1614.日本の国柄



どうも、日本という国は、
成員一人一人が、「国」を造っているという意識が希薄なんじゃな
かろうか?(属しているという感覚は、たっぷりあるようじゃが)
それに、
国の為=政府(お上)の言うことを聞く、という図式がまかり通る
のは、官の論理の中に、ドップリと漬かり込んだ社会体質によるも
のじゃなかろうか?
統制社会の中の自由と、自由の中の統制ではかなり意味が違うのじ
ゃろう。

どうすれば、国がよくなるかを論じ、行動するのは、構成員(主権
者)である民の人すべての、一人一人の良心がかかった問題じゃ。
その、方策について、正反対の考え方があることは、ある意味、健
全なんじゃよ。だから、言論を封殺すべきではないし、口汚ない感
情的な物言いは避けねばならん。

よく、組織論や、国民気質論でいわれるように、農耕社会というの
は、統制的社会構造の上に成り立つようじゃ。我々が、「常識」と
呼んでおるもの、自然に「良し」と感じるのも、それらの社会文化
を抜きにしては考えられないじゃろうな。
しかし、また社会文化というものは、常に変動している。我々が、
常に若い人の感覚に対してアンテナを立てておかねばならないのは
、彼等の行動が、変動する世界の姿を映す鏡じゃからだ。
固定された世界はない。行き先の選択は、日々あるわけじゃね。

政治家は、自分の政策があやしいと、「歴史が証明するでしょう。
」などと韜晦するの。
しかし、未来の選択は、現在のモノじゃ。選択の正当性と理屈を、
現在いる人に納得させることができないでどうするというのじゃろ
う。

よく、日本人は、「周りをお騒がせしたことをあやまります。」と
詫びるじゃろう。ある意味で、不思議な慣用句じゃよな。
自身の不法や、過失、やったことの間違いをあやまっていないとこ
ろがミソじゃね。

ところで、「責任」という問題がある。責任とは、なされたことに
対して、<不利益>を引き受けることとある。
この、「責任」ちょっと、靖国の問題も絡んでくるから、考えてみ
て欲しい。

「ある人の社会論文に、日本は責任が中空構造になっている国であ
る。」というのがあったの。
日本という国は、責任の所在が分からない国だというのである。
責任は、決定権にふつう付随するのだが、日本では、この決定権が
誰にあるのかわからない。たとえば政策決定権は大臣にあるかと言
えば、そうではないらしいことからもわかる。
また、詰め腹を切られるという表現もあって、本当に責任を負うべ
き人間と、実際の不利益を身に被る人間は違ったりする。
日本は縦社会で、尚且つ小所属社会ともいわれておる。
「責任」は何にたいして取られるかといえば、自分の属している小
世界。ロイヤリティ(忠誠心)を持っている相手に対して用いられ
ることがおおいいんじゃ。それが、君主だったり、組織だったりす
るわけじゃね。
まあ、昔の武士の責任の取り方が切腹だったので、責任回避への方
策もたくさん生まれたのじゃろう。普通の人は、誰だって、腹をか
っさばきたくはないの。かなり高潔意志を持った人間だけは、それ
ができるのじゃろう。

今回の自己責任論議では、論議の両陣営で、面白い表現がされてお
るようじゃ。どちらも、本人達に「自己責任がある」とは認めてい
る。そして、国には、どんな状況だとしても、「邦人保護に努力を
する責務がある」ということも認めているんじゃ。
ただ、立場が個人(市民ともいうが)側から見ていうか、国家(も
しくは、それに同調的な見解を持つ人)的見地を重視するかによっ
て、重心の置き方が別れているんじゃね。

よく、政治的表現では、「市民社会」と、「国民国家」という使い
分けがなされる。
もちろん、欧米社会が作り上げた民主主義が、市民社会を基盤とし
ていることはいうまでもない。日本の民主主義が未成熟だという場
合、市民という概念が、欧米的な歴史を経てきたものでないことが
多いいじゃろう。
それは、市民が、「自由な個人」が、社会「契約」として国を形作
っているとする仮定的な思想がある。人権の根元もここからでてく
るんじゃ。日本人がもう一つ、なじめないのは、「自由な個人」も
「契約」というバイブル的な歴史観も無縁なせいかもしれんのう。

