1928.日本文化への再評価



日本文化の再評価が行われている。しかし、その文化の根源が検討
されていない。         Fより

日本ブームを起こしたダグラス・マッグレイは、「クール」とは、
欧米では対立的な関係にあるとされる科学と文化を融合させ、人を
引きつける力のある物を指しているし、日本製品の強みは品質より
圧倒的な優位性を持つ「デザイン性の高さ」だと言う。しかし、日
本情報に関する需要と供給の認識ギャップでチャンスを逃している
かもしれないと。

1991年10月に書いた「日本の波」の同化期に日本が本格的に
入り、日本古来の神道的な文化と欧米の科学技術が融合した精神文
化により、人類全体に対しても新しい文明を作り出したようである。
このきっかけが90年代以降のバブル崩壊で、物欲、金欲だけの経
済中心主義だけでは日本は持たないことが判明したことでしょうね。

そして、今、反省にあるのは欧米中のだた安ければ、企業のただ儲
ければいいという商品やサービスが日本では売れないことが分かっ
たことである。カルフールの撤退、ウォルマートの苦戦、コスコの
停滞でそれが分かる。欧米の企業論理を持ち込んだ富士通やソニー
がおかしくなった理由でもある。

欧米中の企業論理はスピード感があるが、改善や持続的な発展は期
待が出来ない。直ぐに技術者がいなくなり、かつその技術者が後輩
を育てていない。このため、個人にスキルが溜まるが、企業にはス
キルが溜まらない。企業の中にスキルの持続性がないために、20
年もすると世界最高のレベルとされた米企業が倒産している。
DEC、RCAなど例がたくさんある。

日本とドイツは企業の寿命が米国に比べて長い。企業内部でスキル
を貯める仕組みがある。日本は終身雇用制であり、ドイツはマイス
ター制度である。技術を保存・育成するためには個人をどう優遇し
確保するかに力点が置かれた人事制度になっている。このため、技
術の改良に力を発揮している。この長く技術のレベルを上げる仕組
みが米国や中国には無いようだ。

製品改良の中でデザイン性や機能性が増してくることになる。この
絶え間のない改良をするためには、日本の持続性なミームを保持す
る必要があるのでしょうね。

金細工でも、日本の象嵌などは、黒の漆喰に金の模様を配するため
に、非常に金が浮き上がって綺麗である。深い印象を持つ。欧米の
金細工は、金のほかにいろいろな色が混在して、ごてごてして私は
好きではないし、深い印象を受けない。このように日本ではワビサ
ビというがただ古さだけを強調するだけではない。見た印象、精神
性を大切にしているのが、日本の美である。

欧州への輸出用の伊万里と日本国内への鍋島の陶器の違いであろう
。どちらも同じ釜で焼かれている。伊万里はいろいろな色で飾られ
ていて豪華であるが、直ぐに見ていて飽きるが、青の濃淡しかない
鍋島は長く見ていても飽きない。このように日本の美は豪華さでは
なく、精神性・持続性に重点が置かれている。しかし、日本の美を
だんだん欧州の金持ちや若い世代も理解し始めているようだ。それ
が日本のクールの理由であろう。

韓国のサムソンも製品のデザイン性を重要視しているが、日本の美
とは違う。その曲芸的なデザインを見ると美の印象が大きく日本と
は違うと感じる。

日本には簡単な色使いに大きな精神性や印象を託していることが特
徴である。このような精神性を持つことは、日本の神道的な自然界
と同調する精神性がないとできないことである。日本のデザインは
日本の自然である単純性と同化して、長期にその印象を保持するこ
とが特長であろう。このような長期性な持続が日本の神道の中にあ
る考え方である。そして、全体との調和や単純性にその精神性を特
徴付けている。

どうも、日本の評論家は説明しやすい現象に焦点を当てた解説しか
しないので、日本の美のありかが分かりにくい。神道と言う深い精
神性を保持しているためであると言うことと、その神道的な環境に
いる日本人・日本在住外人にしかできないデザインがあることを見
逃すことになる。このため、世界から日本に来る外人が増えている
し、観光客も増加している。

