2061.人間喪失の時代



             人間喪失の時代                       S子   

人の生死に深く関わる病院へ行くと様々な人に出会うだけでなく、
その人の背後にある生き様のようなものが見て取れ、私自身考えさ
せられることが多々ある。思いがけない人に出会ったり、しばらく
ぶりに出会ったりすると、あまりの変貌に私は戸惑い、驚くことが
ある。相手も同じような思いでいるのかもしれないが、お互いに会
わずにいた空白の期間に一体何があって、何が人をそのように変え
させてしまったのか、その人の人生のドラマを思わず私勝手に推測
してしまう。

それにしても、人々の生きる気力というか気迫というか、そういう
ものからあまりにもほど遠いところで生きている人の何と多いこと
か。病院に来ているということは、少なからずもまだ人生を終わら
せたくない、生存していたいから治療に来ているのは確かなはずな
のに、そこから自ら生きていこうとする強い意思というものが人々
から感じられないのは、私の気のせいかしら。何かしら人々が惰性
で生きているように見えるのは、私の思い違いというものかしら。

生きてはいたいのだけれど、とりあえず病院に行けば病院が何とか
して治してくれる、ある程度までからだが回復したら後はリハビリ
の先生の指導で何とか治るだろう、という他人任せのような人生を
歩んでいるようにしか見えないのである。だからそこから人々の生
き生きとした表情は窺えない。ただ単に人々が生きているだけで、
何かしらどの人も同じような印象を私が受けてしまう。

そこからはその人らしさというものがまったく見えない。肉体に支
配されるだけの人生、時勢に流されるだけの人生しかないように私
には見える。生きている真の喜びや真の悲しみといったものを味わ
うこともないまま、どこか中途半端な気持ちで日々を過ごしている
ように見える。惰性的でどこか空しさを抱え込んだ人生を送ってい
るように見える。一体、私たち人間はいつからこのような状態に置
かれ、なぜこのような人生を送ることになったのだろうか。

ひとつの文明の高さを測る尺度として、その時代にどれだけ多くの
覚者(ニルヴァーナ《神、空、涅槃、タオ》に到達した人間)を輩
出したかを基準とするなら、近代の西欧型文明は物質的には高度で
あっても、精神的にはお世辞にも高度であるとは言いがたいのでは
ないか。否、むしろ精神的には荒廃し、ますます私たち人間は野蛮
になっているのではないかと思われる。

自由や民主主義、資本主義という西欧型主義が浸透し、人々が声高
々にそれらを叫べば叫ぶほど、世界各地での紛争や戦争は絶えるこ
となく激化しているのを見れば、自ずと納得がいくはずである。
また、覚者の輩出も多くはないために、近代の西欧型文明は高度な
文明だとは認めがたい。

それにも関わらず、冷戦終結以降はこの西欧型文明の浸透に拍車が
かかり、政治的には自由や民主主義を、経済的には資本主義を容認
する姿勢が世界的に見られるようになった。しかしながら、資本主
義という自由経済を導入した国家に異変が起きているのは、今日誰
もが認めることである。

世界的な低価格競争に陥っているためにその国内の産業が空洞化し
、失業者が溢れ、そこから貧富の差が生じることで国民が極端な二
極化構造に置かれ、そのことが社会不安を招き犯罪の温床となって
テロ行為へと帰結している。政治的にいくら自由や民主主義を謳っ
たところで、それはむしろ逆効果となっている。

こうしてひとつの西欧型文明を普遍化させることで、世界的にも歴
史的にも危機の時代に突入しているのは、誰しもが感じることだろ
う。西欧型文明は近代化と同一視され、またそれは進歩主義とみな
され、太平洋戦争以降はこれが加速された。政治的、経済的にも、
また世界観や人間観も西欧型文明が洗練された美しいものであると
いう人々の認識の下において、広くスムーズに受け入れられた。

人々がスムーズに受け入れる背景には西欧型の教育を導入した結果
であったのは確かだろうが、何が洗練されて何が美しいものであっ
たのかというと、あらゆるものを合理化、規律化し、全てを画一化
してしまうことだった。それが近代化と言われ、進歩主義へと繋が
り、科学の発達に向かい高度な物質文明を築き上げ、今日私たちが
享受している世界となっている。が、西欧型文明と言われるものが
、ここに来てあらゆる面において行き詰まりを見せている。

