1703.最新日本政財界地図(10)新渡戸派=クエーカー派を引き継ぐ者達



YS/2004.07.30



最新日本政財界地図(10)新渡戸派=クエーカー派を引き継ぐ者達





■アーミテージの第九条発言

 7月21日、アーミテージ国務副長官は訪米中の自民党の中川秀
直国対委員長らと会談し、日本の憲法第九条について、「日米同盟
の妨げ」と述べ、日本の国連安全保障理事会常任理事国入りの障害
にもなるとの見解を表明した。そういえば、読売新聞はアーミテー
ジについて、「日本の政界に多くの知己を持ち、副長官就任前まで
在米日本大使館や石油、軍需関連など日本企業6社の顧問も務めた。
(2001年5月21日夕刊)」と書いている。この6社あたりの
思惑が複雑に絡んでいるのだろう。

 かつて、ジョン・フォスター・ダレスは1951年から4度にわ
たって来日し、「自由世界防衛に貢献を」と吉田茂に迫った。19
53年11月に来日したリチャード・ニクソン副大統領(当時)も
「日本の非武装を主張した1946年の米政策は誤りだった」と語
り、大きな反響を巻き起こした。このニクソン発言は米国側の過大
な防衛力増強要求をかわすための宮沢喜一の高等戦術として日本側
からの提案に基づいて発せられた。ダレスの時代には朝鮮戦争が勃
発し、米ソ、米中対立が日増しに激化する。しかし、吉田は経済復
興重視の考えから、新憲法を逆手にとってのらりくらりとかわして
いく。吉田の敷いたレールに乗って経済発展を遂げた現在の日本は、
過去のことなどお構いなしに、アーミテージに同調して、政界も日
本経団連も鼻息が荒くなっている。

 自国を守るために自らが築き上げた技術を使うのであればいいが、
武器輸出三原則の見直し論には、短絡的なビジネス志向が見え隠れ
している。結果として、うまい具合に日本の技術が米国に取り込ま
れ、米国依存を強化することにつながりかねない。

 当然表と裏の顔もあってもいいと思うが、日本の情報は米国に筒
抜け、しかも今なおアーミテージ発言に見られる外圧依存が抜け切
れていない中で、本来あるべき真の自立を目指した憲法改正ができ
るとは到底思えない。

■憲法第九条の宿命とクエーカーが手にしたもの

 憲法第九条の理論的な根拠はパリ不戦条約(1928年)の精神
を盛り込んだ国連憲章(1945年)の影響を受けている。192
0年から26年まで国連の前身である国際連盟の初代事務次長を務
めた新渡戸稲造が願った「太平洋の橋」は、こともあろうに国連安
保理の旗でお尻をたたかれながら、太平洋の橋は大量の最新兵器が
行き交うだけの橋になりそうだ。

 詳細は後に触れるが、そもそも現行憲法は昭和天皇に対する戦争
責任を追及する声を封じるために、共和党内のクエーカー派と日本
で最初のクエーカーとなった新渡戸稲造一派の連携によって、国連
憲章に彼らの理想をも取り入れながら生み出されたものだ。つまり、
昭和天皇救出が確定すれば、自ずとと改正論につながる宿命を抱え
ていた。従って、米国が「逆コース」に転換しはじめた時点で、す
でに米国にとって目障りな存在になっていたのである。

 現行憲法が公布されたのは1946年11月3日、その翌年19
47年にクエーカーを題材にした西部劇映画に「拳銃無宿」(原題
はANGEL AND THE BADMAN=天使と悪人)が公開された。当時す
でにクエーカーの平和活動は世界的なブランドであった。このブラ
ンドを日米のクエーカー達が昭和天皇をお守りするために利用した
のである。

 そして、この1947年10月にクエーカーは最高の栄誉を手に
する。日本も含めた長年の世界各地での平和活動が評価され、ロン
ドンのフレンド奉仕団評議会(FSC)とアメリカ・フレンド奉仕
団委員会(AFSC)が連名でノーベル平和賞を受賞したのである。

■「新渡戸派=クエーカー派」を引き継ぐ者達

 アーミテージ発言の10日前の7月11日、北海道遠友夜会は札
幌グランドホテルで『高尚にして勇気ある生涯ー5000円札新渡
戸稲造さよなら、又、会う日までー』と題するシンポジウムを開催
した。今年11月に予定されている新札切り替えで20年にわたっ
て5000円札の肖像画となってきた新渡戸稲造が明治の作家・樋
口一葉に変わる。

 テレビにも再三出演し、イラク戦争に対して反対の姿勢を貫いた
寺島実郎(北海道出身、三井物産執行役員、三井物産戦略研究所長、
日本総合研究所理事長、中央教育審議会委員)は、この北海道遠友
夜会の顧問を務めている。寺島は「新渡戸派=クエーカー派」を引
き継ぐ人物のようだ。