日本の歴史の波
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/kako/nami.htm
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20世紀的価値観を脱ぎ去ることで得られる日本の新たな“国力”
http://smallbiz.nikkeibp.co.jp/free/RASHINBAN/20030506/103123/
▼アメリカのジャーナリスト、ダグラス・マッグレイは、昨年、外
交誌『フォーリン・ポリシー』で日本の国力の新たな指標「GNC」を
提唱した(日本経済新聞「ニッポンの文化力」、5月2日)。
▼GNCはGross National Coolの略で「国民総文化力」と訳す。
Coolは若者言葉で「かっこいい」の意味。GNP国民総生産では世界1
の経済大国になった日本が、失われた90年代にGNC大国への道を育ん
できた、と指摘している。
▼「ソフトパワーの一種のGNCは計測不可能」というマッグレイに代
わり、丸紅経済研究所が数値化した試算「文化関係収支表」による
と、92年から02年までに書籍、絵画、美術品など文化芸術関係の輸
出額は5兆円から15兆円、3倍に増えている。しかし輸出総額は43兆
円から52兆円と1.2倍。
▼世界から評価されている日本人として、人形や絵画の作家であり
、ヴィトンのバッグのデザインをしたことで有名になった村上隆
(41)、東洋人としてはじめて、ドイツ・バイロイト音楽祭でワー
グナーの「トリスタンとイゾルデ」を指揮することになった大植英
次(45)などが、挙げられている。
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どれだけの付加価値を生産したかによって、国力を測るのがGNPまた
はGDP(国内総生産)だ。つまり、どんな物であれ――野菜であれ、
車であれ、洋服であれ、薬品であれ、サービスであれ――、たくさ
ん生産するほうが力が強い、という考え方になる。
 その物がどんな使われ方をしたか、もここでは問われない。生産
されてそのまま廃棄処分になろうと、在庫として倉庫に山積みにな
っていようと、物は「生産された」という点において、価値がある
のである。

20世紀の巨大な生産力の背景にあるこの考え方には偏りがあること
が、70年代から指摘されてきた。しかし、それに代わる決定的な指
標も作れないまま、いまだに唯一ではないが最大に有効な指標とし
て流通しているのが現状だ。

なによりも、「物をたくさん作ったほうが豊かだ」という素朴な人
間の感覚を、きっちり数値として計測できる、という便利さが重宝
なのだろう。マッグレイのGNCも、「計測不可能」という点で、おそ
らくほかの指標のように、「こんな指標も発表された」という記録
として残るだけではないだろうか。

それにしても、このGNC、coolなどという若者言葉をわざわざ取り入
れていることから、いわゆる芸術方面の文化力というよりも、アニ
メやゲームソフト、若者ファッションを評価しようとする志向がう
かがえる。じっさい、「千と千尋の神隠し」の例を出すまでもなく
、アニメとフィギュアは日本の大きな輸出品目である。

 村上隆はその筆頭と言えるだろう。記事によると、昨年のクリス
ティーズのオークションで、作品が最高予想落札価格12万ドルの3.5
倍の42万7500ドルで落札されたことから、国際的な評価が固まった
。経歴を調べると、彼は東京芸大で日本画を専攻、論文「意味の無
意味の意味」で博士号を取得している。

 90年代後半以降、ポップとオタクをあわせた「PO+KU ART」のコ
ンセプトで、アニメやフィギュアなどのオタク文化に密接した作品
を発表し続けているという。芸大の日本画専攻という場では、ごく
ごく正統派の日本画を学ぶ。私たちが「日本画」というと思い浮か
べるような日本画だ。そんな場から、彼のようにいわば「かぶいた
」人が出てくるのが、おもしろい。

 私は、ごく直観的に、20世紀の残滓が消えたほんとうの21世紀は
日本の世紀なのではないか、と思うことがある。断っておくが、国
家としての「日本」ではなく「日本的な感性」という意味での日本
である。

 たくさん財を蓄えている人よりも、飄々とその日暮らしをしてい
る人のほうが、かっこいい。侘び寂びのクールさと同時に、金屏風
や蒔絵の華麗さもクールだとして愛でる。東京ファッションを生み
出す国なのに、民族衣装である和服姿をした人が日常的に行き交う。

