1808.アミニズムが世界を救う



一神教同士の戦いが、世界を滅亡の危機に追いやっているように感
じる此の頃である。この解決を考える。  Fより

一神教は人間が考えた宗教である。神と人間が契約を中心として、
神が絶対で人間がその従属物として位置付けられている。人間とし
て自然に感じる心で、自然を捉えるアミニズムとは違う。

もう1つ、ユダヤ人たちが自分の苦難の中で一神教の契約と救済を
考えたために、どうしても攻撃的な側面を持っている。人間の闘争
心から一神教は生まれた。このユダヤ教がキリスト教、イスラム教
を生んでいる。

この一神教と比較可能なのが、共産主義と儒教であろう。共産主義
(スターリン主義)の思想として、人間が神と同じように完璧であ
り、その計画も遂行できるから、神はいらないとしたが、人間が完
璧でないことが明らかになり、70年で破綻した。

儒教は人間のリーダの考え方と部下の礼儀作法が問題で、礼儀作法
をしっかりすれば、国も社会も平和になるとした。この考えが韓非
子の法治主義に結びつく。法治主義は前提が人間の性悪説で、人為
的な面が強い。中国にはこの儒教と道教が混在している。

そして、闘争心に基づく一神教の強さに多神教は負ける。このため
中央アジアにあった多神教である拝火教がイスラム教に根絶される
ことになる。アメリカ大陸のインカ文明もキリスト教国家スペイン
に負けて、カトリックになっている。このため、アミニズム信仰は
少なくなっている。

アミニズム信仰は、自然な感覚や心で自然の営みを捕らえたもので
ある。しかし、そのアミニズムもビンズー教、仏教のように人間が
介在して、人為的に加工した宗教もある。思想や修行の方法が整備
されて宗教として確立した。道教も同じようにアミニズムから出発
して、儒教や仏教の思想を借りて、鬼道、神道と発展して日本に伝
わった。この後、秦氏が東方キリスト教を日本に伝える。この東方
キリスト教はユダヤ教に近いし、ユダヤ人の末裔が信じていたよう
である。

この一神教ユダヤの秦氏は、日本の神道の一会派として八幡神社や
稲荷神社を開いている。秦氏一族一万人程度で、日本では少数であ
ったために神道に同化させたようですね。このように、一神教の信
者が少ないと、日本のような多神教社会は簡単に一神教を吸収でき
ることが分かる。

アミニズムは世界的な広がりがある。自然な心で感じることができ
るためにであろうが、イヌイットもインディアンもケルトも同じよ
うな趣である。そして、この祈りは、万国共通であり、インディア
ンの祈りを聞くと、日本人は何かを感じる。そして、YSさんから
教えていただいたワタリガラスのような神話も同様な趣旨で伝わっ
ている。

このように自然な心で理解できる信仰を再度、世界に発信する必要
があるのです。この分野の学問も出来てきている。トランスパーソ
ナル心理学という衣も用意されている。

しかし、アミニズムを信じている地域が後進地域と見なされている
。が、日本の神道は世界第2位の経済大国であるために、このよう
な誤解を受けない。アミニズムではなくて、神道としたようがいい
理由である。この意味でも神道の解析をして、トランスパーソナル
心理学の一つの分野を作る必要がある。そのうちでも一神教ユダヤ
教を吸収していることに着目した解析をしてほしいものですね。

今の時代、日本にユダヤ人たちが中東から脱出して来る基礎を作る
必要がある。日本から2万年前に旅立ち、シュメール文明を作り、
ユダヤ人という名に変更して、中東地域に住み、一部のユダヤ人(
秦氏)が日本に2千年前に帰還して、とうとうその他のユダヤ人た
ちも日本に帰還することになる。2万年前の同胞達の帰還を日本は
待つことになる。日本がユダヤ人を救済することを予言も言ってい
る。ユダヤ教のラビたちも日本に注目している。