 そして、寺島同様にイラク戦争に反対した政治家がいた。当時外
相だった彼女は2001年6月にペンシルベニア州フィラデルフィ
アにある母校を訪ねた。出迎えた同級生と抱き合いながら、「みん
な、おじいさんとおばあさんになっちゃって」と言葉を交わし、「
日本最大の輸出品はイチローと新庄」などとユーモア溢れるメッセ
ージを英語で読み上げた。当時話題を独占していた彼女の姿はテレ
ビで何度も繰り返し映し出されていた。

 61年9月から63年6月までの約二年間を過ごした彼女の母校
の名前は「ジャーマンタウン・フレンズ・スクール」、1845年
に設立されたクエーカー・スクールである。彼女、つまり田中真紀
子は記者団に「人の意見も聞くけど、自分もはっきり意見を持つよ
うにという教育を受けた」と語り、“真紀子節”の原点がこの留学
にあったことも披露した。

 田中真紀子は、留学中のケネディとニクソンの大統領選では、ニ
クソン支持のバッジをつけて校内で政策論議を交わしたという。こ
の共和党のニクソンも実はクエーカーだった。ただし、ニクソンは
大統領在任中にベトナム戦争を終わらせなかったため、教団から破
門にされたとの説もある。従って一般的に田中真紀子は「親中派」
と称されることが多いが、正しくはクエーカー派である。従って田
中真紀子も「新渡戸派=クエーカー派」の数少ない生き残りのひと
りとなる。

■エリザベス・G・バイニングと田中真紀子

 田中真紀子同様に、感受性の強い時期にクエーカーの影響を受け
て育ったのが、現在の天皇陛下である。児童文学作家でクエーカー
であったエリザベス・G・バイニング夫人は昭和天皇のご希望で1
946年10月に来日、当初1年の予定は4年間に延長され、皇太
子時代の13歳から17歳までの間の家庭教師を務めた。帰国後も
両陛下の結婚式に外国人としてただ一人招待され、1999年11
月に97歳で亡くなるまで天皇陛下との交流は続いた。

 バイニング夫人は1902年にペンシルベニア州で生まれ、津田
梅子も学んだブリンマー大学を卒業後、ドレクセル・インスティテ
ュートで図書館学を学んだ。29年にノースカロライナ大学教員モ
ーガン・バイニングと結婚したが、33年に交通事故で夫を亡くし、
自身も重傷を負った。失意の夫人を引きつけたのはクエーカーの「
礼拝での深い沈黙の中の癒し」であり、また「平和と人種問題に対
する明確な立場」であった。

 バイニング夫人は1934年、故郷ペンシルベニア州のクエーカ
ー教徒の正式会員になった。会員となったのは「ジャーマンタウン
友会」。そして、バイニング夫人の出身高校は田中真紀子と同じ「
ジャーマンタウン・フレンズ・スクール」である。

 また、バイニング夫人はドイツにヒトラー政権が成立するとアメ
リカン・フレンズ奉仕団(AFSC)の難民部局でアメリカに逃れ
てくるユダヤ人を助けるための奉仕活動を行い、第二次世界大戦の
末期には、平和と和解に貢献しようとアメリカン・フレンズ奉仕団
(AFSC)広報部に勤務していた。このアメリカン・フレンズ奉
仕団(AFSC)が1947年にロンドンのフレンド奉仕団評議会
(FSC)とともにノーベル平和賞を授かったのである。バイニン
グ夫人はこの知らせを在任中に受け取ったことになる。

 バイニング夫人は1969年にベトナム反戦運動で警察に逮捕さ
れたこともある。この時「良心に従って、根気よく反戦デモを続け
る」と語った。

■天皇家とカトリック

 感受性の強い時期にクエーカーであるバイニング夫人に学ばれた
現在の天皇陛下に対して、皇后陛下美智子さまと皇太子妃雅子さま
も第三世代キリスト教人脈と関わっている。皇后陛下美智子さまの
生家である正田家がカトリックであることはよく知られているが、
皇后陛下美智子さまを天皇家に迎え入れたのも第二世代キリスト教
人脈の「新渡戸派=クエーカー派」であった。この流れは皇太子妃
雅子さまにも受け継がれている。

 1934年10月20日に誕生された皇后陛下美智子さまは、本
郷の大和郷幼稚園、四谷の「雙葉学園幼稚園」を経て、1941年
に「雙葉学園雙葉小学校」に入学された。太平洋戦争の戦火が激し
くなったため、44年以降には神奈川、群馬、長野と転校を繰り返
され、47年1月に「雙葉学園雙葉小学校」に戻られた。47年4
月に港区の「聖心女子学院中等科」にご入学、「聖心女子学院高等
科」を経て、53年4月には渋谷区の聖心女子大学文学部外国語外
国文学科に進まれ、57年3月に同大を卒業された。