自由な個人が根本にあり、それを調整・統括する場としての国とい
うのであれば、問題は起きんじゃろう。しかし、日本には、まだそ
ういう感覚が根づいていないし、混在していし、そのことに無自覚
なことが、論議のすれ違いを生んでいるわけじゃな。
左・右の論議を眺めていると、この辺の、国に対しての、自然観と
、哲学観が混線してしまっているように感じるがね。

つまり、例えば憲法には、国と市民の契約という概念が含まれてお
る。日本においては、国は自然としてあるのが普通であるから、政
権に対しては、「家」としての、家父長的な「お上」としてみる感
覚が身にしみておるのじゃ。
ここで、保守陣営が「国民」という用語に固執し、市民(例えば市
民団体等)という言葉にアレルギーにも似た思いを抱くのはそのせ
いじゃろう。

戦後、日本人の「自由」は拡大したが、社会(や神)との契約とい
う感覚はすすまなんだ。
そこで、自由に対する、責任の所在があいまいになったのじゃよ。
公徳心の拠り所を失っていくんじゃな。「自由」を大事に考える
人々は、同時に「責任」に対しても(国家への無批判な忠誠という
わけでなく)重要視するべきじゃろう。
それには、「個人の良心」を磨くことが、含まれるんじゃ。そして
、国の政策へ関心を持ちつづけること、でそれは担保される。
日本人なら、誰でも自分の国に(そして、人ならば誰でも、地球の
行く末に)意見を持つことができるんじゃ。非国民とか、自分の意
見と合わない人間は出て行けなどというのは、
根本的にまちがった論理の使い方じゃね。自分が出ていくというな
ら論理はあうがね…。

明治以降(いや、長い日本の歴史の中で)であれば、責任は常に
お上に対して問われたんじゃ。
歴史的にみれば、官は、民のものではなく<為政者>のものである
んじゃ。
そして、戦後は自民党与党という独裁政権が続いたために、政府・
自民党=お上という、妙にあんちょこな図式が出来てしまったのう。
ここでは論理的に考えるならば、「官」は、本当は主権者である
「民」に対して責任を感じなければならないじゃが、感覚的にもそ
うはなっておらん。「公僕」という言葉も上滑りしておる。
そして、今まで、改革改革と言いながら、行き詰まって見えたり、
何かすっきりしない気分になるのは、行政権益のための行政があり
、彼等に政策決定権があるということじゃ。
(政治は、追認システムとしてだけあり、形式上の責任者として、
首を挿げ替えられていく。それによって、本来の責任は追及されな
い。巧妙な統治システムじゃ。)

実は、「責任の中空構造」というのは、官僚制度にあるんじゃ。
そして、官僚が責任をとらないシステム=国が責任を取らないシス
テムにすり変わっているんじゃね。
東大法学部は、法学部修辞学科とも思えるがの。

ところで、この国の「責任」。
ワシは、もうとう戦勝国による、敗戦国を裁く、東京裁判など認め
るつもりはないが、
それでは、<戦争>という重大な行為に対して、誰も責任をとらな
いのじゃろうか?
昔、一億総懺悔なる言葉も流行った。全員が責任を分散して持てば
いいというのだろうか?
(では、東京裁判を破棄して、日本自国で、あらためて、責任を問
うための裁判をやり直すかね?)

先の大戦は、日本において、重合した戦争「二つの状況が重なり合
った状態」としてみることができる。
ABCD包囲網に代表される、欧米列国に対する、国家生き残り戦略と
しての戦争(強国でなければ、植民地になるという、弱肉強食の世
界においては、どうしても、強国になることが生き残りであるとい
うメンタリティは働く。)と、遅れれてきた帝国主義としての、
植民地侵略戦争じゃね。日本人が、被害者感・加害者感がはっきり
しないのはこの辺にも理由がある。

どちらも覆い隠すべきではないのだがね。「加害者」としての事実
は、国外に「被害者」が存在するのだから厳然としてある。その「
責任」は逃れられないじゃろう。頬かむりでは許されないことじゃ。
同時に、日本が西洋列強に圧迫されていたことは、西洋諸国に遠慮
してか、声高には言われない。列強同士の勝負の結果は、互いの
「自己責任」という意味あいもある。
なぜなら、膨張しようとするもの同士は、パイが同じであれば、必
ずぶつかるからだ。