日本の意味は、日本の人口減少の意味はすべて、そのハルマゲドン
後に、ユダヤ人の待避所となるべく神が配剤した処置であると気が
着く時がきたように感じる。このため、2007年が海外のホテル
建設ラッシュになる。外国資本が日本の資産を買うのも、このユダ
ヤ人の退避に関係している。

早く、日本の国際化、特にユダヤ人に対する優遇処置を取るべきで
ある。これが次の日本を作る基礎を与えることになる。本当の国際
化、金融大国化、覇権国家も、それによりできることになる。

参考:
1367.古神道形成の背景について
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k5/150830.htm
1382.古神道の形成
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k5/150914.htm
1388.古神道の形成2
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/k5/150920.htm
==============================
ワタリガラスの神話−コラム−
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/2goukan/ohter/watari/watarigarasu-1.htm

本と出合う
 はじめて読んだワタリガラス神話は、主人公が鳥(カラス)であ
りながら人、という、斬新な感覚の物語だったと記憶している。
 この物語を語り継いできた人々が暮らしていたのはアラスカの大
地、私は、アラスカの写真集とともに、この物語を読んだ。
 圧倒的な視覚で訴えかけてくる、北アメリカの自然。

 命とは炎に似たるもの、命尽きるまで燃え続けるもの、そこに薪
を一本投げ入れただけで激しく燃え上がるようなもの。
 その薪を投じたのは、星野道夫という写真家だった。写真ととも
にエッセイも書かれていたが、ワタリガラス神話を収集するためア
ラスカを探検中、クマに襲われて不幸にもご落命された。

 その時、私が手にした本は、その星野氏の最期の本、…と、いう
より、未完成のエッセイに、事故の日まで書き綴られた手記を出版
社が編集したものだったと思う。星野氏が生きていて、彼の手によ
って仕上げられていれば、どんなに素晴らしい本になっていただろ
う、と思うと残念でならないが、星の消えゆくように途切れ途切れ
に綴られた死直前のメモの、生の声が別の意味で、この本の文章に
重い響きを与えていると思う。

 もう一冊、私の手元にある本は、「ワタリガラスの謎」という、
全く系統の違う自然科学の本である。
 神話にも言及されているが、アプローチ法は星野氏とは全く違う
し、神話の引用の仕方も全然違う。
 動物の生態を研究している学者にとって、ワタリガラスは「チト
頭のいい珍しい鳥」でしかない。目に見えないものは認めない、デ
ータに裏づけされない結論は虚偽と同じ、という立場に立ってみれ
ば、ワタリガラスが人になることはないし、人間に大いなる知恵を
与えたかどうかは、疑わしいに違いない。
 ワタリガラスの神秘性を全部剥ぎ取って、データの示す高度な知
的習性を貼り付けるその態度に、実に見事な客観視の姿勢を感じず
にはいられない。

 対象となっているのは同じカラスなのに、片や神格化され、あが
められる神秘的な存在、かたや徹底的なまでに監視・記録され、行
動パターンを分析にかけられる理論的存在。物事を説明するのに使
われている方法が正反対。だが、私はそのどちらの本も面白いと思
ったし、語られるワタリガラスの姿は、どちらも間違ってはいない
と思った。
 ありし日の視点と、現在の代表的な視点と。

空の旅人
 はるか昔に読んだ本では、ここで主人公として語られているカラ
スは、「ワタリガラス」ではなく、「オオガラス」と表記されてい
た。
 オオガラスと呼ばれるからには、、ワタリガラスは、かなり大柄
な鳥だ。黒い鷲のようにも見える。
 英語では主にRaven(レイブン)と表現される。日本では、
北海道の一部にしか生息しない。