 あいまい、無意味、感性、精神性。そんな日本的な特質が、「生
産の世紀」のあとに価値を取り戻す。

 失われた90年代に、文化力を蓄えてきたというのはおそらく正確
ではない。失われた90年代のあいだに、私たちの国は成長のために
西洋から取り入れた20世紀的価値観を、無意識のうちに脱ぎ去りは
じめたのではないだろうか。

【筆者紹介】
辰巳 渚(たつみ・なぎさ)
1965年福井県生まれ。お茶の水女子大学文教育学部卒業。マーケテ
ィング雑誌『月刊アクロス』記者、書籍編集者を経て、フリーのマ
ーケティングプランナー。戦後のライフスタイルの変遷の検証、お
よび世代論が専門。今後、日本人のライフスタイルはどうあるべき
かを独自の視点で考え続けている。著書『「捨てる!」技術』(宝
島社新書)、『チャートで見る日本の流行年史』(パルコ出版)、
『常識を捨てると世の中が変わる』(東京新聞出版局)、『生活設
計をガラリと変える フロー型発想のススメ』(ジャパンタイムズ
)など。 
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ダグラス・マッグレイ氏――日本の文化力(ブームを語る)
2003/11/11, , 日経流通新聞

日本の文化力に、賞味期限はない
科学との融合が「クール」
美しさ、米を圧倒

 ゲームから商業デザインまで日本の文化を「クール」(かっこい
い)とみなし、日本ブームの火付け役となった米国のジャーナリス
ト、ダグラス・マッグレイ氏が2年ぶりに来日した。日本の文化競
争力をどう分析し、どこに魅力を感じるのか、語ってもらった。

 【ゲーム世代】私は小学生のころから日本のビデオゲームにはま
った世代だ。大学時代にはインターネットが本格的に普及し、画面
を通じて入手したアニメなど日本の素材や情報は「クール」だと思
っていた。しかし、日本から発信されてくる当時の報道はいつも暗
いニュースばかり。自分がものを書く立場になって初めて、昔から
「クール」だと思っていた日本を取材するようになった。

 私が言う「クール」は、欧米では対立的な関係にあるとされる科
学と文化を融合させ、人を引きつける力のある物を指している。
AIBOのようなロボット犬などはまさにそうで、こうした製品を
商品として市場に出すこと自体が「クール」だと思う。

 しかし、当時これを見た旧世代の米国のジャーナリストや知識層
は「おかしな日本人」という切り口でしか取り上げなかった。同時
に、日本といえば、「経済が破たんした」というワンパターンな報
道が主流となっていた。

 日本発のゲームや科学技術情報への需要は高い。これらの読者は
主に「nerd(オタク)」な細かい知識を求める厳しい消費者た
ちでもある。今ではいいかげんな日本報道も許されなくなっている
ので、おのずと正しい日本像が描かれるようになっている。

 【デザイン力】日本人が自国製品の強みを語る場合、「品質の高
さ」を挙げるが、実は圧倒的な優位性を持つのが「デザイン性の高
さ」だ。米国製品もかつてデザインを重視していた時代もあったが
、利便性や低価格性を軸に製品開発をするようになり、視覚的美し
さをいつの間にか放棄したような気がする。

 例えば日本では、欧米が重視する継続性を覆して、常に新しいデ
ザインに挑戦している建築物が多い。食べ物は、どんな安い店に入
っても、米国では見られないような視覚的な美しさがある。雑誌も
米国では「読みやすさ」を重視するが故に字体を大きくしてデザイ
ン性を低下させてしまったが、日本ではデザイン性と利便性を融合
させ、ますます進化しているように見える。

 来日する前に友達に頼まれたのが、英語が書いてあるTシャツ。
日本では書かれている意味よりもデザインを重視しているロゴや文
章が多いので、つづりが間違っている場合があるが、それがかえっ
て「クール」。なぜなら、それを着ることによって自分は視覚的美
しさを優先して「意味はどうでもいい」と思っていることを表現す
ることができる。

