1908.自宅での太陽温水器



自宅での太陽温水器
                  平成17年(2005)2月13日
             「地球に謙虚に」運動代表     仲津 英治

 日本は如月と一番寒い季節、こちら台北も陽射しが少なく程度こそ違え
寒いときです。しかし春節=旧正月で花の季節の始まりでもあります。山
桜がそこそこに咲き始めております。

 昨年12月12日に「下水の浄化など」と題して発信させていただきましたと
ころ、20名を越える方々から感想、コメント等を頂きました。そして、本年
1月16日発信しました「自宅での太陽光発電」に関しては40名を越える方々
からご返信を頂きました。
その中から主だった感想、コメント等のポイント部分を纏めまして「EMと
下水の浄化など」(EM=Effective Micro-Organisms=有用微生物群)への
感想、コメントと題して「地球に謙虚に」運動ホームページのメッセージ欄の
平成17年度 (2005)のコーナーに掲載しています。
感想、コメントなどをお寄せいただいた方々にこの場を借りてお礼を申し上
げます。有難うございました。これらのご感想等を頂きまして地球環境問題に
取組む方の輪の広がりを感じます。お時間のあるときにご覧下されば幸甚です。

 今日は、さらに自宅で活用しております太陽温水器(ソーラー温水器)につ
いて述べたいと思います。平成11年 (1999)に引っ越した滋賀県志賀町の自宅
は太陽光発電装置付きの建売住宅でした。そこでさらに太陽温水器の設置を思
い立ったのです。

 太陽温水器は、私などよりずっと以前から使っておられる方がいらっしゃい
ます。そういった方々には僭越な事を申し上げるようですが、太陽光発電装置
より歴史があり、太陽エネルギーの活用には安価でかつ効果的です。太陽温水
器の価格は一台で数十万円のオーダーであったかと記憶しています。

 そこで実際の実用性をみて参りますと、日本では一般に家庭で使うお湯の量
の大半はお風呂と思われます。一方太陽温水器は、夏場ですと70℃の熱湯を作
ってくれ、冬場でも大体30℃くらいのお湯を作ってくれます。日本人は清潔好
きで毎日入浴する人が多く、我が家でも家族全員そうです。太陽温水器の容量
は概ね300リットルあり、お風呂の容量は大きさにもよりますが、100―120リ
ットルくらいでしょう。一家4人家族なら300リットルの太陽温水器は一日の十
分なお湯を賄ってくれます。

 夏場の場合、前日のお風呂の残り湯(30℃位60リットルとします)に太陽温
水器が作ってくれる70℃の熱湯をほぼ同量足し湯すれば、十分40数度の手頃な
湯加減となります。ガス、灯油などによる追い焚きはほぼ要りません。
 冬場の場合、ちゃんと湯船に蓋をしておけば、一晩経っても残り湯の温度は
水道水温度まで下がりません。そこに30℃の太陽温水器のお湯を足せば、既に
湯水は水離れした温度(25-30℃あたり)になり、ガス、灯油などによる追い焚
きの燃料もかなり少なく て済みます。冬場の冷たい水道水を水離れした温度
にするのに多くの燃料と時間を要するのです。この場合、足し湯、追い焚き機
能の付いたお風呂であることが望ましいでしょう。

 太陽温水器による燃費節減効果、ガスなどの削減効果は、前述の滋賀県志賀
町に引っ越した当初から太陽温水器を導入しましたので、比較する自前のデー
タが無く定量的には掴めていません。また太陽温水器には温めた水の量を示す
メーターがありません。しかし大阪で太陽光発電装置を設置したときに、とも
に安価な深夜電力(日中時間帯の3割程度の料金)を使う電気温水器を導入し
てお風呂の給湯を全てそれに切り替えました。そのときに天然ガスの使用量は
年間582立米(1996)から183立米(1998)に激減しました。ガス料金も年間約
8万5千円から約3万5千円に急減したのです(拙著「地球に謙虚に」2002年刊P166
参照)。
 このことは我が家で使うお湯の大半はお風呂で使っていることを意味し、こ
のお風呂を沸かす熱エネルギーをできる限り太陽温水器で太陽から頂くように
すれば、大きな節約になるし、炭酸ガスの発生も相当抑えられ、「地球に謙虚に」
くらす一歩になると言えるのではないでしょうか。
 
