1951.21世紀思想の出発点



きまじめ読書案内 

21世紀思想の出発点 − 小林和之著「『おろかもの』の正義論」(ちくま新
書509)

・ 21世紀と向き合うための本

 レトロやノスタルジーは嫌いだ。わずか数十年の人生の、その初期に出逢っ
たものや音楽などに安らぎを求めて何になる。現状逃避に過ぎないのではない
か。現今(いま)を直視し、語る必要がある。

 そんなことを考えながら昨年末から、本を探していた。しかし、書店を訪れ
ても、新聞書評でも、これと思う本に当たらなかった。私が求めていたのは、
21世紀を生きるために、参考になる本だ。21世紀という前代未聞の時代を生き
るときに、なにか役に立つ考え方なり生き方の指標あるいは参考となる本だ。
その意味で、過去の思想家の発言の紹介や歴史解釈はまったく無用となる。あ
るがままの地球の現在と対峙して、自分の頭の中で、自分の言葉を紡ぐ思想家
はいないだろうか。そんなことを思っていた。

 結局、ウェブ上で山本芳幸氏(アフガニスタンで難民問題に取り組んでおら
れる国連職員)のサイトを訪れ、山本氏と同じメルマガに参加している小林和
之氏の本に出会ったのだった。

 実はこの本、一度読んだかぎりでは、さまざまな論点があれもこれもといっ
た具合に紹介されているため、何が言いたいのだかよくわからないきらいが
あった。しかし、読書会のために3回ほど読み直したところ、読めば読むほ
ど、時代をよく理解し、時代と立ち向かうために自由な思考を与えてくれる本
だと感じたので、「きまじめ読書案内」として紹介しようと思い立った。

・ 思い込みから自分を解放するための準備体操

 序で著者はいう。「本書ではあなたを説得しようとは思わない。むしろ逆
だ。考えることは自由になることだとわたしは思っている。ある具体的な問題
について考えを積み重ねることは、こだわって視野が狭くなることではない。
多くのことを知り、新たな可能性を見いだし、自分が知らないうちにとらわれ
ていた思いこみから自分を解放することなのだ。本書のねらいは、あなたが以
前より自由に物事を見られるようになる手助けをすることである。」

 この狙いは、十分達成されえると、本書を二度目に読んで思った。もちろ
ん、読む側ができるだけ素直な気持ちになって、本書の内容を通じて、著者と
対話しようと思うことが、達成の条件になるだろうが。

 本書が論じているテーマは、「脳死」、「事実」、「科学」、「過失責
任」、「選択の自由」、「死刑」、「愛国心」、「多数決は正しいか」といっ
た現代民主国家を生きる市民にとっては、基本的な問題である。著者はそのそ
れぞれの問題を、わかりやすく具体的な例を示しながら、いくつかの異なった
立場にたって、議論する。

 脳死でいえば、交通事故で脳死状態になったドナーの家族と、難病のために
余命がいくばくもなく、ドナーからの、新鮮な臓器の提供をまって移植手術を
予定している患者の家族。あるいは、愛国心を説明するにあたって、阪神タイ
ガースのファンたちのファン心理になぞらえて、阪神ファンの心理分析から
入っていく。

 読者は、著者の用意したものごとの考え方の筋道にしたがって、こうも考え
られるのか、ああも考えられるのかと、さまざまなものの考え方を追体験する
ようになっている。

 現代という時代は、政治でも医学でも生命倫理でも、ほとんどすべてのこと
が一部の専門家によって決められており、一般市民が意見を求められることは
あまりない。一般市民には議論の中身は知らされず、結論だけが示される。あ
るいは、いろいろな意見がマスコミをにぎわせるとしても、それは世論誘導の
ための戦略でしかないことも多い。

 専門家がどのように考えたか、議論したかの、筋道が示されることはほとん
どない。だから、一般市民は、ものごとをどのように考えるか、現代民主社会
の主権者としてどのように考え、どのように結論を出し、どのように行動する
ことが正しいのかを、考えることすらない。著者は、思考や議論や自己決定に
基づく行動から疎外された現代人を、思考や議論や主体的な行動へと呼び戻す
ために、リハビリテーションを行っているといえよう。これは市民が主権者で
あることを予定している民主主義にとっては、基本中の基本、絶対的な必要条
件である。

 本書で紹介されているさまざまな話題に付き合って感じたことだが、現代に
おいて絶対的に正しいことは少ない。脳死にしても、愛国心にしても、ある立
場の人間にとって「正しい」(望ましい)ことが、別の立場の人間にとっては
「正しくない」(望ましくない)場合がある。いってみれば、現代の人類社会
においては所詮、法も、正義も、立場を変えると正しさすら変わりうる相対的
なものでしかない。著者は、そのような醒めた見方に達しているようだ。

