2125.得丸コラム



*** 野生生物標準(Wile Animal Standard) ***

 「親指はなぜ太いのか」の著者島泰三先生は、人間によって餌付けされたニ
ホンザルの観察を否定し、野生のサルをひたすら追い掛け回した「野生派」の
霊長類研究者、自然観察学者です。

 「親指はなぜ太いのか」は、野生観察を基にしたサルの「歯」と「指」の博
物学ですから、人間を野生生物の視点で捕らえなおす結果となります。

 文化人類学は、文化をもつ人類だけを研究の対象としており、他の野生動物
は、ほとんど研究の対象にはなっていません。社会科学も、人間活動だけが対
象ですから、そこに野生生物が登場するゆとりはありません。自然科学の中で
も、霊長類研究だけが、人類を野生動物の基準で評価できるわけです。一方
で、文化や文明は、野生生活からの乖離として捉えることになります。

 人間の視点と野生の基準の違いというのは、たとえば、森林植樹活動の捉え
方に違いが出ます。

 地球温暖化防止策や地球環境保護活動のひとつに、植樹活動がありますが、
植樹活動は、たしかに砂漠や荒地に木を植えることにより、炭酸同化を行っ
て、CO2を削減することにはつながるでしょう。

 しかしながら、もともと原生林であったなら、そこにはさまざまな植物が生
い茂っており、それをニッチな食物として生きていた動物がいたはずです。と
ころが、植樹された森林には、食べ物がないため、野生生物が住むことができ
ません。野生生物にとって、植樹された森林は、食べるものがないという点で
は砂漠に等しい。

 私は、島先生の本を読んで、野生生物の視点から、野生からどれだけ乖離し
たかによって、文化や文明、人間の所業をとらえ治すことの必要性を感じまし
た。

 野生生物が生きていけない環境というのは、人間も生きていけない環境では
ないかと思うのです。なぜなら、人間ももともとは野生生物であり、宇宙人や
無機物ではないからです。

 おそらく、有史以来、局所的には、世界のいろいろなところで、地域的なエ
コシステムが崩壊し、人類の生存も危うくなった。そこで生まれたのが、宗教
であり、宗教的戒律であった。(てなことを、昔、太田龍さんの推薦で、「ヒ
トはなぜヒトを食べたか」という本を読みましたね。)

 とすると、これからの地球上には、再び厳しい戒律をもつ宗教が生まれ、広
まるかもしれません。現代の、なんでもありの、実に世俗的な、世界の人々の
生活は、厳格な宗教によってタガをはめられるべきなのだと思います。

得丸久文
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現代という芸術15  観るだけでは許されない演劇

 もう20年以上も前になるが、寺山修司の作・演出する芝居を観た。「奴婢
訓」と「百年の孤独」、今はなき東京・晴海の国際展示場で。
 どちらも、カーテンコールがなかった。
 芝居が終わるとすぐに役者全員がステージから姿を消し、ホールに明かりが
ついたため、観客席にいた人間たちは、拍手をすることも許されず、違和感を
胸にいだきつつ、出口へと向かったのだった。

 おそらく寺山は、私たち演じる人、あなたたち観る人という関係性を否定し
たかったのだろう。現代というこのどうしようもない世界の矛盾を俺たちは表
現したのだから、お前たちは打ちのめされるか、闘いに目覚めるか、どっちか
しかないだろ。拍手なんて他人ごとはやめてくれ。
 じっさい寺山は、役者と観客という線引きを否定する街頭演劇や実験劇に興
味をもっていた。のっぴきならない現代という劇場で、みんなは役者として生
きなければならない。安全地帯で観客を気取ることは、あってはならないこ
と。
 寺山亡き後、いくつかの寺山演劇を寺山以外の演出で観たが、観客性にこだ
わった演出はなかった。一番大切なことを、置き去りにしているようで、私は
いつもさびしく感じていた。

 こんなことを思い出したのは、月例で開いている読書会で、珍しくレポー
ターのいない会を開くからだ。誰もがレポーター、みんながレポーターの会。
本とそこに集う人間という関係しかな  い。
 はたしてそんな会が成り立つのだろうかと考えていて、寺山の演劇を思い出
したのだった。
 報告者がいるということは、報告を聞く人がいるということだ。一冊の本を
めぐって、語る人と聞く人という関係は固定化されないほうがよい。
(2005.9.20 得丸久文)
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虚構だった「非武の文化」論   
   