 太陽温水器は太陽光発電装置に比べ安価ですし、相当投資回収期間も短くて
済むようです。皆様方にお奨めするものです。

 ただしかなり以前のことですが、太陽温水器は、一部業者によるお年寄りへ
の押し売りに近いような商法によって、一時評判をすこぶる下げました。真に
残念なことでした。
今も地球環境問題に関する高まりを逆手に取り、太陽光発電装置も含め太陽
温水器を売りつける悪徳業者がいるようです。発注するときはよく情報を取って
信頼できる業者を選択することをお奨めします。

 仲津 英治
 「地球に謙虚に」運動ホームページ No.1
 http://www.hpmix.com/home/ise/kenkyoni/

 「地球に謙虚に」運動ホームページ No.2
 http://www5f.biglobe.ne.jp/~kenkyoni/
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失われた伝統的「勤勉の哲学」   
   
 上武大学教授・日本民俗経済学会理事長 菅野英機氏に聞く

家族的な組織論は大切
 かつて日本人は勤勉だといわれたが、それも今は昔。ニートやフリーターが増えた背景
 には、伝統的な日本人の労働観、勤勉の哲学が失われたことが大きい。その回復の手立
 てを、民俗文化と経済とのかかわりを研究している日本民俗経済学会理事長の菅野英機
 上武大学教授に聞いた。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明・世界日報) 掲載許可

時代に合わせ見直しを/「勤勉」を育んだ儒教・仏教

○――――○

 すがの・ひでき 昭和17年生まれ。国学院大学大学院経済学研究科博士課程修了。天
 理大学、秋田経済法科大学、新潟産業大学などを経て現在、上武大学教授。日本民俗経
 済学会理事長。専攻は理論経済学。主著は『新ケインズ派の経済学』『福祉社会の経済
 理論−フォークロア・エコノミーをめざして』『おもしろ秋田人考』『文化とレジャー
 の経済学』『ポスト・ケインズ派の経済成長論』『韓国経済の半世紀』(監訳)『民俗
 経済学への招待』など。  
 

 ――ニートが増えている最大の原因は、日本型雇用が崩れつつあるからだといわれる。

 終身雇用と年功序列賃金がセットの日本型雇用は、大正年間、軍需産業の重化学工業に
 おいて生まれたが、ごく一部だった。例えば、ヤマサ醤油のような伝統産業では、最初
 の数年は技術の習熟に応じて賃金が上がるが、その後は横ばいで長期雇用されていた。

 日本型雇用が広まったのは昭和三十年代以降、若者が多い人口構成と高度経済成長が重
 なったからだ。さらに強い労働組合が、生活保障を根拠に年功序列賃金を要求した。い
 わばムラ社会の論理で、生活保障を企業に求めたのだ。

 一九八〇年代初めからその矛盾が表面化しだしたが、バブル経済で吸収できた。九〇年
 代以降は、会社にゆとりがなくなり、他方、組合も弱体化し、社員も会社に一生縛られ
 るのを嫌うようになり、日本型雇用が崩れている。

 しかし、擬制家族的な日本の組織の論理はこれからも大切にしていかないといけない。
 それには今の社会に合うように見直していくことが必要だ。

 ――伝統的な労働観が揺らいでいるのでは?

 西欧資本主義の精神はプロテスタンティズムから生まれたというのがマックス・ウェー
 バーの説だが、日本では世俗倫理を説いた儒教と仏教の日本的宗教文化からその精神が
 芽生えている。いわゆる日本人の勤勉の哲学で、江戸時代にそれを説いたのが武士から
 禅僧になった鈴木正三(しょうさん)と、農家に生まれ商家に奉公した石田梅岩だ。二
 宮金次郎は農業を通して勤勉を説いた。

 彼らの教えに共通しているのは、金もうけより人として完成し、救われることを究極の
 目的にしていることだ。勤勉に働き、家を富ませ、社会に役立つ喜びを説いた。特に梅
 岩は塾のようなものを開き、商人たちが仕事の中で感じた疑問を梅岩に聞き、それに答
 える形で学問を進めた。

 ――山本七平氏は、梅岩は日本で初めて市民の思想を説いたと評価している。武士まで
 習いに来たのは?