 皇太子妃雅子さまは1963年12月9日に誕生された。外交官
の父、小和田恒の仕事柄、1歳半の時のモスクワを振り出しに、ニ
ューヨークと世界の大都市に在住された。71年年春に帰国し、新
宿区立富久小学校などを経て「田園調布雙葉学園小学校3年」に編
入学、そして、「田園調布雙葉学園中学校」、「田園調布雙葉学園
高校」へと進まれた。高校1年の時、父親がハーバード大学に国際
法の客員教授として招かれたのに伴い、再び渡米、ボストン郊外の
ベルモントハイスクールに通われた。そして、81年9月にハーバ
ード大学に入学、国際経済学を専攻され、85年に同大学を卒業し
帰国、86年4月に外交官を志し、東大法学部に学士入学するもの
の、同年10月には外交官試験に合格されたことから、翌87年4
月に東大を中退して外務省に入省された。

 気付かれた方も多いと思うが、皇后陛下美智子さまと皇太子妃雅
子さまは共に「雙葉学園」で学ばれている。雙葉学園は「幼きイエ
ス会」というカトリックの修道会が母体となって設立した学校で、
キリスト教的な全人教育を徹底している。現在、東京の四谷と田園
調布以外に、横浜、静岡、福岡の5校があり、お互い姉妹校となっ
ている。

 雙葉学園は聖心や白百合、上智などの大学に推薦枠を持っており、
皇后陛下美智子さまも緒方貞子と同じカトリック系の聖心女子大学
を卒業されている。そして、皇太子妃雅子さまが学ばれた田園調布
雙葉学園の理事には山本正の兄、山本襄治の名前がある。

 皇后陛下美智子さまと皇太子妃雅子さまは、第三世代キリスト教
人脈の中心人物である緒方貞子、山本譲治・正兄弟のカトリック人
脈と密接に結び付いているのである。

 そしてこのカトリックの総本山であるバチカンは、米国主導のイ
ラク戦争に一貫して反対した。

今年4月13日、天皇陛下はイラク戦争を主導したチェイ二ー副大
統領と皇居・宮殿で会見されている。この会見こそが、現在の天皇
家の「キャリアや人格を否定する」ものであったような気がしてな
らない。

■5000円札から1000円札への切り替えの意味するもの

 戦後を担ったはずの日本国内のクエーカー派も戦中タカ派の復活
組と第三世代キリスト教人脈のカトリック勢に押されて今や少数派
に転じつつある。歴史的な5000円札の「切り替え」はこのこと
を象徴しているかのようだ。

 新渡戸は「どのキリスト教派よりも、フレンド派が神道と似た点
がある」(「普連土学園百年史」)と語っていた。クエーカーと日
本を結びつけた新渡戸はこのまま歴史の中に消え去るのだろうか?

 また、この切り替えは憲法第九条の改正をも意味することになり
そうだ。その改正内容が現在の天皇家の「キャリアや人格を否定す
る」ようなものになる可能性があるのだろうか?

 寺島実郎も田中真紀子もかつて米共和党内で確固たる一勢力を築
いたクエーカーの影響を受けており、決して反米ではない。また、
天皇家もクエーカーの影響を強く受けていることから天皇派と呼ぶ
こともできる。ここに日本の保守派における二重三重の歪みや捻れ
を生み出した原因が隠されている。

 クエーカーは、英国、ペンシルベニア州(「(ウィリアム・)ペ
ンの森」を経て、新渡戸らによって日本で神道と交わり、日本の経
済発展にも大きく寄与した。このクエーカーと資本主義の関係は、
非常に重要な論点であるにもかかわらず、今までほとんど言及され
てこなかった。 

 こうした点も踏まえながら、次章から日本における第一世代キリ
スト教人脈と第二世代キリスト教人脈の中心を担った「新渡戸派=
クエーカー派」を中心に歴史を紐解いていきたい。

 おそらくこのシリーズが終わる頃には、新渡戸に代わって野口英
世が新1000円札となって戻ってくる。野口英世もクエーカーに
関わる人物であった。結論から言えば、上のふたつの問いに対する
回答もこの1000円札の野口英世に隠されているのかもしれない。
つまり、新渡戸はクエーカーやカトリックとなって今に引き継がれ、
また歴史を創り、憲法第九条の改正は現在の天皇家の「キャリアや
人格を否定する」ことがないように最大限に配慮されるものになる
だろう。


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