2132.社会の喪失



きまぐれ読書案内 市村弘正・杉田敦著「社会の喪失」(中公新書, 2005年)

21世紀の日本と地球に関するもっとも現代的でスリリングな対話 ― 20年前
に特別な人たちにふりかかった不幸が、今普通の人たちにふりかかっているの
は何故か  ―

・「標識としての記録」から

 市村弘正著「標識としての記録」(1992年、日本エディタースクール出版部)
は、1980年代に撮影・公開された6本のドキュメンタリ映画を紹介する。クロ
ロキン薬害禍、水俣の無農薬甘夏栽培、部落差別、国労つぶし、反原発、狭山
裁判に関するこれらの映画は、私たちの生活を形づくり方向づける「標識」で
あるという。

 映画が撮影されてから約20年たった2005年、映画評論を読んだ気鋭の政治学
者杉田敦と市村の対話を読むと、市村が兆候をとらえたとおり、私たちの社会
は「標識」の指示にしたがって動いていたことがわかる。

 たとえば、今年起きたJR福知山線の事故は、国労いじめの延長にあるし、
地球規模の海洋汚染も水俣湾の延長だ。医療過誤や薬品禍の問題も、現代にそ
のままつながっている。どの問題も、規模や影響が普遍化あるいはグローバル
化して大きくなっているにもかかわらず、無批判・無抵抗・無自覚な「失明」
状態の中で妖しく重大化・深刻化している。

 ひとことで言うならば、20年前には特別な地域に住む、特別な組合に属す
る、特別な投薬を受けたことによってごく一部の例外的な人たちにふりかかっ
ていた災禍が、今や普通の人たちにふりかかるようになった。20年前の被害者
たちは災いを受け、差別されたが、それでも一部の人たちの支援を受けてい
た。しかし現代の被害者たちは連帯して戦う術も知らず、無力に孤独に奈落に
沈んでいく。おそらく、なぜ自分が不幸な目にあわなければならないのかとい
う理由すら、理解することなしに。

 今日、誰も社会主義や社会思想を語らなくなり、社会的連帯は死語となり、
他者への想像力や思いやりが消えて、無関心・無気力がはびこるようになっ
た。この状態が「社会の喪失」である。

 人間は社会的動物であると言われるが、社会性が失われると、弱肉強食の血
も涙もない殺伐とした、むごたらしい世となる。官僚や政治家が天下国家を論
じなくなり、地域の盆踊りで毒入りカレーが振舞われる。一部の勝ち組は、美
食と快楽という個的欲望の充足に邁進する一方、「負け犬」という言葉が平気
で使われ、自殺者や鬱病患者、自己破産やホームレスはずいぶん増えた。

・日常感覚で21世紀地球文明の時空間を捉えてよいか

 社会を失った現代の苦悩を直視する二人だが、昭和20年生まれの市村と、昭
和34年生まれの杉田とでは、時代や世界についての認識が対立する。そしてこ
の二人の認識のズレによって、社会の喪失の原因が浮き彫りとなる。

 たとえば、我々の社会はいつ「失明」(人々の日常の暮らしが見えなくなっ
た状態)したのかと考えるとき、市村は「20世紀的経験がもつ意味が大きい」
と語るが、杉田は「どんどん遡ることができると考えるようになり、結局は時
代区分できないようになった」という。

 また、泊原発は、「日本で多くの人に共有されている距離感覚からすれば、
原発と東京は全然別の場所であ」るが、カリフォルニア州の距離感覚をもて
ば、「東京にとって原発は現地となりうる」と杉田はいう。市村は、「そうい
う考え方は間違い」だと明言し、「現地の範囲はどこまでか、と問われれば、
地球全体という以外にはなくなる(というナンセンスにつながる)」と反発す
る。それに対して杉田は、「人々が一般に日常として意識しているものをその
まま当然視できるのか」と再度疑問を投げかける。