 このワタリガラスに「ワタリ」とつくのは、もちろん、旅をする
鳥だからだ。だが、季節ごとに群れ成して渡って来る、白鳥や雁の
ような鳥とは違うようだ。長距離を飛ぶことの出来る強い翼と、住
処を追われれば、大陸を越えても新天地を目指して飛んでゆく行動
力を指して、「ワタリ」の名をつけたのだとう。(デカいカラスが群
れになって渡ってきたら、それだけで町じゅう大パニック。ヒッチ
コックの映画じゃないんだから…)
 世界中に、さまざまな種類のワタリガラスがいるのは、旅好きだ
ったワタリガラスの祖先たちが、新天地めざして散らばっていった
からだろうか。

 ゆえに、神話の中のワタリガラスたちが旅をするのは不思議なこ
とではないし、遠くを旅してきた者が深い知恵を持つことは、不思
議ではなかった。
 ワタリガラスは、つねに知恵者だった。時には信頼の置けない、
流れ者のようなイメージもありながら。
 旅をすることは、おそらくワタリガラス神話が形成される上で、
重要な要素だったと思う。
 日本にもヤタガラスなど神格化されたカラスがいるが、それも、
どちらかと言うと「神の御使い」=使いっ走りであって、自分から
能動的に動く存在では無い感じがする。それというのも、群れ成し
てたむろっているカラスでしかなかったからではないだろうか。

 インディアンの神話では、ワタリガラスたちは、常に自主的に動
く自由な存在だった。(時には人の頼みも聞くかもしれないが)
 神ではないため「救済者」とは呼べませんが、ある意味では「英
雄」みたいなものではなかっただろうか。
 ワタリガラスに象徴されるのは、誰にも出来ないことを、その翼
と知恵とで実現してしまう存在であり、伝説となって語り継がれる
先駆者である。
 どこの地代にも、また、どこの国にも、そのような存在は居るも
の。簡単そうに見えて、どんな小さなことだって、最初の一歩を踏
み出すのはとても大変だ。集団から外れたことをしたがる者は、時
折、人間離れして見えたり、何がしかの不思議な力を宿しているよ
うな見えたりする。
 不自然に擬人化されたり、いつしか自分が鳥であったことさえ忘
れてしまうような神々と違い、自分らしさを変化させないワタリガ
ラスは、もしかしたら、神になることよりも、単なる生き物である
ことを選び、伝説の彼方に消えて行った実在の人間の影であったか
もしれない。

共存の神話
 ワタリガラスは、決して他の神話に言うような「神」ではなかっ
た。
 一方的に崇められ、人に何かを与える存在では無い。人々に知恵
を与えたワタリガラスは、そのまま人間となって人々の家系に入り
、「現在」を生きる子孫たちの血の中に受け継がれる「祖先」でも
ある。

 世界の多くの神話・伝承が、権力者を神の子孫とすることによっ
て支配の正当性を説こうとしたことからすれば、これは一見、奇妙
なことに映るかもしれない。ワタリガラスやそのほかの神聖な動物
たちを神とするならば、なぜ、一介の村人までがその子孫なのか。
なぜ、部族の全ての人間が、神聖な血を受け継ぐ者なのか。
 これは、神話が、支配とは別の目的を持って創られたからではな
いだろうか。
 神が絶対的な支配力を持つならば、その子孫(王)もまた、支配力
を受け継ぐ。しかし、支配者のいない部族には、支配的な神は、必
要ない。
 インディアンの各部族たちが権利を主張したかったのは、人間の
群れからなる一つの王国や世界ではなく、「自然界そのもの」だっ
たのではないだろうか。
 自分たちの住む場所は、決して人間だけのものではない。そこに
生きるカラスやクマやクジラ、それら全ての共有するものなのだと
考えた上で、共に生きる者同士、当然の関係を結ぶ。ワタリガラス
が村長となって村にとどまるのも、人間の娘がクマと結婚するのも
、自然と人間とが別々ではなく、同一であることを示すための伝承
ではないのか。
 支配する権利を得るのではなく、「共存」する権利を得るための
神話。それが、鳥や獣たちとの血縁神話ではないだろうか。

