1693.21世紀の男と女



21世紀の男と女 =互いの魂の成長を目指して=  S子  

▼産業革命がもたらした男の危機
戦後の歪んだ民主教育により精神構造を骨抜きにされた日本人は、
今日の日本の国難、それも崩壊寸前の日本の危機をどのようにして
生き抜いてゆくのだろうか。精神的支柱が欠落した教育を受け、大
家族という共同体もなくなり、核家族化してゆく中で、私たちは見
習うべき身近な手本となる大人の存在を失い、伝統を失った。

産業革命以後は働き手となる男が外へ出て働くことで、子育ては女
の手に一任され不自然な養育が行なわれ、都市化が進むことにより
家族の孤立化が際立ち、地域社会が機能しなくなっている。政治や
経済においては米国に完全に牛耳られ、日本の国家意思はなく、ひ
とつの国家としての命の輝きを日本はとうの昔になくしてしまって
いる。

このような日本の危機に際し、ある一面においては、私たちに日本
人としてのアイデンティティを想起、覚醒させてくれる良い機会だ
と捉えることができる。それと同時に、人間個人としてのアイデン
ティティの危機に遭遇することで、戦後、教育として重視されるこ
ともなかった精神という問題に私たちひとりひとりが直面し、精神
的成長を余儀なくされていることも確かである。

私たちは戦後の見事なまでの復興により経済繁栄を享受することで
、精神面をそれほど重視しなくてもこれまで何とかやり過ごしてく
ることができた。私たちは精神的な渇きを物質を手に入れることで
自らのこころをうまくごまかしてきたと言える。

しかし、そうやってこころをごまかし続けられる間はまだよかった
。ここ十数年に渡る長期経済不況は、私たちの精神を徐々に蝕みは
じめ、物質に頼って生きることのこころの限界を私たちに感じさせ
ている。

今日では当たり前のようになってしまった年間3万人以上の自殺者
、その大半は男であると言われている。戦後女が強くなったように
言われているが、女が強くなったのではなくて男が弱くなっただけ
である。

産業革命により家庭に男が不在である時間が多くなり、核家族化す
る中でお手本となる父親像が見えない。男の子にしてみれば、普段
仕事をしている父親の姿を知らない。休日には家でごろごろしてい
る父親の姿しか見ていないのであれば、父親の存在、父親像という
ものが既に危うい。

輪郭のはっきりしない父親、父親像をこころに抱いて大人に成長し
た男は、男としての自信もなく不安だらけである。男とはこうであ
るという確固たる支柱が育成されていないのだから当然だろう。近
くにそういった大人がおらず、触れ合うこともなくして大人に成長
すればなお更である。

年頃になって女性とつき合おうとしてもうまく男を表現できない。
女性との距離の取り方もうまくいかず、男としての自信のなさや不
安から引きこもるか、暴力に出るかという極端な方向で男の存在を
知らしめることしかできない。

女性と対等な関係でのぞむのではなく、上下関係という支配する側
、支配される側として男女関係を構築してゆくなら、人間としての
互いの成長はありえないだろう。こうしてみると産業革命以降、男
は危機の時代を歩んでいることになり、現在は男と女の関係が非常
にアンバランスになっているように私は感じる。

少し前置きが長くなってしまったが、男と女の関係を通してこの日
本の危機を私たちがいかにして乗り切るか、ひとつの人生を私たち
がどのようにして生きるかを私なりの考えで述べてゆきたいと思っ
ている。どうして男女関係を通してなのかというと、これが人間の
愛の基本であり、誰にも身近でわかりやすく受け入れられやすいと
私が思ったからである。

▼ 神の啓示の意味するところ
「所詮この世は男と女しかいない。そこのところをよく考えて。。
。」突然の神の啓示は驚きではあるが、どうして神は私にこんな啓
示を言ったのかまったくわからない。折に触れてはこの言葉を思い
出し考えはしても、自分なりのおぼろげな理解しかできずにいたが
、「どうしてこの世には男と女しかいないのだろう。」という気づ
きとともに視点を変えると、何となく見えてくるものがあるから不
思議だ。

この世に存在するあらゆる生物の基本は全て雌である。このことは
解剖学を専門にしている養老猛氏も指摘しているから間違いないの
だろう。だから人類の始まりも女であり女から分離して男が誕生し
た。このことから女は基本的に愛そのものの存在であることがわか
る。子供を産む機能が備わっていることも愛を具現化するために女
に与えられた役目である。