 これは、我々が生来身につけた日常的な時間や空間の感覚と、科学的に有意
味かもしれないが認識しづらい絶対値の、どちらを基準にして生きていけばよ
いのかという問いでもある。あとがきで市村が、対話は「刺戟的ではあった
が、私にとってはキツイものとなった」というとおり、杉田の時代や世界に関
する認識は、自分の直接体験にもとづいて等身大でしか考えられない人間に
とっては、スリリングである以前に、理解することすら大変である。

 結局、杉田は、人類文明というたかだか数千年に及ぶだけのひとつの時代、
先進国と途上国という区分を否定する地球というひとつの空間で、考えるほか
はないと考えているようである。

 かつて、”Think globally, act locally.”(地球規模で考え、地域で活動
しよう)という標語が環境主義者たちによってもてはやされた時期があった
が、地球規模で考えることは容易ではない。たとえば無限に大きく思える地球
の大きさを無限と仮定できるとしても、人口の60億(6×10の9乗)とい
う数字も無限である。人類文明の地球環境への影響を正しく理解するために
は、赤道が4万キロメートルの地球の環境を分母とし、60数億人が日々生活
する人類文明を分子として、分母も分子もともに無限としてしか実感し得ない
この分数が、1より小さいのか、1より大きい過分数であるのかが問題なので
ある。

・過飽和状態にある人類文明は社会を回復できない

 杉田の時空間認識に刺激されて思ったのだが、「標識としての記録」で紹介
された映画が、1980年代を対象としていることには大きな意味がある。おそら
く、このとき、人類文明は成長の限界を迎えたために、その後の時代を方向付
ける兆候が生まれたのだ。

 人類文明は飽和状態に達したから、1986年にブラックマンデーが起き株価は
大暴落し、資本主義体制は社会主義政権を崩壊させて吸収し、発展途上国の国
営企業の民営化と期を一にして、日本の国鉄は民営化された。そして、それ以
後ずっと過飽和の状態が続いているから、不幸がふりかかる人々の数は増えて
いるのだ。

 現代を生きる我々が抱いている不安の根源が社会喪失であるというが、社会
喪失の本当の原因は、地球上に人間が増えすぎたからではないか。もはや地球
上には、平和に社会を営むだけの資源、さらなる略奪を許す手つかずの自然が
残っていないのである。

 もうこれ以上、破壊する自然もないのに、人類の人口は増え続けた。おそら
く、社会主義諸国の政府が崩壊したのは、1980年代に周到に準備されたか
らだ。人類文明にとって残された数少ない未開発の自然は、社会主義の非効率
・非市場主義によって残されていた。1990年代になると、BRIC諸国の
経済発展の背後で、シベリアの寒帯林、ブラジルの熱帯雨林などが、見るも無
惨に不法・合法に伐採されていく。

 本書の帯には「失われつつある社会的なものを回復する途はあるのか」とい
う問いかけが印刷されている。宗教的あるいは社会思想にもとづくコンミュー
ンをつくって、社会性の回復を浪漫派的に希う夢をわざわざ否定するつもりは
ないが、思い起こせば社会主義ですら、生産力神話を奉っていたという点にお
いては、資本主義と大差ないのである。たとえ社会が回復したとしても、過飽
和状態にある文明の災厄を回避できないであろう。むしろ、日常感覚や虚偽意
識を剥ぎ取って絶対値で考えるならば、回復の可能性はないと覚悟すべきだ。
そしてこの時代をあなたはどう生きるのかが問われている。
(2005.9.29, 得丸久文)
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台北市でのゴミの分別収集 続報
               平成17年(2005)9月23日
             「地球に謙虚に」運動 代表 仲津 英治

台北市に住んで2年経って、このほど任務を終え、日本に帰国しまし
た。前回7月17日、台北市でのゴミの分別収集と題して発信してから、
大いに参考になる追加の情報を得ましたので、私なりの理解を踏ま
えて続報をお送りします。

大型近代化マンション等の生ゴミの処理;豚など家畜の飼料へ

 マンション生活中我々が出す生ゴミは、8度℃に保たれている冷蔵庫
があり、そこで保管されていて、回収した業者は豚の飼料にすると
伺いました。台北市内なり、私が台湾の各地を見た限りではあまり
養豚場は見かけませんでしたが、郊外に結構あるとのことでした。