現実と神話が結びつくとき
 全てを見、全てを知ることを、アイルランドでは”ワタリガラス
の知恵”という。
 ワタリガラス神話の中には、そのまま「ワタリガラスが世界を創
造した」と、なっているものと、「世界の創造者から自由を勝ち取
った」ものが存在するようだ。
 最初に紹介した、星野氏が収集した神話は後者のものが多かった
ようだが、アメリカ人(つまり、インディアンを追い払った白人の
子孫たち)が収集した話は、前者が多いような気がする。
 それは、収集者がキリスト教徒だったことにも関係するかもしれ
ない。
 キリスト教は「絶対の創造主」が居て、そのお方が世界を創ると
いう宗教だ。創造主が複数いたり、天地創造物語が無かったりする
神話は、あるいは理解しがたい内容だった可能性がある。(つまり
、内容の真意を取り違えたのではないか、と)

 しかし、どちらのパターンにしても、ワタリガラスは、世界を創
ろうと思っていたわけでも、人を助けようと思ったわけでも、ない
らしい。
 空を飛んでいて、「何か暗いなぁ」と思えば、星をちりばめてみ
る。気まぐれに地上に動物を作ったんだけど、作りそこなって人間
というヘンな生き物を作ってしまう。その気まぐれさも、実際に生
きているワタリガラスたちの生態からすると納得出来る。

 自然科学的な視点で語られる、バーンド・ハインリッチ氏の本に
よれば、ワタリガラスは、「エモノを多くの動物と分け合う鳥」、
なのだという。
 死んでいるクマを見つけたとしても、カラスのくちばしでは、
その分厚い毛皮を引き裂いて肉にありつくことは出来ない。そこで
ワタリガラスは、手近なところにいるオオカミを探し、連れてきて
、毛皮を剥いでもらう。
 オオカミに食べ物のありかを教えるかわり、自分も苦労すること
なく食べ物にありつける。
 ハインリッチ氏によれば、このような行動こそ、かつてインディ
アンたちが言った「ワタリガラスについていけば獲物にありつける
」という諺の裏付けなのだとか。

 なるほど、翼を持つワタリガラスは、空から大地の全てを見渡せ
るわけだし、地面の上にいる人間やその他の動物たちよりは、はる
かに「視界が広く」、「世界を識る者」でも、ある。
 しかし同時にワタリガラスが獲物の居場所を教えてくれるのは、
他者に恩恵をもちらすためではなく、自分が満腹したいがため、な
ので、ワタリガラスが「与えてくれる」行動に、人間への思いやり
なんてものは無い。そのあたりも、神話での「身勝手さ」のイメー
ジにつながっていく。

 多くの動物崇拝神話と同じく、インディアンのワタリガラス神話
も、実在する動物の生態を忠実に再現したものとなっている。
 分かりやすく言うならば、荒々しいクマは力の神となり、頭のよ
いカラスは知恵の神となる…決して本質からは外れない。
 現実のワタリガラスの気まぐれさ、自由さ、賢さを無視して、神
話の中のワタリガラスだけが堅実で正直な存在に為ることは、在り
得ない。自然に忠実で、人間の理想だけで歪めなかった、ありのま
まを受け入れる生き方が、この神話に現れているのだろう。

 神話が形成された背景を理解する上では、単に神話を収集するだ
けではなく、彼のような観察手法も有効だといえるだろう。

ある一つの神話
 それは、まだ世界に火が無かった時代。
 火山の火を見つけたワタリガラスは、自分で危険を冒して取りに
はいかず、勇敢な若いワシをつかまえて、「オマエ、ちょっと行っ
て来いよ」と言う。「人々のために苦しむのだ。この世を救うため
に炎を持ち帰るのだ」と。

 だが、ワタリガラスは、実は自分が温まりたかっただけかもしれ
ない…
 ワシが燃え尽きるかもしれないことを知っていて、面白がって言
ったのかもしれない…。
 真意は分からないが、