物質的豊かさばかりが目立ち、人間の内面、精神面がまったく置き
去りにされているところに西欧型文明の欠点がある。というか、国
も違い人種も違い、生きてきた個人の歴史もまったく違う人間とい
うものを、合理化、規律化の下に画一化してしまい、人間が感情を
もった動物であるということを無視したことに問題がある。「みん
なちがってみんないい」のではなく、「みんな同じようであって
それでいい」と見なし、人間をロボットのように硬直化させている。

硬直化された人間は精神的な余裕はないから、合理化、規律化され
たシステムはその人間によってますます硬直化する。そして、硬直
化したシステムは人間をますます管理、規律化してゆく。で、人間
は人間らしさを喪失してしまい、空虚な人生を生きることとなる。

昨今の若者がすぐに切れやすいのは、こうした背景が下地にあるた
めに、些細なことをきっかけに犯罪を犯すようになり、無意識下で
人間回復求め、それを訴えているのではないかと思われる。また、
病院で人々の印象が同じように受けられると私が感じたのも、合理
化、規律化された教育を人々が素直に受け入れた結果であり、現代
社会で適合して生きてゆくために「良い子」のレッテルを無意識の
うちに自分に貼った結果でもあるだろう。人間らしさという感情を
必要以上に抑制したがために、生きる気力も惰性的なものとならざ
るを得なかったのである。

合理化や規律化にひとつの洗練された美しさを見出した西欧型文明
が辿り着いた先は、結局人間らしさの喪失だった。近代化と同一視
され進歩主義だと謳われた西欧型文明の着地点は、硬直化した人間
が作り上げる硬直化したシステムに縛られ続ける、「人間喪失の時
代」到来だったというわけである。そして、西欧型文明の先端を行
く米国もまた「アメリカン・ドリーム」という硬直化した夢にとり
つかれ、国家が崩壊しかけている現状にある。

現実を全て受け入れ、今に充足しない限りは何をやっても真の満足
は得られないということを、そろそろ私たち人間は知るべきだろう。
そこから初めて「みんなちがって、みんないい」という発想が生ま
れる。

参考文献 「人間は進歩してきたのか」 佐伯啓思著 PHP新書
      アヴァンギャルド精神世界
       「現代文明に対する評価方法」
       http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/d/20050611
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浅薄な「富国楽民論」   
   
 政治家は思想と気骨を/ゲームの悪影響に対処せよ
 「(エンターテインメントは)選ぶ側から見たら楽しければいいんです」――と無責任
 に語るのは、日本コンパクトディスク・ビデオレンタル商業組合の若松修専務理事だが、
 それにうなずきながら「政治家の集まりは頼んで動員するけれど、BOAやあゆのコン
 サートはお金を払ってでも行くでしょう。そこに目を向けないと」――とエンターテイ
 ンメントの“楽しさ”を政治家の集会などに取り入れて、人もお金も集めていこうと
 「富国楽民」論を主張するのは、民主党若手の樽井良和衆院議員(比例近畿・1回)だ。
 樽井議員は、同志社大学在学中にテレビゲームを作って売る会社を立ち上げ、多忙なあ
 まり中退したほどで、「テレビゲーム機やソフトを実際に使い、業界にも精通している
 初めての政治家」と若松氏から持ち上げられている。

 民主党機関紙「民主」(7・1)で両氏は対談し、「アニメやゲームソフトのきめ細や
 かな描写は、日本が得意とし、職人のものづくりにも共通する世界に通用する文化」で
 あると強調するとともに、「中国や韓国は、国を挙げてサポートしていますが、日本は
 手ぬるい」と指摘している。

 エンターテインメント産業の潜在力と可能性を否定するわけではない。樽井氏の言うよ
 うに、国家が戦略的にも政策的にも関与し、日本のイメージアップにつながるなら積極
 的に対応していくことも必要だろう。

 しかし、政治家として考えてほしいのは、テレビゲームなどがとりわけ青少年に与えて
 いる悪影響に、どう対処すべきかという点だ。殺人・暴力などの残虐シーンや過激な性
 描写を多く含むゲームソフトの有害性が多方面で指摘され、それらを有害図書として扱
 う地方自治体も出てきている。