 梅岩は仏教、神道も踏まえているが中心は儒教で、武士道に通じていた。儒教は極めて
 抽象的なので、武士が日常生活の中でどう生きたらいいか、そのままでは矛盾すること
 もある。梅岩は具体的に答えたので武士にとってもありがたかった。

 また梅岩は階級構造は容認していたので、幕府も認め、奨励した。梅岩は、階級は上下
 というよりも役割で、天の下では平等だとした。武士には武士の、商人は商人の役割が
 あるという、天の下での分業論だ。絶対的な下での平等という考えで、むしろ一神教に
 近い。

 資本主義は信頼社会において成り立つ。江戸の社会は負債を共有することで社会の信頼
 関係が高まっていた。贈与は負債を持たせるためで、それが強固な人間関係をつくる。
 喜捨が当たり前の社会では経済は発達しない。尊徳は資金を村で集め、開墾や整備、教
 育に投資し、豊かな村をつくった。信頼増幅と負債の増幅はパラレルで、それによって
 資本主義社会は富を拡大してきた。

 負債は恩や義理など、お金で表現できないものの方が多い。人を助けることによって価
 値を生む。親が子供に尽くすと、子供は負債を感じ、親の期待に応えようと勉強する。
 だから、負債が大きいことは、幸福が大きいことを意味する。

 ――人に何かをしてあげて喜ばれるというのは、家庭や地域社会など共同体の中で自然
 に身に付くものでは?

 労働の発生も、好きだからではなく、生きていくため、家族を養うために必要だから働
 いた。それが次第に分業化してきたので、人類史から見ると分業はごく最近のこと。そ
 れまでは一人ですべての作業をしていた。地域社会では、子供はお祭りを手伝うところ
 から参加し、大きくなるにつれ役割を与えられる。地域の共同作業には自発的に奉仕し、
 損得抜きに参加するものとなっている。

 ――今は共同体が弱いので、学校で個性教育を踏まえたキャリア教育をしている。

 今のキャリア教育が間違っているのは、将来のためだとしてやっていることだ。学生た
 ちは、「そんなしんどい勉強をするより、フリーターでいい」となる。「自分で選びな
 さい」と言うと、「選ぶものは何もない」となる。

 現実には、自分のやりたいことが見つかるのは稀(まれ)だ。むしろ、嫌いでなければ
 何をやってもいいくらいの気持ちがないと就職は難しい。どんな仕事も基礎的な訓練は
 同じで、訓練されているとほかの仕事にも移れる。ところが、基礎的な訓練を受ける前
 に、やりたいことと言われてもやりたいことなどない、自分を生かせと言われても生か
 せるような自分はない、と戸惑っている状況がある。

個性教育は間違い/訓練や指導が才能を磨く


○――――○
 ――それは個性を強調しすぎたからか?

 個性教育は根本的に間違っている。自分の優れている部分を訓練で伸ばし、社会の中で
 認められることで、初めて個性となる。個性は生来的にその人の中にあるものではない。
 もともとあるものと思うから、自分の中には何の才能もないと思う。それはほとんどの
 人がそうで、訓練や指導を受ければ、発達して個性となる。個性は在るものではなく自
 分でつくるものだ。

 体がひ弱で力仕事が無理のような人でも、力仕事をやらせれば筋肉が付いてくる。必要
 や訓練に応じて、後からなるもの。芸術など特殊な才能は無理だが、99%の仕事をす
 る個性はそうやってつくられる。初めからその仕事に向いている人は少ない。むしろ、
 懸命に努力する中で仕事に適応するようになり、それがその人の個性になる。個性のと
 らえ方が間違っている。

 仕事をし続けることでそういう個性になる。職人は職人らしく、学者は学者らしくなる。
 つまり役割に基づく個性で、外見的にも分かるようになる。生まれつきの個性にとらわ
 れているから、勘違いしている。

 ――仕事が高度化、情報化したため、親の背中を見ても仕事が見えなくなった。これを
 どう教えるか?