事実、日本が危機感をもって明治維新という改革にすすんだのは、
英による清国侵略、最も汚い戦争、阿片戦争の姿を見せ付けられた
からである。

西洋列国は、世界中を武力で分割し、強奪し、はたまたその挙げ句
に自分達同士で、世界の取り合いをし、大戦へと繋がっていく。
まったく、今日の基準からいえば、正義も人道も人権もあったもん
じゃない。日本は、すべて西洋のやり方を採りいれたから、植民地
主義も、忠実な西洋の生徒じゃったわけだ。

そして、多大な賠償金をもって敗戦国に一方的に責任をおいかぶせ
た。しかし、第二次の世界大戦の原因がそれらの多大で不釣り合い
な賠償であったことに反省し、(国家総動員となる戦争に、世界が
耐えられなくなったという事実もある。)責任の軽減化がはかられ
たんじゃ。

そこで、「責任」をどうするかじゃ。
<戦争の責任>。。。戦争を物見遊山に行うものはいない。それぞ
れのギリギリの国家戦略が掛かっておる。たいていの戦争は、その
国にとっては正義じゃ。
そして、戦いに命を賭した勇者達は、貶められるべきではないだろう。

だが、それとは別に、「責任」と「責任の取り方の形」は残るじゃろう。

                    虚風老
==============================
やはりというか彼ら(5人)は日本帰国後から英雄扱いですね。
でも少し違うのは日本ではなく主に欧米系のメディアによってです。
こうした現象の背景には、
「お上にたてつくことを罪とする日本人の体質がある」と記事は解
説しています。日本政府が、もと人質に航空運賃を請求するという
報道を見て、ワシントンの日本大使館に抗議の手紙を送った人もい
ます。
ボストン郊外に住むジェンキンズさんは、大使あての手紙に「怒り
を感じる」と書いたうえで、高遠さん分の航空運賃として、2000ド
ル、約22万円の小切手を同封しました。

このニュースを読んで「なんか変だな? 偏向していないか?」
と感じられませんか?
私は感じました。
小切手を送ったジェンキンズさん:「ショックだったし、怒りを感
じた。アメリカなら英雄扱いなのに」
 多くの兵士、ジャーナリスト、そして民間人を送り込んでいるア
メリカとしては、なぜ人質に捕られた被害者が責められるのか理解
できないというのが本音のようですが・・・・でも変。
 
先ず 最初から違うボタンの穴になってる。
家畜の駱駝は 普通の家畜とは性質が違う。
毎日 餌をやる必用が無いのです。人に慣れにくい強情で頑固な性
格です。飲まず食わずで真夏には5日、冬は20日旅を荷物を背負
い歩くのです。砂嵐にも耐えれるのです。見えなくても方向を間違
えないのです。
 
飼い主の言う事を聞かない家畜なのです。
飼い主の言う事を聞いたら 方向が違い 死にますよ。
飼い主に餌を毎日 おねだりする事は砂漠では死にます。
ウシの中間だし ウシや山羊や羊同じ乳も肉も食用にしています。
 
砂漠と言う農業に適さない人間が生活するには不適な気候の処に生
きてる家畜なのです。背中の瘤で種類が2種類有りますがこの瘤の
脂肪を分解して水とエネルギーが得られるのです。
歩き方も交差型では無く側対型といい 右手右足が同時に動き 次
に左手左足が同時に動くのです。
だから 乗ると横揺れする動きになるのです。ウエストが細く成る
効果があるかも判りません。
 
馬は縦に揺れます。
草原に住んでるのでは無く砂地や荒地を歩くのです。
丼型の蹄なのです。砂に埋もれないために地面部分が裾広がりにな
ってる特殊な形です。
人間のようなベタ足で 指先ももかかとまでも はっきり足裏をつ
けて歩かない。かかとの無い ひづめ部分で歩くが 偶蹄類でウシ
の中間だけど 特殊な形に進化しています。
 
全く違う生き物で家畜ですし役に立つし ウシ目だから大人しい従
順と言う動物では無い。
草食だけど丸で違うのです。
 
イスラム教ではイエスを信じる事は禁止されていますし 豚肉は食
べないし一神教と言えども教典が同じ聖書でも読み方の解釈が違う
のです。おまけに 断食日(ラマダーン)は在るし
 
