2020.人口安定、自給自足の島



皆様方へ
 今日は自然循環の恵みで生き続けてきている台湾原住民の例をお知ら
せしたいと思います。
                平成17年(2005)6月12日
              「地球に謙虚に」運動代表 仲津英治

 人口安定、自給自足の島                
                
台湾本島の南東海上約55キロの所に浮かぶ蘭嶼島という島があります。
島に住む原住民であるタオ族(達悟族、タオは人の意味だそうです。
旧称=ヤミ(雅美)族)は、自然の恵みの中でずうっと半農半漁の安
定した生活を続けてきています。

人口;タオ族の人口は約4000人で、日本時代から統計が取られ始め、そ
れに拠りますと1905年に1427人、中華民国の統治に変った後の1952年に
1480人、そして1992年に4004人で、その後安定しているようです。(田
哲益著 台湾的原住民)。

食料:主な食料は芋頭、地瓜(サトイモ(タロイモとも総称される)、
ヤムイモ )のイモ類の他、穀物の粟と飛魚に代表される海産物等です。
元々500-600年前にフィリピンのバタン諸島から移り住んで来たと推定さ
れています。

エネルギー;かつては自然が育む薪を主力としていましたが、今はさら
に石油、プロパンガス、電力を使用しています。

島を巡って判ったこと;
 この春、土日を利用して家族とともにこの蘭嶼島を訪れることができま
した。
 小さい島でも面積は45平方キロ、しかも海抜500m級の山々が連なって
おり、歩いて回るには距離と高度差があり過ぎます。 タクシー観光する
ことにしました。親切な運転手でした。彼の話言葉は、タオ語訛りの北京
語、かなり北京語ができるようになった娘の通訳を介して会話ができまし
た。日本時代の影響もあり、片言の日本語もできます。そして必要により
漢字による筆談。
 
 約40キロの一周道路は1973年に完成したそうで、ほぼコンクリート舗
装されていました。ゆっくりと観光案内を受けながらの島巡りです。宿泊
先の揶油村を過ぎると人家は急減、海岸には絶壁が迫っています。そして
猫の額のような開墾された場所にサトイモ、ヤムイモの水田が段々畑のよ
うにありました。芋の水田の水源を含め、生活用水は自給自足可能との事
です。年間雨量3,000ミリ、元海底火山であった蘭嶼島の山塊はかなり
の水を貯えてくれるようです。島にある谷川が6本、6箇所ある村は全て川
沿いにあります。

サトイモ類は植えてから1年で収穫でき、年中収穫が可能だそうです。
伺うと農耕は全て人力で行なうとのこと。農薬、化学肥料は一切使用し
ていないとのこと。農作物の残滓、野草そして飛魚など海の幸の残り分
を田畑に帰すことにより、全て自然の恵みを基礎に生きて来られたと言
います。

 かつて台湾人が稲作を持ち込んだようで、随所で試みられたそうです。
しかし今は全く稲作は為されていない由。理由は風です。台風を初めと
する強風が収穫期に籾をたわわに実らせた稲をなぎ倒すとの事でした。
結果、蘭嶼島では稲作は遂に成功せず、サトイモを主食とする生活が今な
お続いているとの事です。

しかしお米は、数少ないホテル、レストランでは供されていました。運
転手に拠れば、我々はサトイモなどを主食としており、米、麺類などに
は馴染んでいないとの事でした。ただ、世界民族博覧会HPに拠ればタ
オ族の主食は米と記されています。となれば台湾本島からの輸入となり
ますが、果たして。

海岸に連なる急峻な斜面で、多くの山羊を見かけました。人口より多そ
うです。伺えば全部飼い山洋ではあるが実質野生化しているようですが、
所有者は耳の印で判るようにしているとの事でした。山羊は、豚ととも
に家を新築したり、漁労用の舟を新造したりした時、お披露目の場でお
供え物として処分するようです。そこで親戚、隣近所に配る由。

次にチヌリクランと呼ばれる独特の小舟です。この舟は村々の浜辺で多
く見かけました。多くは一人であるいは複数集団で漕いで、飛魚に代表
される魚の捕獲に出かけます。長さ3メートルから10メートルくらいま
で。前後ほぼ対称で白地をベースにした舟体に魔除け、眼、波などを象
徴した模様が赤黒で描かれています。家を建てることと舟を造ることは
男一生一代の大仕事であるとの事でした。