 漆職人の子供は幼いころから漆をいじっているから、三歳くらいになると漆に対する耐
 性ができてくる。それが典型的な家業だ。今は一般的に職場と生活の場が離れているの
 で、補うことが必要だ。例えば、家庭で古い油を使って、せっけんを作らせたり、小麦
 粉でパンを焼いてみたりする。いろいろな作業を体験しておくことで、そこから類推す
 る能力が養われる。

 学校の中に子供銀行をつくり、地域通貨で預金したり、引き出したり、集まったお金を
 投資したりする。それによってお金の流れが分かる。役割を果たせば地域通貨をもらえ、
 子供銀行に預金すると利子がつく。子供銀行はそれを花作りや家庭菜園などに投資し、
 そこで取れたものを売る。そうした体験を通して社会の仕組みを体験させれば、社会に
 おける個人の役割も自然に分かる。

 もっと重要なのは、人に役立つことをして地域の人から褒められることだ。反対に、怠
 けていると叱(しか)られる。そうした体験が社会的な倫理を身に付ける基礎になる。
 自分が役割を果たすことで家族や地域の人が喜んでくれた体験が重要だ。自分のためだ
 けでなく周りの人のために働くことの意味や喜びが分かり、社会や世界の人の役にも立
 っていることが感じられる。

 地域で頑張っている経営者や農家の人などが学校で生徒に話すのもいい。八百屋のおや
 じさんや職人など日常生活にかかわっているような人が、仕事の仕組みや喜びなど自分
 たちのやっていることを話す。また生徒たちが、給食の食材を作っている農家へ行って
 農作業を手伝い、苦労話を聞き、収穫したものを食べてみたりする。

 ――大人になることを自覚させるには?

 子供に対する扱いを、親や学校、社会が変えることが必要だ。例えば、高校生になると
 名前の呼び方などを変え、一人前の大人として扱う。自由を広げる代わりに、厳しくす
 る。

 また、あんな大人になりたいという、具体的なモデルが身近に必要だ。その意味では、
 大人がどんな暮らし方、振る舞いをしているかが問われている。

     Kenzo Yamaoka
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自衛意識を喪失した戦後日本人   
   
 憲法改正のもっとも重要な問題/真の国防は自責第一の価値観から
評論家 高瀬 広居
理念示し白紙から新憲法作れ (世界日報)掲載許可
 憲法改正の論議が熱しつつある。徴兵制や集団的自衛権を盛り込もうと議員諸公も力
 
 (りき)んでいる。だが、改憲の基本となる「在るべき国家像と理念」は少しも見えて
 こない。明治憲法の場合は伊藤博文の『憲法義解』にも明白なように「近代的富国強兵、
 天皇中心の神権体制、国民の三大義務規定」などで国家としてのビジョンが示されてい
 た。軍人勅諭と教育勅語がその実践的支柱ともなっていた。

 現憲法は非戦、非武装中立の通商国家、自由、人権、平等中心の市民主義国家観が土台
 となっている。では、この両者いずれでもない、しかもわが国独自の国家とは一体いか
 なるものなのか。まずその根幹を国民に提示すべきだと思うし、「ふつうの国家づくり」
 などという曖昧(あいまい)なイメージだけで改憲条項いじりを始めるのは不謹慎とい
 えまいか。

 私は改憲よりも現憲法を廃止し白紙に文字を書くように、日本国家の在るべき理念とか
 たちを明示して論議を重ね、その合意のもとに新憲法の制定をすべきだと考える。その
 場合もっとも重要なのはわが国固有の天皇・皇室制度の改廃、位置づけと交戦権をふく
 む自衛観の選択にある。とくに国防自衛の問題は国民の生命財産にかかわるだけではな
 く、戦後日本人の自衛意識の在り方にも深く関与してくるだけに重く受けとめねばなる
 まい。

性善説の呪縛で自衛分からず

 「水と空気と安全はタダ」という日本人の習性的思考は、長い間外敵の侵寇(しんこう)
 を受けず国土の周りを海という自然の防御力によって守られてきた地政、風土の心理的
 影響とともに江戸幕府三百年の鎖国、泰平の世がもたらしたものであろう。米使ペリー
 が来航した時、太平洋沿岸の無防備状態に唖然(あぜん)とし無気味にさえ思って攻撃
 を中止というくらい日本国は太平楽の歴史の中で過ごしてきた。