  沖縄で戦後六十年の反戦平和運動をミスリードしてきた言説のひとつに「非武の文化」
 論がある。琉球王国は尚真王(一四七七−一五二六年)の時代に刀狩を行い、それ以降
 は武器を持たない島であったというものだ。武器を持たない島が、武器によって犠牲に
 されたとのストーリーである。しかし近年、この論理には歴史的根拠が薄いことが明ら
 かになってきた。実際、琉球王国は武器を保有し、武装中立の政策を行っていたのであ
 る。
(那覇支局・添石 茂・世界日報掲載許可) 
沖縄はかつて武装中立だった
15世紀には「火筒」が普及

大田昌秀
前沖縄県知事 
 「非武の文化」論が耳目を集めたのは平成八年、大田昌秀前知事の最高裁判所における
 意見陳述であった。米軍用地の強制収用手続きをめぐる職務執行命令(代理署名)に反
 対した大田前知事は最高裁にその不当性を訴え、その冒頭で次のように述べたのである。
 「琉球王国は、古くから武器のない『守礼の邦』として、国外にまで知られていました。
 十五世紀から十六世紀にかけて在位した尚真王が、武器の携帯を禁止し、諸外国と平和
 友好的に交易することによって小さな王国を平和裡に維持していくことを国の基本方針
 としたからであります」。ハワイ大学のウィリアム・リブラー教授が、これを「非武の
 文化(absence of militarism)」と呼んだというのであった。

 代理署名訴訟そのものは上告棄却となったが、かねてから沖縄の反戦運動家たちが述べ
 ていた「沖縄=非武の文化」はこうして最高裁の場で公にされた。

 ちなみに、大田前知事が「非武の文化」と訳しているリブラー教授の原著書は翻訳され
 て『沖縄の宗教と社会構造』(弘文堂、昭和四十九年)として出版されたが、その個所
 は正式には「軍国主義体制がなかった」(十三ページ)と訳されており「非武の文化」
 とはなっていない。誤訳に近いものであることは否めない。

沖縄県立博物館に展示されている貿易を行う進貢船の図。数々の武器を積み海賊に備えた。
船の側面には銃口が見える  
 琉球王国が非武であったのか、そうでないのかの論争は明治時代にさかのぼる。沖縄学
 の父とされる伊波普猷は尚真王の非戦主義を唱えた。一方、歴史学者の仲原善忠は尚真
 王が国防強化を行ったと伊波説とは異なる見解を主張した。

 尚真王は在位五十年で琉球の中央集権体制を確立した王だ。その業績をたたえた一五○
 九年の「百浦添欄干の銘(ももうらそえらんかんのめい)」には「刀剣弓矢を積んで護
 国の利器とした」との一文があり、これが武器の撤廃を意味するのか、あるいはそうで
 はないのかとの解釈論争を生んだのであった。

 さらに、十九世紀はじめ、ライラア号で沖縄を訪問した英国海軍士官のバジル・ホール
 艦長がその帰途、セントヘレナ島に立ち寄り、そこに島流しにされていたナポレオンに
 面会。沖縄は戦いのない国であると語ったことなどから、沖縄は武器のない島として伝
 えられるようになったのである。

 だが、最近の若手研究者によって、琉球王朝は武器を保有していたことが明らかになっ
 た。たとえば、尚真王死から八十三年後の一六○九年、薩摩は琉球に侵攻するが、その
 際、薩摩軍と琉球王府軍との間で戦闘が繰り広げられている。

元で発明され琉球にも伝来した手銃(ハンドキャノン)=『図解古銃事典』(雄山閣出版)
より  
 早稲田大学院生の上里隆史氏は『琉球アジア社会文化研究第五号』の中で、琉球王府は
 薩摩軍が上陸した本島北部に千人、那覇に三千人を派兵したことを明らかにしている。
 しかし、火縄銃を装備し戦国時代で豊富な戦闘経験を持つ薩摩軍に対し、古式の武器し
 か持たない琉球王国軍は簡単に敗れ、わずか一週間程度で首里城を明け渡すことになる。
 その時の王は「尚寧」。NHKの大河ドラマ「琉球の風」では沢田研二がその役を演じ
 たことは記憶に新しい。

