2152.限りなく灰色に近づく世界



限りなく灰色に近づく世界             S子

▼ナタン・シャランスキー
私はナタン・シャランスキーの「なぜ、民主主義を世界に広げるの
か」という書籍を読んだ。米国ブッシュ政権二期目の「自由の拡大
思想」の礎になったとも言われる問題の書籍である。

ナタン・シャランスキーは、旧ソ連ウクライナ生まれのユダヤ人で、
ソ連反体制派知識人アンドレイ・サハロフを強く支持、ユダヤ民族運
動に関わり、1977年国家反逆罪でKGBに逮捕され9年間収監された。
1986年国外追放となってイスラエルに移住、ソ連ユダヤ人解放のた
めにイスラエルに移住をサポートするシオニスト・フォーラムを設立
、1996年には政界入りし閣僚を歴任してきた。シャロン政権率いる
リクード右派論客として有名だったが、2005年5月にシャロン政権の
ガザ地区撤退計画に抗議し閣僚を辞任している。

このような表面的経歴からナタン・シャランスキーを見ると、彼の
強硬姿勢というものが浮かびあがり、「ユダヤ」、「イスラエル」
という言葉に私は妙なアレルギー反応を起こしてしまい、身構えて
しまった。だから本書を読むにあたって私は相当に気合いが入り、
肩にも自然に力が入るという緊張状態が生まれた。

が、本書を読み進むにつれて私が抱く「ナタン・シャランスキー像
」はどんどん崩れ、ソ連ユダヤ人解放に向けて、純粋な気持ちから
運動を成し遂げようとしたものの、国外追放という肉体の拘束から
解放され、精神的、肉体的自由を得たことから始まる高度情報化社
会の中での翻弄と、好機を利用したつもりが反対に利用されてしま
ったひとりの男の切なる「自由」への叫びのように思った。

以下に述べることは、本書を読んでの私見にしかすぎず、皆さんが
抱く「ナタン・シャランスキー」とは相当の乖離があるだろうと思
うが、容赦願いたい。

▼棚からぼた餅
まず、ブッシュ大統領が本書を読んで、『私の信念に理論的裏づけ
を与えてくれた書』であると述べ、ナタン・シャランスキーに深く
傾倒していったようだが、実際は本書がブッシュ政権にとっては「
棚からぼた餅」になった可能性は大きいと私は見ている。米国は好
戦的破壊行為は得意とするところだが、冷戦終結以後の世界構想を
実は持ちえていなかったのではあるまいか。

混迷深まる世界情勢において、場当たり的な外交や政策では米国覇
権は到底維持できるはずはない。9・11事件でその難局を乗り切
ったかのように見えたブッシュ政権は、二期目を迎えるにあたって
かなり行き詰まりを見せていたようだ。

2002年4月4日、ホワイトハウスのローズガーデンでブッシュ大統領
は演説を行った。その1週間後、この演説の一節に強烈なインパク
トを受けたナタン・シャランスキーは、CNNのインタビューでブッシ
ュ大統領を賞賛し、その晩にワシントンに向けて飛び、大規模なイ
スラエル連帯集会で演説を行った。その集会後、彼は大統領補佐官
であるコンドリーザ・ライスと会談をしているが、興味深いものが
ある。

彼がブッシュ大統領の演説で鮮明に記憶に残った一節というのは、
『パレスチナの人々は人権を尊重する政府を与えられてしかるべき
だ』というくだりである。ナタン・シャランスキーにとって、国家
反逆罪で収監された9年間というのは、ソ連の恐怖政治を身をもって
体感した、人権の自由がまったくない闇世界であったということで
ある。それをいやと言うほど思い知らされ、自由社会に住む私たち
よりも、はるかに切実にナタン・シャランスキーは「自由」を希求
していた。

『どの社会においても、基本的自由は絶対的なものではない』が、
恐怖社会(独裁国家)では、制度全体が人権侵害であり、言論や報
道、信教等のあらゆる自由は「確実に」奪われ、当然のことながら
肉体的拘束も「確実に」になされる。ところが、自由社会(民主国
家)では人権が存在し、またそれが認められ、常に自己検証を行う
ことで、人権保護を可能なものにしている。その時々の政権の体質
により「自由」が保障されるか否かというのは、また別次元の問題
ではあるが、恐怖社会(独裁国家)での人権侵害で「確実に」「自
由」を奪われるよりも、救われる「自由」がある自由社会(民主国
家)のほうが、まだましであると、ナタン・シャランスキーは述べ
ているのだ。だから、『パレスチナの人々は人権を尊重する政府を
与えられてしかるべきだ』というブッシュ大統領の演説は、画期的
であった。