 明治国家となって国民は国防自衛思想をたたきこまれてきたが、結局は司馬遼太郎も語
 っているように日露戦争後「外界を自分たちに都合よく解釈する点で幼児のように無邪
 気で幻想的で、とうてい一人前のおとなの集まりのようではなかった思考法」に拠(よ)
 って国の針路を誤り太平洋戦争に敗北してしまった。それは対外政策だけではなく国内
 社会や人間関係においても同様であって自己(じぶん)と他者(たにん)を区別せず疑
 似家族的な依存関係に生きることを善(よ)しとしてきた。この伝統的な心理構造の裏
 には司馬のいう「外界への勝手な解釈」という自己本位の欲求と甘えがあり、裏返せば
 そうした幼児的思考をつづける限り国家の尊厳を守ることもわが身の安全を保障するこ
 とも至難ということになろう。

 ところが、相手の特性を正確に熟知し見極め、自らを厳しく省みて相互の有限性を自覚
 しなければ自衛と独立自尊は不可能だという“常識”を現代日本人は忘却してしまって
 いる。身近な好例が頻発する“振り込め詐欺”の被害者の短絡的対応だろう。まさか憲
 法で諸国民の公正と信義を信頼して「われらの安全と生存が保持」されていると宣言し
 ているから、この世には信義のない悪党どもは存在しないとでも思いこんでいるのだろ
 うか。だとしたら“おとな”ではあるまい。キリスト教や浄土教では罪悪的人間観を説
 き人間実存に罪を見よと教える。ブッシュ政治を支えるキリスト教右派の信仰信条も同
 じである。だが、伝統的に「本性清浄(ほんしょうしょうじょう)」の性善説の仲良し
 観に呪縛されている日本人は、六十年間の平和ボケも加わってこのような価値観をもつ
 ことができないでいる。ゆえに、自衛の本質が理解しえない。

最悪を先取りし覚悟する訓練

 北朝鮮への経済制裁についてもアメリカの六カ国協議優先の圧力を受けて“狂燥状態”
 は沈静化しつつあるが、ではなぜ制裁は必要なのか。残されている拉致家族の生命を守
 り帰国させるための自衛措置として有効と考えるからであろう。しかし、有効な自衛手
 段の行使には“他罰”以前に最悪の場合を先取りし覚悟する自己訓練が不可欠である。
 戦乱の決意と軍事能力の自己点検および国民的コンセンサスの形成である。これは自己
 責任の問題でもある。つまり自衛の真の担い手となるためには他者の責任を追及し転嫁
 する攻撃性(煽動)よりも自責を第一としなくてはならない。

 日本人には恥の文化がある。本来、恥意識とは先制防御の自己防衛機能を備えている。
 “和”を好むというのも妥協や許しを乞う態度をいうのではなく、先制攻撃よりも相手
 を納得せしめうる先制防御のはたらきの重視を意味している。NHKの海老沢や新会長
 らに欠けていたのは真の自衛が求める自責の無自覚と恥意識の喪失にある。それどころ
 かスマトラ津波や中越地震の被災報道を毎日のように繰り返す偽善放送によって自らを
 守ろうとしている。

 このように日本人は到るところで自衛心を無くした幼児のような日日を送り、モノとカ
 ネとヒトに甘え続けている。この向日的なオプチミストにいかにして自衛観を植えつけ
 らよいか。憲法改正はそこからも着手しなくてはならないのである。
       Kenzo Yamaoka
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ノーム・チョムスキー著「秘密と嘘と民主主義」 成甲社発行 
¥1,500  2004年7月

企業の横暴と政府と結びつき国民の税金を使って暴利を強欲に貪っ
ている証拠と実例で埋まってる内容である。
本当の民主主義が行われてはいないのが現在のグローバル資本主義
と民主主義だと悲観論で覆われてる。
此処2,三十年の米国内の不平等が貧富の差に現れ数々の社会不安
を煽るし治安の悪化が進んでいる状態の説明として2つの象徴的な
事件の手口を披露している。
「割り逃げ強盗」 渋滞に巻き込まれたり赤信号で止まったりして
る車に近ずき 窓ガラスを割って車内に有るバックや財布を奪って
逃げる。
「よき隣人泥棒」 大通りで車がパンクして困ってる様子をしてい
るフリをして 誰かが助けようと車を停車した瞬間 その車に飛び乗
って逃走する。
 