豚が嫌われるのは 雑食性と糞も食べる。とか性行動が特定でなく
ても良い(デモンストレーションを雄はしない。雌は雄を選ばない
。特殊な生き物)多産で年に2,5回出産できる。
寄生虫が多く普通の家畜より水を多く飲む。肉に水分が多い。だか
ら火を完全に通して食べる必用が在る。
 
同じ思考方法で考えても違う事になると考えるのが妥当なのです。
アメリカの考えを押し付けても 強情で頑固で受け付けないのが当
たり前なのです。駱駝と言う家畜を考えるとイラクとは中東のイス
ラム国家の考えがよく判ります。
押さえつければ押さえる程 反抗しますし 飲まず食わずでも 相
当に持ち応えますよ。油断すると 手綱を緩めると 飼い主に首を
180度回して 唾を吐きかける家畜です。
 
戦勝宣言を出してからが 統治が悪いと言うか 処置が違ったので
す。これは皆が指摘してる通りです。
 
問題の自己責任のアメリカ側の 丸で違う取り方はパウエル氏の発
言に在ると思います。人道支援と言う勇気は確かに素晴らしいし 
無くしたらいけないのですが、人が嫌な思いをしたのは 支援団体
の態度が自己中心的で有り過ぎたのです。
一国の総理にイラクへ人質の身代わりに行くべき>とか 自衛隊撤
退と交換条件にしても人質の命を助けて欲しい>とかその事で 
世論が大変沸騰したし政権交代も在り得る議論を呼び起こしたので
す。
 
自分で覚悟して出掛けてるのだし、家族も承知している筈が 家族
が取り乱した錯乱状態のテレビ会見をしたし未成年者の保護者が 
戸籍年齢は未成年でも思想は成人してる充分な大人で在る>と話し
たり態度が自分の都合に併せて二転三転した理解が出来ない態度を
テレビで晒したから 一層反感をかいました。
本来 日本人は潔いのが好きですから、態度がころころ変わるのは
嫌いなのです。信用出来ないのです。
 
自己責任は子供の遊び場でも 登校の途中でも有るのです。
寄り道はしない。危険な行為はしない。
それでも 痴漢や不審者が出没してて 父兄は防犯パトロールをし
ています。
 
未成年者には保護者は監督する義務が有るのです。
成人した大人には判断力も在り 危険な行為には自覚と自己責任の
覚悟を持って行動してると言う暗黙の了解が有るのですが それが
全く無い状態の様子を 成人した家族も支援団体も政府に求めたの
です。勿論 政府には国民の安全を守る義務が在るのです。
 
ところが国民の安全を守れなかった、 未だに解決していない人質
事件も抱えています。
此方は国内で 志願して人質に成りに行ったのでは無いのです。
 
複雑な時系列に起きてる人質問題が在る状態で 一方だけが突出し
ていたのです。後で テロリッストの演出や強要とか・・報道もな
されてる状態ですから このアメリカの何もかも善意で 危険な地
域に勇気在る 人道支援行為としてのみ受け得取られた事は余りに
も単純で経過を知らない独り善がりの報道です。
あの二人が英雄としてテレビ会見するそうですが、誤解を招き 
それぞれが都合の良い取り方っをしてうやむやにする事は納得出来
ません。
 
自己責任の解釈の取り方が丸で意味を違えています。
そして 癌に例えてお話をされてるイラク戦争論を見ましたが
私は テロはウイルスだと思います。
抗生物質を次々と繰り出しても ウイルスは進化して 薬剤に耐性
して新しい種類になり又次の抗生物質が必用となる、今の薬剤耐性
細菌と同じだと思います。
薬と治療薬探しは もう利かないのです。
 
抗体と言う考え方の方が解決っすると思います。
同じ生き物ですから・・・
抗体では 遺伝子で人間と同じような実験マウスで ウイルス菌を
注入してその血液を利用する天然痘の種痘と似た方法が有力だそう
です。
 
宗教や文化や気候や政治体制が違うのですから、 違いを認めて共
通因子を探したり、互いに主張を薄めあうとか譲り合うとか妥協点
を探して共存出来る道を探す方が早いと思います。
敵対すると解決が余計に長引くだけでしょう。
 