パレスチナからアラファトという独裁者を排除し(しかし、国際社
会は彼を金銭的に援助し続け、アラファトの強権政治を維持するこ
とでイスラエルへのパレスチナテロ行為はむしろ増大していった)
、恐怖社会(独裁国家)を終わらせ、イスラエルへの敵意増大を消
滅させて、まずはパレスチナを解放することである。パレスチナ解
放は結局、ソ連ユダヤ人の解放につながり、双方に人権侵害からの
「自由」をもたらす最良の方法だと、ナタン・シャランスキーには映
ったのである。それゆえに、『大切なのはブッシュ大統領が我々に
与えてくれたまたとない機会をうまく利用することだ』として、ナ
タン・シャランスキーはブッシュ大統領の演説を賞賛したのだ。

しかしながら、ブッシュ政権には本書の内容が彷徨状態にあった米
国にとって、覇権維持のための「国家指針」として映り、それは米
国にはまたとない絶好の好機として受け入れられたのである。

中東に自由と民主化を拡大させるというブッシュ大統領の声明は、
米国世界覇権の維持(ドル基軸通貨体制の維持)とその覇権を支え
るための石油(天然資源確保)が目的であり、ナタン・シャランス
キーのソ連ユダヤ人解放運動とリンクさせて、米国は彼を利用した
にすぎない。ナタン・シャランスキーによって突如もたらされた「
明確な国家指針」は、米国覇権維持にはまたとない好機以外の何も
のでもなかったのであり、それはブッシュ政権の見えない苦境を見
事に反転させた「素晴らしきバイブル」にもなったということだ。

▼情報社会ゆえの翻弄
ソ連ユダヤ人の解放を目指す運動の契機となったのは、1967年の六
日戦争に至るまでの反ユダヤ主義の異常な激化にあった。

『ソ連のユダヤ人の大多数は完全に同化していて、イスラエルとの
つながりはまったく持っていなかったが、それでもソ連の同盟国で
あるアラブ諸国に「帝国主義的侵略」を行う敵対勢力を支持する「
ごりごりのシオニスト」とみなされた。自分たちの宗教や同胞との
つながりをほとんど、あるいはまったく持っていなかったソ連のユ
ダヤ人は、好むと好まざるとにかかわらず、自らの自尊心が何千マ
イルも離れたところで生存のために闘っている中東の小国の運命と
つながっていることに、突如として気づかされることになった。
そして、遠くの紛争が自分たちの責任であるかのよう非難されれば
されるほど、多くの人が、自分たちとユダヤ人国家は運命共同体で
あるとの感覚を抱くようになったのである。』

ソ連のユダヤ人の大多数は完全に同化しており、それゆえに何の問
題もなかったと言う事実があったにも関わらず、ひとつの情報によ
りソ連のユダヤ人は覚醒を余儀なくされてしまった。それはまるで
、あるきっかけを通して自分が養子であることを知り、そのことか
ら自分という人間のルーツを知るために生みの親を探す旅に出る行
為とまったく似ている。何も知らなければそれで済んだことが、そ
のことを知ることにより大きく状況が変化するということは、それ
だけ私たち人間は、情報という意識世界に大きく依拠しているとい
うことである。

当然ながら、覚醒したソ連のユダヤ人は移住という肉体的、精神的
自由を求め、同胞の待つイスラエルへと関心事は大きく傾斜してい
った。

『ソ連の指導者たちが移住を禁止したがった真の理由は言うまでも
ないはずだ。移住の自由は体制にとって致命的な脅威だった。脱出
が可能になれば、体制が支配を安定させるために使ってきた恐怖が
ほとんど効果を失うことを、彼らは理解していたのである。』