被害に有った人達は運が良ければバックや財布を取られたり車を盗
られるだけで済むが悪ければ殺される。
こうした犯罪は社会の二分化が進んだ証拠だと言う。
市場システムから切り離された人々が増えて何の組織にも属さず生
き残りを賭けて残された僅かの選択肢がこういう犯罪になると言わ
れてる。企業が海外移転したり企業売買が頻繁で簡単に解雇され労
働組合がもう働かなくなってる社会が来てる事。各自が個と言う小
さい単位に何時の間にか分裂させられてるから一層事態が悪化する
と憂えている。
 
エイミー・チュア著「 富の独裁者 」光文社発行 
¥2,300 2003年10月
イェール大学で 教鞭をとる気鋭の若手女流学者で中国移民である
作者が驚くべき 処女作を書いたと言われてる本です。
何故テロは繰り返されるか、 多くの非欧米諸国の社会が中々安定
しないのか。何故アメリカ人は世界各地で反感を買ってるのか。
このような疑問を極めて斬新な視点から解き明かした。
グローバル化と それがもたらした 一部の少数の外国人の上層階
級への富の偏在が 資本主義と自由民主主義とで成立する その仕掛
けを詳細に世界の国と地域に分けて実例と実名とで名指しで丁寧に
挙げられている。
何故、先住民族に経済の富が渡らないで 少数経済支配外国人の余
所者がその国の経済を握って富を占有してるかが納得出来る。
民主主義で選ばれたその国の指導者が 外国人商人や企業から献金
、賄賂 汚職で飼い馴らされてその国の国民は生計が苦しい立場の
まま過ごしてる実態が理解出来る。
チュアは外国人の経済支配者を「経済支配的少数民族」と言う新し
い概念を導入した。
 
これは「さまざまな要因を背景にして 市場経済の元で多数派の’
先住系’民族を経済的に支配してる少数民族のことである。
日本は多数派民族である日本人が経済も政治も双方を支配してるの
で 経済が少数民族に支配されてる社会の状態が実感をもって理解
するのは難しい。
しかし 東南アジア諸国でビジネスに携わった人達はその国での華
人の経済力を目のあたりにする機会もあった事だと思う。
華僑といわれる効した中国人の人々の旺盛な起業力と強固なビジネ
ス・ネットワークは広く知られている。
ではこうした東南アジアの華人を始めとする経済支配的少数民族は
 各国の先住民にとって歴史的にどのような存在だったのか
そして現代の社会構造とどう関っているのか。重要でありながら見
過ご去れて来た、あるいはタブー視されてきた
この問題をチュアは 東南アジア(華人)から ラテンアメリカ(
植民地時代からの白人と新たに来たユダヤ系白人)
ロシア(ユダヤ人)東アフリカ(インド人) 西アフリカ(レバノ
ン人)南アフリカ(英国、オランダ系白人)それに家来となっていた
一部の黒人民族グループ。 全世界に渡って綿密に調査検証している。
そして「市場経済、 民主主義、民族間の憎悪」と言う危険な結び
つきが この少数経済支配する外国人民族が原因となる
共通のパターンを導き出してる。
 
冷戦の終結は アメリカの勝利、ひいては市場経済と民主主義の勝
利だと一般には受け止めれてるが、人間の自由を尊重する市場経済
と民主主義を’少なくともアメリカは最善の組合せと考えグローバ
ル化戦略の元に各国に輸出してきたがこの考えこそが 非欧米諸国
を混乱に陥れ民族の虐殺すら引き起こしてる元凶だと痛烈に批判し
ている。
 経済が少数民族に支配されてる社会では 市場経済と民主主義が
’それぞれ 別の民族に’力を与えて 流血の惨事を引き起こす事
があり得ると実例で何例も示している。
この衝撃的な指摘は人々に無力感すら与える。どのようにして公正
で効率的な’社会制度を築いて行けばいいのか。
市場経済と民主主義を即時 同時に導入するっことはその答えには
ならない。
しかも経済支配的少数民族に対する憎しみの構図は’それぞれの国
家の内部で形成されているのでは無い。
複数の国家を含む地域(中東など)さらには世界全体にも当て嵌め
る事が出来る。
一つの国の社会構造を読み解く構図をユダヤ人とアラブ人の関係、
そして世界の中のアメリカ人の立場を読み解くと事は複雑で厄介な
事が理解出来る。
2001年の同時多発テロ事件は世界の大きな転換点となった。
この重大事件を契機としてアメリカハテロリズムを力で制する姿勢
を全面に押し出して アフガニスタン、そしてイラクを攻撃した。
アメリカを単独行動主義に傾けさせたこのテロ事件は何を背景に
どんな力によって引き起こされたものなのか
これにも様々な答えが示されるがチュアは「世界経済を支配する少
数民族」であるアメリカ人へお憎悪を新たな答えとした。
この憎悪は決してアメリカの軍事力で消し去れる者では無い。今後
のアメリカの行動とそれに対する世界の反応を分析する上で 少数
経済支配する民族憎悪の構図は重要なキーワードとなる。
 
