1950.時代のけじめとしての国策捜査



  時代のけじめとしての国策捜査      アルルの男・ヒロシ

最近、『国家の罠』(新潮社)という本を読んだ。著者は、元外務
省の佐藤優氏です。

この本の帯には「これは国策捜査だ」と書いてある。佐藤氏は鈴木
宗男と密接な関係を築いていた外交官で、なおかつロシアのユダヤ
人コミュニティに多くの情報源をもつ日本の「諜報員」のようなこ
とを沢山やってきた人だ。イスラエルのエリート養成大学である、
テルアビブ大学のゴロデツキー教授という人とのパイプも深い。

その佐藤氏が、ロシア支援委員会の費用の流用に関する「背任」と
、三井物産の北方領土へのディーゼル発電機の供与を巡る業者選定
における談合の問題で、東京地検特捜部に逮捕されたのは2002
年5月のことである。

その後、新聞報道で、佐藤氏が「これは国策捜査だ」というコメン
トを出したということを我々は知ることになった。私はてっきり、
これは佐藤氏が、検察に対して、「お前達のやっていることは国策
捜査だ」と非難の意味を込めてぶつけた言葉であると思った。とこ
ろが実際はそうではない。

佐藤氏は、本書の218頁以下数カ所で、取り調べ担当の西村尚芳
検事が、「だってこれは国策捜査なんだから」と自ら進んで捜査の
性質を明かした、と述べている。なんと検察自身が国策捜査ですよ
と佐藤氏に話したというのだ。

西村検事と佐藤氏は、検事と被疑者という立場でありながら、国策
捜査というものについて、相当なレベルで突っ込んだ議論をしてい
た。これは本書の287頁「下げられたハードル」以下で述べられ
ている。佐藤氏は、国策捜査は「時代のけじめ」であり、そこで逮
捕された人は単に「運が悪かった」ということになる。

この点では、特捜の捜査には、首をかしげざるを得ないものが多く
、大抵は政財界人の一種の「権力闘争」に過ぎないのではないか、
と思っていた私にはすごく腑に落ちる部分であった。

西村検事は、さらに、「そういうこと。評価の基準が変わるんだ。
何かハードルが下がってくるんだ」とまで述べている。事後法では
ないにしても、法律の適用基準が変わってくる。政治家に対しての
国策捜査は徐々にハードルが下がってくる。

西村氏に対して、佐藤氏は「あなた達検察が恣意的に適用基準を下
げて事件を作り出しているのではないだろうか」と疑問を投げかけ
る。西村氏ら検察の議論は、因果関係が逆ではないか、といってい
るわけだ。

西村氏は、「僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の
基準で適用基準を決めなくてはならない」として、一般国民の正義
を引き合いに出して、検察の決定を擁護している。「ワイドショー
と週刊誌の論調で事件が出来ていく」ことを、この検事は「それが
今の日本の現実」だと素直に認めている。

私は、この西村検事のくだりを読んで、納得すると同時に、やはり
違和感を覚える。西村氏は、ワイドショーで日本の世論が形成され
ていくことを認めながら、それは「一般国民の感覚」であると言っ
ている。そこには、マスメディアが国民の世論を一定方向に人為的
に操作しようとすれば出来るという認識が足りない。

ある日突然、法律の適用基準が変わるのは、国民の正義感を受けた
ものではない。むしろ、その基準が変わったことをきっかけにして
、「国民の正義感」というものが、マスコミを使って変容させられ
ていく、という過程があると見るべきではないだろうか。

それでは、佐藤氏、鈴木氏に対して、国策捜査が行われなければな
らなかった原因とはなんだったのか。佐藤氏は自分なりに原因を分
析している。彼自身が書いているように、国家機密に類する事柄を
佐藤氏は多く抱え込んでいる。これは鈴木氏も同様と思われる。

佐藤氏は、外務省内部の潮流の分析からこの問題を考えている。
冷戦後の外務省の潮流として、佐藤氏は、@親米主義Aアジア主義
B地政学論の3つの流れが存在すると分析している。米同時多発テ
ロと一連の外務省騒動(田中真紀子外相の更迭)によって、AとB
の人脈が外務省から駆逐されたと彼は書く。特にこのBを体現して
いたのが、どうも鈴木宗男氏だったらしい。この地政学論というの
は、勃興する中国を牽制するために、日米露で中国を地政学的に封
じ込めるという戦略で、冷戦時に対ソ強硬派であったロシアン・ス
クールの官僚たちの作戦だったという。