 商品のさらなる付加価値が何かと考えた場合、たどり着くのがデ
ザイン性。日本は古くからモノ作りでデザイン力を強化し、米国が
手放した価値観を育(はぐく)んできたのかもしれない。

 【普遍性】日本アニメに影響された「マトリックス」をはじめ、
「キル・ビル」「ロスト・イン・トランスレーション」「ラスト・
サムライ」。今、日本のポップカルチャーを題材にしたハリウッド
映画の公開が相次いでいる。「侍」などかつてエキゾチックにとら
えられていたものが、普遍的なカッコよさを持ち、大きなビジネス
チャンスのある素材になったのだ。

 しかし、私以外にも海外から取材に来ているジャーナリストが日
本のエンターテインメント企業に取材を申し込むと、「海外向けの
お話がないので」と断られたりする。日本情報に関する需要と供給
の認識ギャップでチャンスを逃しているかもしれない。

 2年前に取材して書いたことが今もなお米国で“旬”に受け止め
られていることには、驚いている。それだけ日本の文化力に賞味期
限がないということだと思う。(聞き手は飯田美穂子)
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トレンド『人財育成のすすめ』天の巻・地の巻を読む   
   
 田舞徳太郎著
仕事は徳をつくる場
 本書は全国一万社の社員教育を手掛ける“人材育成のプロ”がそのノウハウと理念を説
 き明かした「人財」の育て方の書。

 そこに使われているのが「人材育成」ではなく、社員のみならず社長も含む「人財育成」
 である点に注目したい。

 これには、企業にとっての経営資源が「モノ」や「カネ」「情報」「ノウハウ」などで
 はなく、「経営資源は唯一、人のみだ」(P・F・ドラッカー)という考え方がある。

 「人」が財産であるから、人材ではなく人財となるわけである。

 すなわち、モノやカネをつくるのは人であり、その人をいかに育てるかが会社の将来を
 左右する重大な課題であると指摘する。

 経営資源の人をいかに育成するかは、いかにやる気を出させ、その能力を引き出すか、
 という教育にもなる。

 著者は、その育成を「徳をつくる」という観点で二宮尊徳の事例を通じて述べている。
 尊徳が荒れた田を改革するのは徳を磨くことであると述べていることを引用し、企業経
 営も社員の精神の教育(心田の開発)こそ重要と述べている。

 本書には、この人財育成のためのアドバイスが先人の片言隻句や人財育成を成し遂げた
 松下幸之助やトヨタの教育理念などの事例を通じて紹介されている。

 この人財の著者の定義には、「人財」から「人材」、「人在」、「人罪」という表現が
 あり、人が会社においてどのような位置にあるかを簡潔に表現している。人在はもちろ
 ん、いるだけの人で貢献も被害も与えない状態の人を指し、それに対して、「人罪」は
 会社にとってマイナスだけの存在ということになる。

 では、人在はまだしも人罪の場合はどうするか。不要なものとしてリストラすべきなの
 か。

 著者は次のような案を述べている。

 人罪は会社のために「害」になるだけではなく、むしろその人自身の人生にとってもマ
 イナスになる可能性があるので、新しい職場へのチャレンジを勧める。

 あるいは、いったん会社外で自分の再評価をしてみること(一時的に他社で働き再入社
 するという案も述べている)で、自分自身を活性化し人罪から人財への転換を求める。

 このような思考の背景には、仕事はカネをもらうという苦役ではなく、自分を豊かにす
 る教育・育成(徳をつくる)する場であるとの認識があるからである。会社で働くこと
 はそれだけ徳を磨くチャンスを与えられていることだと言う。

 だからこそ仕事を機械的にこなす人在ではなく、会社に貢献する(社会に貢献する)こ
 とを通じて、自分づくりをする人財になることが必要だと指摘する。

 これは自己実現の考え方に通じるものだといえるかもしれない。

羽田幸男  世界日報 掲載許可

     Kenzo Yamaoka
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評論家・金美齢 自然への感謝教えよう   
   