不安定さを増す世界情勢を読み解く鍵として少数民族に注目したの
は著者のバクグランドによる。
チュア自身 アメリカでは少数民族の中国系移民の子であり 両親
は共に中国本土の生まれだが経済的な理由からフィリピンへ移り住
み 結婚後アメリカに渡り住んだと言う。
親族の多くはまだフィリピンに在住していてコングロマリットを経
営して裕福な生活を送っている。
チュアは幼い頃から少数民族の一員とされる自分の立場や家族の立
場、又華人として国内の多数派民族との関係を肌で感じとってきた。
本書の冒頭はチュアの叔母がフィリピン人に殺された事件から始ま
る。
「私は警察の報告書のうち(殺人の動機)の項目を決して忘れる事
が無い。殺人者は宝石やお金も盗んでいるが その目的は強奪では
無いと言うのだ。動機として書かれていたのは ただ一言「復讐」
だった。」この叔母の死が現代社会を揺るがしてる経済的、社会的
、或いは政治的に虐げれて来た多数派の土着の民族の復讐心こそが
様々な暴力行為や大虐殺、テロの大きな原動力であると本書はルワ
ンダ、インドネシアなどで起きた実例で詳細を述べている。
2001年以降から報復の連鎖が果てる事が無い復讐のエネルギーを如
何に理解して それを弱める有効な手段とは何か
 
最終章で幾つかの長期的な解決策が提案されてるがその内容はパン
チ力に欠けている。
でもこのテロの万能薬は即効的な’効き目のある薬は無い。各国が
独自の民族融和策を実施して小さな成功例を積み上げるしかないだ
ろう。少しずつ着実に解決せた実例が増えることそしてその成果に
関する情報が整える事がデ切る事。
 