 この神話で英雄になったのは、全身を炎に包まれながら命がけで
帰ってきた若者であり、ワタリガラスは完全な傍観者である。
 ゲームで喩えるなら、勇者に伝説の剣のありかは教えるが、取り
に行くのを手伝ってはくれない大賢者のようなもの。
 もしくは、世界を救う勇者様を村の利益のために理由をつけて使
いっ走らせる長老。

 だが、ワタリガラスの知恵が無ければ、世界は今だ光を持たず、
火もなく、そもそも人間自体が誕生していなかったかもしれないの
だから、侮ってはいけない。
 RPGの賢者や長老だって、居なきゃ居ないで話が進まない。
 ワタリガラス…、それは、勇者でも賢者でもなく、主人公が住む
村の村長さんのような、ご近所にいる「はじまりの知恵者」のよう
なキャラクター。
 決して主人公にはなれないけれど、話を、世界を動かし始める重
要な人物。
 そんな「彼」に、他の誰が、取って代われるだろう。

魂の帰還
 ワタリガラス神話はインディアンの各部族に伝えられているもの
だが、エスキモーたちもまた、同じような神話を語りついでいると
いう。そこでのワタリガラスも、やはりインディアンのものと同じ
く、大いなる知恵を持ちながら、勝手気ままに振舞う…、という、
現実の姿に即した形で描かれているそうだ。

 彼らが、こんな神話を創造したのは何故なのか?
 それは、最初のほうにも書いたとおり、その土地における「生存
権の主張」のためだったと、私は思っている。
 厳しい自然の中で、人はあまりに非力で、生きることもままなら
ないような存在である。そんな中、人間だけを特別視して神格化す
るような神話が生まれることは、考えにくい。アラスカなど厳しい
自然に囲まれた場所に住む人々は、自然との関わりの中で、つねに
自分たちの思い上がりを戒められなくてはならなかったのではない
だろうか。

 彼らの神話は、自分たちがその土地に生きる者であることを証明
するために作られている。
 他人の言葉を借りて言うならば、「彼らは、神話に力を与えるこ
とで、その土地を所有する」。かつての日本人が。山の神様に祈り
を捧げ、田んぼの神様に実りを乞い、その土地の所有権を認めても
らおうとしたのと同じように。
 それは、人には自然を支配する力が無かった時代では、ごく当た
り前だった感覚のはずだ。

 ワタリガラス神話を受け継ぐ人々は、厳しい自然の中で、自分た
ちがワタリガラスやクマの子孫であること、その土地に住まう他の
動物たちの仲間であることを物語として織り成すことで、自然界で
のアイデンティティを確立することが出来たのではないだろうか。
 それを裏付けるように、彼らは「人が血を流した場所は、永遠に
人のものとなる」と言う。
 たとえ何も痕跡が残っていなくとも、自分たちの祖先がかつて暮
らしていた場所は、子孫たちに受け継がれた伝説の中で、永遠に彼
らのものとなるのだと。

 神話も伝承も、単なる物語ではなく、人の、何かを求める意思あ
ってのものだと思う。
 過去の人々が伝えたかったのは、決して「過去の事実」では無い
。字面のままではない、伝承という形を取った「真実」、…人が辿
ってきた精神世界の軌跡なのではないだろうか。そこには、人の心
が見てきた風景が、いつまでも息づく。

 神話を通して、人の魂はどこへ還っていくのか。どこに心の安ら
ぎを求めるのか。
 行ったこともない氷の大地と、灰色の空を舞う大きな黒い翼を思
う時、冬の風は響きを変える。私は神話を受け継ぐ血筋の者ではな
いし、ワタリガラスの家系でもない。けれど、その神話は、支配の
ために作られたどんな神話とも違い、自分が小さな人間であると同
時に、地上に生きる多くの生き物たちの仲間だということを証明し
てくれる。
 人間は、神話の中ではワタリガラスが創るのに失敗した出来そこ
ないの生き物だったけれど、美しい神話を語り継ぐことの出来る、
唯一の存在である。
 環境破壊だ、戦争だ汚職だ殺人だと悪いことばっかりな人間です
が、そう思うと、捨てたものでもない気がする…多少のなぐさめに
しかならないとしても。