  昭和六十二年、ある実業家の要請を受けて日本語学校の創立に参画することになったと
 き、私は校舎内にシャワールーム二室を作り、学生誰でも無料で使えるようにした。一
 般に外国人留学生は風呂付きのアパートを借りるゆとりがなく、また習慣上銭湯を嫌が
 る人が多いことに配慮したものである。不潔が嫌われてアルバイトがしにくくなっては
 気の毒だと考えたのだ。
 ところがこの無料シャワー室は数年しかもたなかった。当初在校生は圧倒的に中国人で、
 彼らは終わったら水道を止める習慣がないので、毎晩見て回らねばならなかった。それ
 に他校からも“もぐり”で入りにくるので、閉鎖せざるを得なくなった。中国では住宅
 地区共同の水道栓などしばしば開けっ放し。水は流れっぱなし。人々はそれを見てもあ
 まり気にならないのだという。

 そこで改めて気付かされるのは「もったいない」という日本語のユニークな含蓄だった。
 これが単に「無駄な」という意味なら、英語ではwasteful、中国人は浪費とい
 うが、「もったいない」のニュアンスは出てこない。中国人の場合、自分の懐が痛むの
 でない限り、自然の乱用や公共資産の浪費を気にする感覚は希薄だ。

 一方「もったいない」には自然の恵みを無駄にすることを冒涜(ぼうとく)とする畏
 (おそ)れの念が込められている。どの宗教のどの特定の戒律というわけでもないよう
 だが、万物に霊魂を感じる日本独特のアニミズムのような感覚を私はそこに見る。

 韓国では食事を食べ残す習慣があるため家庭用生ごみ処理機が爆発的に売れているとい
 う記事を最近読んだ。日本では保育園や小学校の給食ではしばしば全員で声をそろえ
 「いただきまーす」と言わせる。子供たちが明確に意識するわけではなかろうが自然の
 恵みに対する感謝の念が幼い心の中にこうして少しずつしみ込んでいく。

 保育園に通う私の孫娘は、給食をきれいに食べたことを保母さんにほめられたと、いつ
 もうれしそうに報告する。私はこのような教育に感謝している。孫娘が将来「もったい
 ないこと」ができなくなると思うからだ。

 京都議定書が発効して環境保全がにわかにクローズアップされてきた。世界一の二酸化
 炭素排出国である米国は参加せず、その次の中国は途上国だという理由で削減義務を免
 除されている。結局、日本が一番厳しい条件を押し付けられ、えらいお荷物を背負っち
 ゃったというわけだ。

 しかし七〇年代の二度の石油ショックのとき、日本人はまめにトイレの電灯を消し、化
 石燃料以外の代替エネルギー源を開発し、各種機器の省エネ化を次々と実現し、世界の
 どの国よりもまともな正攻法で対処して危機を乗り越えた。理屈抜きで「もったいない
 こと」を嫌う精神があったからこその話だ。

 先週のこのページに、ノーベル平和賞を受賞したマータイ・ケニア環境副大臣が「もっ
 たいない」という言葉を世界に広めるという記事が出ていた。とても興味深い発言だと
 思う。(産経新聞提供)

                  ◇

 《きん・びれい》 評論家、JET日本語学校専務理事。早稲田大学で平成8年まで2
 0年以上英語講師を務める。近著に『三家族11人で暮らしてみたら』(扶桑社)。 
     Kenzo Yamaoka
==============================
日本が目指す国家デザイン   
  
 麗澤大学教授 松本健一氏に聞く

アイデンティティー再構築を
 世界のグローバル化が進む一方で、民族・宗教紛争やテロ、貧困の拡大などその欠点も
 明らかになってきた。今、世界は富を求めるウエルス・ゲームの時代から生きる意味を
 問うアイデンティティー・ゲームの時代に移りつつあるという松本健一・麗澤大学教授
 に、日本が目指すべき国家デザインについて聞いた。
 (聞き手=フリージャーナリスト・多田則明・世界日報) 掲載許可
国はすべてを取り仕切れず/核になるのは文化の力