・ 人間の「正しさ」感覚や道徳の限界

 本書は、読者を、現代の諸問題について考えさせ、その議論に参加させるた
めの、準備体操、思考のリハビリテーション、再活性化を提供しているが、著
者の思考はそれにとどまってはいない。

「われわれの『正しさ』の感覚も道徳も、長い歴史の中で形作られてきた。そ
して、人類の数千年の歴史の中で、自分の想像も及ばない遠くにまで力を及ぼ
すことができるようになったのは、ごく最近のことにすぎない。

 近代以降、われわれは急速に知識を増やし、大きな力を手に入れた。この頭
と手の進歩に、心がついていけないのだ。資本主義の市場メカニズムは南の
国々にまで及び、熱帯雨林の伐採は北の国々にも影響を与える。頭ではわかる
としても、あまりに実感がない。そして実感がないところで日々の行動を変え
ることはとても難しい。」(P228-9)

 われわれの心が、われわれの頭や手についていけない、という表現は、実に
鋭い。たとえば、不燃ゴミや核廃棄物やダイオキシンやPCBなどの有機化学
物質を生み出しながら、それらを無害な形で処分する方策を持たない人類は、
本当はそれらを製造することがそもそも許されるのかまで、考えなければいけ
ないのではないか。これも心が、頭や手についていっていない一例である。

 いまや60億人を超える人類が、地球環境を破壊し、自らの生存すら脅かして
いるにもかかわらず、人類は、まだ豊かさやぜいたくな生活を求めてやまな
い。ブラジルやインドネシアの熱帯雨林やロシアの寒帯林の伐採はまだまだ続
いているようだし、石油の枯渇が現実のものとなりつつあるのに自動車の利用
を制限しようとする動きはない。

「いま21世紀。ひょっとしたら、これがふつうに訪れた最後の世紀になるか
もしれない。環境問題・南北問題を解決しない限り、22世紀はこないだろ
う。」

 著者が言外に言おうとしているのは、従来の道徳や正しさの規準にもとづい
て行動している限り、人類の滅亡は目前にある。なにか新しい基準によって、
人間の行動を律しない限り、このまま破滅を迎えるということだ。

・ いつか星に戻る − 宇宙の正義に身を委ねる

 本書は、「正義論」となっている。あとがきで、「今ほど、『正しさ』につ
いて語ることが重要な時代はないと思う。」と著者はいう。

 著者が問題にしている正義は、「悪を滅ぼして正義を示す」とか、「正義の
名の下に、空爆をして悪を滅ぼす」正義ではない。「憎悪を言い換えただけの
『正義』は、殺戮を拡大するだけだ」(P15)

「わたしがずっと考えつづけている『正しさ』は、勝ったり負けたりしないも
のだ。勝ち負けは争いを前提にしている。だが、争わないことにこそ、『正し
さ』はあるんじゃないか。すべてを生かす。わたしが目指す『正しさ』とは、
そういうものだ。」(P16)

 著者のいう「正しさ」は、人間間の道徳や法を越えた次元にある。著者は冒
頭に「臨西録」の「殺仏殺祖」を紹介しているが、著者の考えている「正し
さ」は、禅の悟りの世界に通じている。悟りの世界とは、われわれが身につけ
ている人間世界の一般常識や伝統的な道徳観とは別の次元にある宇宙の絶対的
な「正しさ」である。

 著者は、宇宙の正しさと人類の文明を調和させることを期待している。なぜ
なら、われわれは宇宙そのものだからだ。

「われわれの肉体を構成している物質は、直接には食べた食事に由来するわけ
だが、遥かさかのぼれば、太陽のような恒星にまでたどり着く。水素やヘリウ
ムよりも重い元素は、恒星の中での核融合反応と超新星爆発によって作られた
というのは、天文学の常識である。

 われわれの体は、かつて星として輝いていた。」(P22)

 近代以降、畏れることを忘れて、人間中心の身勝手な文明を構築し、地球上
を覆い尽し、急速に人口を増やしすぎてしまった人類。できれば、人類が近代
文明を反省し、宇宙の法と調和する生活に戻るのが一番よいことだ。 しか
し、われわれは「あまりにも巨大なシステムの中で、たくさんの社会に分かれ
て生きている。」 「このことが、環境問題・南北問題の解決をほとんど不可
能にしてしまっている。」(P229)

 暴走した人類文明と宇宙の正義が調和することがないとしても、心配する必
要はない。かつて星であったわれわれは、いつか星に戻るからだ。そうなれ
ば、環境問題も、南北問題も、エピソードに過ぎなくなる。考えることはよい
ことだけど、悩む必要はない。

得丸久文(2005.4.1)
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平成25年の「式年遷宮」に向けて   
   
