1571.「キリストの受難を観た!」



byコバケン 04-3/18
	
▼メル・ギブソンの「パッション・オブ・ザ・クライスト」
本サイトでもすでに触れられているが、現在アメリカで大論争を引
き起こしているメル・ギブソン監督(主演ではない!)の「パッシ
ョン」(The Passion of the Christ)という映画がある。私(=コ
バケン)は、幸運にもこの映画を五月の日本公開に先駆けて鑑賞す
る機会に恵まれたので、その内容などを簡単に紹介しようと思って
いる。

この作品なのだが、テーマが宗教に絡むものであり、反ユダヤ的と
もとられかねない微妙なエピソードを扱っていることから、その台
本が撮影中に盗まれてネットにウラ情報として流れたり反ユダヤ差
別団体が騒いだりしており、公開前からその映画の内容について欧
米の主要メディアの間では賛否両論の嵐が吹き荒れていた。前評判
というか、ゴシップ的な面でも事欠かない超話題作だったのだ。

このような宗教的な題材を扱った映画は、宗教がない(と言われて
いる)日本では話題になりようがないので、欧米でここまで一つの
映画で社会論争が起こるのはなんだか腑に落ちない。たしかに日本
でも「バトル・ロワイヤル」という高校生が殺し合いをやる映画が
公開されるときに多少論争が起こったが、なんだかんだ言っても落
ち着くところに落ち着いて、社会問題というところまでは発展しな
かった。

ところがこの映画は、欧米では彼ら欧米人の世界観に直結している
問題を扱っているおかげでかなりの客が入っており、連続何週間か
興行成績のトップであった。もちろんアメリカで流行った映画は日
本でも当然ヒットするはずなのだが、このようなヘビーな哲学的、
宗教的な問題を扱ったものは日本人の性格にあわないのではないだ
ろうか。こういう感じなので、この「パッション・オブ〜」映画が
日本で公開されてもあまり多くの観客は見込めないであろう。とこ
ろが日本での興行的成功は認めないとしても、その政治的な意味や
価値は決して無視できるものではない。われわれ日本人は、その重
要性を多少は知っておくべきである。

▼映画のあらすじ
この重要な映画のあらすじを簡単に紹介しよう。基本的にはかなり
単純な話で、キリストが仲間に裏切られ、十字架にかけられて処刑
されて死ぬまでの、最後の十二時間をかなりドラマチックに描いた
ものであり、最後はキリストが三日後に復活したということが暗示
されて終わっている。ちょっと知的な欧米人だったら、誰でも幼い
ころから聞かされて知っているエピソードである。

具体的なストーリーの進行はこうである。まず最初のシーンは、処
刑前夜の、いわゆる「最後の晩餐」のあとで、森の中でキリストが
ローマ軍に追われて処刑されるという気配を感じるところから始ま
り、この予感どおり、やがてキリストはとらわれの身となってしま
う。これはもちろん十三人目の使徒ユダが、銀貨と引き換えにお尋
ねもののキリストを裏切って居場所を密告したことによる。

ちなみに昔、ジューダス・プリースト(Judas Priest)というヘビ
ーメタルの外タレバンドがあったが、彼らの「ジューダス」はこの
キリストを裏切った「ユダ」(Juda)から来ている。ようするにバ
ンド名は「ユダ(裏切り)の聖職者」という意味になる。

話しがそれた。つかまったキリストは、いたぶられつつユダヤ教の
宗教関係者があつまる簡易裁判のようなものにかけられ、その翌日
にはユダヤ人民衆の前での公開裁判で死刑を宣告される。もちろん
責任を感じたユダは木で首をくくって自殺。それからキリストは自
分が磔にされる重い十字架を背負ってゴルゴダの丘(漫画ゴルゴ
13の名前の由来)へと登っていき、最後はその上で死ぬ。そして
三日目に生き返ったところで終わりである。流れそのものは、けっ
こうシンプルなのである。

