1944.スーダンPKO



スーダンPKOを見送りするようである。この考察。  Fより

自衛隊は、今のサマワ派遣だけで手一杯の状況であるが、常任理事
国の位置を確実にしたため、外務省が推進していた。しかし、自衛
隊としては、PKFであるために要員訓練などでイラクのサマワ派
遣訓練以上の訓練を必要としていた。しかし、PKFには装備も変
更する必要がある。より重装備で派遣することが必要になる。

また、世界は日本にサマワと同程度の地域安定化活動を期待される
ことになる。難民キャンプの地域安定化はできない。難民帰還をさ
せる治安維持が必要であるが、その部分は日本の自衛隊は苦手であ
る。

このPKOと言っても、その役割は送り出されるその状況や治安状
態によって違う。ここを外務省はよく理解していないのでしょうね。
スーダンには政府、反政府ゲリラの両陣営を分離することが重要で
あるから、戦闘状態になる可能性もある。アフリカ機構諸国が兵隊
を出す方がいいのでしょうね。

日本の自衛隊派遣で一番いいのが、軍統治活動であろう。そこの住
民を帰順させる必要がある場合に効果的である。軍事活動中心の場
合は、日本の自衛隊でなくてもできるために、自衛隊が必要がない。
それこそ、欧米諸国の軍隊がいけばいいのです。
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自衛隊派遣、見送り論強まる=スーダンPKO、首相判断へ

 政府は25日、国連がスーダン和平協定の履行支援に当たる平和
維持活動(PKO)創設を決議したことを受け、自衛隊派遣の是非
について最終調整に入った。見送りの方針を固めている防衛庁に対
し、国連安保理常任理事国入りをにらみ、外務省は司令部要員派遣
などの可能性をなお模索している。最終的には小泉純一郎首相の判
断に委ねられる見通しだ。
 細田博之官房長官は同日午前の記者会見で、自衛隊派遣への対応
について「特に決めていない。よく検討したい」と述べるにとどめ
た。一方、大野功統防衛庁長官は「大変難しい問題がある」と慎重
姿勢を改めて強調した。 
(時事通信) - 3月25日21時1分更新
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スーダンPKO決議を採択 自衛隊派遣の調整本格化

 【ニューヨーク24日共同】国連安全保障理事会は24日午後(
日本時間25日朝)、スーダン南部に1万人規模の平和維持活動(
PKO)要員を派遣する決議を採択した。
 本格的な派遣までには半年程度かかる見通しで、これまでにバン
グラデシュ、インド、エジプト、ケニアなどが要員派遣に同意。日
本政府も自衛隊派遣を検討中で、決議採択により外務省と防衛庁の
調整が本格化する。
 決議案は米国が提出したもので、スーダン北部の中央政府と南部
の反政府勢力の間で今年1月に成立した和平合意の履行監視と支援
が目的。PKOは当初の展開期間を半年とし、軍部隊約1万人と文
民警察官715人で構成する「国連スーダン派遣団」設立が柱だ。
(共同通信) - 3月25日7時57分更新
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緒方JICA理事長「日本、ODAのGDP0.7%へ努力重要」
(nikkei)

 国際協力機構(JICA)の緒方貞子理事長は25日の記者会見で
、国連安全保障理事会の常任理事国入りに向け、日本が必ずしも、
常任理候補国の政府開発援助(ODA)拠出目標とされる「国内総
生産(GDP)の0.7%」を達成する必要はないとの認識を示した。
「日本が目標達成への努力をどう打ち出すかが重要だ」と指摘した。

 その理由としては「米国や日本など経済の規模が大きい国はそも
そも、他国と拠出量が違う」と強調した。ただ、日本がODA拠出
額の削減傾向を続けていることには強い遺憾の意を表明。「増額は
国際世論。削減傾向を底打ちし、2005年度予算で増やす方向となる
よう政府に働きかけたい」と言明した。 (20:00) 
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教育基本法改正の理由   
  
 「不登校対策」では不合格/道徳復興と日本人育成
 昭和二十二年に施行された教育基本法を早く改正しなければ日本の将来は危うい、とし
 て改正を求める声が高まっているが、どう改正すべきか、についての議論はまだ煮詰ま
 っていない。最も積極的なのが自民党だが、自民党機関紙「自由民主」(2・22)の
 二ページ見開きの特集の中で述べている改正理由は、“不合格”と言わざるを得ない。
 前文部科学相の河村建夫衆院議員に対し、二人の主婦が質問をする形式になっているが、
 冒頭の「なぜ、教育基本法を改正するのですか?」の主婦の質問に、河村氏は「不登校
 や学級崩壊など制定時になかった問題に対応するためです」と答えている。