 ただ「楽しければ(それで)いい」とか、「消費者が主役」なので、売れ筋の開発に力
 を入れ、販売が促進できればいいといった業界の考え方は、間違っている。悪い影響を
 受けて犯罪に走る青少年が増えていることを考えれば、それを問題点として言及するこ
 とすらしないのは実に無責任だ。

 また、「世界に通用する文化」であるとは言うが、日本の伝統文化の破壊や倫理の崩壊
 につながるようなソフトは規制されて当然であり、海外から輸入される製品に対しても
 監視と適切な規制が行われる必要がある。それらをしっかりと行うのが政治家の仕事の
 はずだ。

 業者の代表と意気投合し、「もっと軽くて楽しい、ポップ・カルチャーの乗りがあって
 いい」とか「楽しくて幸せな人は戦争しませんからね」という浅薄な発想では、“政治
 屋”レベル以下である。政治家なら、日本の社会をどう健全化させていくかとか、理想
 国家をどう建設していくかといった思想性のある気骨を持った演説を堂々と行い、国民
 が感心して集まってくるようにならなければ失格だ。
政治評論家 山岡 尽忠  世界日報掲載許可
    Kenzo Yamaoka
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国内初のプロデューサー教育   
   
 東北芸術工科大学大学院が仙台スクール開校
 東北芸術工科大学(山形市、徳山詳直理事長)は今春、映画、アニメ、ゲームなどコン
 テンツ産業の人材の育成を目指す大学院仙台スクールを、仙台市の支援を得て、市所有
 の複合ビル「AER」(アエル)に開設した。自治体と連携したこの種の大学院教育は、
 全国でも初めてとして注目されている。
(仙台支局・市原幸彦・世界日報掲載許可) 
アニメ、ゲームの即戦力養成

ゲームプロデューサー・広瀬豪氏の講義を聴く院生たち 
 現在、携帯電話で小説やゲームが楽しめ、映画や音楽がモバイル端末で購入できるなど、
 コンテンツのデジタル化によって、マーケティングや販売管理手法が、通信媒体の普及
 ・高度化により変化している。さらに、新しい通信媒体の普及・開発に伴い、コンテン
 ツ産業の新しいビジネスモデルも増加することが予想される。
 このため、ゲームや映画産業などのコンテンツ産業界では、トップクリエーターの人材
 育成はもとより、専門的な知識や国際的な視野をもって企画を立て、製作をマネジメン
 トし、知的財産保護や会計などの業務を手掛けるプロデューサーの育成が急務とされて
 いる。
 大学や大学院でのコンテンツ関連の人材育成は、この一、二年、全国的に相次いでいる。
 東京芸術大大学院(今年四月)、デジタルハリウッド大学(今年七月開設)、WAO大
 学院大学(来年六月)、国立では東京大学大学院情報学環(昨年四月)、九州大学大学
 院芸術工学研究院(今年七月)などだ。

 しかし、東北芸工大学の理事兼仙台スクール事務局長、野村真司さんは「制作の実務面
 について教える場はなく、大学院でのプロデューサーの教育は国内初めて」と強調する。
 ゲームやアニメなどは、国際経済の中で日本が力を発揮している分野だ。このため同大
 の水鳥川和夫教授らが、すぐにビジネスを始められるようなカリキュラムを組んだ。

 東北芸工大は京都芸工大の姉妹校として十三年前に開学。東北ルネサンスを掲げて、東
 北の風土に根差した芸術家の育成を目指してきた。今回のコンテンツ・プロデュース領
 域は、既存の同大学院芸術工学研究科デザイン工学専攻に属するコースとして設置。

複合ビル「AER」。東北芸術工科大学大学院仙台スクールを16階に開設=仙台駅前 
 仙台に開設したのは、コンテンツの創造活動が、芸術活動のほかビジネス活動という側
 面があるからだ。東北の中心であり、交通面でもコンテンツ創造の中心の東京と近く、
 東京の人材の活用や映画産業界などにコンタクトがとりやすい。