まー色々と意見が有るでしょうが、
人の立場により都合の良い取り違いで 世論操作してるのは
田原氏の番組でしたよ。
日曜日の午前中に有りますが、登場する人々の意見を誘導して
彼らの行為は立派な勇気ある行為だと纏めてましたが・・・
その直前のNHK番組では正反対でしたが。
記録は控えていますが・・・
此れについては証拠が在るし4月18日 日曜日に朝の9時から
11時30分まで 二つのテレビ局の放映番組を見ていた人は
判りますが・・・朝日系列の報道は 新聞もテレビも偏向っした番組
が多いです。
 
又 メールします。
(^o^)♪またメールします・・☆★☆
 
ようちゃん(^0^)/~~bye
==============================
高橋源一郎さんの記事、非常に解りやすくて良いですね。私に言わ
せれば、まだまだ生ぬるい。もうちよっと過激でも良いかなと思い
ますが、お上至上主義の人達もいるだろうから、こんなもんなのか
な。しかしボランティアを反日分子呼ばわりした柏村参議院議員だ
けは許せないですね。ああいう人間が日本の国会議員である事自体
不思議ですが、あ!日本の常識は世界の非常識でしたね。

そういえば官房長官が「起きてしまった事はしょうがないでしょ」
とか「年金を払うのは個人のプライバシー」とか「時の総理でさえ
「ついうっかりしたんでしょ」なんて平気でテレビに向かって言っ
てる、それを黙って許している国民だから。そう言えば「昔この程
度の国民にはこの程度の政治」と言った代議士が居たことを思い出
した。つまり日本人は江戸時代から何も変わっていないのね。
納得
shiegel
==============================
これからの家族観         とら丸 
   
 1.これまで
家制度は経済面から見ると一つの小さな企業であり、子供を育て、
老後を看取る主に血縁からなる利害共同体である。このシンプルな
家制度こそが明治までの日本を支えてきた国力の実態である。

2.社会病巣
しかし明治以降文明開化と称し、新しい技術とともに、わが国の家
制度を根底から覆す個人主義思想が入ってきた。これによりまず教
育がだめになり、伝統を否定するようになる。こうなると嫁姑など
家族間の人間関係がこわれた。これでさらに教育がだめになる。

3.症状
いま家はばらばらになった。人間的社会教育がままならない。(学
校教育は別)このためにリーダが育たない。公務員は自分たちのこ
とを中心に考えるので国がだめになる。自分の身銭で教育を受けて
いる感覚がないので、教育の効率が悪い。したがって結果的に教育
費の負担が大となる。にもかかわらず子供に面倒をみてもらうこと
は難しいので子供を作りたがらない。少子化による景気の更なる悪
化。年金破綻。老人は金が使えない。不景気スパイラル。国家破綻。

4.治療薬
公務員の縮小整理。税金の軽減。家業の奨励および育成。道徳教育
。家制度修復のための税制。重層的家族(3世代)の復活。在宅介
護機器の整備。 
==============================
家族、そして、個と集団(社会)の関係は、簡単にはいかない、深
みのある課題じゃ。       虚風老 
   
 ちょっと、悪気があって尋ねるんじゃないが、
現代の経済システムで、どこぞの国に「理想とする家族」システム
が機能しているのじゃろうか?(もちろん、庶民レベルで)
もちろん、家族のシステムは、社会のシステムと連関しておる。
だが、家族と社会が同時に理想的であった時代というのを、「過去
」に見つけることは、セピア色の写真を見ているような、心情的な
気がするのじゃがね?

例えば、家業というが、職業選択の自由や、身分の固定ということ
とは関係してこんじゃろうか?
婦人の圧倒的な犠牲の上に、家制度が成り立っていたとすれば、男
には都合がいいかもしれぬ。
 そして、家族として職業と結びついていられたのは、農家や、生
地に基盤を持つ職業が大多数を占めていた封建時代の話で、工場や
、オフィスなどの関係で、都市へ駆り出された労働者に、簡単に当
てはめることが可能なのじゃろうか?