 しかし、それだけではあるまい。いくら相手が主婦だとしても、もっと深刻かつ根本的
 な改正が必要であることの理由を語るべきだろう。

 教育基本法の不備については、教育勅語が国会で失効した昭和二十三年六月十九日から
 特に問題視されてきたはずだ。道徳律の“結晶”ともいえる教育勅語がすでにあったの
 で、道徳的な内容の多くは教育基本法に盛り込まれなかった。ところが、連合国軍最高
 司令部(GHQ)の指令で、教育勅語が排除されたことにより、教育の核心部分である
 道徳教育が学校教育から消えてしまったのだ。

 そのため、例えば、吉田内閣の天野貞祐文相は昭和二十六年二月七日、衆議院で「静か
 なる愛国心」の必要を説き、十一月十四日には「国民実践要領」を発表した。これは、
 道義国家を目指す国民の道徳律を示したものだったが、マスコミの反対などもあり、す
 ぐに白紙撤回された。

 しかし、その後、昭和三十九年、文部省は小中学校教師用に「道徳の指導資料」を配布
 したり、昭和四十一年、中央教育審議会(中教審)は「期待される人間像」を発表した
 りと、いろいろ工夫はされてきた。

 一方、この期間、社会主義革命集団の日教組や全教(共産党系)は、道徳教育を行えな
 いよう教育現場の「不当な支配」を続けてきた。それが、公共心や愛国心のない、個人
 主義本位の人間をつくるなど、教育の質の低下をもたらした。そうして育った親たちは、
 子供たちに家庭教育をする能力に欠け、教師も指導力が発揮できず社会全体から規範が
 失われ、今日、さまざまな問題を引き起こす根源となっている。

 従って、教育基本法の改正は、単に、最近生じている不登校や学級崩壊の問題に対応す
 るためだけでなく、よりよい日本人を育て、道徳復興に向け国民挙げて意識改革に取り
 組むという、もっと本質的で国益に直結する大仕事なのだ。

 河村氏はその後の質疑で、「愛国心」の文言に関連し、「ふるさとを愛し、国を大事に
 することは当然求められます」と述べるとともに、「党としては愛国心を盛り込むこと
 は必要だし、教育の中でできると考えています」と語っている。

 しかし、この「愛国心」についてもあいまいさが残っている。「国を大事にする」こと
 と「愛国心」を同列に語っているが、両者は明確に違うはずだ。「大事にする」という
 程度なら、国家有事の際、命懸けで国を守る気概が生じてこないだろう。教育勅語にあ
 る「一旦緩急あれば義勇公に奉じ…」の精神は「国を愛する心」によってはじめて裏付
 けられるものだ。

 また、第五条の「男女共学尊重」は、当たり前で現実に合わないので「それより今は、
 男女共同参画の時代ですから、そういう言葉にすべきでは」ないかと語っているが、
 「男女共同参画」という文言を用いると、男女の性差まで否定することを目指すジェン
 ダーフリー教育を助長する可能性が出てきてしまう。

 「新たな時代にあった教育基本法を」と同紙は大見出して主張する。だが、誤用される
 危険性のある文言を新たに挿入するのでは、改悪になってしまう。そのことを河村氏の
 ような文教議員は特に肝に銘じてもらいたい。

政治評論家 山岡 尽忠 世界日報 掲載許可

    Kenzo Yamaoka
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「東アジア共同体」、夢か幻か?   
   
 日本の経済的思い入れは禍を招く/「一つ」と言えない国家間の諸現実
北欧文化協会理事長 武田 龍夫
経・政・宗・人口の域内格差  
(世界日報)掲載許可

 最近、東アジア共同体構想についての論評が散見される。「共同体」と言えば誰でも
 「EU」を連想するだろうが、しかし東アジア共同体とは成立過程も背景も基本的条件
 も全く違う。一方は政治体制も経済水準も宗教も価値観も平準化している。

 ここに人権問題などを理由としてトルコ加入が延引に延引を重ねてきた理由がある。そ
 れにトルコが入れば最大の人口大国となり、当然移民労働の流入増大となり、現在の移
 民排除の世論と勢力もまた増大する。しかもトルコは世俗国家とはいえその国民宗教は
 イスラムである(トルコ自体西欧に属するのか中東イスラムに属するのか、そのアイデ
 ンティティーに困惑している)。

 いわんや他方の東アジアはGDP一人当たり三万jから二百五十万jの格差に加えるに、
 個人独裁あり一党独裁あり民主主義体制あり、さらにキリスト教、仏教、イスラムと、
 その違いを一見しただけでも共同体は至難の現実にある。とても共同体積極論者の修辞
 豊かな仲良しクラブのようにはいかないのだ。