○――――○

 まつもと・けんいち 昭和21年群馬県生まれ。東京大学経済学部卒業。京都精華大学
 教授を経て、現在、麗澤大学教授。評論家、作家としても活躍。著書は『北一輝論』
 『近代アジア精神史の試み』『白旗伝説』『評伝佐久間象山』『日本の近代1 開国・
 維新』『「日の丸・君が代」の話』『民族と国家』など多数。  
 

 ――松本さんは、小泉首相は徳川慶喜になるかもしれないという考えですね。

 小泉純一郎首相は経済成長時代の日本の構造を改革してくれるだろうという期待から支
 持率が80%を超えていたのですが、今は35%と国民はかなりしらけています。彼の
 能力は物事を簡潔明瞭に断定的に繰り返し言うことで、テレビ向きです。清潔で歌舞伎
 やオペラをたしなみ、教養もありそうだと人気があったのですが、これらは政治的価値
 ではない。

 今の小泉政治は一種のポピュリズム、大衆迎合主義ですね。これは細川護煕首相の時か
 ら始まった。冷戦が終わり、これからどうなるか分からない時に大衆に幻想を与え、7
 0%以上の支持率でした。戦前の近衛文麿首相、幕末の徳川慶喜と同じで、若くて知性
 がありそうで名門の出。しかし、それは政治をやる理性ではない。政治的理性とは吉田
 茂や岸信介のように、泥をかぶってでもやり抜く力と気概です。徳川慶喜は幕政改革を
 やるものと期待されたが、結局は幕府を滅ぼした。細川首相も最後は簡単に政権を投げ
 出した。小泉さんは最後の自民党総裁になるかもしれません。自民党の改革派と民主党
 の三分の二の元自民党議員が結びつき、政界再編になる可能性もあります。

 ――当初は期待していましたか。

 「米百俵」を言ったから、教育改革を本当にやるのかなと思いました。米百俵の故事は、
 官軍に敗れて荒廃した旧長岡藩を再建する小林虎三郎が、支援を受けた米百俵を食べず
 に、それで学校を作り、人材を育てようと呼びかけたものです。小泉さんも、将来の国
 家デザインの根本に教育改革を据えようというのだなと思った。しかし、それは表紙だ
 け。今は小林虎三郎が嫌った「その日暮らし」の政治をやっています。官僚政治からの
 脱却を言いながら、まったく官僚システムの上に乗っている。

○――――○
――日本はどんな国家デザインを描けばいいのか。

 かつて、このイデオロギーを受け入れれば世界は天国になるという形で共産主義対自由
 主義の対立がありました。それに対して、ロシアの詩人エセーニンは「天国はいらない、
 ふるさとがほしい」と言った。チェルノブイリ原発事故で放射能に汚染され、強制移住
 させられたのに戻ってきたベラルーシの村の農夫が、「私たちの祖先は皆ここに生まれ、
 ここで死んできた。私たちはそんな土地に死んでいくのだ」という意味で、エセーニン
 の詩をつぶやくのです。おいしい食べ物や快適な生活よりも、人が生き、死んでいく終
 (つい)の場所のあることが一番幸せ。それがパトリ(郷土)、マザーランドです。

 一九八〇年代から始まったグローバリズムは世界を一つにするという理想を掲げたが、
 実際にグローバリズムが進んだのは経済、金融、情報など数字化、統一基準ができる分
 野だけ。ところが人間はバーチャルな世界には生きていない。九〇年代になると、生活
 形態や生活習慣、文化、言語、共同体がつぶされ、これに対する反発が過剰に出てくる
 状況になった。例えば、インドではバンガロールのIT(情報技術)技師や会社はもう
 けたが、圧倒的多数のヒンズー教徒は貧しくなった。彼らを救うのは近代主義の国民会
 議派ではなく、ヒンズー原理主義のインド人民党であると、一種のポピュリズム政党が
 政権をとった。こういう問題が世界各地に出てきています。

 アメリカの貧困層にはキリスト教からイスラム教に改宗する黒人が多い。イスラム教は
 目の前にいる旅人のために自分のパンの半分を分け与える宗教です。イスラム系移民が
 国民の20%を占めているオランダで暗殺された、極右政党のフォルタイン党首の「オ
 ランダはもういっぱい。移民はいらない」という言葉が象徴的です。EU(欧州連合)
 十五カ国のうち十三カ国が社民党系の左派政権だったのに、この二年で、十一カ国が右
 派政権に変わった。