人間だけではなくこの世に存在する全ての生物の本質は目に見えな
い魂であり意識である。目に見えない魂や意識というものはそれだ
けでは何ひとつ学ぶことはできないので、生物の肉体に宿りそこで
初めて喜びや苦しみを体験してゆく。

つまりこの世は目に見えない魂や意識を具現化し創造してゆく世界
であり、目に見えないものをかたちあるものに創造して「自分」と
いう存在を他者に認めてもらう世界である。

愛の存在である女だけでは愛を実感することはできないから、男を
通して目に見えない愛というものを体験してゆき、そこから様々な
ことを私たちは学んでゆくのである。私たちがこの世で本質的に学
ばなければならないのは「愛」だということである。

しかし、私たちはこの世に生を受けてから様々な洗脳教育を受け、
それが正しいと信じ込まされ人間の本質に触れることなどなく生き
てきた。男女関係を通して私たちはまずこの洗脳教育から解放され
なければならないことを知るだろう。

私たちの頭の中には生れてから受けた教育により、ある程度の女性
観なり男性観というものが既にインプットされている。ところが実
際に愛する人が現れつき合ってゆくうちに、受けた教育による女性
観や男性観とは違ったものが出てくる。

互いのこころに受けた教育と現実の体験による違いからこころに葛
藤が生じ、こんなはずではなかったと思う。そこから大なり小なり
の亀裂が互いの関係の中に生じはじめ、やがてふたりの前に大きな
障壁となって立ちはだかる。

ここでこの困難を乗り越える男女もいれば、目の前のあまりにも高
い障壁に辟易しすぐに別れを選択する男女もいるだろう。ひとつの
困難を乗り越えた男女は、少なからずそこから何かを学んだはずで
ある。そうしてひとつひとつ階段を上がるように互いの魂の成長を
促してゆく。

が、別れという安易な選択をしそこから何も学ばずにきた男女は、
同様なことに何度でも出会い、何度でも同様なことを繰り返す。こ
れは一体どういうことなのかというと、困難を前にしてこの困難と
正面きって向き合うことのできない「自分」がいるからである。

つまり自己の本質に関わることなくしては、困難を乗り越えること
はできないということだ。男である自分とは一体何者なのか、また
女である自分とは一体何者であるのかという自己のアイデンティテ
ィの危機に直面し、それにじっくり向き合うことができて初めて自
分の中の「何か」を知るのである。

男女関係において互いに衝突することは避けられない。互いの性の
違い、生れ育った環境や生活の違い、生きてきた時代背景等、その
原因はいくらでもある。その違いを知った上でふたりの共有するも
のを創造してゆく。

目に見えない愛というものを男と女で創造してゆくという特権は、
神が人間だけに与えたものである。困難を乗り越えながら男女の愛
を深め、成長してゆくことで私たちは互いが魂としての存在である
ことに気がつき触れ合うことになるだろう。そうなればセックスも
より神聖なものとなり、魂と肉体とのつむぎ合いであるという領域
のセックスに触れ合うと、互いに離れがたい存在になるようだ。こ
うなると私たちはひとりの男と女を超えて、そこにまるで男神、女
神が存在しているかのように感じるらしい。

ここで改めて私は神の啓示を自問してみたい。
「所詮この世は男と女しかいない。そこのところをよく考えて。。
。」
結局この世には男と女しかいないのである。共に愛しあえる人に巡
り合えたのならその愛を大事に育むことである。共に理解し合い許
しあい、互いの魂を揺さぶりあい影響しあって共に魂の成長を促す
ことである。人間としての本質に触れ合い「自分」を知ることであ
る。互いの未知なる部分を引き出しあい、愛を創造することである
。

しかし、いくら男と女が長年連れ添い、互いの愛がどんなに深くな
ろうが私たちは互いを完全に理解しあうことなど所詮できない。な
ぜなら私たち人間の本質が魂であり愛であり光であるという永遠な
るものだからである。永遠の魂であり、永遠の愛であり、永遠の光
であるから男と女の愛は無限に広がってゆき、互いを完全には理解
しあえないのである。私たちは男と女として互いを少しずつ理解し
あい、許しあいながら互いの魂のレベルを高め、互いに成長してゆ
くことしかできない。それをこの世で学んでゆく。

▼ ますます管理統制されてゆく世界
産業主義近代の終焉により今後世界はますます管理統制されてゆく
。米国が世界の消費大国としての地位を下りるなら、今後マーケテ
ィング技術は更に向上し、私たちは厳しい管理統制下の中を生きる
ことになる。