このチヌリクランも自然の恵みの範囲内で造られています。舟体の部材
は2種類の樹木で出来ており、大事な点は今ある舟は、お爺さんから曾お
爺さんの時代に植えられた樹木を活用して造ったとういう点です。そし
て今植林されている樹木は、自分の子供、孫のためにあり、数十年後に
彼らが舟に造りかえるとの事です。

黒潮が運んでくる海の恵み、飛魚漁は3月頃から7月頃までです。夕刻灯
りをともして飛魚を寄せ、網で水面近く泳いでいる飛魚を掬い上げるそ
うです。
 飛魚漁は資源保護の観点からも10月で終え、後の季節は多種類の魚を収
穫して過ごすと伺いました。冷蔵庫のない時代から魚の保存方法は天日干
しであり、島巡りしながら多くの日干し魚を見掛けました。
  
 チリ沖の絶海の孤島イースター島では、5世紀の頃、50人ほど島に流れつ
いたポリネシア人が、17世紀には人口が12,000人―7万人に増大し(各種推
計あり)、19世紀に110人に激減したとの推定がなされています。彼らは漁
労のため、木を切って舟を造りました。また祭事のための石像のモアイを
切り出し運ぶのに木々を使ったと推定されています。そして島の樹木を殆
ど伐採してしまったポリネシア人は、生き延びる手段を自ら閉じてしまい、
人口が急減したと推定されています。

 これに比べると蘭嶼島のタオ族の生き方は何と自然の恵みの範囲内で生
きて来たことでしょう。限りある地球上で他の生物同様限界を心得た、地
球に謙虚な生き方ではないでしょうか。蘭嶼島の空港には、タオ族は温厚
で争いを好まないとの表示がありました。

 食料同様に大事なのがエネルギー資源です。蘭嶼島には台湾電力のデイ
ーゼル発電所がありました。全島隈なく電気が供給されています。家々に
はプロパンガスが配達されています。エネルギー資源に関しては今や自給
自足ではありません。

 しかし恵まれた雨水、日光と風を活用すれば、今や欠かせなくなった電
気(各家に携帯電話を含め家電製品がかなり浸透)を小規模水力発電さら
には太陽光発電、風力発電の自然力発電で十分賄えるのではないかと思い
ました。樹木の成長で薪や木炭も得られ、水素ガスがいずれは自然力発電
から得られるようになるでしょう。

 地球は宇宙に浮かぶ絶海の孤島のようなものです。そして孤島は大陸を
擁する地球の縮図です。地球の将来を予見してくれる小さな相似形が孤島
なのです。今地球規模でかつてのイースターの悲劇を繰返そうとしている
ように思います。
                    以上

仲津 英治
「地球に謙虚に」運動代表

「地球に謙虚に」運動ホームページ No.1
http://www.hpmix.com/home/ise/kenkyoni/

「地球に謙虚に」運動ホームページ No.2
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kenkyoni/
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遠くない将来に、合理的な政策を採っても国民経済としては利潤が
ない状況が訪れようとしている。

Fさん
いつもお世話になっています。
私は今旭川にきています。
北海道第二の都市なのかもしれませんが、ネットカフェや漫画喫茶
がないため、ホテルのロビーのパソコンから入力しています。

この「利潤なき経済社会」というアプローチは実におもしろいし
興味深いです。
 
私は、経済利潤というものは、経済外部から只の資源を持ち込むこ
とによってしか生まれないのだと思っています。あるいは、経済外
部にごみや汚染を只で捨てることによって、生まれる。
バブルや投機は、持っている人から奪うのであって、ゼロから利益
を生み出すわけではありませんから。
 
つまり、利潤なき経済社会というのは、人類文明による地球の自然
資源の取り尽くし状況でもあると思うのです。
このあたり、いろんな方にも検証していただきたいと思います。
 
人類が自然を侵略、略奪して、文明化した文明史が、いよいよ終わ
りに近づきつつある。地球は有限なのに、無限に人口を増やし、文
明を広げることはできないということです。
 
得丸久文
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逆転した、<自由>の意味。          虚風老   
 