またレストラン、食堂類の食材の残、残飯、排液を回収する業者も
見かけたこともあります。荷台が開放型の小型のトラックで一軒一
軒店を回りながら、食材と排液に分けて蓋の付いたドラム缶のよう
な金属製タンクに流し込んでいました。レストラン側も回収業者が
来るまで残飯などを保存しているようです。これらも豚、鶏などの
飼料になるとのことです。

脂濃くかつ唐辛子などスパイスの効いた料理が好きな台湾人の残飯
等ですから、脂の乗った香辛料の香りがするおいしい豚肉が得られて
いるのでしょうか。また台湾人は豚肉料理が好きですが、その理由の
一つが判ったような気がします。

 これら生ゴミは、いずれも一旦冷却して、混ぜ合わせて再加熱処理し、
飼料化するそうです。この処理過程ではエネルギー資源も費やしている
と思われますが、単に燃焼処理し発熱を回収する日本の清掃工場より有
効な生ごみ活用かと思います。

 台北市の歴史博物館で、中国の昔の農家を模った埴輪のようなものと、
農家の写真を見たことがありますが、二階に便所があり、その下では豚
を飼っていました。今も農民人口が総人口の7割以上を占める大陸中国
では、奥地ではそのような農家がまだあることでしょう。

 日本でも戦後しばらくまで、人間の排泄物とか残飯は、豚など家畜の
飼料であり、肥料に使われていました。今は清掃工場で排泄物はおろか、
大半の生ゴミに石油などを加えて態々燃やして処理しています。台北市
の生ゴミを豚の飼料にする方式は見習っても良い制度だと思いました。
本でもかつては農家で食料資源循システムが成り立つ豚を飼っていたの
です。 

 昨秋でしたか家庭用生ゴミバケツが配布されました。EMバケツのよ
うに醗酵方式のものではなく、ただの灰色のプラスチック製のバケツで
す。台湾プラスチックという優良大会社が各家庭に無料配布したとのこ
とです。早速我が家でも食材の残りをこのバケツに入れて保管し、毎日
女房か娘が地下の生ゴミ用冷蔵庫に運んでいました。

 生ゴミの堆肥化はこれからの段階だが、進みつつあるようです。我々
のマンションの管理組合ではさらに有機肥料の生成にも乗り出すべく、
勉強し始めているところでした。 生ゴミをメタン醗酵させ、燃料と
して活用する試みは、これからのようです。

職場で詳しい方に伺いますと、近代的な大きなマンションでは、ゴミの
分別収集が進んでおり、個別の回収業者と契約しているそうです。我々
のマンションもその一例でしょう。

 今日本では、BSE (牛海綿状脳症)感染牛が発見されて以来、アメリ
カ産の牛肉の輸入にストップがかかっています。多くの牛丼屋では、豚
肉など他の家畜肉を活用したメニューの販売に懸命です。BSEのような
病気の前に、肉牛を育てるには膨大な面積の用地を必要とします。数字
で示せば、トウモロコシ1kgで、人間が生きていけるとすれば、牛肉
1kgを得るのに11kgものトウモロコシが要るのです。しかもアメ
リカでは牛肉のコストダウンのために成長促進剤を餌に投入していると
言われます。こうした薬品で育てられた食材を長期に渡って摂取してい
ますと、必ずや身体に異常がでる可能性が大です。

 日本の食糧自給率は40%と言われていますが、大量に輸入されてい
る家畜の飼料もカウントに入れると自給率は28%に下がります。これ
を機会に市民も牛肉指向を控え、生産者は、生ごみを活用した飼料で豚
などを育てることを検討していただけたらなと、一市民として思うよう
になりました。