ものを生産しても売れないのであれば売れるものだけを生産してゆ
くしかない。そのためには人々の嗜好形態を同じようにすればいい
のであると、支配層は考える。支配層は自らの富の増大しか念頭に
ないから完全な商業主義からは抜け切れないだろうと私は思う。む
しろ商業主義が支配層にとっては脅迫観念のようになっていると私
は見る。

つまり生産と消費が一致しさえすれば支配層にとっては何も問題は
ないのである。世界最大の小売業ウォールマートの進出や日本の大
手小売業の進出、マクドナルドのようなハンバーガーチェーンの進
出、各種コンビニエンスストアの進出でマーケティングはいくらで
もできる。

このマーケティング技術で勝ったもの、つまりマーケティングによ
りうまく人々を洗脳した業種、業態が最終的には生き残る。そして
最終的に生き残った業種、業態により私たちは管理統制された社会
を生きてゆくことになる。

言い換えれば私たちは家畜のように飼いならされ、生きる屍となり
命の輝きをなくしてしまうということだ。不自然な管理社会の中で
私たちは生きる力をなくしてしまうのである。

▼ 「今」を生きる男女の愛
日本の危機に加え、更に不自然な管理社会を生きなければならなく
なった私たちは、今ひとりの人間としてのアイデンティティの危機
にあるのは確かだろう。男である自分とは何だろう。女である自分
とは何だろう。そして結局、「自分」とは一体どういう人間だろう
と深く自問自答する事態に私たちは陥っている。私たちは改めて「
自分」という人間を精査し、今大きく「生きる」ことの意味を問い
はじめている。

ところで、皆さんは、幼子が一心不乱に遊びに夢中になっている姿
を見たことがあるだろうか。何を思い煩うことなくその遊びだけに
夢中になっている姿は、純粋そのものであり、見ていて私は非常に
愛くるしく感じる。人間本来の生きる姿が、実はこの幼子の姿にあ
るのではないかと私は思っている。

未来を思い煩い結果を気にしていたのでは、私たちのこころは惑わ
され定まることもなく、「今」に集中できない。「今」に集中でき
ないとこころは不安になるばかりで、こころの不安定さが増す。こ
ういう人間は、確固とした「自分」というものがないから他人の言
動に左右されやすい。他人の言動に惑わされると結局は「自分」と
いう人間さえも見失ってしまう。

私は結局のところ、人間は「今」という時を純粋に生きる、「今」
に集中して生きることが大事なのではないかと思っている。幸いに
して私たち日本人は農耕民族として「今」に集中して生きることが
できる。作物をより多く収穫するには「今」の作物の出来、不出来
が大いに関係するとなると、私たちは作物の世話を「今」一生懸命
にする。そのことに一生懸命専念する。

「今」に集中して生きてゆくことがひとつの結果を生むのなら、私
たちは未来を思い煩い結果を気にすることなど一切しなくていいは
ずだ。はじめに結果ありきの生き方をすると、米国のようにつじつ
まあわせの嘘つき国家というとんでもないことになるのは、今の米
国を見れば一目瞭然である。

「今」という時に集中して純粋に生きるということを、私たちは男
と女の関係を通しても求めることができる。所詮この世に求める相
手は男と女しかいないのである。愛する人と共に楽しい人生を送り
たいと思うのなら、私たちはいくらでも「今」に集中して純粋に生
きることができるはずである。

そうして私たちは各々の体験から「今」を感じとり互いに学んでゆ
くしかない。体験は全ての信条を超え私たちの人生を変えてしまう
だろう。愛する人と共に魂の成長を目指して生きてゆくなら、今日
のような日本の危機に遭遇しようが、不自然に管理された社会を生
きようが、私たち男と女は命の輝きを失うことなく、全てを超越し
て生きてゆけるに違いないと私は思っている。

参考文献   「自由に生きる 創造的に生きる」上下  菅靖彦著
                        日本放送出版協会

「男女のスピリチュアルな旅」  ジョン・ウェルウッド著
                           日本教文社

  ル・モンド・ディプロマティーク
     「欲望、文化産業、個人」  ベルナール・スティグレール
http://www.diplo.jp/articles04/0406-6.html

産業主義近代の終焉   あっしら
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/395.html
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/419.thml
==============================
宗教については、<山>への登り口のように、多様な接近の仕方が
ある。というのがわたしの見方です。仏教、八万四千法門ともいい
ます。
個人が体験する神秘的な体験は、洋の東西を問わない感じだ。ただ
、それを説明する、基盤が違うだけのような気すらする。

われわれの持っている「いのち」は、同じ<祈り>が繋がっている
のではないだろうか?

