2111.得丸コラム



負の文化遺産

大本賛美歌 第35

1 清めの主(きみ)は瑞御魂(みずみたま)
よみがえりしぞ瑞御霊
栄えましせぞ瑞御霊
あがめまつれよ瑞御霊

2 千座(ちくら)を負ひし瑞御霊
罪に勝ちたる瑞御霊
生命(いのち)の主(きみ)の瑞御霊
人をば生かす瑞御霊

3 なやみを受けし瑞御霊
世人を癒やす瑞御霊
月の御神は瑞御霊
われらの友なる瑞御霊

現代という芸術14をお届けします。


現代という芸術14  負の文化遺産=原爆ドーム

 国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産条約に、広島の原爆ドームが
文化遺産として登録されていることは、国外での運動実績の少ない日本の平和
運動にとってひとつの大きな成果である。
  日本がこの条約に加盟した1992年に、たまたま広島からユネスコ本部を訪れ
た人たちが、世界遺産条約を知り、文化遺産への登録運動が始まった。原爆
ドームの世界遺産登録に強硬に反対したアメリカが、当時ユネスコを脱退して
いて発言力が弱かったという偶然も作用した。
  通常の文化遺産は、優れた建造物や建築物群や景観である。だが原爆ドーム
のいたましい姿に、人類の英知や創造性を感じさせるものはなにもない。原爆
ドームは、人類の悪行の証人である。
 もちろん、原爆投下の結果、原爆の悲惨さを伝える多数の原爆文学が生み出
され、原水禁運動や反核運動などの文化活動も行われた。だがこれも、あくま
で原爆のおぞましさ、おそろしさに派生した活動である。
 核兵器を生み出し、使用したことを反省せよ。文化の暴力性、破壊性を肝に
銘ぜよ。文化遺産としての原爆ドームはそう語りかける。
 
  しかし、ここで文化の創造性や肯定性あるいは破壊性というのは、あくまで
人間対人間の関係でしかない。
  たとえば、農業で使用されている殺虫剤は、人間と同じものを食べる昆虫を
殺戮するためのものである。海洋中を漂い浜辺に打ち上げられるプラスチック
ごみは、魚や鳥に誤食されて、誤食者の生命を奪っている。森林伐採は野生生
物の生息地を奪い、多くが絶滅の危機に瀕している。人類の文化は、自然に対
しては多くの否定的な影響を及ぼしている。
 かつて人類は、土地を耕して農作物を栽培することで、文化的生き物になっ
た。快適で安全な洞窟生活の中で毛皮を失ったヒトは、洞窟外でも生活するた
めに、家を作り、都市を作った。以来、自然との敵対関係が続いている。機械
文明と石油消費文明によって人口が爆発的に増え、この敵対関係は地球環境問
題へと進化した。
  人間の文化活動が地球の自然や生態系にとって破壊的で否定的影響を及ぼし
ていること、文化活動こそが地球環境問題の根源であることを訴えかける世界
文化遺産として、登録すべきものは何だろうか。
(2005.9.4, 得丸久文)
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ナショナリズムという妄想に代わりえる妄想を求めて

ナショナリズムも、つきつめれば浪漫主義的妄想のひとつに過ぎない。
今、ナショナリズムという妄想に代わりえる妄想が必要である

*** 地球浪漫的読書案内 小熊英二著「<民主>と<愛国>」(2002
年、新曜社, 税別6300円) ***

* ナショナリズムの定義

 8月に読書会の仲間と、小熊英二著「<民主>と<愛国>」という大著を抱
えて一泊二日の合宿をした。土曜日の昼に集まって、読書会を始め、夜の宴会
もそこそこに読書会を続けて序章から第13章まで読み、翌日昼過ぎまでか
かって第14−16章、結論まで読んで、最後に意見交換を行った。
 結論を担当した私は、小熊のナショナリズムの定義(ナショナリズムとは
「心情の表現手段として『民族』や『国家』という言葉が採用された状況」と
し、その心情は極めて多様であり、それぞれをナショナリズムと呼ぶかどうか
は各人の自由という。)があまりに広かったので、できるだけシャープな議論
を導くために、自分なりの定義を持ち出した。
 私の定義では、「ナショナリズムとは、近代国民国家体制において主体であ
る国家と、国家の領土に住む人間集団である民族を、同一の概念であるNation
によって表すことにより、国民Nationという新たな抽象的概念を作り出し、国
家(統治機構)と民族(人間集団)の運命共同体(B・アンダーソンのいう「想像の
共同体」)としての国民意識を人々に植え付ける思想。」である。
これはいうまでもなく、ナポレオン戦争以来の、すべての国民を戦争に巻き込
んで総力戦を闘うための思想である。いうならば、ナショナリズムとは、近代
国民国家が、領土内に住む人々に、命をなげうって総力戦に参加してもらうた
めの神話である。
 より概念をシャープにするために、ナショナリズムの性質について整理する
と、ナショナリズムは、
■ 事実や自然の観察にもとづく科学的・帰納的概念ではない。逆に、国家=
民族という想像上の関係性があたかも実在しているかのように思わせるため
の、演繹的で、非現実的な、想像上の概念である。
■ 近代国民国家という制度・システムと一体のものである。民族解放戦線は
国民国家樹立のために戦っているのであり、国民の国家への義務抜きでは考え
られないものである。したがって、たとえば在日朝鮮人のように自分たちの国
家を想定しない民族主義は、国家=民族=国民を前提とするナショナリズムと
は別のものである。

 おそらく戦後の日本において、ナショナリズムが危険思想とされたのは、日
本の戦前のナショナリズムがあまりに人々の心を捉え、若い命を散華させた特
攻隊や身も心も捧げる国家総動員体制づくりに貢献したからであろう。
 戦前の日本のナショナリズムは、国家=国民=民族という関係性に加えて、国
家の主権者である天皇が、民族の構成員である個々の臣民と、想像上の親子関
係にある(「天皇の赤子」)という神話が作り出され、流布されていた超国家
主義、あるいはターボ・ナショナリズムであった。
 この神話を否定したのがアメリカの占領政策であり、超国家主義に懲りた国
民もアメリカの政策を受け入れた。しかしながら、戦後日本のナショナリズム
の否定は、やや行き過ぎた感もある。
 
* 新たな神話、新たな妄想が必要な時代

 私は、ナショナリズムがよいとか悪いとかを、ここで議論するつもりはな
い。結局、ナショナリズムも、浪漫派的な思い込み、あるいは妄想のひとつに
過ぎないということを確認したいだけである。
 国家=民族=国民という神話によって、近代国民国家体制は維持されてきた。
しかし、地球環境危機、エネルギー危機、食糧危機が予見されえる21世紀に
おいて、国民国家体制が機能しつづけるとは思えない。
戦争のやり方ひとつをとっても、1999年のコソボ空爆も、2001年のア
フガニスタン攻撃も、2003年のイラク戦争も、旧来の国家対国家の戦争と
は異なっている。
 だとしたら、もはや、ナショナリズムの神話によって人々の心をひとつにし
ても意味はないだろう。新たな状況に対応するために、新たな神話、新たな思
い込みが、作り出され、人々の心を支配する必要がある。それは嘘でもいい。
事実でなくてもいい。ただ、人々の行動を正しい方向に束ねるための、思考装
置として必要なのである。さもなければ、これから世界はますます混沌を極
め、人類は一気に滅びていくのだろう。
(2005.9.5得丸久文)

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