一般のゴミ分別種集
 一般の家庭、小規模マンション住まいの場合はどうでしょうか。先日
帰国前にマンションのある石牌駅付近で台北市のゴミ収集車両を見かけ
ました。「エリーゼのために」か「また乙女の祈り」の大きなチャイム
を鳴らしながら、艦隊のように3両の回収車がやって来ました。この三
連車両は、1両目が大きな資源回収車で、紙、プラスチック、缶、瓶な
どを集めていました。住民が荷台の上にいる係員に袋詰めした資源ごみ
を手渡し、係員は区分けしてトラックの荷台に積んで行きます。2両目
は、生ゴミ回収車です。野菜、残飯など家庭生ゴミをプラスチック容器
に、私が見た限りでは住民が袋を開けて入れて行きます。3両目が日本
でも見かける一般ゴミ回収車で(燃料は植物&動物の廃油からの精製デ
イーゼル油)、ローターによりごみを圧縮収容して行きます。時間にし
て1箇所30分くらいでしょうか。

台北市環境保全局と表記された車両の係員とマンションの警備員の話
を総合すると毎週月火木金土の5回ゴミ収集があるようです。ゴミは
先出しできないので、中には手押し車でゴミ回収車のところへ大量の
ゴミを運んでくる人もいました。

 ただこのような3両ものゴミ収集車(チャイムの曲種は全国共通)に
よるゴミ分別収集は、台北市のみで、私も出張先、旅行先で見かけたと
ころでは1台ですべてのゴミをまとめ回収する方式が圧倒的に多かった
ように思います。台北市の進んだ分別収集方式は、この9月国民党主席
に就任した馬 英九台北市長が、環境問題に熱心でゴミの分別収集を強
力に推し進めた成果だと伺いました。

ゴミの先出し禁止
 ところで、前述のように台湾ではゴミの先出しは禁止されています。
ゴミ収集車が来たときに家々に保管しておいたゴミを指定場所に持って
行くのです。ゴミ収集車が回遊する時刻に家におれるとは限らぬ単身赴
任者などにとって、事態は深刻です。結局ゴミ回収業者と契約している
近代的な大型マンションを探して住むことになります。

 このゴミの先出し禁止方式は、メリットもあります。肉類など生ゴミ
も各家庭などで回収車が来るまで保管していますから、美観上もよろし
いし、東京都のように生ゴミによるカラスの大量繁殖に繋がりません。
台湾の都市では日本の大都会に多い、雑食性でしかも肉類の好きなカラス
類はあまり見かけません。このゴミの先出し禁止による成果なのかもし
れません。もっとも東京都などで急増したハシブトガラスは台湾では
高山にしかいない北方系のカラスですが。

                         以上
仲津英治
「地球に謙虚に」運動代表
==============================
不可分な宗教と科学/同志社大非常勤講師・岡村貴句男氏に聞く   
   
 技術開発助ける宗教的発想
顕在意識で深く思考/潜在意識に預けアイデアわく
仏の言葉通じぬ滅法/釈迦の教えの原点に返れ

 「宗教なき科学は盲目であり、科学なき宗教は迷信である」。アインシュタイン博士の
 この名言が示すように、今日ほど宗教と科学が互いを必要とする時代はない。地球環境
 の悪化などさまざまな課題を解決するためにも不可分な両者の関係について、エンジニ
 アとしての本業の傍ら、宗教を研究している同志社大非常勤講師の岡村貴句男氏に聞い
 た。(聞き手・池田年男・世界日報掲載許可)

 ――長年、エンジニアの仕事をしながら、どういう思いで日本仏教や哲学の研究を続け
 てきましたか。

 エンジニアの仕事の多くは、世間にない新しいものを開発することですが、そのために
 は世間のことを十分に知っておかないといけません。開発したものが特許になり、世間
 に知られるようになると、商品化しようという話になる。その際に大切なのは、自分の
 独善ではなく、いろんな知識を得ながら、自分のしたことを客観的に見るという態度で
 す。エンジニアとか科学者という人間は、そういう目で物事を見る訓練がなされていま
 す。

