科学万能主義という誤り S子 JR福知山線脱線事故を起こしたJR西日本の体質が問われているが、 これは何もJR西日本だけでなく、組織や企業が大きくなればどこで も起きうる体質のように思われる。ただそれが今回の脱線事故のよ うに、その組織なり企業なりの体質が表面化するのか、又、表面化 しないまでもその体質を抱え込んだままでいるのかどうかという違 いだけであって、根底はどこも同じだろうと私は思っている。 近代以降、私たち人間が追求してきたのは合理性という名のもとの 科学万能主義ではなかったのか。科学は誰がやっても同じ結果とな り、その目的にかなった無駄のない洗練された美しいものであり、 それを明確に誰もがとらえることができるというものである。要す るに科学は「視覚文化」であり「マクロ世界」であり、この物質世 界を支えてきた重要なものだと言えるだろう。 誰の目にも明確に同じ結果と映ることにこそ絶大な信頼感を科学に 寄せることができる。現代においては、科学万能主義は大企業や大 組織に浸透しきっており、欠かせないものになっている。マニュア ル通りに事が運んで当然だと思っているのである。 しかし、その科学を利用し使っているのは、人間という「足の文化 」であり、目に見えない心を持った「超ミクロ世界」を生きている 人間である、ということを忘れてはいけない。これを見失っている ところに現代科学万能主義の誤りがある、と私は思っている。 あまりにも科学に信頼を寄せすぎて、そこにいる人間の存在を無視 しているところに問題がある。だから大企業や大組織においては融 通性がない、臨機応変な対応ができないのである。JR福知山線で起 きた脱線事故は、その視点を見失った結果ではないのか。 ひとつ例にとれば平成の市町村大合併がある。この大合併により 06年3月までに消えてゆく市町村は半数近くとなり、村だけでみ ると568から198に減るそうだ。そういう中で、諸事情により 合併をしなかった人口千人未満の村がある。 その諸事情とは、僻地や住民の高齢化に伴い急患搬送手段がうまく 確保できないといったものや、合併により医療機関がきちんと整備 された本島への移住が進み無人島になってしまったケースや、赤字 村との合併を相手側から拒否されたケースといったものである。 合併しなかったこれらの小さな村は、結局合理化という科学よりも 人間重視を選択したということだろう。科学は誰がやっても同じ結 果となるように錯覚されているだけで、実はあらゆる諸条件をいれ るとそこにまったく同じことというのは絶対にあり得ないのである。 まず、気象が違う。時間、場所、人間の心理状態、そのときの体調 等を加味してゆくと絶対同一条件下で同じ結果が出ることはまずな い。 これから時代は大から小へと向かう。マクロ世界から超ミクロの世 界へと。視覚文化から足の文化へと。私はそう思っている。 ============================== 世界史の中の縄文 YS ある考古学者であり地理学者でもある人物とお話ししていたとこ ろ、そもそも縄文時代の信仰を神道に結びつけて古神道などと呼ぶ こと自体に無理があるとの結論に達し、単に縄文信仰と呼ぶべきだ との意見で一致した。 確かに初期の神道には縄文信仰の影響も見出せないわけではない が、死後の世界観などを比較すれば全く異質なものであることがわ かる。また、縄文信仰との対比によって神道を弥生信仰と位置付け ることも可能かもしれない。 靖国に象徴される国家神道は西洋列強に対抗するためには不可欠 であったのだろう。しかし、縄文信仰との歴史的な連続性を見出す ことは限りなく不可能に近い。その意味では現在の東アジアにおけ る混乱は弥生同士の抗争との見方もできるのだろうか? ケルトや沖縄、あるいはDef Techなどのサウンドを聞きながら、 下の本などを読んでみたいと思う。 世界史の中の縄文 佐原真・小林達雄 著 定価 1890円(本体 1800円)/四六判上製/208頁[2001年] ISBN4-403-23091-1 (以下引用) 縄文は、一万年ものあいだ続いた。しかもどんどん充実していった。 自然の一角を切り取って、初めて縄文人が縄文人だけの空間を確保 してムラを営むと、じっと自然を観察し、真正面から対象化した。 そして自然と対立する一方で、共生の度合いを強めていった。とて も個性的で豊かな時代だった。この縄文文化の「豊かさ」に対抗で きるのは、トーテムポールを立てたアメリカの北西海岸の先住民く らいだろう。日本列島の歴史のなかだけでなく、人類史のなかでも 、注目すべき個性を誇る文化だ。 ヨーロッパでは、ケルト文化が再評価されている。ケルトという 遠い文化と対話しながら、現代の文化の歪みを見つめようとしてい る。そのヨーロッパでも、いま縄文が注目されはじめている。 一九九八年のパリの展覧会、今年二〇〇一年のロンドンの大英博物 館とケンブリッジの展覧会に置かれた縄文土器は食い入るように見 つめられた。シンポジウムに参加した私も、次々に質問を浴びせら れた。海外の縄文研究はこれまでのアメリカやカナダから、ついに ヨーロッパにまで広まりつつある。文明というものを見直すために 、また世界史を語るうえで、縄文は欠かすことができないことが世 界的に認められつつある。『世界史のなかの縄文』はそのような問 題意識を共有して語られている……小林達雄 ──弥生文化研究の第一人者・佐原真と縄文文化研究の第一人者 ・小林達雄。