 世界が一つになれば豊かになるというのはグローバリズムの幻想で、実際にはアメリカ
 の独り勝ちだった。その幻滅からアルカイダのようなテロが現れた。しかし、あんなテ
 ロは認められない、人々の同情を引くこともできないという反省が出てきています。

 当面、国民の生命、財産、生活、人権、環境は個々の国家で守るしかない。グローバリ
 ズムの時代だからこそ国家の旗を掲げる。しかし、国家がすべてを取り仕切れる状況で
 はない。国家を造り直す核になるのは軍事力や経済力ではなく、国民を統合できる価値、
 文化の力になった。文化を主軸にしてナショナル・アイデンティティーの再構築が、い
 ま世界で起こっている現象だと思います。

 南アフリカの国旗にはイギリスの国旗が入っていたのをなくし、オーストラリアの国歌
 はイギリス国歌だったのを国民愛唱歌に変えた。中国、台湾では歴史教科書を書き直し、
 イデオロギーによってではなく民族を主語に説明するようになっています。

 日本の「歴史教科書をつくる会」もそうした流れだったのですが、特に日本ナショナリ
 ズムがどこで間違ったのかを書いていないので、私は認められません。日韓併合が行わ
 れたのは韓国が遅れていたから、日露戦争が起こったのはロシアが悪かったから、日中
 事件が起こったのは中国の国民政府がだらしなかったから、というように全部相手国の
 責任にしている。自分たちがどういう間違いを犯したか、そして、それをどう反省した
 かということがどこにも書かれていない。

経済的共同体をめざせ/「アジア共通の家」創設必要

○――――○
 ――戦前のナショナリズムはどこが問題なのか。

 戦前の皇国史観とは、簡単に言えば天皇の国の物語なのです。北一輝が昭和十一年の二
 ・二六事件で死刑になったのは、「国民の天皇」と言ったからです。国体イデオロギー
 で「天皇の国民」と教えているのに、それを逆転させた。

 国民教育の精神的な基本は教育勅語でしたが、それだけではなく、新渡戸稲造の『武士
 道』、内村鑑三の『代表的日本人』、岡倉天心の『茶の本』のように、日本と日本人に
 ついていろいろなバリエーションで説明した。日清・日露戦争に反対を唱えた人も弾圧
 されないで新聞を発行しています。明治の人たちは心の幅が広かった。では、どのあた
 りから変わったのか。

 「元寇の役に神風が吹いた」と小学校の国史教科書に書かれ始めたのは、昭和十年の改
 訂版からなのです。「わが国に神風が吹き、敵は全滅した」と。それまでは「大風が吹
 いて」と書いていた。大風を神風に変えたのはまさに国体イデオロギーで、天皇の物語
 をさらに強めたわけです。自分たちで物語を作った紫式部、清少納言はなくなり、天皇
 が権力を持とうとした大化の改新や後醍醐天皇の建武の中興などが大きく扱われていま
 す。

 儒教を学んでいた人の多くが明治になってキリスト教に変わります。森有礼のようにク
 リスチャンになった武士も多い。儒学者の安井息軒は、儒教の天とキリスト教の神は同
 じだと解釈しています。それを全部天皇に収斂(れん)して、キリスト教のゴッドと同
 じ扱いにする動きが昭和初期あたりから強くなる。天皇「現人神」説ですね。

 ――政党政治の終焉(しゅうえん)とはどうかかわっていますか。

 政党が統帥権を掲げた軍部に屈服した面と、政党自らが政党政治を否定した面がありま
 す。明治憲法は天皇の統帥権をうたっていましたが、それを軍人がタテにとって行使す
 るとは考えていなかった。ところが、昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の際、政府攻撃
 政党が統帥権の干犯だと言い始めた。犬養毅や鳩山一郎は政党政治家だと思われていま
 すが、軍縮条約を結んだ全権の若槻礼次郎、浜口雄幸内閣に対し、統帥権の干犯だと批
 判した。つまり、政党が自己破壊していったわけです。