このAチャイナ・スクールとB地政学論が失脚することで、我が世
の春を謳歌しているのが、@の親米主義ということなのだろう。

さらに、佐藤氏は、本書292頁以下で、日本の政治が、ケインズ
型からハイエク型に向かっていると述べており、鈴木宗男はケイン
ズ型政治家の代表格であったと述べている。このハイエク型という
のは少々異論を招く呼び方だろうが、要するに新古典派自由主義の
ことを指し、小さな政府を目指した、共和党ブッシュ政権の経済思
想を指していると思われる。私は、ハゲタカ・ファンドによる日本
買いによる「日本再生」といった、小泉政権の経済政策もこれに含
まれるだろうと理解している。

その経済思想の転換とともに、国民の世論も「国際協調的愛国主義
」から「排外的ナショナリズム」への転換をむかえているという。
日本のナショナリズムが排外的ナショナリズムに移行しつつあると
いう、佐藤氏の分析は傾聴に値する。

佐藤優氏は、以上のような大きな枠組みの中で、鈴木宗男事件を捕
らえている。一方で、捜査の手が森前首相に及びそうになったら、
突然検察の捜査が終わって、担当検事も異動になったとも書いてい
る。国策捜査を命じたのは、日本国内では、どうも森氏や小泉氏の
周辺にある人々であると示唆しているようである。

総じて言えば、この本で展開される「国策捜査論」にこそ、この本
の価値があるといえる。国策捜査は、一般市民に関係ないところで
行われるので、厳密には検察ファッショではないが、事件を無理矢
理に作るという点では明らかに異常である。ところが、国策捜査で
パクられた人は「運が悪かっただけ」なので、実刑を喰らわせるこ
とは少なく、大抵は執行猶予が付く。この見事な「バランス感覚」
によって、国策捜査が成り立っているということが分かった。これ
は極めて貴重な証言であり、告発である。

とはいえ、ここまで被疑者と密接な関係を築いて、対等の立場で議
論をたたかわせた、西村検事は、検察上層部に疎まれたようで、地
方の検察庁に異動(左遷)されてしまった。

国策捜査=時代のけじめ論は、堤義明氏逮捕にも繋がる極めて重要
な視点である。
是非一読を勧めたい。
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   台湾独立派の戦略的後退      アルルの男・ヒロシ

 台湾独立派と見られた人々の、慎重な発言が相次いでいる。
小林よしのり氏の「台湾論」でも登場した、日本統治下世代の許文
龍氏(奇美実業創業者)が、中国の「反国家分裂法」を支持するコ
メントを発表したと、今朝の産経新聞に出ていた。ここ数ヶ月、陳
水篇本人が、中国に対する融和的姿勢を見せており、李登輝氏らの
「台湾独立連盟」と亀裂を見せ始めている。

これは、台湾独立連盟が、イデオロギー的な台湾の独立を重視して
いるのに対して、政権側やビジネス界側は、「中国でのビジネスの
つながり」という実益を重視していることの現れで、「背に腹は代
えられない」ということだろう。

陳政権を支持している財界人の間でも見解は分かれているようで、
陳政権の中国政策のふらつきを嫌気して辞任した政策顧問も多いと
言われている。

許氏や陳氏らは、ビジネス利権を維持して台湾経済を支えるという
思いがあるのは確かだろうが、頭の中では「現状維持こそ台湾にと
っての国益」という意識があるのだろう。フランス、アメリカ、日
本と周辺諸国を巻き込んだ「代理戦争」に発展させて、台湾国土を
戦場にしてはならないという現実主義がある。

台湾海峡での米仏代理戦争という覇権争いに巻き込まれるのは御免
だという判断があっただろう。これは、戦略的後退というべきもの
であり、アジア共同体につながるかもしれない賢い判断である。
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    映画で2題           アルルの男・ヒロシ

 先ほど、映画館でスコセッシのアビエイターを見てきました。
ヒューズが、この映画で描かれているような、奇行と異常な潔癖性
の持ち主なのかは判りませんが、この映画の後半の公聴会のシーン
は、何だかランドの「水源」を連想させました。多分、リバータリ
アンなんでしょうかね。

ところで、この映画の上映前に、ミリオンダラーベイビーの予告を
やっていました。要するにシャイヴォおばさんの騒動は、宗教右派
勢力のアカデミーへの当てつけだったということなんでしょうかね。
クリントイーストウッドといえば、右派のヒーローなのかと思いま
したが、いまやそうではないようですね。

http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/2064/films/05/milliondollarbaby.htm


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