自由には、本来抑圧からの解放と、桎梏を逃れるという意味がある。
それが社会的に適用される時は、現権力構造の強制力から、新しい
力・価値観への移行の為の抵抗という意味をもっておった。

例えば、<自由>という理念が、最大の力をもったのは、フランス
革命であり、アメリカ建国であった。そこでは、まず教会権と王権
=貴族・地主特権に対しての民衆と産業家(古い用語でいえば、ブ
ルジョアジー)の自由である。(教会権からの自由は、啓蒙家、科
学的思考等のような、世界観の、キリスト教教義・教会公理からの
思考的離脱としてあらわれたといえるじゃろう。)
それは、アメリカでは、体制的な宗教側から圧迫を逃れた清教徒(
ピューリタン)と、英国王権からの不干渉を勝ち取るという行動に
つながっておった。

ところで、市場経済至上主義という新自由主義では、その<自由>
の意味がまったく違ってくる。
この場合の<自由>とは、強者の<鎖>からの解放であろうな。
この鎖の重さとは、ひとりひとりは、弱者でしかない民衆を指す。
(福祉や弱者救済のようなことで、負担を負わせるのは、強者の足
を引っ張るようにぶら下がっていることだと考えられる。よって、
競争に勝ったモノの自由が尊ばれるわけじゃ。)
今ネオコン達が称揚している自由とは、競争に勝った強者が「力の
行使」をできる自由なのだ。(翻ってみれば、民主主義下で、現権
力とは、弱者集団でしかない大衆であるが、強者は大衆を巧みにコ
ントロールする手法を用いることによって、その権力を手中にする
)大衆には、自由という幻想を、自分達には、本当の自由をという
わけであるな。

ところで、
社会を社会たらしめている、二つの原理を考えてみよう。
ミクロ的な行動。。。これは、生体としての基本的な意志=欲と行
動である。個体の生への意志=競争原理=優越戦略、、この場合、
内と外では内(自分や家族等の受肉関係)が極めて狭い。あるいは
、それが特化すれば、家族すらも外部化してただの「個人」でしか
ない。
それでも、ミクロ的な行動は、必ずしも優越性を担保しない。また
、それは、単に状況における力の差に帰結されるので、単純な追求
では、その戦略は破綻を招く場合があるな。
また、<優位性>は同一の力をささない。肉食動物は牙に優位があ
るじゃろううが、足に優位をもっておるものもおるし、穴蔵や、食
性に優位性をもてばいいわけじゃからね。
自然界には、それぞれの、ニッチがあるわけじゃ。

ミドル的な行動。。。。その場合とられる戦略は「内側」の組織化
(集団化)である=そしてそれには内的な秩序を必要とする。内部
を組織化し、秩序=内側の規制を強化することによって、「強い内
側」をつくって、「外」へ対抗する力を発揮する。この中間的な「
内側」への溶融的な忠誠が、無私と言われるんじゃね。よく会社の
為に、、とか国の為に、、、と言って、外部からみると認められな
いことを正当化するが、これは、内部に忠誠を示すことが目的化す
るためじゃ。組織論理ともいうのう。また、自分の「位置」を肌合
いとして確かめられるのは、こういう小集団じゃからね。集団を形
成するモノは、自分の位置が、集団の中のどこにあるかが大切にな
る傾向がある。
それが位階を生んだりもするじゃけどね。

また、組織(会社・国等)を単位として、「ミクロ行動」を当ては
める場合があるわけじゃ。現在の国益国家論などでは、国を擬人化
して、これがとられているといえるじゃろう。本来、日本を分析す
る社会論にでてくる「ムラ」社会とは、個より「集団」を優先させ
た形式、このことを指すといえようの。

確かに水田を中心とする日本の農業では、個の特別な才能より、集
団での作業が重視される。そこでの行動原理=意志集約方法は<和>
であるわけじゃな。
それで、和を乱すものは罰せられ、世間をお騒がせすることが悪と
なるわけじゃ。
それが裏返ると、異分子を排除するイジメになりやすいんじゃ。(
また、リクリエーション的にわざと異分子を仕立て上げて、フラス
トレーションを転嫁させて快感を得ることにもなるの)
まあ、長く日本の組織(会社や公共事業体、ま、学校教育システム
もかね)というのは、田んぼの替わりだったんじゃね。