経済的支配的少数民族の悪質な行為。
経済支配的少数民族に属する人々が’ 非欧米諸国では贈収賄や差
別的な融資、労働法規違犯、などを数多く長い間に渡り酷いのは何
百年も続いている。
是は’不法、有るいは悪質な行為である、だけでは無く経済支配少
数民族自身のイメージにも悪影響を及ぼしている。
こうした行為が無くなれば民族関係が良くなる方に改善する保障は
無いが経済が少数民族に支配されてる事に伴う
特殊な危険を考えればこのような行為を発見して それを出来るだ
け抑制する措置を取る事が重要だと考えれレル。’
先住系の支配層と経済支配少数民族との癒着は 発展途上国では長
年に渡り続いてきた現象でありその国でも先住系の民族の強い怒り
を買っている。インドネシアでの通貨危機から起きた華人に対する
暴動などはスハルト政権が長い間、ボブ・ハッサンや林 紹良など
の少数華人と癒着した「縁故資本主義」の延長で起きた。
又 共産主義崩壊後のロシア’ではエリツィン大統領と少数の冷酷
なユダヤ人起業家との癒着でロシア社会に根ずいていた
反ユダヤ主義が再び目を覚ました。多くのユダヤ人が暴行や被害に
合わされた。
ケニアではモイ大統領と少数のインド人富豪が癒着したことでイン
ド人社会全体に対して標的にされ略奪と暴力が繰り返し起きている。
ただし悪質な行為を行っているのは経済支配的少数民族の中の富裕
層だけでは無い。此処が問題。
この問題には一般市民の中間の同国の外国人も絡んでいる。人脈が
強力な接着剤となっている。
東南アジア各国で華人系の企業の多くは税法 銀行・金融関連法、
超過勤務規制、労働者の安全確保に関する法律などに日常的に違犯
してる。さらに厄介な事に 特にインドネシア、タイ、フィリピン
の華人の実業家の間では 何万人もの不法就労者を中国本土から 
呼び寄せる行為、(不法密入国)が一般化している。
安い賃金で働く不法就労者に仕事を奪われ地元の労働者は’憤慨す
る。
アメリカでもそれは同じだ。(1995年から96年にかけて ギ
ャップ社の華やかな外観の裏には恐ろしい実態が隠されていた。
無法地帯と化した同社のエルサバドル工場では工場長が労働組合’
結成の動きを受けて150人の従業者を解雇して
結成運動を続けるなら「流血の惨事が起きる」と宣言した、ナイキ
はパキスタンで子供の労働者を使っていた)
インドネシアでは約600万人が失業していた。その失業者は労働
年齢の国民はインドネシア先住民族だった。(プリブミ)
華人系の大企業は中国から千人の不法就労者を呼び寄せていた。
これが華人が襲われる暴動に発展’していた。
先住系のエリート政治化が賄賂と引き換えにこうした行為を黙認す
るケースが多い。
「飛びぬけて豊な’よそ者が’国の法律を無視して先住民を搾取し
ている」と言う認識が経済的に不利な立場にある
先住系の多数派に伝わると 民族間が激化’する。こういう行為は
「集団的行動で政治問題化する」事で何時の間にか正当化されやすい。
その他にも 民族的社会的 商業的’組織による統制が起きている。
発展途上国では既にこのような組織が結成されている。東南アジア
各国には華人の「商工会議所」や「華人協会」があり特殊なバンも
有れば 客家など特殊な同属組織もある。レバノン人も西アフリカ
で同様の組織をもっている。
こうした組織を通じて仲間内の信用や同業者の圧力を交したり行動
監視や商業上の活動の様々な手段を講じている。
 
欧米系の大企業などでは社会貢献活動 や 環境保全運動などもし
て 発展途上国における長期的な利益の最大化戦略にしている。
子供博物館の建設、緑の植物を植える緑化運動なども行われてきた。
経済支配的な少数民族の自発的な社会貢献は不利な立場の多数派の
一般市民が恩恵を受けれる。
なるたけこうした社会貢献運動を目立つ形で実行して行くのが望ましい。
非欧米諸国で行われているその国の経済的なシンボルがよそ者に屈
辱的に支配されてる事なのだ。
経済的なシンボルとは ラテンアメリカの石油、南アフリカの金、
ダイヤモンド、ビルマのルビーやチーク材 ロシアのロモノソフ磁
器、天然ガスや石油、その国らしさを象徴している産業部門である。
恐ろしい程の途上国の貧困と財政難などがよそ者に反感と憎悪を生
み出す。
米国は3つの対処を考えている。
国際テロの発生を促す貧困と絶望に対して 医療の提供、 家族計
画の支援 慢性化した環境問題(植林)絶望からテロを起す人々を
少しでも減らす努力をし始めている。対外援助も実施しているがま
だまだ追いつかない。
イスラム過激派は貧困からでは無いと答えている。イスラム派は金
のことは余り問題にして居ない。
ホメイニ師は印象的な次の言葉を残している「我々はメロンの9値
段を下げる為に革命を起したのでは無い」と述べている。
詰まるところイスラム過激派の’戦いとは権力闘争なのである。
なるたけ 経済援助は公正におこなわなければ意味が無い。
途上国では不正が当たり前になってるのも問題が起きる権限でもあ
るから・・民衆の民意がその国のエリートの倫理観も問題とされる
のを忘れていけないが・・・
しかし わが国でも同属の同民族の多数国でもあるが政事と経済企
業家の賄賂、献金、癒着は頻繁に起きる。
政治献金や政治家への癒着には神経を尖らせるだけ尖らせて不正を
許さない強い姿勢が大切です。
諸悪の根源でテロや犯罪の温床 揺り篭なのです。犯罪が多い、治
安が悪いという事は政事が悪いと言うことになる。
特定な団体と結びついて悪事を働いているからだと この2冊の本
は明らかにしている。

(^o^)♪またメールします・・☆★☆
 
ようちゃん(^0^)/~~bye


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