2179.カレーライスと日本仏教



カレーライスと日本仏教
 
            水屋神社宮司 久保憲一
 
 日本人の好きな食べ物にカレーライスがあります。しかし本場イ
ンドのカレーライスの味とは似て非なるもの、日本のものとは全く
異なった味です。どうやら日本の料理人が我々の味覚に合う独自の
カレーライスを作り上げたようです。ラーメンなど他の多くの食物
も同様、本場のそれとは全く異なった、日本人好みのものになって
います。

 日本の宗教、とりわけ仏教なども同様の事が言えそうです。もち
ろん本場のインドの仏教とはかなり違う、例えばお釈迦様の説いた
死生観・解脱感と日本のそれとは極めて異なり、日本的・神道的な
味付けがなされている。弘法大師、伝教大師、親鸞、日蓮などの日
本の高僧達はインド人のお釈迦様の教えを神道風味の仏教にアレン
ジし、創唱したわけです。

 私は、神道は所謂「宗教」の範疇には入らないと思います。その
ため我が家には神棚と仏壇が仲良く同居し、決して喧嘩していませ
ん。実際、神道には宗教の三要素「教祖」「教主」「教典」と呼べ
るものがない。神社神道は、教義に対してではなく、森羅万象に神
を見いだし、その「有り難さ」を感得するのです。また我々は今日
在るを「先祖様のおかげ」と感謝し、人智を越えた大いなる存在、
既に在る大宇宙・大自然の力を畏敬し、そのはたらき(自然現象)
に神を見いだしているのです。決して自然と「対立」せず、自然と
「共生」という日本人的感性を育んでいるのです。この度、水屋神
社と深いご縁をいただいたフランスの真言密教のお坊さまは天照大
神を大日如来になぞらえ、非常に巧く神道を解釈してくださってい
ます。

 話を元に戻しますが、何でも取り入れ、溶かし込み、元のものと
似て非なるものを新たに生み出し、「融通無碍(ゆうずうむげ)」に
、一見「無原則」とも言える寛容さを持つ日本人と、その依って立
つ『神ながらの道』を私は好んでいます。「俺は無宗教だ」とうそ
ぶきクリスマスやバレンタインなどで大騒ぎする一方、正月や初宮
詣、七五三など、お宮参りを欠かさない日本人が大好きです。なぜ
なら彼らの行動はまぎれもなく「日本教」徒、すなわち神道信者だ
からです。

水屋神報 171号より
http://www.mizuya.org/01_shimpo/heisei17/shimpo_171.htm
久保憲一
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(Fのコメント)
日本の良さは、古代からある神道的なものの考え方であろう。人や
自然の調和を中心とした思想である。宗教とは違い、習慣的なもの
の考え方、生きる智恵的なことととも言える。

このため、日本の社会にいると自然に身につくし、自然な考え方と
して、皆が協力して皆が皆のために働くことになり、また自然の環
境を整備するボランティア活動も抵抗感無くできる。

しかし、この心構えを成文化されていない。理論化もしていない。
このため、神道自体には教義がないように見える。しかし、教義が
ある仏教も日本に入ると、神道的な色合いを持って、民衆に受け入
れられることになる。

しかし、説明ができない。この無成文的な心情、思想をどう論理化
するか、難しいことになり、今も世界の学者が説明を試みることに
なる。

その解釈には、「気」の理解がないとできないように感じる。「気」
を認めないと、いろいろな感じ方の理解が出来ない。このため、チ
ベット仏教(密教)は、直伝でしか伝授できないとしている。

自然界でも生命が気を発している。この気を感じると、この環境は
人間だけではなくて、いろいろな生物によってできていることが分
かる。そして、自分に良くない物、人も気の周波数で分かるようだ。

この気を感じないと、将来を読めないし、手相も見れないし、いろ
いろな局面での正しい判断ができない。

そして、縄文人と同じ感覚を持つ人たちや動物たちは、インド洋の
津波を予測して、高台に避難している。言葉ではなく、気を読むこ
とで、このようなことができるのである。神道的な心は日本だけで
はなくて、世界にあるのですが、日本以外は原始人として軽んぜら
れているために、世界の多くの人に認めてもらえないだけなのです。

この気を読むためには、純粋な心が必要であり、金を儲けたいなど
の欲望を抑える必要があるのです。かんながらの心でいることです。
自然な心を持つことですが、私もビジネスをして忙しくなると、心
が荒れることになる。躁状態になり、気が頭に上がって降りてこな
いために、気分は高揚しているが、良し悪しの物事が見えなくなる。

このため、気はお腹辺りにあることが必要で、この状態、冷静沈着
な状態でしか物事の良し悪しは見えないようだ。欝状態に近い状態
でしか、見ることができない。躁と欝の状態になるスイッチがどこ
にあるか知ることが必要になる。これもまた、気の位置であること
が最近分かった。

この気を読む力を日本人たちも失っている。これはビジネスが忙し
く、気を休めることができないために、気を失っているように感じ
る。私Fは休日に座禅をして、気を落着かせている。


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