 もう一つ、日本のコンテンツは、世界にも通用する高度な内容を持っているが、その充
 実のために地方の文化風土を活かす必要があるからだ。日本映画において、ローカリテ
 ィーに根差した映画は近年、50%を超え、その中でも東北発の映画の比率は高くなり
 つつある。また、調査によれば「東北は映画に関心を寄せる割合が高い」(事務局)と
 いう。

 これに対して仙台市は、デジタルコンテンツが、IT(情報技術)産業との関係もきわ
 めて深い産業であることから、仙台市が進めている「ITクラスター」創出を柱とした
 IT産業に大きな経済効果を及ぼすとして、支援体制をとった。

 仙台市産業振興事業団は「同スクールから輩出される人材や創出される作品が、仙台の
 コンテンツ産業の起爆剤となり、市内コンテンツ産業の成長促進を誘引してくれる」こ
 とを期待する。市は、AERビル内の所有スペースの無償貸与のほか、修士論文である
 企画書のうち有望なものについて、市と市産業振興事業団などが起業を支援する。また
 学生と地元企業の連携斡旋(あっせん)なども行う。

 同スクールは修士課程二年。受け入れ人数は一学年十人程度。将来的には定員を増やす
 可能性も。教授陣は、映画「リング」などの原正人氏やポケットモンスターの久保雅一
 氏など、第一線で活躍しているプロデューサーやディレクター、公認会計士、教授ら十
 二人が直接指導する。

 受講資格は、大学卒業生や大卒の一般社会人。働きながら通えるように平日夜間と土曜
 日に開講。製作会社での実習も行う。募集が一月末と遅かったこともあって、第一期生
 は八人。男性五人、女性三人で、うち学部卒が四人。中には、東京で俳優活動していた
 人や、大学院を中退して当大学院に入り直した人も。

 受講生の一人で、現在舞台の企画を行っているという高野いづみさん(仙台市)は「一
 線で活躍している先生方の話がとても面白い。今後の焦点が見えてきた感じがします。
 学生たちも個性があり将来性があると思う。起業の際は、手を貸してあげたい」とスク
 ールの今後に期待していた。

 現在、スクールの前半期が終わる時期だが、野村事務局長は「予想以上にうまくいって
 いる。講師陣は時間外でも親身に指導し、院生も熱心に聴いており、濃密な関係を結ん
 でいます」と語っている。

     Kenzo Yamaoka
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社会保障の国際比較
http://hcoa.jp/general/suzuki/08.html
社会保障の国際比較をすると GDP ( 国民総生産 ) に対する社会保
障費はスウェーデンが 53.4% %と非常に高く、フランス 37.7%、
ドイツ 33.3%、イギリス 27.2%、アメリカ 18.7% と続き、日本は
わずか 15.2%にすぎません。 

なおこのデータは 10 年前のもので、この 10 年間で、日本以外の
先進国は社会保障費を増額しています。しかし日本だけは世界の流
れに逆行して減額しているのです。政治家の多くは選挙の時には福
祉や医療は大切だと言います。しかしこの数値を見れば政治家の社
会保障に対する考えが、いかに口先だけのものかが分かります。 

国が支出している社会保障、公共事業をそれぞれ GDP で割った比を
調べると、日本は社会保障に 3.4%、公共事業に 6% 使っています。
イギリスでは社会保障に 12.4%、公共事業には 1.4% しか使ってい
ません。日本以外のすべての国は公共事業よりも社会保障を優先さ
せているのに、日本だけが公共事業重視の政策を行っています。 

日本の公共事業費は、日本以外のサッミトの国の合計した金額より
も多いのです。この日本の公共事業費を半分にすれば、医療費は全
額タダになります。国の予算は、本当は国民が決めるべきことです。
あるいは政府が決めた予算を、政府が国民に説明して同意をもらう
義務があります。しかし国民は国の予算の現実を知らされていませ
ん。このような予算で良いのでしょうか。 

また公共事業という名前が良くありません。公共事業は国民全体の
財産という錯覚に陥る言葉ですが、現在、公共事業は機械化が進み
雇用効果は少ないのです。また特定の企業を儲けさせるだけなので
公共事業は私的事業と呼ぶのにふさわしい言葉です。さらに医療や
介護の方が公共事業より雇用効果、経済効果が高いことがすでに分
かっています。国民全体に直接関係する医療や介護こそが、本来、
公共事業。公共医療と呼ばれるべきものです。 


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