1586.「ネオコンのタテマエ」(その三:キリスト教の神学)



byコバケン 04-4/2
	
▼キリスト教という「非合理的なもの」
ずいぶん前に記した前稿では、アリストテレスの目的論(進化論?
)がキリスト教へと流れ込んで、それが西洋思想の基礎となったと
いうところまで説明した。

これがどうネオコンにつながってくるの?と怪しむ方がいるかもし
れないが、もう少し我慢してほしい。アリストテレスからネオコン
までつながってくるのにはもうワンクッション、いや、ツークッシ
ョンくらい必要なのである。そのクッションのひとつが、何を隠そ
う、キリスト教なのである。

ご存知のとおり、メル・ギブソン監督の『パッション・オブ・ザ・
クライスト』という全米大ヒット中の映画のおかげで、欧米ではま
たしても「キリスト教」をネタにして大激論がはじまっている。
我々日本人にしてみれば、この科学技術が発達してグローバル化し
つつあるこの時代に、何でいまさらキリスト教なんかが議論の的に
なるんだ?という感覚であろう。

では欧米でなぜこのようなキリスト教の「神学論争」が今でも盛ん
なのか。さまざまな理由があると思うのだが、私の考えでは、西洋
人が人間を極端に二分化して考えているところに原因があると思う。

そもそも人間には「合理的な面」と「非合理的な面」の二つ面があ
ることは皆さんにもなんとなくわかっていただけると思う。これを
「理性」と「感情」の二つの面と言い換えてもいい。

人間の生活の中でこの「合理的(理性)な面」を満足させてくれる
のは、商品であったり科学技術であったりする。買った車が「非合
理的」だと、三菱ふそうのトラックのようにタイヤが外れてしまう
し、国産ロケットのH−2だって打ち上げブースター切り離しに失
敗してしまうのである。理性で割り切って行わないと、物づくりや
科学は失敗するのだ。日本人はものづくりという面ではこの「合理
的な面」を最近まで比較的上手にマスターしていたほうである。

ところが問題なのは、もう一つの「非合理的な面」である。

これらの代表は「宗教」や「文化」であろう。たしかに目に見えな
い、感情的な部分が絡んでいるわけなのだから、どうしても論理的
、理性的な面で割り切れない。宗教戦争などは、まさにこういうこ
とを無理やり「理性」で割り切ろうとするから起こるのである。

しかもこの人間の割り切れない「非合理的(感情)」なもの中には
、「政治」も含まれているから、やっかいなのである。政治も宗教
のように割り切れるものではないのだ。たとえば、保守(コンサヴ
ァティヴ)がいいのか、革新(リベラル)がいいのかという問題は
、いくら学問的に研究したとしてもハッキリした答えが出てこない。
だから政治の議論というのは、神学論争と同じように、いまだに決
着がつかずに、議論がつづくのである。

日本人であるわれわれは、この二つの区別があることさえ意識して
いない部分がある。ところが西洋人は違う。この二つをハッキリと
、しかも意識的に区別しており、しかもあまりに合理的(=理性)
な部分を突出させて近代社会をつくりあげてしまったために、非合
理的(=感情)な部分の処理がうまくできずに困っているのだ。
それが今回のような神学論争のような形で表面化してくるのである。

ちなみに日本でなぜ神学(=政治)論争がはやらないのかといえば
、そもそも西洋人のようにものごとを「合理性」と「非合理性」を
分けて考える習慣があまりないから、ということにつきる。これを
逆説的に考えれば、日本人は「非合理的な面」を処理するのはとて
も上手いのかもしれないが・・・・。

日本人には「合理性」と「非合理性」をそもそも区別しようなんて
考えが、はじめからない。だからものづくりという究極の合理性の
中に生きている経営者が、同時にものすごい非合理的な精神論を唱
えたりすることが可能なのである。ようするに自分の中に合理性と
非合理性が共存していることに、なんの矛盾も感じないのだ。さす
がは八百万の「神の国」である。やはり森前首相の発言は正しかっ
たのだ(笑)。