生活や、習俗から、形式や、表現型は異なってくる。
それぞれの風土(環境)に生活環は規定されますから、それぞれ生
活にあった、独特の発生をみ、また選び取られたのでしょう。(砂
漠、遊牧、森林、狩猟、農業等)そして、時代の中で、変化してき
たものでもあります。

だから、信仰の形式を押し付けてもしかたがないモノです。その「
場所」「その人が置かれた環境」でしか解からないことがあります
から。

その宗教に、「救い」を期待するのは、<現実世>をどう説明しよ
うかという、精神的な作業です。

それは、人が内部(精神世界)と外部世界(物的世界)との繋がり
の<接点>にあることを意味しています。
哲学が、長らく「認識論」に時間を割いたのも、そこの受け渡しの
メカニズムを説明しようとしたものだと思います。
唯心・唯物は、どちらも片面的な見方で、社会は説明はできないの
です。接合面にこそ、<命>の形成があると考えた方がいいのでし
ょう。

いわば、「生」には苦・恐怖、あるいは、喜びという感情面に働き
かける外から内に働きかける「力」に満ちていて、その畏れと、そ
こからの「救い」、「不安」からの解放を、宗教が説いたのだと考
えられます。いわば、外の問題を内側(精神界)の処理で、対応す
るわけですね。それから敷衍して、外側(現実的対応)へ積極的に
問題の解決をはかる場合もあるわけです。

そういう意味で、宗教と「苦しみ」は切り離せません。
神の加護をと祈るとき、<不安>があり、また、<生>を意識する
とき、感謝があるのです。

しかし、宗教には「組織論理」も絡んできてしまいます。
組織は、効果的にモノ事を進める為に発生しますが、生き物と同じ
で、(もっとも、組織原理なのは、生物ですから)自己保存、拡大
の力を持ちます。
ここで、排除・他撃の論理が育ち、初期の目的を超えて、組織の為
の論理が優先しはじめます。(国や、官僚組織、教団組織、会社等
でも同じ力は働きます。)
そして、たいていは世俗権が、絡んでくる。

宗教では、特に「信」が、強さの素として「力」を持つ性質を持っ
ていますから、他への排撃は「信」の強化には役立つわけです。
(ここでは、理の正当性や整合性は、あまり問題ではありません)
そういう意味で、融和的な多様性重視は、攻撃力にはなりにくく、
受容力にはなりやすい。

日本は、歴史的にみると、あらゆる文化が、最後に流れ込んだ場所
として、「受容力」に特徴をもっていて、優れてハイブリット力が
あるわけで、次々と流れ込んでくる文化を、以前の文化(中核的な
日本の精神構造)に溶かし込むことで、独自の風土に合った文化に
仕立て直して「和風」を作り上げてきたと言ってよいでしょう。

現代文明が、我と欲と、に引っ張られて、発達したのはまぎれもな
いのですが、論理的に考えている人程、物質文明が行き詰まりを迎
えることが見えてきている。
(化石燃料、食料、水、資源、環境汚染、、、、、)
技術的に、物質の豊かさへの拡大が、無制限にできないことも見え
てきた、それだけでは、精神の満足が求められるモノでもないこと
も解かってきた。

その上、「物」の争奪戦も、圧倒な武力ですら解決できないことが
見えて来た。(昔なら、奴隷化も、植民地化も、領土や資源の強奪
すら可能だった。)
<分配>が、現世政治の中心的な課題なのでしょう。どの層(クラ
ス)が、どれだけモノを取るか…。経済は、その<流れ方>を分析
する。

ここにきて、人は個人個人が、めいめい高位の精神世界という<山>
に登り始めなければと気づきだしたのだと思う。

ただ、それを、金や、自分達の権力に結び付けるために利用しよう
とする(よく、見栄えのいいパンフを作って、いい利殖が在ると言
って、騙すような手合いと同じだ)組織宗教も跋扈することになる。

世界的に、宗教への関心が高まっているのは、決して物質的に恵ま
れたと言えない時代に、その<山>を開いた先人がいることを知っ
ているからだろう。
近代の哲学が、思索の方法論に堕してしまったが、信仰は、本質的
に行為である。体と精神が結合した状態で、行為として、精神界に
突入するものなのである。

そこでは、<分配>というシステムがあるのではない。疎外がある
のではない。自分と世界との成り立ちが潜んでいる。ただ、<門>
の違いはあるだろうが…。
故に宗教による、現世的な不利益の押し付けはキケンなのである。

