2016.利潤なき経済社会1



あっしらさんが、阿修羅で議論していた利潤なき経済社会の議論は
続けていく必要がある。始めにあっしらさんの議論をF流に転載す
る。どうもあっしらさんは、インド洋津波に合われて、この世には
いない可能性がある。ここではあっしらさんの霊に供養する意味で
も、議論を発展させたい。            Fより

あっしらさんの立場:
社会科学(認識)と自然科学(認識)の両方の基礎になるのは哲学
だし、哲学と概念化思考力(論理学)が基盤化されていれば、各分
野の知識(テクニカルターム)を得ることで体系的な認識と合目的
的な活動が可能になります。自身の哲学的立場は、認識(論)=存
在(論)というものです。

日本人が抽象思考力を高めれば“鬼に金棒”で、学問世界でも諸外
国を凌駕することができると考えています。具体化思考力である技
術と抽象化思考力である科学がバランスのいい両輪になることで日
本は発展していくはずです。

哲学のさらに上位にあるのが“目的意識”です。何のために対象(
世界)を認識するのかという問題です。これは、学問の領域にも関
わることですが、それ以上に各人の生き様そのものに関わることだ
でしょうね。


利潤なき経済社会とは:

遠くない将来に、合理的な政策を採っても国民経済としては利潤が
ない状況が訪れようとしている。世界経済(国民経済の総和)レベ
ルでも利潤がない状況になる。中国の出現でこのような状態が、近
い将来に予想できる。

利潤がないと言っても、国民経済レベルの話だから、個別経済主体
や個人が“存在しない利潤”を追求することは現状と同じようにあ
る。しかし、それで得たとする利潤は、正味の利潤ではなく“通貨
の移転”であり、利潤を得る人がいれば、それに相当する損失を被
る人たちがいるというものになる。いわゆるゼロサムである。

国民経済が“通貨の移転”ではなく正味として得る利潤は、他の国
民経済から輸出(貿易黒字)や国際金融を通じて得る通貨(基軸通
貨ないし金)だけである。これ以外に、“通貨の移転”ではなく、
正味の利潤と言えるものはないのである。
正味の利潤も、ある国民経済の利潤に相当する損失を被る別の国民
経済が存在するということであり、世界レベルではゼロサムである。

このような認識がないまま現状のシステムや価値観で歴史(経済活
動)が進んでいけば、国家内も、国家間でも、とてつもない災厄と
抗争が発生することになる。米国が最初にこの問題に遭遇するし、
現に遭遇している。

戦後日本は、「高度成長期」に国民経済が利潤を得られる体制を築
き、以降、経常収支の黒字というかたちで利潤を上げ続けてきた。
だからこそ、“通貨の移転”による利潤があっても問題化すること
なく、多くの経済主体が利潤を上げ続け、経済的国民生活も向上し
ていったのである。
「高度成長期」の高い経済成長率は、利潤によってもたらされたも
のではなく、「労働価値」(生産性)の上昇によってもたらされた
ものである。

「高度成長期」は、「労働価値」を上昇させるための生産設備の更
新や規模の拡大を行うための資金として、いわゆる利潤だけでは足
りず、借り入れや増資が必要だった。
このような投資活動と生産活動の拡大的リンクが、年率平均10%
という高度成長の原動力であり、それを支えたのが輸出の増加であ
る。(完全雇用状態にあったので、規模の拡大を「労働価値」の上
昇に依存するしかなかったことが、「労働価値」上昇=国際競争力
をより高めた)。これと同じ状態に中国経済がある。他国と比べて
労働価値が不当に低いために労働価値の上昇が可能である。

経常収支の黒字基調転換は高度成長が終わった70年頃で、それは
、国民経済として利潤が得られるようになったことを意味する。
そして、利潤が得られるようになったと同時に、成熟期(低成長期
)を迎えることになる。戦後日本の経済史を振り返れば、利潤が経
済成長の推進力ではなく、「労働価値」の上昇こそが経済成長の推
進力であることがわかる。

利潤がないと言っても、驚くべきことでも、困ったことでも、不都
合なことでもない。利潤は、経営学的なものではなく“しまい込む
儲け”と考えればわかりやすく、自宅の金庫に積み上げているお金
を眺めてほくそ笑む人が求めるものだとイメージすればいいもので
ある。

預金通帳に打刻されている数値を見てほくそ笑む人は、その数値に
相当するお金が、既に、企業に貸し出されていたり、国債購入に使
われたり、地上げ資金として使われるなどして、運(政策)が悪け
れば戻ってこない可能性もあることを知らないだけの話である。

違う側面から言えば、国民経済に存在する通貨が高度成長期のよう
に投資や消費に使われずに、いわゆる金融取引に使われ続けるのも
“儲けをしまい込んでいる”ことである。

現状の「デフレ不況」は消費不振が原因のように言われているが、
経済主体の(再)資本化が、失業者の増加に如実に現れているよう
に縮小されたり、償却済み設備の更新や海外製造拠点に対するもの
になっていることが起因である。(預貯金を抱える銀行も、運用難
に陥っており、厖大な借り換え債も発行されている国債に向けられ
ている。借り換え債は、新規国債と違って、GDPの拡大に貢献し
ないものである)

「近代経済システム」ではほとんどの人が雇用を通じて通貨を得て
生活していることからわかるように、始源的要因は、経済主体の資
本活動が低迷しているから消費不振に陥っているのであって、その
逆ではない。それから起きる消費不振がさらなる経済主体の資本活
動の低落を促すために、「デフレスパイラル」が進行しているので
ある。

この間もいろいろ書き込みをしてきたが、経済主体の資本活動低迷
が「デフレ不況」の始源的要因であることを理解しないと、債務を
さらに増やしても財政出動すればいいとか、お金を持っている老人
が消費に走ればいいという需要サイドの解決策を求めるようになっ
てしまう。

「デフレ不況」で利潤が得にくい状況なのだから、経済主体の資本
活動が低迷するのも当然である。経済学も説くように、企業(経済
主体)の活動動機(目的)は利潤の獲得である。利潤が得られない
と判断すれば、企業は、新たな資本化(投資)を行わない。

だからこそ、「利潤なき経済社会」では、「近代経済システム」が
有効に機能せず、経済学も通用しない。

市場主義をいくら唱えようと、経済主体が市場システムを使う目的
も利潤の獲得にあるのだから、利潤が得られない経済条件では無効
になる。資本主義の論理が使用できなくなる。
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(Fのコメント)
大コンペティションになり、日本の得意な分野も台湾、韓国と競争
状態になり、なかなか簡単には儲からない状態になっている。利潤
が取れなくなっている。新しいアイデアや理論はそう簡単にはでき
ない。このため、利潤の獲得ができなくなっていることは事実であ
る。

もう1つ、労働賃金が日本より中国の方が安いために、技術が必要
ない作業は中国でやった方が、原価が安く出来る。価格競争の状態
では、中国での工場建設が魅力あることになる。このように日本社
会の発展と企業経営が離れたことになる。

もうそろそろ、利潤なしの経済を構築しないと、先進諸国の次の社
会構築ができないことになると思う。

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