1997.高付加価値製品の創造



日本経済は踊り場に来ているような気がする。この脱出を図る方法
を考えよう。     Fより

JR西日本の事故や大きな人災があると、運転手や管制官だけのミ
スや会社の管理不徹底で済ましてしまう。そこに日本の弱さがある
。事故の防災、リスク対応の金を掛けないことで災害や事故があっ
てから、その対策が打たれる。しかし、この事件の失敗から学ぶこ
とも重要である。

神戸の近くで事故が発生したから、近所の皆さんが直ぐに現場に駆
けつけて、対応したのは神戸大震災があったからであると報道して
いた。もし、東京で同様な事故が起きても、神戸のような対応はで
きていないでしょうね。日本人は危機管理に弱い。危機に備えると
いうことをしない。米国は9・11以後、国家防衛、国土防衛に非
常に金を使っているが、日本はテロがないと信じて、JR西日本の
事故を見ても体制ができていない。JR幹部のように夜の懇親会の
方が大事であるというメンタリティである。これはJR幹部だけで
はなく、原子力事故でも同じような状態であったはずである。日本
人全体がそういうメンタリティであるように感じる。

そして、日本を見ても、日常生活で必要な物は、ほとんどあるし、
大きな工事を必要とするダムや道路なども十分に設備されている。
大きな需要がないと経済は活性化しないことは明白である。自動車
もステイタスとしてではなくて、必要で使うために一部のお金持ち
やマニア以外に高級車を買わない。家庭で乗るのはワゴンになって
いる。衣料も中国製で十分である。日本に十分な需要はあるのであ
ろうか??

一方で、日本の最先端技術が生かせるのは、医療現場用の先端製品
やセキュリティ関係の先端製品やスポーツ選手の運動用品など限ら
れた分野に米国、欧州、日本が争っている。もう1つの分野が日本
文化を素材にした領域である。ソニーのスーパーコン並みの次期ゲ
ーム機で日本の文化を素材にした日本人監督の高精細ハリウッド映
画を見るなどが典型的な例でしょうね。

音楽、映画、すしなどの料理、生け花、畳などで日本文化が見直さ
れている。しかし、この分野は日本人が個個で才能を発揮する分野
で、日本国民の多くがその労働で生活できるように感じない。角川
映画のように世界を相手に最初から英語で映画を作るという試みも
出てきている。日本に需要がないなら世界の需要を最初から考える
ことが企業としては重要になってきている。

反対に日本にも世界から良いものが簡単に入ることが重要である。
たとえば、落雷の防止では日本は後進国である。ヨーロッパ基準の
落雷対応基準がJIS化はされているが、建築基準法は国内メーカ
の抵抗で法改正ができない。このようなことをするとヨーロッパに
日本の良い物を持っていこうとすると、反対に日本の閉鎖性を理由
に輸出できないことになる。このような例がまだたくさんある。

もう1つ、世界から良いものを輸入して、それに日本文化を付加し
て、日本が世界に逆輸出することも考えるべきであろう。この良い
例が、3次元CADの仏キャティアである。ホンダが全面的に自動
車の設計に使用して、いろいろ注文をつけて、自動車の製造に使え
るものにして、今では世界の自動車業界で標準CADになっている。

これなどはフランスのミラージュ社が、日本文化を吸収して、その
文化を世界に広めたと言える様である。ここで残念なのは、付加部
分を日本で作成しなかったことであるが、基礎技術の確立には時間
が掛かるが、その上に日本文化を載せるのにはそれほど時間が掛か
らない。基礎技術は進んでいる所から持ってきて、その上に日本文
化を付加することで日本発製品と同様に日本が育てて、元の会社と
共同で世界を開拓することも考えるべきではないかと思う。

日本が基礎技術から進んでいる分野は中国や韓国、台湾に追いつか
れないように、次々と最先端を深堀することであるが、もう1つは
世界の製品に日本文化を載せて世界に発信することも必要であろう
と思う。日本は中国の発展で一瞬、素材産業が最高益になったが、
今後もサムソンや現代などの挑戦を受け、かつ中国のバブル崩壊と
反日活動で、来期はどうなるか分からない状態になっている。

デジタル家電の次を探して、開発することが重要になっている。携
帯、家電なども重要であるが、次の製品を探すことも重要である。
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JR西日本の大事故に思う   
   
 人間の魔性を見詰めよ/本質的な反省をもったのか
評論家 高瀬 広居
不測の事故をもたらす心の闇 (世界日報)掲載許可

 「水と空気と安全はタダ」という日本人の楽天主義は、いままで
も世界の人びとから珍しがられてきたが「タダ」ということは、自
己努力なしに天与のものとして授けられる想いを指しているのであ
ろう。同時に人間世界における不可測の危機の訪れを想定しない「
甘えと他者依存」の楽観性を意味している。