 またEUと東アジアとの最大の違いは、年率8%前後で拡大発展する大中華十三億の軍
 事超大国がEU内に存在しないことである。ここでNATOないし欧州共通安保との重
 層化の背景は別として、言い換えれば東アジア構想の背後には中国による米国排除の隠
 された戦略的意図が見えるということである。

 そして中国は一党独裁体制国家であり、また覇権国家でもある。すでに日本の尖閣諸島
 を国内法で一方的に自国領とし、日本の領海を侵犯し、両国経済水域中間線でのガス、
 石油開発活動も強行している国である。

中国の米国排除の戦略的意図

 それに大中華の発展は大陸国家から太平洋国家を志向することともなる(また当然に資
 源、環境に重大な問題をもたらす)。言い換えれば東アジア共同体には大陸国家から太
 平洋国家を志向する大中国としての覇権目的が秘められている―ということにもなる。

 経済利益しか念頭にない経営側代弁者たちは、日本はすでに経済的に大中華圏に入って
 いると主張し、通貨の一定プールなどを提唱しているが、しかしFTAもAPECでカ
 ヴァーされるのではないか? 結局、東南アジア諸国がASEANプラス3の形で日本
 の参加を求めるのも中国の巨大な影を恐れるからである。

 もっとも中国の将来はいろいろと言われているが、要するに不可測的である。そして朝
 鮮戦争、ベトナム戦争に関与しフィリピンおよび中部、南太平洋諸島支配の歴史を有す
 る米国の太平洋パクス・アメリカーナへの中国の介入は米国の許容できないところだろ
 う。従って中国が太平洋国家を志向するとき、米国との衝突は不可避となるだろう。

 また「アジアは一つ」ではないのだ。このスローガンは当時のアジアの欧米に対する思
 想的文化的立場から発信された言葉としての意味しかないのである。現に領土紛争や領
 海侵犯、あるいは靖国での内政干渉、さらには先般のサッカー事件の現実を見ても分か
 るではないか―。ここで国内世論の突出として表現される国際的衝突が、それを演出す
 る政策レベルでの読み誤りから予測もしなかった事態に発展するのである。

 もちろん、この場合、より危険なのは独裁的全体主義国家の政治的世論操作である。こ
 の対立関係を調整するのが古典的なバランス理論の有効性なのであり、現にEU、ロシ
 ア、中国、米国の多極化世界の相互関係の中にわれわれが見ているものである。そして
 ここで二つの実践的原則が現れる。

 一つは「地理と歴史が一国の運命を決定する」(マッキンダー)という不滅の真理であ
 り、他は、外交は一定の軍事力の背景がなければその効果は減殺されるということであ
 る。
現実認識を踏まえて対処せよ

 以上を前提としての私見は、日本と英国の立場は極めて酷似している―ということであ
 る。つまり英国の対EUと対米関係は大西洋国家か西欧大陸国家かという妥協外交の形
 成と安定化にあるわけであり、それが英国外交にとっての「合理的選択理論」なのであ
 る。そして日本は英国と同じく海洋国家である。

 ここで日米中三角関係論も出てくるのだが、しかし日本は中米二強の何れかに従属せざ
 るを得ないのである。言うまでもなく二強に対抗する軍事力を有しないからである。い
 ずれかへの従属的位置しか取れない日本の辛い立場である。

 東アジア共同体もこの文脈で複合的に考えるべきなのだ。私見は国際政治は一時の単元
 化現象からではなく文明論的視野もまた必要だということにある。日本的思い入れによ
 る大陸への「過剰」コミットは必ず禍をもたらすであろう。夢を持て―というお説も結
 構だが、夢は覚め、幻は消えるのだ。そうではなく現実認識を踏まえた理想追求の技術
 ―言い換えれば現実的理想主義が国際政治の普遍的前提だということである。
 
     Kenzo Yamaoka
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 「敗戦のトラウマ」から脱却せよ   
  
 戦後60年、客観的に歴史の検証を/「内政不干渉」の条約違反は北京に
評論家 ”橋 正
加・被害者意識で事実見えず ’世界日報)掲載許可

 今年は戦後六十年。人間ならば還暦を迎える訳だが、敗戦当時、マッカーサーから「十
 二歳」呼ばわりされた日本は果たして六十歳、否、七十二歳の成熟国家になったであろ
 うか。社会は確かに高齢時代を迎えたが、国家の方は相変わらず小児のままではないの
 か。有り体に観て、現在の日本は心身の均衡を欠いた「奇形国家」と言わざるを得ない。
 なぜこのようなことになってしまったのか。

 その理由は恐らく未曾有の敗戦体験から生まれたトラウマ(心的外傷)と、それを助長
 した占領政策の呪縛から日本と日本人が未だに解放されていないためである。戦後六十
 年を迎えて日本が当面する最大の問題はそこにあり、敗戦のトラウマと占領政策の呪縛
 から脱却しない限り、日本の未来は暗い。