<個>と<社会>の関係は、西洋のシステムが導入されてから、常
に重要な命題であった。
近代というのは、<個の自由>から発している側面があるんじゃろう。
そして、その病理も、自然な動物的生態から離れていく社会から生
み出される。

我々が、無意識に<善>だと感ずる道徳は、農村社会の道徳観を引
き継いでおる。社会構造の変化と、こころの構造が、素直に一致し
ないんじゃ。

かといって、社会構造は、既に世界の構造にリンクしておる。今、
封建制を前提にしたシステム(つまり、家族制度も)には戻れない
じゃろう。(すべての文明が崩壊して、自足的経済に戻れば別じゃ
けど。500年も経てば、ありえない話じゃないがの。)

しかし、「核家族」の実態を見ると、今より、世代間の協力が必要
なのはわかるわけじゃ。
近頃、住宅地で増えておるものに、二世帯住宅がある。これは、老
世代が土地を持っているところへ、所得の伸びない子家庭が、共同
で家を建て直すという例がある程度すすんでいるといえるじゃろう。
これは、昔の家長的「家制度」とはまったく違った、多世代共棲の
、試みなのかもしれぬのう。(もちろん、マンションなど、集合住宅
では、それも無理じゃがね。)

教育についても、必要なのは、「地域社会」の再構築じゃろうな。
一つには、学校教育の地域との連携強化じゃろう。
地域ぐるみの教育。昔は、土地の祭りや、集まっての共同作業が、
教育の一端を担っておった。学校が檻になってしまっては、社会生
活の規範を学ぶ機会がなくなる。子供が、コンピューターゲームば
かりで、生身の集団に接しないと、こころは細るじゃろうね。

都市部で、新しい形の「地域社会」のありかたを創り出せるかが、
これからの課題じゃろう。それには、大人側の工夫と努力が必要に
なるじゃろうな。
              虚風老
==============================
Re:家族、そして、個と集団(社会)の関係は、簡単にはいかない、
深みのある課題じゃ。 とら丸 
   
 当方の意見をよく理解されていると思います。

> 例えば、家業というが、職業選択の自由や、身分の固定というこ
>ととは関係してこんじゃろうか?

家業の魅力の問題だと思います。当初サラリーマンがいいと考えて
いた民衆は、将来もそうとは限らない。上下身分は極力なくす必要
があります。

> 婦人の圧倒的な犠牲の上に、家制度が成り立っていたとすれば、
>男には都合がいいかもしれぬ。

全国を歩き、庶民の生活を研究した宮本常一は著書で「姑が嫁をい
びった例は少ないが、ラジオなどにより都会文化の波を受けた息子
夫婦が年寄りに意地悪した例のほうが多い」と述べています。

> かといって、社会構造は、既に世界の構造にリンクしておる。今
>、封建制を前提にしたシステム(つまり、家族制度も)には戻れな
>いじゃろう。(すべての文明が崩壊して、自足的経済に戻れば別じ
>ゃけど。500年も経てば、ありえない話じゃないがの。)
> 
> しかし、「核家族」の実態を見ると、今より、世代間の協力が必
>要なのはわかるわけじゃ。
> 近頃、住宅地で増えておるものに、二世帯住宅がある。これは、
>老世代が土地を持っているところへ、所得の伸びない子家庭が、
>共同で家を建て直すという例がある程度すすんでいるといえるじゃ
>ろう。これは、昔の家長的「家制度」とはまったく違った、多世代
>共棲の、試みなのかもしれぬのう。(もちろん、マンションなど、
>集合住宅では、それも無理じゃがね。)

この辺に妥当な解決策でしょうな。昔と同じものを取り戻すのは不
可能です。しかし同じ機能を持つシステムを構築することは可能で
す。

> 教育についても、必要なのは、「地域社会」の再構築じゃろうな。
> 都市部で、新しい形の「地域社会」のありかたを創り出せるかが、
>これからの課題じゃろう。それには、大人側の工夫と努力が必要にな
>るじゃろうな。

同感です。 

国家のとる国内政策は次の2つの方法が考えられます。(ほかにも
まだあるかも知れません)

1.中央集権制で個人・家・地域社会のうちのなにかを犠牲にして
経済成長や政治主義の統一等一定の成果を得る。

2.個人・家・地域社会の調和をめざし基礎的な国力の維持増強を
図る。

緊急時は1でしょう。しかし1の場合だと個人の教育が偏るので、
効果は一時的であり、常時は2のほうが効率が良いように思われま
す。2の場合だと会社などを含む機能的な地域社会は健全な家によ
っって支えられるだろうし、健全な家は確立した個人によってのみ
構築できると考えられます。個人の確立システムこそが教育(広義
の)だと思います。


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