 たしかに、日本人は器用だし工夫心も卓抜でさまざまな自衛措置
を開発し万一に備えようとする。公害防止技術には目をみはらさせ
るものもある。しかし、それらは所詮、可測できる範囲内でのハウ
トウ技術の対応に過ぎない。

 JR西日本の事故で噴出した安全対策の不備や経営者批判もつき
るところ、そうした人為的防備能力の欠如の指摘に集中している。
けれども自然の暴威を別にすれば、あらゆる事故や破滅的災害は物
理的・人工的落ち度以外の次元から起こっている。不測の事態には
到らなかったけれども十八名の管制官が、閉鎖中の滑走路に航空機
を着陸させて平然としていたのも、人命救助を放置してボーリング
やゴルフや宴会に興(きょう)じていたのも「安全マニュアルや義
務規制」などではどうにもならない人間の心の闇の在ることを物語
っている。これは責任感や使命感、あるいは倫理観や生命観の問題
ではなく、人間存在そのものに突きささってくる問題なのである。

短絡的情緒的な事故への批判

 般若心経に「★(★=罟の古を圭に)礙(けいげ)無きが故(ゆ
え)に、恐怖有(くふあ)ること無し・一切の顛倒無想(てんどう
むそう)を遠離(おんり)して」という法句がある。★(★=罟の
古を圭に)礙とは執着・こだわり・固執感をいう。それが無ければ
恐怖心や焦燥、動顛して物事を錯覚し、在ってはならない状態を招
くことはないという教えである。禅では平常心(びょうじょうしん
)とか空ともいう。高見運転士は電車の遅れを取り戻そうと「時間
に★(★=罟の古を圭に)礙」したがために百キロオーバーの時速
で脱線した。

 彼は度々の失態で再教育をうけ、さらにオーバーランを重ね劣等
感と無力感を抱き、その不安を克服するための内心の葛藤を持ちな
がら運転していたのであろう。つまり「自分は劣っているのではな
いか」という心配と「自分の価値についての疑惑」にとらわれてい
たのだ。この弱気の感情は、自己保存欲求(うまくやってのけたい
という気持)」と「責任をどうとるのか」という「内罰・自罰的強
迫観念」を生む。選びとる解決の道は攻撃的(アグレッシブ)にな
るしか方法はない。恐らく自律神経のバランスは崩れ副腎の髄質か
ら多量のアドレナリンが分泌し、交感神経の興奮は頂点に達してい
たにちがいない。スピードアップした運転士の心に潜む人間の魔性
である。

 事故の被害者や遺族・友人にとってJR西日本や運転士は許し難
い犯罪者かも知れない。また、執着心というものは物事を成し遂げ
るために不可欠な情念でもある。しかし、そうした憎悪感や常識を
もって断裁しえないのが人間そのものであることを、私たちはこの
悲惨な現実から学びとらねばならないと思う。

 いまの日本人は余りにも短絡的で情緒的過ぎる。テレビで繰り返
される事故現場からの献花や合掌する姿、記者会見でのJRの吊し
あげと悪罵、「同じ人間とは思えない所業だ」と怒る一般市民――
どれもがごく当たり前のことのように受けとられているが、さらに
深く人間という不可知な、暗黒の深層心理を秘めている「業(ごう
)と原罪の存在」、という洞察と認識に思いを到さねばならないの
である。

人間として何を学びとるのか

 九・一一テロの時もアメリカ人はキャンドルを捧げて亡き人を悼
(いた)み泣いていた。だが、彼らには死者の魂が神に呼ばれ至福
を得ることを願い、人間の罪深さを鞭うつ宗教的懺悔があった。
テロリストを憎むとともに犠牲者を再生させるための宗教的回心の
必要性を訴えていた。果たして日本人はJRの衝撃的な無惨な死を
目前(もくぜん)にそのような深刻な反省をもったであろうか。
オウム真理教のサリン事件の時も宗教法人法の改正と司法の断罪に
すべてをゆだねてしまったが、今回の場合も行政措置を検察の処断
、補償と会社の安全対策、経営責任の追及ということですべては落
着をみることであろう。どのような事件が起ころうともそれを人間
の本質的レベルで問わない――それが日本人の軽薄な民族習性なの
である。なぜなのだろうか。

 「死」という人生最大の厳粛な事態に直面しながらも、「鎮魂と
詠嘆の習俗感情」の領域を一歩も出られないのは、私たちにまこと
の宗教心が欠落しているからである。「死ねばみんなホトケさまだ
」などという世界宗教のどこにも説かれていない虚偽を信じ、ひた
すら死霊を追慕する原始的、未開性の「太古の宗教感情」に呪縛さ
れているためである。宗教とは「人間とはなにか」を問うところか
らスタートし、人間性の不確定さと罪を犯さずには生きられぬ本源
を追及するところに結実する。

 JR西日本の責任は徹底的に追及さるべきだろう。亡き人を偲び
無念さに涙し弔うのもよい。では、それで私たちは人間として何を
教訓として得たことになるのだろうか。
    Kenzo Yamaoka


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