 上里氏によると、琉球では十五世紀中ごろには「火筒」とよばれる手銃(ハンドキャノ
 ン)が普及していた。手銃は中国の元代に発明された筒型の武器で、銃身には膨らんだ
 薬室があり、後部には木の柄のソケットが作られていた。

 また、真栄平房昭・神戸女学院大学教授は、琉球王国は薩摩の支配下になっても中国と
 の交易を行っていたが、その際に使用する交易船には武器が積まれていたことを地元紙
 で指摘した。琉球王朝は徳之島西方に位置する硫黄鳥島で産出する硫黄を重要な対中国
 輸出品としており、それを自国でも当然使っていたのだろう。

沖縄県立博物館に展示されている尚真王の御後絵(おごえ)  
 中国において明と清の政権が交代する十七世紀後半には、海賊が東シナ海を跋扈(ばっ
 こ)したが、武装した海賊に交易船が襲われ、乗組員が殺害・負傷する例が少なくなか
 った。また、交易船も爆沈する危険もあったわけだ。

 こうした事態を避けるために首里王府は、交易船乗組員の武闘訓練をした。真栄平教授
 は「那覇港を出帆する前に鉄砲の射撃訓練をおこなった。また、弓矢・鉄砲・大砲など
 自衛の武器を搭載し、『竹鑓(たけやり)』や硝煙入りの小型の壷なども持参した」
 (「沖縄タイムス」二〇〇五年四月十一日付)と指摘した。この壷は敵船の帆を焼くた
 めの武器であったというのだ。

 もちろん、薩摩の支配下にあった琉球に独自の武器携帯が許されていたはずもない。す
 べては薩摩の管理下にあっただろうが、こうした事例は、琉球王国が武装中立を行って
 いたことを物語っている。自ら攻めはしないが、敵から襲われたときには反撃する。そ
 の際、当然武器を使用する。従って武器を保有し、その訓練も行っていたのである。

 かつての沖縄を、武器を持たぬ「非武の文化」であったとの言説を前面に押し立て、そ
 れを現在の反戦平和(非武装中立)のモデルとする方法には歴史的な根拠が乏しい。

    Kenzo Yamaoka
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国際政治に斜め思考の勧め   
   
 正義は国の数だけある  国際関係の本質は不可測的
北欧文化協会理事長 武田 龍夫  世界日報掲載許可

国際問題は立体的総合判断を

 高名な某国際政治学者が国際関係は縦軸と横軸から見る必要がある―とある大新聞で述
 べていたが、私はそれでは不十分だと主張する。斜め軸思考つまり比較文化ないし比較
 文明論的思考も必要だ―と。近年「原点」という言葉が多用されているが、これは三十
 年ほど前に私が小論の副題として使用した言葉であり、本来は気象地理学の用語である。
 ほかにも「複眼思考」その他二、三の造語があるが、「斜め思考」は数年前から使って
 いる言葉である。言葉は通貨なのでそのこと自体は一向構わないが、言いたいのは新し
 い発想は新しい言葉を必要とする―ということである。

 これを国際政治に準用するならば、国際問題は立体的に総合判断すべきだという常識的
 思考の復権ということである。そしてそれこそ平和と幸福を求める民衆の英知となるの
 である。

 以上を前提に改めて国際政治の基本的構図を単純化すればそれは所詮力学的関係であり、
 経済、人口、軍事力に表現される大国、小国の国益を追求し合う交錯現象であり、その
 交渉技術が外交であり、同盟ないしバランス理論はここで有効となる。そして強大国の
 場合にはその政策の合理的選択志向はしばしば強圧的な誘因ともなる。また直接の国家
 間関係では指導者、政策当局者の不信、誤解、無知、偏見、悪意、錯誤、特定の意図そ
 の他因子の複合過程で国家間意思の衝突となるわけである。故に国際関係は不可測的本
 質をもつ。いわば国際関係の本質は変転常ないということである。従って条約違反や破
 棄などは当然ともなる。対日宣戦布告で嘯(うそぶ)いたモロトフの「パーンタレイ
 (万物は流転する)」(ヘラクレイトス)はけだし適切な引用ではある。また中ソ対立
 で地域戦闘まで行った両国が現在は共同軍事演習を実施したことも思われたい。言い換
 えれば国際関係の本質は逆説的なものである。