 幸いにして、二世代、六十年の歳月はあの戦争と占領を過去の出来事とし、これを歴史
 として客観的に再検討することを可能とするに至った。「歴史は正しく学ばなければな
 らない」というが、歴史において「正しく」とはただ一つ、「事実に即して、客観的に」
 ということであって、思想や道義は関係ない。被害者意識や加害者意識に盲(めし)い
 ている限り、真実は見えてこないのである。

 客観的に見て、アジア太平洋戦争(日本の言う「大東亜戦争」、米国の言う「太平洋戦
 争」)の本質は大陸市場とアジア太平洋の覇権をめぐる日米の争奪戦であり、どちらか
 一方が悪者と言う性質のものではなかった。にもかかわらず勝った連合国側が一方的に
 日本を「侵略者」扱いし、負けた日本人に占領政策で「罪の意識」を刷り込んだ。東京
 裁判は裁判の形式こそ取っているが、勝者が事後法によって敗者を裁いた「復讐劇」に
 過ぎず、茶番である。

対日非難が「打ち出の小槌」に

 初(うぶ)な日本人はそこからあの戦争が「日本の侵略戦争」であったという負い目を
 感じ始め、それがトラウマとなって今日まで我々を呪縛してきたのである。還暦を迎え
 た今、日本人はこの手の詐術や錯覚から目覚めて然るべきである。東京裁判で日本無罪
 論を展開したインドのパル判事は言うに及ばず、あのマッカーサーですら戦後の米議会
 であの戦争は日本にとって「自衛戦争」であったと証言しているのだ。

 このように、日本は旧ソ連を含む連合国に対して何ら忸怩(じくじ)たる思いを抱く必
 要はない。問題は中華人民共和国である。戦後六十年の今日に及んでなお、「日本の侵
 略」を言い募って止まない最右翼は北京だからだ。しかし、近代の歴史を振り返れば、
 中国を「侵略」したのは日本ばかりではない。阿片戦争を皮切りに帝国主義列強は大陸
 を蚕食したが、その殿(しんが)りにやって来たばかりに、日本は「侵略の罪」を一身
 に負わされる羽目になった。おまけに「侵略の罪」を謝ろうともしない欧米列強に比べ、
 ひたすら「改悛(かいしゅん)の情」を示す戦後日本は、近代史上傷つけられ続けてき
 た「中華」の誇りを癒す恰好の対象となったばかりか、非難の声を高めれば高めるほど
 金を引き出せる「打ち手の小槌」となった。その結果として日本の「侵略」による大陸
 の犠牲者は東京裁判時の二百万人から江沢民の言う三千五百万人にまで膨れ上がったが、
 これが日中戦争はおろか国民党の暴政、国共内戦、共産党の圧政の犠牲者をひっくるめ
 た数字であることは言うをまたない。

 北京政府は近年、日本叩きの新手を繰り出している。靖国神社への「A級戦犯」合祀と
 総理大臣の参詣に対する非難である。前述の通り、東京裁判は茶番であり、「A級戦犯」
 も「B級戦犯」も無い。仮にあの「裁判」を認めるとしても、一九四九年に誕生した北
 京政権とは何の関わりもない。仮にまた「戦犯」を認めるとしても、「処刑」によって
 彼らの「罪」は既に償われており、五二年の日本の独立回復後は「戦犯」をどう遇しよ
 うと、それは日本の国内問題であり、他国の容喙(ようかい)すべきことではない。
 「内政不干渉」を謳った日中平和条約に違反しているのは北京の方なのだ。

複雑な情勢から毛沢東の至言

 日本はあの戦争で大陸の広範な地域を占領し、現地住民に多大の被害を与えた。その反
 省ゆえに戦後日本は「平和と協調」に徹し、中国に対しても特に国交正常化後は誠意を
 以て臨んできた。北京がそれを日本の「弱み」と見てごり押しをするならば、勘違いも
 甚だしい。日中戦争は単純に日本の「侵略」として片付けるには余りに複雑な当時の国
 際情勢と四分五裂した中国の国内事情の所産だったのだ。日本に「侵略の罪」があった
 とするならば、中国には「侵略される弱み」があったのである。日本の武力介入がなけ
 れば、共産党が国民党との争いに勝って大陸を制覇することもまず不可能だったろう。
 この際、日本人も中国人も「共産党が天下を取れたのは日本の侵略のお陰で、日本人に
 感謝したいくらいだ」とずばり言って退けた毛沢東の至言を、じっくり反芻(はんすう)
 してみるべきである。
    Kenzo Yamaoka


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