2089.飽和状態の限界



飽和状態の限界 =地球からのメッセージ=    S子
 
戦後生まれで日本の高度経済成長を体感しながら生きてきた私には
知る由もないが、戦中戦後を必死に駆け抜けるようにして生きてき
た人々にとって、戦後60年の経過は本当に感慨深いだろうし、今日
の平和で快適便利な生活を享受できる幸せは、私たちの想像を遥か
に超えるものだろう。それだからこそ、終戦記念日に寄せる思いは
強く熱く、戦争の悲惨な体験はより鮮明に記憶に留まり、その無意
味さや亡くなった者への哀惜の念は生涯消え去ることはないように
思う。

東京裁判という戦勝国側による決定打は、世界における日本の位置
を貶め封じ、日本人に生きる活路を絶たせ、絶望へと追いやるもの
だっただろう。人を殺すものは実はその絶望であって、あらゆる苦
難や困難ではないと言われる。生きる活路や可能性がどこかに存在
する限りにおいて、人は生き抜くためには驚異的なエネルギーを発
してゆくものであるらしい。

戦後の混乱の中にあって、それまでの日本のシステムはどんどん解
体され信じるものがなくなり、物資も不足している中で、当時の日
本人は一体何に活路を見出して生き延びることに必死だったのだろ
うか。それは、出征したまま帰らぬ人となった夫との間に残された
子供であったかもしれないし、敗戦はしてもそこにはまだ帰るべき
故郷の山や川が残されていたからかもしれない。いずれにしても戦
中戦後を今日まで生き延びてきた人々は、どんな理由にしろどこか
に生きる活路を見出して生きてきたのは間違いない。そして私が思
うに、そのとき日本人の精神レベルは歴史的に見てもかつてないほ
ど、全体的に浮上していたのではあるまいかと。

敗戦により日本を封じ込め、絶望の淵に立たされるもそれを受け入
れることしか出来なかった当時の日本では、そこに必然的に、もし
くは強制的に「自制」が働いた。どんな欲望も抑えられ、それぞれ
の生きる活路はそれぞれの一筋の希望の光に託された。日本人の精
神的に満たされない空白部分が非常に大きくなり、また物質面にお
いても同様だった。それだからこそ、当時の日本人には何かを希求
するエネルギーは歴史的にも例がないほど大きく膨れ上がり、そこ
に計り知れないほどの想像力が働いたと思われる。

世界が驚嘆するほどの戦後の日本の経済成長は、実はこの精神的空
白部分の大きさに寄るところが大きかったと言えば、今日の物質的
豊かさを当然のように受け入れている私たちからすれば、想像もつ
かないことである。戦勝国米国からの援助があったとは言え、食料
も物質面も乏しい日本では、飢えた心がその精神的空白部分を満た
すために一心不乱となり、目の前の状況に対処するしか成すすべが
なかった。それが結局は「今」を生きることに繋がり、その「今」
が生きる活路や可能性となってジョイントしながら、日本は戦後復
興を瞬く間に成し遂げ、驚異的なパワーで世界を圧倒し、特にアジ
アの人々からは羨望と共感を得たのである。

しかしながら、急速な経済成長による物質的豊かさを実現し手に入
れることで、日本人の精神的空白部分は瞬く間に満たされていった
。そして、その空白部分が縮まれば縮まるほど、日本人から生きる
気力やエネルギーは次第に奪われ喪失していった。今日、世界一だ
と言われている年間3万人を超える日本人の自殺者が、急速な経済成
長に伴う物質的豊かさを享受した結果であれば、人の幸せは必ずし
も物質的豊かさを手に入れることだけではないということは確かな
ようだ。

バブル崩壊以降は日本経済の長期減速という異常な事態が続いてい
るが、これは何も日本だけではなく先進国も同様な状態にあり、日
本が既に工業化社会としては成熟し、現在はポスト工業化社会、つ
まり高度情報化社会に突入しているようだ。冷戦終結が資本主義の
優位性を歴史的に証明したことの影響は大きく、世界はその「近代
的競争原理」を信奉し、それに毒されている。

「近代的競争原理」は人々に生きる活路や可能性の分配を公正に与
えようとした点(今日ではこれを「自由」と称しているように私は
思う)では優れているかもしれないが、供給側にある資本家がマネ
ーを「目的」と転じたことで(物質的豊かさが既に飽和点に達して
いるという状況)、経済面では先手必勝、軍事面では先制攻撃とい
う手法が支配的となった。マネーが「手段」である間は(物質的に
は世界がまだ飽和点に達していない状況)経済も循環し、そこでマ
ネーは初めてマネーとしての価値を発揮、生きることができた。

が、現在はそのマネーを「目的」に転じ停滞させて、マネーそのも
のが価値としては死んだようになっている。また、経済の先手必勝
や軍事の先制攻撃が、政治や経済の流れを加速させているのも事実
であり、高度情報化社会が更にその流れを加速させ、生きる活路や
可能性の分配も飽和点に達しようとしている。

これまでは先進国の供給の余剰部分は後進国が吸収することで世界
はバランスしていたが、冷戦終結で「近代的競争原理」がどんどん
波及してゆく中で、中国やインド、アジア、中南米にも活路や可能
性の分配が公正に行われるようになると、世界は供給と需要のバラ
ンスを喪失してゆくのは当然の帰結である。更に資本主義ではどう
しても供給から需要へというシステムの流れを生んでしまい、余剰
在庫をできるだけ少なくするために、供給側の資本家はあらゆる手
を打ち生産商品がいかに魅力のあるものであるかを演出、コマーシ
ャルしてゆく。