恐怖こそがソ連の全てを形成し得ていたのに、『移住の自由となる
と、すべてが具体的になる』ことだけは、ソ連としてはどうしても
避けなければならないことだった。そのために、ソ連は西側からの
経済協力が促進され、東欧の事実上の支配の承認とその正統性を得
るため、またソ連の超大国としての地位確保のためにヘルシンキ条
約に合意することになった。しかし、その合意には『ソ連と東欧の
傀儡政権が自国の国民の基本的人権を守ること』という内容が含ま
れていたのである。

アメとムチの両方を与えられたヘルシンキ条約の合意は、ソ連にと
って苦渋ではあったが、アメの魅力に勝るものはなかった。結局、
このヘルシンキ条約合意が契機となってソ連は自壊へと突き進んだ。
そして、ナタン・シャランスキーはこの人権擁護誓約を利用するこ
とで、西側の協力を得、ソ連ユダヤ人の解放運動を大きく展開する
ことができたのである。

情報社会で生きるということは、人が様々な関係性の中で生かされ
ているということを意味している。だから、当初はナタン・シャラ
ンスキーのように純粋に「自由」を求めてソ連ユダヤ人の解放運動
を展開していても、関係性というものの中でそれを利用し、また利
用されるものが必ず出てくる。そこに複雑性が生まれて物事の本質
が見失われ、最終的にその情報を利用したものが表面的側面でその
情報を流してしまえば、当初のナタン・シャランスキーの意思とは
まったく違ったものになっても当然なのだ。

情報社会で生きるとは、人が関係性の中で生かされているがゆえに
翻弄されやすいということであり、そのことの持つ意味は、誰もが
想像もし得なかったソ連の自壊という歴史的出来事を見ると、やは
り大きいということである。

▼限りなく灰色に近づく世界
国家反逆罪で9年間投獄生活を送り、精神的自由のはく奪を受け、
更に肉体的拘束を受けるという人権侵害の闇世界は、ナタン・シャ
ランスキー自身を大きく変え、彼に人権の自由を渇望させた。

『強制収容所にいた政治犯の誰もが、自由社会と恐怖社会を分かつ
道徳的差異に気づいていた。我々は、自由社会が確実に人権を守っ
てくれるわけではないと承知していたが、恐怖社会が確実に人権を
侵害することは骨身にしみて知っていたのである。』

冷戦構造が自由社会(民主国家)と恐怖社会(独裁国家)を分かつ
「明確な道徳性」の区別、もしくは境界線というものを、国際社会
に明白に認識させていたのは事実だろう。だが、ソ連の自壊による
冷戦終結は世界秩序を喪失させただけではなく、国際社会からこの
「明確な道徳性」をも喪失させてしまった。そのことにより、自由
や民主主義を標榜していた米国は、今やイラク、イラン、北朝鮮を
悪の枢軸国として擁立し、米国自らを正義とみなして戦争を仕掛け
てゆかなければならないほど、自由社会(民主国家)での自由は偽
善的なものでしかなくなったということだ。

ブッシュ大統領の「自由の拡大思想」と共に謳われた民主化の推進
と拡大もまた同様であり、それは、より大きな利益を支配者にもた
らすための偽善的方便でしかない。そして、更なるうえには資本主
義までもが、この偽善的行為の上に成り立っている現状がある。

高齢化社会の到来は高度医療技術がもたらした帰結ではあるが、そ
の経過は偽善に満ちており、高齢者を手厚く介護しているように見
えて、実は彼らを薬漬けにし、ベッドに縛りつけ、彼らの人間とし
ての自立を奪っている。ベッドへの長期拘束化は病院、薬品会社、
医療機器販売会社等への利益の長期化に繋がる。米国ハリケーンカ
トリーナにより、老人ホームのベッドで身動きもできないまま取り
残され、32人が死亡するという痛ましい悲劇は、資本主義の偽善
的行為の犠牲者であるということだ。

私たちの世界は今、「明確な道徳性」の中で生きているのか、「曖
昧な偽善性」の中で生きているのかということにすらも気づかない
ほど混沌とした世界にあり、それほど私たちの生に対する意識が弛
緩してしまっている。それは、資本主義の過剰供給(情報、食物、
自動車、生活用品等)がもたらした偽善的帰結でもある。