マクロ的な枠。。。。共同行為の必要性=和の展開
内外の遮断ではなく、相互依存を前提とする。また、個の利益では
なく全体の循環性を問題にする立場といえよう。この場合は、外が
なく、すべてを内とみる。
例えば環境問題を「地球」や、「宇宙船地球号」としてとらえるの
は、そこはすべて繋がった内側の問題という視点があるからじゃ。
地球が狭くなったとはよく言ったもので、もはや、「ムラ」としか
考えられんからのう。
その辺に、国連の役割の変質があるのじゃなかろうか。

つまり、社会の構成を成立させる為の要素には、分業、協業、調和
という側面があるんじゃ。

だが、今は、戦闘と奪い合いの気運も高まっておる。
その中で、自由の意味が逆転しはじめんじゃね。
この逆転を招いたのは、聖書的な「歴史の終わり」感が潜んでおる
のかもしれぬ。
歴史の終わりには、選ばれたモノが、世界を永遠に支配し、その他
の者は(彼等の神に従わぬもの)、打ち倒されるということじゃ。
今彼等は、支配を確実にし、その他の者は切り捨てられることを望
んでいるのかの。彼等は、地上に「神の国」が誕生すると考えてい
るのかもしれんのう。
「世界は滅んでもかまわない。なぜなら自分達は救済が保証されて
いるからだ」と。
そこには、強烈な選民思想があるんじゃからね。
この選民思想が、シオニズムとキリスト教右派(ファンダメンタリ
スト)をつないでいるともいえようの。

ただ、弱者の自由だけを優先しておればことがすむという問題では
ないの。
それは、単に「管理という名の下での自由」に過ぎなくなってしま
うし、個がもつ超越的な創造性を圧殺するからのう。そのへんは、
「分配」の問題になるんじゃろうね。

世界を、直線的に奪い合いの世界の果てとみるか、あるいは、一大
循環とみるかは「前提」としてかなり違ってきてしまうが、
その両者どちらかではなく、両方にかかっているというのが<中>
のみかたじゃろう。
論理的一本性はこの場合あてにならんな。

野球の試合は、まあ、勝つことが目的じゃろう。
甲子園大会の目的を聞かれて面白いことを言った人がある。
「そこでは、負けることを学ぶことが目的なのだ」と。
なるほど、予選や、自分のチーム内でのレギュラー争いをふくめ、
参加する人はとても多くの人数だ。
しかし、負けないのは、ただの一校にしかすぎないわけじゃ。
みんな努力しながらも、ほとんどすべてのモノが負けるのだ。
もし、勝つことだけが目的で、勝つことからしか学べなければ、あ
の甲子園や色んなスポーツ大会は、続かないじゃろう。
しかし、負けることからも人は学べる。はるかに大きいモノを学ぶ
ことがあるんじゃね。
人は、いや、生き物は必ず死ぬんじゃ。
そういう意味で、どんな生き残り戦略をとろうとも、人は最後には
負けるんじゃね。
しかし、その負けが不幸かどうかはわからんの。
老子は、「水」のように、負けることに真理(自由)を見出してお
ったしね。

また組織宗教化した、今の仏教ではどうかはしらんが、もともと仏
陀の教えにある
「自由」には、こころの解き放ち=とらわれからの脱却というのが
ある。
いわば<捨てる>ことじゃ。

ただ、こころの自由が担保されるには、外形のシステムに圧政がな
いほうがええ。
同時に、それが破綻していては、本当の自由には近づけない。
そして、個々の自由が保証されるには、他者との関係をきちんとし
ておかねばならない。そうしないと他者の自由を奪うことは、即、
自分の自由を侵害されることでもあるからのう。
だから、その自由は、本来は自律によって支えられるべきなのじゃ
ろう。

その他者との関係を守るための自律の中心にあるのは、
まあ、孔子がいうように、「自分がされたくないことを人にするな
」であろうし、
またイエスさんがいうように、「自分がして欲しいことを他者にな
せ」ちゅうことかいのう。

二つの論理を走らせる時に、自由は最大の価値でありうるじゃろう。

                        虚風老


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