 信仰の世界にしても、宗祖・教祖と呼ばれる人は、単に信じるのではなく、きちっと自
 分が納得してそれを信じている。親鸞も道元も日蓮もそういう人でした。彼らは自分が
 信じたことが本物であるかどうか何度も確認した上で、これは間違いないというところ
 で揺るぎのない信仰を確立したわけです。

 しかも、それで終わりではなく、悟ったらまた修行し、また悟り、また修行し、という
 ふうに繰り返して、信仰を深めました。そういう姿勢は本当に素晴らしい。そういう宗
 教的な生き方、対処の仕方が技術者としての仕事にも大いに役立っています。

 強調したいことは、宗教が科学の発想を助けてくれることがあるということです。新し
 いものを生み出す科学的な行為の根本には、そこに何かがあるだろうと信じる宗教的な
 考え方があることを身をもって体験しました。

 ――以前、親鸞の思想を実存主義の観点からとらえ直した著作を出版しましたが、その
 作業もエンジニアの仕事の支えになったようですね。

 周知のように親鸞自身も新しいことを説きましたが、革命的なことを唱えたのはむしろ
 師の法然の方です。親鸞は法然の弟子で、法然の言ったことを正しく受け継ぐ立場の人
 であって、その教えが間違って伝えられていくことを懸念し、誤りのないように解釈し
 直して人々に伝えていきました。

 過去の教えを基に自分の説を立てていくということは、結構、技術の仕事にも共通しま
 す。過去の人の技術をうまく受け継いで、その上にさらに自分の考えを加えていくから
 です。その際、新しいことには不安と希望が付きまとうものですが、それは宗教でも同
 じことです。そこの教え一つに満足、安住してしまったら、生活は楽ではあるけれど次
 の発展はないですね。そういった発見が仕事を進める上での力になりました。

 ――今は曹洞宗を開いた道元について研究しているとのことですが、道元からはどんな
 ことを教えられますか。

 技術について考えている場合でも、行き詰まった時など、結構悩むものです。ただ、考
 えても仕方のないことをぐずぐず思うのが悩みであって、これは進歩がありません。そ
 ういう時に宗教的な処し方のコツというか、特に禅宗がそうですが、考えても仕方のな
 いことはうっちゃってしまって、本当に考えるべきことだけを考える。道元が著した
 「正法眼蔵」は、そういうことを指南した書物です。

 例えば、夜、考えあぐねているうちに寝てしまうなんてことはよくありますよね。でも、
 顕在意識で考えて、頭の中で十分に練っていると、それが潜在意識に預けられるのです。
 潜在意識の中に入ってしまうと、無意識のうちに考えが巡ってくれる。それは、潜在意
 識の中を自分でどうこうするという問題ではなく、顕在意識から潜在意識へ預ける、バ
 トンタッチする。そうすると、思わぬところでフッと頭に浮かぶことがある。とんでも
 ない時に面白いアイデアが出てきたりする。

 だから、潜在意識というのは自分ではなく、次元の違ったところと通じているのではと
 思います。それとの交流ですね。ただ、顕在意識での考えが中途半端だと、潜在意識に
 うまく入っていけません。また、十分に考えていないと、ひらめきが出てきてもそれに
 気が付かないままで終わってしまいます。

 ――実存主義的に見ると、現在の宗教団体はどう映りますか。

 実存哲学的に自分自身の存在について考えていくと、どこかで疑問というか矛盾にぶつ
 かる。それに気付いて、そこからさらに思考を進めた時に自分を超えた何者かに出会い
 ます。それは理屈ではなく、実感です。人間存在の根本には何かがあると。その何かが
 自分を生かしていると気付いて、そこから信仰が始まる。釈迦もまず哲学者だったので
 す。実存的にきちっとした裏付けができていた。

 それから現在の伝統教団ですが、宗祖の教えを踏みにじっているのではないかと危惧
 (きぐ)しています。何しろ教団同士で対立したり争ったりしている。親鸞はそもそも
 教団をつくる気など全くなかったし、争いなど絶対にするなと諌(いさ)めています。
 人間のエゴを知っていたからこそ、教団などつくるなと厳命したのでしょう。