 伊勢神宮で予定発表
20年に一度の行事
 昔から「お伊勢参り」の名で崇敬を集め、「日本人の心のふるさと」と表現される伊勢
 神宮(三重県伊勢市)。年頭に天皇皇后両陛下をはじめとする皇族や総理大臣が参拝に
 訪れることはよく知られているし、記者も小学校の修学旅行先の一つが伊勢神宮だった。
 有名な割には、詳しいことまではそれほど関心を持たれていないのではないか。

 同神宮は、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心とした宮社の総称で、内宮は
 皇室の祖先神・天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祭祀し、外宮は天照大神に食事
 を差し上げる役目の豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祭る。

 伊勢神宮は、この二つの正宮を核に大小百二十五の宮社からなる日本最大の神道組織だ。
 毎日の祭事や季節ごとの行事など、恒例の祭りの回数は年間、大小で千七百回もあり、
 神職だけでも常時百人以上が奉仕している。

 その伊勢神宮で、八年後の平成二十五年に第六十二回の「式年遷宮」が営まれる。二十
 年に一度、祭神の鎮座場所を移して社殿を建て替えし、神宝なども新調する神宮最大の
 行事だが、このほどさまざまな関連祭儀の予定などが発表された。

 神宮司庁で記者会見があり、北白川道久神宮大宮司ら役員が出席。「執行機関である神
 宮式年造営庁が発足し、いよいよ式年遷宮が名実共に始動した」として、長期にわたる
 事業への理解と協力を求めた。

 まず北白川大宮司があいさつに立ち、「天皇陛下には御遷宮に対する深甚なる聖慮をお
 示しいただき、その責任の重さを痛感するとともに、二十年に一度、御神威も新たに、
 わが国が常若(とこわか)に栄えゆくことを祈る伝統ある重儀をつつがなく斎行申し上
 げ、大御心にお応え申し上げる覚悟だ」と述べた。

 同大宮司は、新宮造営に使う用材を伐(き)り出す御杣山(みそまやま)の場所や、遷
 宮に向け最初に行われる重要祭事の山口祭と木本(このもと)祭の日時は天皇陛下に決
 定を仰ぐ慣例になっていることを説明した上で、「二月に定めていただき、御杣山は長
 野県の木曽谷国有林および裏木曽国有林と決まり、山口祭と木本祭は五月二日に行われ
 る運びとなった」と報告した。

 山口祭とは、用材の伐採を始めるに当たって、用材を伐り出す御杣山の山口に座す神を
 祭り作業の安全を祈る儀式。木本祭は、内宮と外宮の床下中央に立てる心御柱(しんの
 みはしら)の用材を伐り出す神事。ともに内宮と外宮で営まれる。

 そして、御杣山における事始めの祭儀、御杣始祭は六月三日にあり、続いて現地の長野
 県上松町からトラックによる御神木の奉搬が出発。一週間かけて長野、岐阜、愛知、三
 重の各県を通り、沿道での歓迎を受けながら多くの人々の手で運ばれ神宮に搬入される。

 神宮司庁の金田憲明営林部長によると、用材を供給する御杣山は本来、神域内の山が該
 当し鎌倉中期までは神域内の山から供給できていたが、次第に大量の良材を確保するこ
 とが困難となり、神域以外の山を選ぶことになった。

 明治四十二年(一九〇九)には、用材選定に当たって将来万全を期すようにと指示され
 た明治天皇の意向に従い、八千ヘクタールにも及ぶ広大な神宮備林を設定。神宮でも東
 京の世田谷区の広さに相当する五千五百ヘクタールの宮域林のうち、水源の涵養(かん
 よう)や風致保全を目的とした第一宮域林以外の四千ヘクタールの第二宮域林を大正十
 二年から二百年をめどに施行計画を立て、用材を育成してきた。

 桧(ひのき)を主体にした造営林完成の暁には、遷宮ごとに必要な用材を永久に供給で
 きるという遠大な計画であり、今回の遷宮には、その用材の一部を施行後初めて伐り出
 すことになっている。

 それほど遷宮では、神々の装束、神宝の調製とともに、用材の調達に心血を注いできた。
 何しろ、一回の遷宮には桧材が一万から八千五百立方b、平均長さ四b、太さ五十aの
 用材が一万本も必要なのだ。

 一部で資源の浪費、環境破壊ではないかとの批判もあったが、「解体された古材は、神
 宮内で再利用され、また全国の神社の造営や修繕の際に使われ、残りは木材の記念品に
 まで加工されるなど、とことんまで再利用されている」(神宮司庁広報)。