需要側である消費者はそれに完全に踊らされており、さして欲しく
もないような商品も精神的空白部分を満たそうとして購入してしま
うのである。現在の経済社会ではお金を出しさえすればほとんどの
ものは手に入れることができるようになっていることも、欲望を実
現化しやすい要因となっている。そして、お金を出しさすれば何で
も実現化できるとわかっているだけに、欲望が止まらないという悪
循環にもなっている。

欲しいものを実現化させると人々の中からその分だけ想像力は失わ
れ、満足を得た分だけ幸せが逃げてゆく。そうしてまた新たな商品
を欲し手に入れることで想像力を失い、「活路や可能性による幸せ
」をなくしてゆくという負のスパイラルに陥る。これは実はアメリ
カンドリームが陥る罠に非常によく似ている。そして、世界はこの
アメリカンドリームにとりつかれ、皆がこぞってその罠にはまろう
としているかのようにさえ思えるのだ。

結局、「近代的競争原理」の中に私たちは生きる活路や可能性の「
自由」を見出し、それが全てであるかのように錯覚しているのでは
ないのか。「近代的競争原理」は「自制」をなくし「自由」を希求
することで私たちは満たされない精神的空白部分をどんどん埋め尽
くし、同時に私たちは想像力を失い、創造することもできなくなり
、いつまでたっても幸せを実感することなどできない。

所詮、資本主義は供給側の論理であって、そこに需要側の意向など
反映されないのである。過剰な供給が物質的豊かさを生んだとして
も、私たちはそこに幸せを見出すことなどできないようになってい
る。地球という有限世界だからこそ、私たちはあらゆる可能性によ
る幸せを見出し、たくましく想像してゆきながらそれを生きる活路
としていることを知るべきだ。

スペースシャトル「ディスカバリー」が2年半ぶりに宇宙に向かって
打ち上げられ、日本人宇宙飛行士野口さんの活躍が伝えられる中、
13日間の宇宙滞在とその任務を終えて無事地球に帰還した。ここ
に私たちは現代科学技術の最先端を駆使、集約した結果を見、知る
ことができるのだが、未知なる神秘的世界である宇宙に物理的に触
れることにより、どうやら物質面での飽和点に私たちは達したので
はないかと私は思っている。

古代の人々にとっては宇宙は神の領域であり、想像のかなたでしか
なかったものに、こうして現在到達し触れることができるのは、「
近代的競争原理」の賜物であるかもしれない。しかし、ここにきて
私たちの精神的空白部分は埋め尽くされた感がなきにしもあらずで
ある。スペースシャトル「チャレンジャー」や「コロンビア」の事
故、それに今回の断熱材落下や機体に見られる数々の傷という不安
を残したままの打ち上げは、宇宙開発への限界(想像力の限界)を
予感させる。

こうしてみると地球という有限世界では、今日あらゆるものが飽和
状態を迎えている。自由、民主主義、資本主義、マネー、科学、宗
教、近代西欧型文明、物質文明、地球人口等。私たち人間の歴史は
、文明の発達によりその度に否応なしに意識の変革を迫られて生き
延びてきたが、どうやら今日の世界もまた意識変革の必要性を迫ら
れているようだ。石油の枯渇も問題視されており、この地球にはそ
もそも無限のものなど存在しない。有限世界である地球だからこそ
、私たちはあらゆるものと共存して生きていかなければならないの
である。

「近代的競争原理」は「自制」することを知らす、「自由」に欲望
のなすがままに暴走し、自然を破壊し資源を吸い尽くし、あらゆる
生態系を破壊しそのバランスを崩壊させている。やがてはその悪影
響が生態系の頂点にいる人間にも及んでくることだろう。そのよう
な事態になる前に私たちは意識変革できるのだろうか。たとえそれ
ができなくとも、やがて強制的に私たちの意識は変革される日が訪
れるようだ。

2012年に地球はフォトン・ベルトに突入、アセンション(次元上昇)
し、私たち人間は地球の自浄力によりふるいにかけられる。現在の
飽和状態の限界から地球が調和と均衡の世界に戻るのである。人格
の向上こそが私たち人間の目指すところであり本質なのだろうが、
それにはある程度の「自制」も必要であり、そこに生じる豊かな想
像力こそが私たち人間を幸せにする。要するに幸せとは実際に手に
入れるものではなく、心で捉えるものでしかないということだろう
。「近代的競争原理」では到底つかみきれないものがそこにある。

参考文献 「碁石理論」
     http://pathfind.motion.ne.jp/goishi.htm
演題 「21世紀の政治・経済システム」
     http://www.nii.ac.jp/rd/bulletin/no9/01.html
 「利潤なき経済社会」に生きる=「近代的競争」とは何か=
                        <その5>
     http://www.asyura.com/2002/hasan14/msg/926.html
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碁石理論             S子 
   
今回の参考文献での「碁石理論」は、高度情報化社会で加速する世
界情勢と浸透してゆく競争原理や拝金主義で行き詰まり、無秩序状
態に陥っている現世界に一石を投じるものであり、今後の私たちが
生きる上での指標となるもののように思われます。是非多くの人に
読んでいただきたいと思っています。 


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