2017.自由主義経済の幻想を見抜いた仏国民



自由主義経済の幻想を見抜いた仏国民     S子

 仏が欧州連合憲法批准拒否で、EUの存続に黄信号が灯った。その
要因の根底にあるのはどうやら低賃金労働力の波及にあるようだ。
低賃金労働力を求めて経済拠点が先進国から中・東欧に移動し、先
進国の労動力が奪われ、失業者を増加させ、経済の空洞化を生んで
いる。拡大EUに伴い単一通貨ユーロで自由主義経済をはかり、競争
促進による経済活性化をみたが、思わぬ落とし穴に陥ったといった
感は否めない。

この憲法では、EUの目的のひとつを「高度に競争力のある社会的な
市場経済」の実現と規定しているようだ。結局、仏国民は憲法拒否
で自由主義経済よりも高度福祉を選択、優先させたということだろ
う。自由主義経済の競争によるゆとりのない生活を送るよりも手厚
い福祉でのんびりとした生活を楽しみたいという仏の国民性が見て
取れるが、そこにはもちろん矛盾もある。経済が活性化しないこと
には高福祉も当然ながら受けられない。

F氏が指摘しているように「自由主義経済の幻想」は確かにあると私
は考える。そこにあるのは、「自由主義経済」という言葉によって
私たちが捉える印象、認識なりと、自由主義経済が実行されてそこ
に実際に起こる現象との相違性、または乖離性がある。つまり、心
で想像していたことと現実に創造されたことに「ズレ」が生じたの
である。

「自由」という言葉は私たちに何かしらスムーズに拡大して広がる
様を連想させる。それはまるで肉体に閉じ込められた魂が解放され
るような快感を私たちに覚えさせるものである。ところが、実際に
自由主義経済が行われてみて、私たちが実感したものは低賃金労働
力という競争だった。低コスト、低賃金で生産価格が少しでも安価
であるほうが自由主義経済では優先されていく。高コスト、高賃金
で高価な商品は敬遠されてゆき、先進国での失業者は増加し、私た
ちは自由に解放されるどころか、反対ににっちもさっちも行かなく
なって行き詰まってしまった。

拡大EUで低賃金労働力によってEUの中心的存在の仏が危機感を抱い
たことの意味は大きいだろう。自由主義経済における価格競争、マ
ネー戦争、それは換言すれば低賃金労働力の波及にすぎず、低収入
を意味する。つまり、この低価格競争に勝って経済の活性化を見る
こと自体が幻想でしかないということである。低収入になれば当然
生活の質のレベルは下がり、国民は追い込まれてゆく。が、生活の
レベルは下がっても手厚い福祉で生命の保障はきちんとしてもらい
たいのが、人間として生きるには当然の権利、主張だろう。

そして、その経済を担っているのは所詮人間でしかないのだから
そこをよく配慮せよと、仏国民は言っているのではないのか。自由
主義経済という言葉で国民を酔わせ、非人間的な生活を強いるので
はなく、血の通った暖かい人間的な生活を保障せよと訴えているの
ではないのか。
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利潤なき経済社会2−まず必要な価値観の転換  あっしら

「利潤なき経済社会」と「利潤獲得を目的とした経済活動」は、ま
さに矛盾するものであり、一つの社会のなかでは両立し得ないもの
である。となれば、経済活動も終焉を迎えるのかと言えば、それは
国民あげて生存を放棄することを意味するからあり得ないことであ
る。

では、何を目的として経済活動を行えばいいのかという問いが生ま
れる。

今でも個々人の経済活動が経済学的目的ではなく様々な“目的”で
あるが、国家=共同体が基礎とするもしくは許容する目的は、それ
なりに統一されたものでなければならない。

問いの答えにはならないが、「経済活動が目的ではなく手段になる
」必要があると考えている。経済活動が国家の目的ともなり、その
経済活動が利潤獲得を目的としたものであるという現状から、「経
済活動は共同体=国家の成員ができるだけ快適に生きて死んでいく
ための手段である」との認識=価値観が共同体=国家の意志になら
なければならない。

そして、経済活動が残るように、市場も残る。
市場とは、個々人の活動力を交換する仕組みであり、家族や地理的
に狭い共同体が自給自足の経済活動を行っているのなら別だが、直
接的には目に見えない他者の活動力に依存しなければならないので
あれば不可欠のものである。(自給自足的な経済生活を否定するわ
けではない)
市場はそういう機能でしかなく、機能でしかない市場を崇拝する市
場主義的価値観は、インターネットという仕組みを崇拝するような
ものである。

利潤追求を目的とする経済活動が手段に“転落”することで、新し
い経済システムが生まれ出るのではないかと夢想している。
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GNPよりGNH〜国民総生産より国民総幸福 (2003/03/10) 
http://www.keicho.com/world/bhutan2003-3.html

 開発援助に携わる我々の間では、ブータンに関するちょっと有名
な話があります。それは、「ブータンは国家の目標として『GNH
(Gross National Happiness〜国民総幸福)』を追求する」と内外
に宣言していることです。「GNP(Gross National Product〜国民総
生産)」ではなくて、「GNH」です。要するに、国家の役割は経済一
辺倒の発展を達成することではなくて、国民の幸福を最大限に導く
ことだという素晴らしいコンセプトです。

 このブータンの国家コンセプトは、僕なんかが聞くと非常に共感
できて、正に国家の理想の姿のように思えますが、多くのエコノミ
ストにとっては、とてもユニークでどうも訳のわからないものなん
だそうです。そういったエコノミストの中には、「そもそも幸福の
定義は何なのか」とか、「GNHが国家目標なら、その達成を測る指標
はあるのか」といった質問をする人がやたらに多いです。特に、西
洋的価値観に基づいた教育を受けてきた人は、こういうことを言う
ような気がします。今回ブータンに来てからも、僕のチーム内で似
たような議論になりました。僕の個人的な意見を言わせていただけ
れば、幸福の定義なんて一人一人違うんですよ。僕が幸せと感じる
ことも、他人は幸せとは感じないかもしれないでしょ。あえて定義
を探せば、「幸せとは、欲求と現状のギャップが小さいこと」を言
うんでしょうね。欲が無く現状に満足していれば、貧しくとも幸せ
を感じることはできるでしょうし、逆に、いくらお金持ちで物質的
に恵まれていても、欲が深ければ幸福感は少ないかもしれません。
従って幸福感は精神的なものに大きく左右されるので、そんなもの
を測る指標なんてあるわけないのです。

 だからブータンを見習って、GNPなんていう指標で国家の発展度
を測るのは、もうやめにしませんか。そもそも、経済的豊かさと幸
福感の間に相関関係はあるのでしょうか。GNPが高い日本の国民は、
GNPが低いブータンの国民より幸せなのでしょうか。GNPよりGNH。
ヒマラヤの小国ブータンが、世界に大きな問いかけをしています。
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(Fのコメント)
どうも経済の指標を幸福としたらというブータンの問いかけを見直
してみる価値がありそうですね。もう少し、あっしらさんの意見を
聞きましょう。


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