日本は、無宗教という解説がなされることがあるが、決してそうで
はない(西洋一神教的な宗教理解によるためだ、)
日本の宗教感が、もともと無意識化しているためなのだ。

もちろん、宗教に限った話ではないが、
精神界を高め広げることは、無限(夢幻)に可能である。

物には、「工夫をし」(技術の高度化)「足るを知る」(過剰から
選択へ)を一義にし、精神を豊かに掘り下げることが、これから可
能な、生き残り方であろう。消費ではなく、生む生活が必要なのだ。

人類の新しい旅は、宇宙ではなく、内宇宙なのかもしれない。
組織論理を越えることができれば、<祈り>は、世界に通じるもの
になるとおもう。
  自ら絶対的に帰依しようとする、神はあるかもしれないが、

     そこには、本質的に支配するモノはない。
           自分が歩む<道>があるだけだ。
                      
                    まとり
==============================
アメリカ次期政権の対アフリカ石油政策について
                  DOMOTO
                  2004.7.11

 パウエルが7月8日、外交政策のアフリカ部会の席で、基調演説を
したそうだ。その会議の中ではCSISのパネル・リポート
“Rising U.S. Stakes in Africa”の発表があったそうだ。
http://www.csis.org/africa/0405_RisingStakes.pdf
http://www.csis.org/

 「7つの提言」の副題がつくこのリポートの真っ先に来る、第一
提言“Crafting a U.S. Energy Policy for Africa”の中では、膨
大な油田を持つナイジェリア、アンゴラ、ガボンの石油がターゲッ
トとして挙げられているが、この他にアルジェリアはもちろん、チ
ュニジアもブッシュ政権が狙っていることが知られている。
民主党ケリー政権が発足してもブッシュ政権同様、石油コネクショ
ンの「コマ」がアメリカの大統領。

 アフリカ中央・西部は石油増産の拡張期にあたり、確認埋蔵量
600億バレル以上、現在ペルシャ湾を除く世界の原油市場の日産
量の4分の1を占めている。

 “Crafting a U.S. Energy Policy for Africa”によれば、これ
らの石油輸出国の石油を独占する方法は、国家財政の債務超過に目
を付け、財政金融支援を手段にする。このレポートの中で扱われる
アンゴラ、ギニア、チャド、カメルーンはいずれもIMFにより認
定されている重債務貧困国。

 IMFはアメリカ政府が実権を握っている。

※参照
「重債務貧困国の債務問題」
 http://www.d5.dion.ne.jp/~y9260/zyuusaimu.html

DOMOTO
http://www.d5.dion.ne.jp/~y9260/hunsou.index.html
==============================
野球という、この国の娯楽。 虚風老 

 ちょっと、話はずれるんじゃけどな。
プロ野球のことじゃ。
来期、1リーグ制とか、2リーグ存続とかもめておる。
わしゃ、パリーグのある球団の熱心な「ふぁん」じゃで、あまり公
正な意見はいえない。

しかしもし揉めて、来期2リーグで、しかもセ6チーム、パ5チー
ムになった時の案だけ出しておこう。

まず、セ・パ交流戦は行う。

それと、パの欠損した1チームをセ・パ12球団の2軍選抜で埋め
るという手があるんじゃ。
プロでは、チーム編成上、自軍の1軍枠に入れない有望な選手も多
い。(有名選手もおるし、逆に26才以下の若手とする手もある。)
で、12球団の2軍から、所属・給料はそのままで、このチームに
選手を出すんじゃね。
もちろん、どんどん入れ替えるるのは可能にして、対戦するときは
、所属チームの試合には出ない。
しかも、主催ゲームは、親チームに振り分けるから、親チームの主
催は増える。
用具・遠征費などは、主催チーム側(パ6球団)が持つ。
コーチ、監督は、試合運営だけに必要となる。(球団組織職員は、
12球団からの出向でもええ。樒な、チーム編成連絡会議は必要か
もしれんが、常に2軍枠全部が対象に入れ替えをすると、かなり強
くなるじゃろうな)
もちろん、細かなサインプレーなどはできまいが、二軍枠にいる選
手が一軍相手に、力を出しきるだけでも面白い。(チーム成績には
関係無く、個人が眼の色を変えて闘えばそうとう面白いじゃろうな
。ここにとりこぼすと、優勝に響くわけじゃね)

そんな手もあるさ。
                      虚風老


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