平和願えども紛争は多発する

 故に国家の歴史に真実はない。あるのは複数の真実であり、正義も国の数だけあること
 になる。その中で真実と正義は勝者のものとなる。従って国際法上「侵略」の定義も一
 致しないこととなる。そして国連の無力は見る通りである。故に現在の地点から過去の
 歴史を裁いてはならないということになる。いわんや政治(家)が歴史を裁くのは越権
 も極まれりということだ。「神の法廷でなければ出れるものか―」と言い残して自殺し
 た近衛元首相は正しい。

 そして国家間衝突の背後には宗教および経済を動因とする国家民族間の文明の対立があ
 る(ハンチントン)。さらにこれに「ある国の運命は歴史と地理によって決定される」
 法則が重なるわけである(マッキンダー)

 さて、一握りの狂人を除いて平和を願わぬ者はいない。にも関わらずこの世から犯罪と
 ともに邪悪な戦争もなくならない。それが人間と国家の業であり原罪だからだ。現に刀
 槍の部族闘争から大砲、戦車、爆撃機、軍艦、細菌、核兵器と殺人凶器の発展に対して
 人間精神には殆ど発展はない。そして今や細菌兵器、携帯核爆弾による新しい戦争(テ
 ロリズム)も地平に現れた。そもそも誤解や不信は親子、夫婦、恋人間でも不可避であ
 る。まして政治、経済、宗教、文化その他が違う国家、民族間においてをやである。

 かくて国際紛争は多発する!世界連邦は夢のまた夢である。国際友好とは虹の如きもの
 なのだ。考えても見られたい―途上国援助、人道的支援活動、平和外交で知られる小国
 が大国ほどではないにせよ、兵器輸出の「死の商人の国」でもある矛盾を―。

ナイーブな考えは通用しない

 他方で平和運動に熱心な善意の人々もいる。そして世間知らずの学者、言論人は平和へ
 の「べき」論を説く。しかし平和の叫びや、「べき」論が現実化するならこの世に犯罪
 も戦争も起きないのだ。求められるのは大同小異の解説や「べき」論ではなく、実効性
 ある運動と提言なのである。だからチャーチルは言ったのだ。「平和を叫んだ人々が戦
 争を起こしたのだ」。

 平和を説き、叫ぶ人々の善意は無論理解できる。しかし、その故に「地獄への道は善意
 の石で敷き詰められている」のである。そして、私はむしろ平和を叫ぶよりは黙って平
 和を守る者でありたい。なぜなら一例が戦争原因の一つである貧困(一日一ドル以下の
 最貧人口十一億人)解消のために「痛みを感ずる」対外援助の重税を受け入れる善意の
 人々は殆どいないだろうから―。

 かくて「網の目に掛かる大小無数の宝珠が相互に映発し合う」(華厳経)理想の国際社
 会は遂に現実とはなり得ないであろう。そこでかかる逆説的国際社会の中で日本人のあ
 まりにナイーブな「寛容の美徳」を分析例証し、論を進めて警告を発したいのだが残念
 ながらここでは紙数が尽きた。しかし以上の示唆のみでもタブーの開示と、それに対す
 る挑戦の意味はあったかも知れない。
       Kenzo Yamaoka
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我は行く―「昴」へと続く道   
   
 原初の美を探求する旅/谷村氏の歌の源泉に触れる
日本画家 鳥居 礼
新しい日本の表現をする決心

 目を閉じて 何も見えず
 哀しくて目を開ければ
 荒野に向う道より
 他に見えるものはなし
 嗚呼 砕け散る宿命(さだめ)の星たちよ
 せめて密やかに この身を照らせよ
 我は行く 蒼(あお)白き頬(ほほ)のままで
 我は行く さらば昴よ

 我が国の近代音楽史において、領域を問わず、この作品以上に崇高な精神を感じるもの
 を私は知らない。周知のごとく中国上海音楽院教授・谷村新司氏の「昴(すばる)」で
 ある。中国ではこの歌は自国の歌であるかのように、親しまれているという。