 政党政治の立場で最後まで頑張ったのは斎藤隆夫です。彼は軍部が統帥権の名の下に満
 州事変を起こし独走したのに対し、支那事変は聖戦の美名に隠れた侵略だと糾弾し、昭
 和十五年の「反軍演説」で国会から除名されてしまいます。

 政党政治をだらしないものにしたのは近衛文麿首相の大政翼賛会です。戦争を起こした
 責任は東条英機よりも近衛首相のほうが大きい。斎藤隆夫は近衛に対して、彼には若さ
 も知性もあり、名門でもある、ところが政治的実行力だけがないと言っています。

 そこで、近衛の孫の細川首相が出てきた時、私は近衛がどこで間違ったか言うべきだと
 コメントした。近衛の不決断が支那事変を泥沼化させ、大東亜戦争に結びついたわけで
 す。

 ――第一次世界大戦後は国際連盟ができるなど世界の潮流が変わった。

 不戦条約を結び、支那に関する九カ国条約を結んで、国際平和をつくることを約束し、
 テリトリー・ゲームの帝国主義の時代が終わります。ところが、第一次大戦に勝ったこ
 とで甘い汁を吸った日本は、ドイツが撤退した後に青島(チンタオ)を占領し、「対支
 二十一カ条」を出すなど、帝国主義的な行動をやめなかった。しかも、天皇制は日本の
 ローカルな文化なのに、それが世界的に普遍性を持っていると錯覚したのです。


○――――○
 ――将来の日本の国家デザインにアジアはどう入りますか。

 アジアは地域的に近く、文化的に共通し、同じ歴史の中に投げ込まれてきたので、アジ
 ア的ネットワークは重要になります。EUやNAFTA(北米自由貿易協定)のように、
 アジアの経済的な共同体を目指すべきです。日本はナショナル・アイデンティティーの
 再構築と同時に、アジア的共通性やアジアの知恵を探る。アジア文化の中にヨーロッパ
 の自由主義経済、あるいは私の権利を守ることを超えた価値があるのではないか。そう
 したことを考え、協議する「アジア共通の家(アジアン・コモンハウス)」をつくる必
 要があります。

 子孫繁栄や教育水準の高さ、漢字文化、仏教、儒教、勤勉さも共通しています。アジア
 各国は国民国家としての歴史が数十年と浅く、ナショナリズム形成期の国も多い。その
 成功も失敗も経験している日本には提供できる経験があります。公害問題が深刻になっ
 ている中国などに移転できる環境技術も多い。アジア通貨基金の創設も必要です。

 西洋は「民主」で発展し、アジアは「専制」で遅れているというのがマルクス主義や近
 代主義的な見方でした。確かにアジアは軍事や経済では遅れていたが、社会的、文化的
 には遅れていなかった。今では世界で最も成長している地域となり、むしろアジア的近
 代化が注目されています。ヨーロッパとは違い宗教や文化の違いがありながら協調的に
 発展するという「共生」の文明がアジアにはある。それを研究するのがアジア共通の家
 の役割で、日本は積極的に貢献すべきです。
       Kenzo Yamaoka
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古代史の鍵・丹後   
  
 太陽信仰もつ海人集団の拠点
「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?
 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海
 部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労
 や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。
 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠
 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神とし
 て祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏
 系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。
 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世
 紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏
 の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖
 神としたものらしい。

◇   ◆   ◇

浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島  
 
 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代
 のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記され
 ている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたっ
 て伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の
 安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相
 当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわ
 りも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太
 陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神
 話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖
 神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町か
 ら出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右
 側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋
 がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授
 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラ
 マ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の
 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵 
 
 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホ
 アカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくし
 たまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで
 (丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立
 に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神
 社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海
 洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたの
 ではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造さ
 れた「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で
 見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く
 しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物であ
 る。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパ
 ノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよ
 う。

◇   ◆   ◇
 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初
 に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」
 (やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮
 外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人
 集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思
 われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

(市原幸彦)世界日報 掲載許可
     Kenzo Yamaoka

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