2138.闇の視点



闇の視点           S子
 
世界情勢を分析するということにあたって、冷戦終結で世界秩序が
失われ、世界がより流動的になっている現在では、この物質界(光
世界)からだけの視点でそれを探り、予想をしてゆくのは困難を極
めるし、思考も同じように流動的に働くことで、正直な話、見える
ものも見えなくなっているように私は思う。

私たちが見ている「現実世界」というのは、高度情報化社会によっ
てもたらされたものであり、ありとあらゆる情報の中から自分が受
け入れることのできた情報の集合体が、個々人の「現実世界」を決
定づけている。だから、同じ物質界(光世界)にいても個々人が見
ている「現実世界」は個々人によって違うのは当然である。

民主化された自由世界に住んでいる私たちには、この高度情報化社
会を享受することで、何ら情報不足を感じることはないだろうし、
返って無駄な要らぬ情報のほうが多すぎて困惑、混乱してしまうこ
とのほうが多いだろう。

しかし、民主化された自由世界においての高度情報化社会というの
は実に曲者であり、実に巧妙にセッティングされている。あらゆる
情報が最終的にはその支配者の利益に繋がるように何重にもフィル
ターがかけられていることなど、当の支配者には当然でありながら
、私たちは知らぬ間にあらゆる洗脳を受けてしまって、そういうこ
とにすらも気づかないような生活環境に置かれてしまっている。

特にテレビが日常化してしまっている今日では、テレビの洗脳力は
人の無意識に働きかけ、人は無意識のうちに行動に出、あたかもそ
れが本人の選択意思であるかのように思わせていることなど、いと
も簡単にやってのけているほどである。が、そういうことにすらも
私たちは気づかされてもいないし、気づいてもいない。それほど人
の意識は容易に操作されやすいということであり、高度情報化社会
の帰結は実は、最終的な闇の支配者の洗脳と管理にあるだけである
、と私は思っている。

そのような情報を日々得ながら私たちがいくら思考をめぐらし、「
現実世界」を作り出してみたところで、私たちが見ている「現実世
界」は洗脳まみれの「現実世界」でしかないのである。そこには正
気の思考など生まれようがないようになっている。流動的な世界情
勢に合わせて、流動的に思考すればするほど、私たちは闇の支配者
の意識に操られ利用され、世界情勢を分析しにくい状況が生まれる。

そして、私たちは利用されていることにすらも気づかないで、自分
の思考の確かさを理論武装で攻撃してゆく。正気の思考のできない
世界でこういった理論武装はより世界を混乱させるだけであり、闇
の支配者にとってはより流動的で好都合な状況が生まれる。

こうして、闇の支配者は私たちの日常生活のふっとした心のすき間
を狙って、人の意識に簡単に入り込み、私たちをうまく操り利用し
ているのである。だから、「現実世界」である物質界(光世界)に
おいて、あらゆる視点から世界情勢をいくら探ってみても、表面的
な情勢や多少の裏世界が見えたとて、真の「闇世界」を私たちは知
ることはできない。

「闇世界」は目に見えない意識の世界であり、物質界(光世界)とは
次元の違う世界でもあり、そこはもう私たちのたくましい想像力の
成せる世界でもある。そのたくましい想像力で思考した理論を個々
人が受け入れることができるか否かで、個々人の「現実世界」が決
定されるということが理解できると、この世に善悪という二元論な
ど実は存在しようがないということがわかる。

民主化された自由世界で義務教育を受けることは最低の必要条件だ
が、それさえも洗脳教育であり、私たちの思考はそういった洗脳教
育でがちがちに硬直してしまっている。つまるところ善悪の判断と
いうのは、闇の支配者の都合のいい管理のための洗脳でしかないの
である。だから判断の基準は実は善悪ではなく、自分がそれを受け
入れることができるか否かというだけのことにしかすぎない。

素直にそれを受け入れることができない時、私たちは理論武装攻撃
をし、他者という外部と戦い、自分という人間を正当化し自分を自
分自身が受け入れて安心しているだけのことである。だから本来戦
うべく相手というのは、実は他者という外部ではなく常に自分とい
う内なるものとの戦いであり、心の「闇世界」での葛藤であると私
は思っている。

そして、心の「闇世界」での葛藤という戦いは、米国がロシアや中
国の共産体制を崩壊させ民主化させることには熱心であっても、民
主化させた以後のことをまったく考慮していないのと同様に、とて
も面倒なことで、一番人間としてやりたくない、向き合いたくない
ことなのである、と私は思っている。