 ところで、式年遷宮はなぜ二十年ごとという単位になったのだろう。これについては昔
 からさまざまに論じられてきたが、定説はないという。北白川大宮司は機関誌『瑞垣』
 最近号の中で「萱葺(かやぶ)きの屋根、桧の素木(しらき)造りの社殿が常にすがす
 がしく、尊厳を維持するには二十年が限度であるという耐久面から、造営に携わる宮大
 工、工匠などの伝統技術を次の時代に継承するには二十年が最も適当な区切りであると
 いう世代技術伝承説や、稲の貯蔵年限説など諸説あるが、二十年はさまざまな要素を勘
 案して定められたのではないか」と述べている。

 実に伊勢神宮は、「古くて新しい」というパラドックスを持った神社である。二千年も
 の歴史のある神宮にはさぞかし国宝級の「お宝」も数多くあるのでは、と思うのが普通
 だが、実際はごくわずからしい。

 遷宮に伴い、古い社殿は一定期間を過ぎると解体される。また神宝類も、新しいお宮の
 敷地内にある西宝殿に次の遷宮まで保管され、それが過ぎると処分される。「その結果、
 すべてが新しくなるが、二十年というサイクルで、昔と全く変わらない社殿と神宝が伝
 承されている。従って、ハードは新しく、それを作り上げるソフトは古代から伝承され
 た心であり技術である」(同大宮司)。
(京都支局・池田年男・世界日報)掲載許可
       Kenzo Yamaoka
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ペイオフ解禁/経済主体は自己責任確認を   
   
  年度替わりの四月一日から、いわゆるペイオフが全面解禁の段階に入る。保護預かり金
 融債を含む預金者保護は、これに伴い、限定的なものになる。もちろん、これで直ちに
 金融勢力図に激変が生じたり金融機関の業態に急変が起きたりということは、あり得ま
 い。だが、長期的には、金融・資本市場の構造変化を促す可能性が潜在する。
 そこでは、個人・金融機関・一般企業など各経済主体の自己責任が、当然ながら重くな
 ろう。現時点では、その確認がぜひほしい。世界日報 掲載許可

高まる直接投資の比重

 預け入れ先の金融機関が経営不振で自力では預金の払い戻しや金融債の換金に応じるこ
 とが不能になった場合、預金保険機構が代わって払い戻しや換金に対処する――これが
 ペイオフで、四月からは、その保護対象額が、決済用の預金(無利子)などの例外は別
 として一人一千万円とその利子に限ることになる。したがって、元金一千万円を超える
 預金や金融債については、超過部分がコゲ付き、間が悪ければ回収不能という事態も、
 経済情勢の悪化が深刻で長期に及ぶなら、発生しないという保証はないことを、覚悟し
 ておくのでなければならぬ。

 もっとも、当面に関しては、元金一千万円以上の預金や金融債を複数の金融機関に預け
 るほどの富裕者は、少数者にとどまる。一般庶民層には、ペイオフ全面解禁といっても、
 取りあえずは、まず無関係と考えていい。

 しかし、ペイオフ解禁が徐々にではあろうが金融・資本市場の構造変化を促す要因にな
 り得ることには、ぜひとも留意しておきたい。というのは、富裕層を中心にだが金融資
 産の運用が恐らくは多様化していくだろうことで、この動きはすでに始まっているとの
 見方もできよう。

 明治維新後に近代国家としての経済諸システムの整備を進めてきた日本の金融・資本市
 場の著しい特色は、個人金融資産の運用形態が預貯金という間接投資方式に偏っている
 ことだった。ペイオフ全面解禁は間接投資方式としての預貯金への保護の縮小を意味す
 る。そして、富裕層を中心に預貯金での資産運用にもリスクがついて回る。となると、
 株式など直接投資方式での資産運用にも、おのずと関心が向かうだろう。株式や投資信
 託は元本変動商品で、それなりのリスクを免れないものの、投資の時機と投資対象の選
 択を厳格にすれば値上がり益を期待できる。預貯金には、諸物価軒並み落勢という異変
 の局面以外には、そういうことはあり得ない。両者の比較で、金融資産の積み増し分が
 株式や投資信託により多く動くことになっても、不思議ではあるまい。

 間接投資方式への偏重からその修正へ――これが金融・資本市場の構造変化を刺激しよ
 う。銀行が子会社を通じて証券に参入し、自らの店舗で投資信託の受益証券を売るよう
 になったのは、その証明にほかならない。

 銀行も証券も、このような市場の構造変化に的確に対応していく必要は、すこぶる大き
 い。また、株式など有価証券を発行する一般企業も、その点で、例外ではあり得ない。
 これらの経済主体にとっても、自己責任原則の確認は、だから不可欠のことに属する。

政府・日銀も自戒せよ

 もとより、政府と日銀も、自戒がなければならぬ。ペイオフ全面解禁による経済主体の
 自己責任原則貫徹の条件は、日本経済の正常化復元を待って可能になった。経済バブル
 と破裂から長期の低迷、その愚を繰り返してはならぬ。
    Kenzo Yamaoka


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