播させるために戦略
的に行ったように見える。日本が強すぎると韓国や中国を支援して
、中国が強くなると、今度はロシアやインド、ブラジルに資本を移
動させて、一国だけを強くさせないような手を欧米は打っている。
これもビザンチン帝国の戦略である。

しかし、日本にはこのような思想や宗教の国家戦略がないように見
える。もう1つ、人口減少について、欧州や米国は移民で対応して
、人口減少を防いできた。しかし、日本は有史以来あまり経験がな
い異民族の移民をさせないで、経済大国を維持させようとしている。
バブル崩壊とバブル崩壊後の経済立て直し同様に世界から、どうな
るか注目されていると。もし、移民なしで人口減少でも経済発展さ
せることに成功させると日本が新しい道を開いたことになる。

欧州諸国では論理的な国家運営をしているが、日本の国家運営は違
う思想であり、他民族には分からない。日本は欧米と同じ体制であ
るが、思想の根本で大きく違う。この日本の思想を確立し、かつ留
学生を戦略的に世界から集めていけば、日本は世界へのビジネスが
簡単になると思うし、世界のリーダになるチャンスがある。

私Fには理解できなかったのは、ギリシャ正教の三位一体の論理で
あるが、3つの物がないと相対的な位置が分からない。このため、
3つがペアーで1つになる必要があるという説明であった。どうも
ギリシャ正教の中心がこの三位一体の論理のような気がした。

正教の修道院での修行は禅宗や密教に似ている。宇宙の成り立ちも
仏教の経典には説明されているものがある。このような説明書がギ
リシャ正教にもあるようである。
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ギリシャの歴史http://www.int-acc.or.jp/greece/history/

ギリシャの歴史は、神話と史実が混沌といりまじる数千年の昔にさ
かのぼり、民主政治やヨーロッパ文明発祥の地としての栄光の時代
から、波乱に満ちた受難の時代を経て、現代の近代国家に至るまで
途絶えることなく続いています。

■紀元前3000〜前1200年
クレタを中心に輝かしいミノア文明が産声をあげ、発展していく時
期を迎えます。これは英国人考古学者アーサー・エヴァンス卿によ
り、今世紀になって初めて行われたクノッソス宮殿の発掘により明
らかになりました。

■紀元前2000年
現在のギリシャ人の祖先がこの地にやってきました。新しいギリシ
ャの始まりです。彼らはアカイア人と呼ばれ、独自のミケーネ文明
をつくりあげました。

■紀元前13世紀なかば
ミケーネ王アガメムノンがトロイと戦った、世にいう「トロイア戦
争」が起こりました。10年にもおよぶ戦いは、古代ギリシャの詩人
ホメロスの叙事詩“イリアス”と“オデュッセイア”に記されてい
ますが、その詩を史実だと確信したシュリーマンの発掘(1872年)
により、ミケーネ文明の実在が証明されました。

■紀元前1100年前後
北方からドーリア人と呼ばれる第2波のギリシャ人が南下。壮麗なミ
ケーネ文明は鉄器を持った彼らにより破壊されました。その後、交
易権を得たフェニキア人がエーゲ海を制圧し、先住のギリシャ人は
大挙して小アジアに逃れ、最初のギリシャの植民都市が誕生しまし
た。

■紀元前900年頃〜
発掘されたこの頃の陶器には幾何学模様が描かれていることから、
幾何学様式の時代といわれます。ギリシャ各地で多くのポリス(都
市国家)が興り、続く数世紀にわたる主要な政治形態の基礎が形づ
くられました。

■紀元前750〜前480年
いわゆるアルカイック期と呼ばれる時代。口元がほほえんで見える
彫刻の「アルカイック・スマイル」で有名です。力をつけた諸ポリ
スはシシリー島のシラクサなど地中海沿岸の各地や、黒海沿岸のオ
デッサなどに活発な植民都市活動を行い、ギリシャ人の世紀を築き
ました。“ヘレネス”と呼ばれた彼らは、貨幣による経済革命を進
め、ポリス全盛の時代を迎えます。また、ポリスの市民成年男子に
参政権が与えられ、民主主義が実現したのもこの時期です。

■紀元前5世紀〜
この世紀のはじめ、ギリシャの繁栄ぶりに目をつけたペルシャが、
いくどかギリシャへの侵入を計画しますが、結局マラトンやサラミ
スで敗れます。この勝利に自信を得たギリシャは、ますますその繁
栄に拍車をかけることになり、とくにアテネはポリスとして黄金期
を迎えます。アクロポリスのパルテノン神殿が完成したのもこの頃
です。しかし、アテネの繁栄も、敵対するポリスの盟主となったス
パルタとの30年に及ぶペロポネソス戦争で、その栄光の座をおりる
ことになります。

■紀元前4〜前3世紀末
紀元前338年にマケドニアのフィリポス2世がスパルタを除くギリシ
ャ全土を統一した後、その息子のアレキサンダー大王は、マケドニ
アとギリシャの連合軍を組織して東征。ペルシアを敗り、エジプト
からインドにまで及ぶ広大な帝国を作りあげました。ヘレニズム(
ギリシャの精神/文明)を広めて、世にいうヘレニズム時代が到来
します。

■紀元前2世紀〜
ローマの勢力がギリシャ全土に及び、すべてのポリスがその勢力の
もとに吸収されます。しかし、ここで注目したいのは、力で征服し
たローマ人が、文明に関しては、先進の洗練されたヘレニズムに影
響されたということです。この大いなる影響によりヘレニズムはそ
の後の西欧社会に脈々と引き継がれ、生きてゆくことになります。

■4世紀
ローマ帝国末期には、キリスト教が勢いを得て、古代ギリシャの神
々の信仰も禁止されます。ゼウス大神の祭りとして継承されてきた
古代オリンピックも、396年を最後に幕を閉じることになりました。
395年、ローマ帝国が東西に分裂。帝国の東半分はもともとギリシャ
文化の世界でしたが、東西分裂がこの色分けを決定的なものにしま
した。東ローマは首都コンスタンティヌポリス(現在のイスタンブ
ール)の古名にちなんでビザンチン帝国と呼ばれ、名実ともにギリ
シャ世界の後継者となりました。こうして古来の豊かな伝統に、新
しくキリスト教(ギリシャ正教)の要素が加わり、独自のビザンチ
ン文化が花開いて、西ヨーロッパにも深い影響を及ぼしました。

■1453年
惜しいことにビザンチン帝国はトルコに滅ぼされ、その後ギリシャ
は長い異民族の占領下で、やむをえず暗い受難の年月をすごすこと
になりました。自由を何よりも熱愛するギリシャ人たちは、なんど
も独立のために立ち上がりましたが、そのたびに激しい弾圧を受け
ました。

■1821年
この年の独立戦争により、遂にトルコ軍を撃退、1830年に待望の独
立を成し遂げました。以来、新しく生まれ変わった近代国家ギリシ
ャは、たくましい発展への道を歩み続けています。


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