私たちが受け入れることができるか否かというのは、物質界(光世
界)でそれまでに受けたあらゆる洗脳教育から、いかにして私たち
が解き放たれるか否かであるという問題でもある。この直面してい
る問題に向き合わずして、外部という他者と理論武装攻撃して自分
の思考の正当性を確認しても、私たちはいつまでも人間の「本質」
を知ることはできない。ただ外部とそうして表面的に戦うことでい
かにも「私は生きています」と錯覚し、「生」を満喫、享受してい
るように思うだけである。表面的な「生」は見ていても真に「死」
という「闇世界」とは向き合っていないだけである。

また、民主化された自由世界ではできるだけ「快楽」に私たちの目
を向けさせ、「死」という「闇世界」からはなるべく目をそらせるよ
うに仕組んでいる。「死」という「闇世界」にまともに私たちの意
識を向けることで、「生」という「光世界」を改めて私たちが切実
に思考することを闇の支配者は実は恐れている。そうすることで、
人も物も行動範囲が極端に縮小され、流動的でグローバルな世界情
勢ではじめて得られる利益も闇の支配者が得ることができなくなる
からである。

人がまともに「生」の問題に向き合い、思考し始めるとこの物質界
(光世界)の流れは大きく変わるだろうと私は思っている。「生」
という問題を考えるということは、「死」の問題を考えることでも
ある。が、科学技術の発展による医療技術の向上は、この「死」の
問題から私たちをどんどん遠ざけており、また老いゆく者、死にゆ
く者との分離を図って、生きている者から「死」をますます見えに
くいもの、実感として捉えにくいものにしている。

それゆえに私たちが、まともに「生」の問題には向き合えないとい
う状況が作り出されている。「死」という闇の視点が欠落したまま
では私たちは「生」を充足することなどできない。「死」という闇
の視点があるからこそ、私たちは覚醒した「生」を送ることができ
るのである。

そして、私たちが「死」を迎えるにあたっては、自分のこと以外は
まったく考えられない状態に当然陥るが、「生」の問題もまた同様で
あり、覚醒した「生」を生きたいと思えば、人が今生という「生」
でできることは限られているわけだから、行動範囲も情報も現在の
ようにグローバルでなくてもかまわないわけだ。だから世界情勢も
現在の「動」から「静」という状態に自然に向かうはずである。

しかし、この「静」という状態は最終的な闇の支配者にとっては非
常に困る問題となる。「動」という状態であるからこそ得られる利益
やエネルギーが、「静」という状態が生み出されることで、それら
の多くを手放されなければならないからだ。闇の支配者の貪欲さは
留まることを知らず、高度情報化社会の中でグローバルな動きを加
速させ、物質界(光世界)のあらゆるものをこの地球上で飽和状態
にさせているのは事実である。それに踊らされて、私たちも同様に
グローバルに生き、物質的豊かさ(拝金主義はその頂点である)を
手に入れることに躍起になり、それをメディアが時代の寵児のよう
にはやしたてるから、ますます物質の権化と化したような輩ばかり
が登場してくるのである。

このような狂気の世界では、同じ「動」という土俵にいては状況が
見えなくて当然であり、世界情勢の分析なんて正直できないだろう。
「動」という物質界(光世界)の状況をしっかりと把握したければ
、まったく土俵の違う「静」という「闇世界」に居ることであり、
そこからの視点でものを捉えると「動」の世界では見えなかったも
の、わからなかったものが見えてきたり、わかったりする。

じゃあ、私たちは一体どうすればいいのか、ということになるのだ
が、私が思うに、人の生涯において一体何が全てかと聞かれれば、
それは日常生活そのものだと答えるだろう。それは平和とは何であ
るのかという問いかけに対する答えと同様で、人として当たり前に
送ることのできる日常というものがあってはじめてそれが言えるの
である。

人には今生で与えられた役割(それは転生をする前に既にあの世で
神と契約して決められているようだ)、政治家、サラリーマン、ス
ポーツ選手、教師、アナウンサー、主婦等さまざまとあるが、そう
いった表舞台だけではなく、日常生活という裏舞台との双方の調和
をはかり、なおかつ日常生活においては出会うさまざまな人や出来
事との調和をはかりながら、日々自己を鍛錬してゆく姿勢というの
が、実はとても大事だと思っている。