 物語にも似た神話の世界を通して、たとえばこの私は、自分の魂
が帰るべき場所を探しているのかもしれない。
・森と氷河と鯨-ワタリガラスの伝説を求めて- 
                星野道夫,世界文化社,1996
・ワタリガラスの謎 
    バーンド・ハインリッチ(渡辺政隆・訳),D.B.S,1995
==============================
世界の神話に見る鴉の役割
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/2goukan/ohter/watari/watari-world.htm
 世界各地の神話・伝承に登場する鴉たち。その役割について簡単
に、かつ自分尺度的に、レポートしてみました。

■ヤタガラス(日本神話)
トリッキー度;☆☆  お役立ち度;☆☆☆☆  神聖度;☆☆☆☆☆
 日本のカラスさんは、とっても神様らしい。使いっぱしりなんだ
けど、任務に忠実で日本人的。間違っても、途中でどっか行っちゃ
ったりしないし。
 賀茂建角身神の別名。日向の山中で日の神からの天啓を受け、長
髄彦との戦いで苦戦していた神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から
大和へ至る道を先導したことにより、天皇より八咫烏(やたがらす
)の称号を頂いた。これは後の錦冠位のようなものであるという。
…しかしな、これカラスって言っていいのかな…? 京都の下鴨神
社の祭神なんだって…。

■女神アテナのお使い(ギリシア神話)
トリッキー度;☆☆☆  お役立ち度;☆☆☆  神聖度;☆
 女神アテナは戦いと知恵の女神。そのアテナのお使いとして、か
つては賢いカラスが登用されていたのだが、おしゃべりすぎるので
クビにして、かわりにフクロウを雇った、とのこと。多少知恵が劣
ってノロマでも、誠実なフクロウのほうが良かったってことでしょ
うか。ここでも、やはりお使いとして使われていますカラスさん。
そしてあまり信用されていません、カラスさん(笑)
 アテナがカラスって、どのみち、あんまり似合わないような気も。

■オーディンのお供(北欧神話)
トリッキー度;☆☆☆☆  お役立ち度;☆☆☆☆  神聖度;☆
 神々を束ねる父なる神、オーディンの肩に留まっている二羽のオ
オガラス、フギン(思考)&ムニン(記憶)。彼等は朝、オーディ
ンのもとを飛び立って、夕方には世界中のことを見聞きして戻って
来るという、実に重要な役割を持っていた。…でも、出て行ったら
出て行きっぱなし、ちゃんと戻ってくるかどうかは、分からない。
 ラグナロクの時も、ちゃっかりいなくなってるみたいだしなあ。
大丈夫なのか。
 北欧では、何でも知っていることを「オオガラスの知恵」という
。北国どうし、アラスカと北欧ではカラスに対する認識が似ている
というのが面白い。似た存在と見た。

■ケルト神話
トリッキー度;☆☆  お役立ち度;☆☆☆☆  神聖度;☆☆☆☆
 ケルト神話において、鴉は戦いに関係する神(モリガンとか、ス
カアハとか)の象徴だったらしい。黒いのに、白い女神の象徴にな
っていたり、光の神ルーグの使いだったり、ずいぶんライトなイメ
ージである。ゲルマン神話でもインディアン伝承でも鴉といえば、
油断できない・おしゃべり・狡賢いといったイメージなのに、ケル
ト神話では、ずいぶん勇敢な鳥になっているようす。智謀も戦いの
能力とされていたのか?
 スカアハなど、戦いの技を伝授してくれる女神サマなわけだが…
。そのお使いか…。強そう。


コラム目次に戻る
トップページに戻る