 私は大学を出てから、現代美術の制作を行っていたが、ある時どうしたわけか、日本美
 に対する思いが忽然と噴き上げてきた。魂の扉が急に開いてしまった感じだった。しか
 しそれを表現することは同時に、会派や賞を美術的価値の基準にしている俗界からの決
 別を意味していた。現代美術・洋画・日本画ともに、西洋に対する劣等の意識をもとに
 して生み出された作品はあっても、江戸以前の美術史とつながり、日本の精神を中心に
 据えた作品は皆無だったからである。現代美術家と洋画家は、江戸以前を否定し、日本
 画家はそれを無視していた。

 私には江戸以前を連ねる道が、はっきりと見えてしまった。自国の歴史を否定し無視す
 ることは、自らの遺伝子の記憶を閉ざすことであり、土着的表現力を失うことであるこ
 とがわかったからである。しかしその道はまさに、「荒野に向う道」であった。まだ
 「蒼白い」私は、思いだけは雄々しく道を突き進んでいった。

 今から二十五年前、私が新しい日本の表現を模索し発表しはじめた年、奇しくも「昴」
 が瞬く間に日本を代表する曲となって輝き始めた。それまで洋楽しか聞かなかった私は、
 その歌詩と旋律に強く感銘し座右の曲となった。谷村氏の曲は、領域を越え、時には国
 境を越えて、万人の心を揺り動かす精神性の深さと品格がある。それはまた、谷村氏の
 人柄をそのまま物語っていると言えよう。また時代を越えた芸術的普遍性があるように
 感じるのは、私だけだろうか。

谷村氏ゆかりの神社を訪ねる

 以前、私は谷村氏にお伴して奈良を旅した。谷村氏の歌の源泉を探る旅であった。谷村
 氏の父上も、私の父も奈良県出だったので、少なからぬご縁を感じ、さぞ楽しい旅にな
 るだろうと、心を弾ませながらご一緒させていただいた。しかし、それは大きな誤算だ
 った。行く先行く先で、光と影、陽と陰、表と裏という、この世の真理と法則を体験す
 る、濃厚で感動的な“修学旅行”と化していった。私のかねてからの課題であった、光
 と闇の関係を旅の随所で見せられ、その原理を旅の中で体得できたような気がする。

 笠縫(かさぬい)にさしかかった一行は、地図が役に立たず、谷村氏の直感だけを頼り
 に、とある神社を探していた。地元の人に尋ねながら、飛鳥川の川添いに、谷村氏ゆか
 りの神社を発見した。

 美術界において、団体を組織し、やがて肥大化し、権威化・商標化するにつれ、画家は
 守りに転じ、大切な精神を失う。神社にもまたそれが言えるのではないか。しかし、谷
 村氏が発見したその神社は、権威化・商標化とは無縁の、原初の神々しさをそのままに
 保っているような、筆舌に尽くしがたい美しい神社であった。

 境内に足を踏み入れた瞬間、全員がまばゆいばかりの神気に包み込まれ、柔らかく温か
 い常春(とこはる)のうららかな空気にただただ感激した。四殿配祀の神殿の脇には、
 めずらしい八重の玉状の桜が、今は盛りとばかりに咲き誇っている。「こんな美しい神
 社は見たことがない」。口々に驚嘆の声を発した。久しぶりに味わう“春のめでたさ”
 である。谷村氏の歌の穏やかにして強力な力の源泉が、そこにあるような気がした。

母なる宇宙の「ココロツタエ」

 谷村教授の教えを受ける中国の学生たちは、まことに幸せである。このような感動をい
 つも味わえるからだ。谷村氏は今、母なる宇宙の温かい心を伝え、「ココロツタエ」と
 して日本と中国の架け橋となっている。やがてそれは東洋と西洋を結ぶ架け橋となり、
 その道は遙かな昴星団(むつら星)を結びつけ、さらに宇宙の窮極へと続くであろう。

 宇宙の次元から地球を俯瞰したとき、地球は一個の生命体と認識され、それを取り巻く
 のは陰陽の気の相生・相剋のみであることがわかる。そこには国境も人種も存在しない。
 自然のほんの一部としての、地球の小さな嬰児(みどりご)としての人の真の姿が見え
 てくる。
 谷村氏の地球上での役割は大きく、その道は果てしなく続くだろう。世界日報掲載許可
       Kenzo Yamaoka


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