ナタン・シャランスキーは9年間闇世界に幽閉されたことで、正気
の思考を得ることができ、恐怖社会(独裁国家)と自由社会(民主
国家)の自由における「明確な道徳性」の差異を実感せざるを得な
かった。それゆえに彼の希求した自由は純粋な「明確な道徳性」に
基づくものだったし、世界を自由社会(民主国家)に変えてゆくこ
とで得られる人権擁護の姿勢は、確実に奪われてゆく自由を少しで
もなくしたいという思いからだった。

だが、ブッシュ大統領がそこから得た「自由の拡大思想」は、米国
覇権維持のための方便、支配者により大きな利益をもたらすための
方便という偽善でしかなかった。ナタン・シャランスキーの願う自
由とブッシュ大統領が描く自由にはこれだけの乖離があったのだ。

冷戦構造の破綻はこの世界から「明確な道徳性」の境界線というも
のを喪失させ、私たちから黒か白かという明確な意識をも喪失させ
た。それは私たち人間から男か女かという明確な意識を喪失させ、
今日メディアに登場している中性的人間の活躍を見ると、この世界
の曖昧性は端的に象徴されている。

今後世界は黒でもなく白でもない、「明確な道徳性」もなく「曖昧
な偽善性」が支配する限りなく灰色に近づく世界となるだろう。
まはや弛緩してしまった私たちの意識ではこれらを見分けることは
困難だ。が、ひとつだけ言えることは、楽観的見地からだけでは物
事の本質を捉えることなど到底できないということであり、それに
は「覚醒した生」という正気の思考で生きるための闇の視点が不可
欠であるということだろうと、私は思っている。

参考文献 「なぜ、民主主義を世界に広げるのか」
      ナタン・シャランスキー著  ダイヤモンド社

(注)『』は全て本書よりの引用部分
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人の親切   
   
  数日前、スパーに買い物に出掛けた。トイレットペーパーをはじ
め新聞の折り込みチラシの商品を買い込み、レジを出て、カートから
買った品物を落としてしまった。
 近くにいた知らない婆ちゃんが『大丈夫か、卵は、なかったのか』
と声を掛けて呉れた。私は、恥ずかしくて、まともに顔を見られなかっ
たけど、『卵はタイムサービスの時間を5分過ぎて、買えなかったの』
とだけ答えた。
 帰ってきてから、何故か思い出して、ジーンと涙ぐんでしまった。

 子供達がいる時は、『お母さん、忘れ物はないの。』と随分と心配
を掛けさせたものだ。その度に『うるさい!』って、言っていた。
 『子供達に心配ばかり掛けさせて、神経をすり減らせてるじゃない
か、可哀想だと思わないか』と夫が怒っていた。
 近所に住む夫の叔母と所用あって、一緒に出掛けた。荷物を3個
あった。いつもどれか1つ忘れるので、『オメー、荷物を1つにまとめ
ろ。』と言われた。その時、たった一つのハンドバックを忘れたことが
あるのを思い出した。父が母によく叱られていたものだ。忘れ物をす
る、落し物をすると。遺伝なのかもしれない。

 本当にドジな自身をつくづくと思う暇もなかった。しかし本当にドジ
な自身をつくづくと今は思う。
 『お母さんの手は、指輪じゃなくて、いつも指は、傷バンが貼ってあ
ったわね。』と昔のことを語る。『醤油さしに醤油を入れるのに、いつ
も溢れさせて、あっ!て言ってたわね。』と。

 この間もサイズを確認しないで買ったら、SとLサイズだった。不思議
なことにSがはけた。ラッキー!

もう、心配をしてくれる子供らも巣立って、心配してくれる者もいなくなっ
てしまった。見知らぬお婆ちゃんが心配して呉た事に、今もジーンと来
てしまう。
 今、東北で暮らしているが、関西で育った私は、関西の人は、親切だ
ったなぁとつくづく思う。当地で道を尋ねても『知らん』と一言われて、そ
れまでだ。
 関西で道を尋ねると『この辺のことは、あそこのタバコ屋のおばさんに
きいてみ、あの人は、この辺のことに詳しいから・・・」と。
 又、他の人を止めて、この人、誰々さんって所へ行きたいそうやけど、
あんた知らんか。』と尋ねてくれることもある。

 東北にも親切な人がいるんだなぁと思った今日この頃である。
國井 明子 

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