こんなことを書くと日常生活に「気」を使って一体どういうつもり
だろう。日常生活は「気」を使わず、「気」を抜いてこそ、表舞台
での役割が大きく開花するものだと反発をくらいそうだが、日常生
活という裏舞台でしっかり人間形成ができてこそ、表舞台でそれが
活かされるのだと私は思っている。

つまり日常生活で日々自分と向き合うことを生涯において積み重ね
てゆくだけなのだが、こうして言葉にできるほど、あらゆるものと
調和しながら生きてゆくことは正直難しく、本当に面倒なことであ
る。面倒なことはできるだけ問題の先送りをし、誰かに責任の転嫁
をしたいと思うのは、何も政治家だけではないということだ。

そうして、日常生活にまったく動かない、思考しないわずかな時間
を割いてほしい。せめて一日の終わりにはその日の自分を総括し、
「無」の状態を作り出してほしい。そこで闇の視点を見出し、そこ
から「生」を深く洞察してもらえれば幸いである。

「物質界」(光世界)の飽和状態の限界に達し、地球の自浄力が作動
し始めた今日、私たちに残された平和的日常はそう長くはないのだ
から。
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(Fのコメント)
S子さんは精神面での提言が多いですね。S子さんに触発されて、
私Fが感じる現代の精神面を少し紹介しようと思う。

日常生活で、「静」の時間を確保することが現代人には必要な気が
する。会社のノルマや成績を上げることを常に求められている現代
人には、大きなストレスがかかっている。

しかし、会社は新しい物をそう簡単には生み出せない。このため、
同じような製品しかこの世には無い。このため、それを生み出すこ
とも売ることも大きな競争状態にある。値段を下げて、商品を売る
と、競争会社も同じ手でくるために、値下げ競争に陥り、最後は無
料でとなる。しかし、そのようなことすると、給与を下げないとコ
ストが賄えない。大変な時代が到来している。

このため、貧富の差が拡大しているが、いろいろな人の手相を見る
と、この貧富の差がその人の考え方に依存していることがはっきり
と分かる。努力する人、意志力がある人や生まれながらに頭の良い
人たちが、いい職業に着き安定した人生を送り、努力も意志力もな
い人たちが、ニートや不安定な人生を送ると二分化された手相にな
ってきている。そして、意志力のある人でもストレスを強く持って
いる手相が増えている。

手相を20年前から見ていると、この頃のような二分化された状態
を見たことが無い。特に若い人を見るとそう見える。これは宗教が
無くなり、かつ全般的な物価が非常に安価になっていることによる
と思う。昔に比べると諸物価が著しく安くなっている。この意味で
はいいのですが、簡易な考え方でも生きられるようになり、江戸時
代の庶民のような感覚が復活したように感じる。その日暮らしとい
う暢気な生活になってきている。特に飲み屋のアルバイトやニート
やホームレスの手相にそれが強く現れている。その飲み屋で中国人
アルバイトの手相を見ると、強い向学心が現れている。日本に来る
中国人はそれなりに向上心や意志力があるのでしょうね。

このような状況にあるが、一番問題なのが宗教が日本から無くなり
、若い人が悩みを抱えた場合、この状態から抜け出す手段を知らな
いように感じる。宗教にある「静」の時間を現代人は持てなくなっ
ているようだ。座禅をすると、悩みがぐるぐると頭を駆け巡るが、
1時間もすると考えが尽きて、何も考えない状況になる。そうする
と、心が空き、そのとき突然解決に結びつく考えが閃くことや蝋燭
の火が仏ように見えて、その仏が良いアイデアを提案するように感
じることがある。

ここのコラムもこのような方法で未来を感じて書くことが多い。
しかし、なぜ、将来がそうなるのかは新聞記事やその他の知識を動
員することが必要で、それを後立てにしているだけである。小泉首
相が大勝することは、参議院が否決する時点で知っていた状態であ
る。

人間が神を感じる時間が減って、理外の法則を認めなくなったこと
が、今の世界的な環境問題などを非常に激しくしているようだ。
昔は、人間に力が無くて、自然の猛威で人間が負けていたから、大
きな自然に抱かれているように見えた。しかし、今は人間に力があ
り、この自然を支配しようとしている。しかし、それはできない。

とうとう、自然の包容力の限界点に来ているのでしょうね。人間が
神を感じる時間、「静」の時間を持つことが大切なように思う。

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