二人の考古学者が、縄文の世界史的位置づけをめぐっ て激論を闘わせた! http://www.shinshokan.co.jp/shopcart/html/sho/shinshokan_23091-1.html http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4403230911/250-0880079-0460227 ============================== 情報過多社会 S子 何気なく目をやった先に見えたテレビに映っているのは、どうやら NHKの大河ドラマ「義経」の再放送らしかった。私はまったく見てい ないので「義経」のストーリーはわからない。だいぶ現代風に脚色 されてはいるのだろうが、それにしても人々の動作が非常にゆっく りとしていると私は感じた。まるでスローモーションのように見え たのである。そして、時にはそこに優雅さも見え、まったくの静寂 の世界がそこにはあった。現代の騒音や雑音に囲まれた生活を常と している私たちには、まさしく「時が止まった」ような世界である。 現代ほど人の手が加えられていないだけに、一頭のもんしろ蝶が飛 んできただけでもそこには深い趣がある。「義経」が生きた世界は 「足の文化」であり、「足の文化」に見合っただけの限られた情報 量の中で人々は生きている。だからその限られた情報量に接する人 々の心は、非常に繊細かつ微細である。 ひとつの事象に対して人々が様々な思いをめぐらしているのが見て 取れる。そして、現代人には想像もつかないほど相手の気持ちを見 ている。相手の気持ちを見るということは、それだけ自分自身に向 き合っている証拠であり、また、それだけ時間的ゆとりがあるほど 時の流れがゆったりとしているということなのだろう。 ひるがえって現代はどうかと言うと、様々な情報が溢れかえり、年 から年中私たちは「情報漬け」状態にある。そうなると心の休まる 時間などなく、常に心は動き続けていることになる。自分自身のこ とさえまともに向き合う時間が取れないのに、他人のことを考え思 いやる気持ちが生まれなくて当然だろう。 それだけ現代人は情報過多社会にあり、心をぐちゃぐちゃにかき回 されているのだ。現代人の意識が正常な位置にあらず、まともに思 考することができないと言われる要因がそこにある。つまり情報量 が多すぎるのである。しかも入らぬ情報が多すぎるのである。 最近では「謎のピアノマン」騒動がその良い例だ。最初にテレビで これを見たときはかなりの違和感を私は感じた。何でこんなものを 大々的なニュースとして流すのだろうと思っていた。しかし、「謎 のピアノマン」騒動はおさまることなく日々のニュースで取り上げ られていく。 いい加減にしてほしいと私の気分が爆発しそうになった時、「謎の ピアノマン」に酷似した映画の登場となって、「謎のピアノマン」 騒動はピタリと終息した。えらく手の込んだ映画の前宣伝だったよ うだ。。アホラシイ。。このニュースを報道したテレビ局は、この 映画制作会社よりなんぼかもらったのだろうかと、私はいらぬ詮索 をしてしまった。 人が生きてゆくうえで本当に必要な情報というのは、実はかなり限 られていると私は思っている。ゴルフの宮里藍選手が十代にして初 の一億円プレーヤーと言われ現在活躍しているが、彼女の世界は おそらくゴルフだけだろう。イラク戦争が起きようが、スマトラ地 震があろうが、彼女の頭の中はゴルフのことでいっぱいだと私は思 う。 ゴルフの成績があがればあがるほど、彼女の世界はゴルフに関する 情報の比重が大きくなり、その他の情報はかすんでくる。当然だろ う。彼女が今生きる意味を見出しているのはゴルフなのであり、彼 女に本当に必要なのはゴルフ関連情報だけである。職人に必要なも のもその作っているものに関する情報なのであり、それがその職人 の道を究めることに繋がる。 何度も言うようだが人が一生の間にできることというのは限られて いる、ということである。しかし、現代の溢れかえった情報社会の 中ではそれすらも見えない。だから自分が生涯を通して本当は何を したいのかがまったく見えない世界を私たちは生きているのである。 そういう意味では「義経」の時代よりも私たちははるかに不幸であ るのかもしれない。自分のやりたいことが見つからないというのは とても悲しい。結局時代に翻弄される生き方しかできなくなり、生 きる意味など見出せない。 話は変わるが、実は共産主義も資本主義も根底では同じではないの かと、私は思っている。ただそれが「恐怖政治」なのか「快楽政治 」なのかの違いだけのように思う。かたや独裁者の顔を国民に明ら かにし粛清という恐怖で国民を支配し、かたや独裁者の顔を隠し自 由だ、民主主義だと国民の目を快楽情報でそらし続けながら支配す る。 要するにハード路線とソフト路線の違い。ソフト路線では支配者の 顔を非常に見えにくくしている。溢れかえった快楽情報に人々が関 心を寄せてくれればくれるほど、支配者にとってありがたいことは ない。スターウォーズ最終章の話題性と観客動員数は、涙がチョチ ョ切れるほど支配者には嬉しい。仮想世界のまた仮想世界に人々の 関心がゆくからである。 こういう支配者にとって何が一番怖いかと言えば、人々が真剣な気 持ちで自分自身と向き合い始めるときである。それはこの世界と真 剣に向き合うことを意味しているからだ。そこからこの世界の真実 の姿を見られることを恐れている。 今、自分のやりたいことが見つからない人は、夜寝る前、朝目覚め た時に、ほんの5分でもいいですから心を落ち着けてじっと座って 自分と対峙してみて下さい。世界と対峙する時、自分のやりたいこ とが自然と見えてきますよ。