▼キリスト教による「人類史」という感覚
話を戻す。ギリシャでは時間の感覚がなかったということはすでに
説明したが、ようするに西洋文明では、ローマ文明も含めて、かな
り「時間」や「歴史」というものにはかなり無神経だった。そうで
なければ、カエサルが、「自分はヴィーナスの子孫だ」と本気で考
えていて、周囲もそれをあまり疑わなかったという事実が説明でき
ない。ローマ時代でさえ、神話と現実が同居していたのである。

だから彼らに歴史書を書かせても、視点はそれほど広くならなかっ
た。もちろんギリシャ/ローマ人は歴史書を書いているのだが、彼
らはただ単にいままで知られている歴史を残しただけで、誰も「人
類全体の共通する歴史」という視点で書いてはいなかったのである。
西洋の歴史にはっきりとした時間感覚を持ち込んで、一つの方向に
進む「普遍的な歴史」、もしくは「人類全体の歴史」(=世界史: 
world-history)という感覚が広がったのは、やはりキリスト教が出
現してからなのである。

しかし、ただキリスト教が出ただけでは何にもならない。「人類全
体の歴史」が生まれるには、使徒パウロ(Paul)がいなければ話にな
らなかったのである。「最後の審判」のような「この世の終わり」
的なアイディアを元々持っていたのはユダヤ人であり、キリストや
パウロも実はユダヤ人だったのであるが、十字架に磔にされて死ん
だキリストの話を聞いて、パウロは「キリストが全人類の罪をかぶ
って死んだ救世主だ」と主張したのである。

いいかえれば、いままでユダヤ教が考えていた「救世主(メシア)
」には、「ユダヤ人のための救世主」という意味合いが強かったの
だ。これは旧約聖書などを読んでみれば一発でわかる。ところがパ
ウロはこれを「全人類のための救世主(キリスト)」ということに
してしまったのである。なんだかむずかしいが、簡単にいえば、
パウロによって救世主というものの性格が、「ユダヤ人の救世主」
から「人類の救世主」になってしまったのだ。

この「救世主」論争は、今回の映画『パッション〜』でも復活した
。この映画は観るとわかるが「キリストを殺したのはユダヤ人」と
いう風に思いっきり解釈できる。当然のごとくユダヤ人擁護団体は
、監督のメル・ギブソンを「ユダヤ人差別を助長した」として訴え
を起こしたりした。

ところがここでメル・ギブソンはどう反論したのかというと、あく
までも「キリスト教の見方」で押し通したのだ。どういうことかと
いうと、「ジーザスはユダヤ人に殺されたのではなく、我々"全人類
の罪"を背負って死んだのだ!」と言ったのである。しかもこの映画
の中で一番好かれるキャラクターである聖母マリアの役を演じたル
ーマニアのユダヤ人女優、マイア・モーゲンスターン
(Maia Morgenstern)がインタビューで同じ主張を繰り返してくれ
たために、メル・ギブソンは「反ユダヤ主義者」というレッテルか
らなんとか逃れている。

よってメル・ギブソンにとっては、特定の人種(ユダヤ人)がどう
こうしたというよりも、とにかくキリストが「グローバルな人類の
罪」をどう背負ったのか、ということがテーマだったわけであり、
たまたまその過程にユダヤ人が関わっていただけ、という解釈なの
である。まさにメル・ギブソンは、キリストの死をパウロのような
「グローバルな視点」で見つめていたのである。

このような「全人類」的なグローバルな考えが出てくると、当然の
ように注目されてくるのが、新約聖書に出てくる黙示録(Apocalypse)
の世界観である。ここでは「世界の終末」そして最後の審判で「救
済される人々」という二つの大きなアイディアが出てくるので、当
然のように「世界中の人々の運命」と「人類史には一定の進行方向
がある」というアイディアが出てくる。

なんだかネオコンの「グローバル」な考え方と、つながってくるで
はないか。

■	以下、次週へつづく

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