 ――まさに末法の世の中になりました。

 末法というより、滅法というべきでしょうね。仏の言葉が通じない世の中になってしま
 った。世界的に、このままでは危ないと分かってはいても、それに甘んじていかざるを
 得ない面もある。例えば、地球温暖化ですが、歯止めを掛けないといけないことは分か
 っていても、すべての人間が取り組まないと解決不可能な問題です。

 そのためには、子供のころからよく言われてきた「人に迷惑をかけるな」「正直であれ」
 、これだけでもいいのです。生まれた時から教育の中でたたき込んでおくべきです。動
 物は本能で生きているので自然の理(ことわり)からそう逸脱はしませんが、人間は可
 能性のワクが広いだけに、そこに倫理的な線を引いておかないと、おかしな方向へ行っ
 てしまう。だから、釈迦も正しい生き方を守るよう諭しました。

 ――人類の未来についてどう考えますか。

 ここまで来たらどうしようもないという悲観論もありますが、今生きている人間が、も
 う一度仏の教えを守ろうという心構えになれば、次に生まれてくる子供たちは自然にそ
 ういう考えが当たり前だと思うから、また新しい出発が始まると思います。

 仏教は多くの宗派に分かれていますが、元は釈迦の教えです。もう一度、その原点に立
 ち返って、国を挙げて立ち直っていったら、新しい未来が開かれる。それができなかっ
 たら、この地球はもはや救えないでしょう。このまま加速的に滅びの道を行くしかない
 と心配です。

 ――情報化社会にも問題がありますね。

 情報というものは、自分が十分に考えて、それでもなお足りない部分があって何かを得
 たいという時に、それが情報になるわけです。今は情報があふれていても、雑音ばかり
 ですよ。しかもマスメディアに踊らされている。

 そんな雑音を何もかも取り入れてしまう現代人が多いが、人間の受容能力には限界があ
 りますから、結局、雑音に溺(おぼ)れてしまって右往左往しているという感じですね。
 一種の心の病、生活習慣病だと思います。深く物事を考える機会を自ら放棄しているに
 等しい。

 私の子供のころはお寺で遊んでいると、住職が説教してくれたものです。近所の家に上
 がると、プラトンやソクラテスの哲学を論じる大人もいました。だんだんそんな雰囲気
 がなくなっているのが残念です。やたら騒々しく刹那(せつな)的で、軽佻(けいちょ
 う)浮薄な世の中になって。

 ――科学文明は、宗教心がなければ暴走しかねません。

 人間のエゴが問題です。最近、こんなことも考えています。科学者あるいは技術者がす
 ごいことを発明したとしても、その人が宗教的な考えを持っていたら、それを世間に発
 表しないのではないかと。

 というのは、人のためになるものは、裏を返せば人のためにならない。ノーベルが発明
 したダイナマイトがその端的な例です。人間に善と悪の両面がある以上、必ず文明の利
 器も悪用されて凶器になるからです。

 ひょっとしたら、重力をコントロールして人間が自由に空中を浮遊して動ける原理を発
 見・発明した人がいるかもしれない。それを、悪用されてはいけないということで、隠
 したまま発表しなかった偉大な宗教家、哲人がいたかもしれません。

 私は宗教の専門家ではなく門外漢なので、こんな好き勝手なことを考えたり発言したり
 していますが、専門職でないからこそ見えることもあると信じています。

 おかむら・きくお 昭和22年(1947)京都市生まれ。京都産業大理学部卒。メカ
 トロニクスおよび機械系の開発設計業務に従事する傍ら、約30年間にわたって親鸞の
 思想を実存主義の観点からとらえ直す研究を進め、平成12年に『実存と信仰』を出版。
 現在は曹洞宗の祖・道元について研究し、近く2冊目の著書『自覚と仏性』(仮題)に
 まとめる予定。エンジニアとして科学技術庁長官奨励賞、機械学会技術賞などを受賞す
 るとともに、特許も海外18件を含め25件取得している。技術関連の著書・論文も多
 い。
       Kenzo Yamaoka


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