▼映画の特徴
ところがそのシンプルなストーリー進行とは裏腹に、いや、ストー
リーがシンプルだからこそ、この映画はキリスト教文化の染み込ん
でいる西洋の人々に訴えるインパクトが強いようである。色々語り
始めたら切りがないので簡単にポイントを絞って述べたいのだが、
この映画の特徴は、私が見る限りでは大きくわけて三つある。これ
をそれぞれ並べてみると、
(1)とにかく画像的に残酷である。
(2)セリフが英語ではなく、アラム語、ヘブライ語、ラテン語である。
(3)キリストの母親である、聖母マリアの存在がクローズアップされ
   ている。
ということになる。これをそれぞれ説明してみよう。

  まず最初の(1)「とにかく残酷」というのは、観た人すべてが同意
することができるほどインパクトがあるもので、よほどスプラッタ
ー映画を見慣れている人でないと、あの痛々しさは直視できないほ
どだ。
	
とにかく痛々しいのは、民衆の前での公開裁判が終わった直後から
始まる「鞭打ちの刑」である。キリストはまず大きな石に両手を縛
られ、後ろからムチでバシバシと打たれるのだが、何回か打たれた
あとに、こんどはSMで女王さまが使う箒のように先が枝分かれして
いる先に画鋲がついていて、わざと皮膚に引っかかるようになって
いるムチでもう一度叩かれるのである。当然これによってキリスト
の皮膚はズダズダに引き裂かれて血だらけになるのだが、背中だけ
でなく、表側(お腹側)まで満遍なくこれで引き裂かれるのである。
う〜痛い。

この痛いシーンがようやっと終わると、映画の紹介のポスターなど
でも使われているような、十字架を背負って丘に登っていく場面に
移る。ここでは傷だらけの身体をひきずりながら自分が磔にされる
大きな十字架を背負って歩かされるのだが、歩くたびに後ろからロ
ーマ法の執行人(ユダヤ人?)たちから散々ムチで叩かれるのだ。
十字架を背負うことを手伝うことになる通りがかりのユダヤ人も、
なんの罪もないのにビシビシと叩かれている。偶然助けることにな
っただけなのだが、十字架を背負い、しかもキリストと同じように
叩かれてしまうのだから、彼にとってはいい面の皮である。

いざ丘の上にキリストが到着すると、今度は一番残酷なシーンが待
っている。磔のシーンである。

ご存知のとおり磔という刑では、実際にどう手足が十字架に張りつ
けられるのかというと、両手と両足が、木の十字架へと杭で直接張
りつけられるのである。ようするに手の平の上から釘のお化けのよ
うなものが下の木に打ち付けられるわけであり、足にいたっては、
両足を縦に揃えて一本の杭で二本の足首を貫通させ、下の木に打ち
込むのである。もちろんここのシーンでは手に杭が打ち込まれて血
が飛び散るシーンなどをバッチリ見せてくれ、打ち込まれて裏側ま
で貫通した杭から血が滴り落ちているところまで見せている。なん
ともスゴイ描写である。

アメリカのどこかの地方では、この映画を観たおばあさんがショッ
クで救急車に運ばれて死んでしまったらしい。まさか死ぬことはな
いだろうとは思っていたのだが、たしかにこれならちょっと気の弱
いおばあちゃんだったら卒倒して死ぬかもしれない。「そんなまさ
か!」と思うかもしれないが、そこまでインパクトのある映像なの
である。よって、彼女とデートに行くときにこの映画を選ぶことは
絶対にすすめられない。一発で嫌われること請け合いである。もち
ろん彼女が敬虔なクリスチャンだった場合をのぞけば、であるが。

(2)の「セリフが英語ではない」というのも、この映画のもう一つの
大きな特徴である。具体的にはその当時に話されていた言葉を忠実
に再現しており、出てくるのはキリストが実際にしゃべっていたと
される古代アラム語やヘブライ語、それにラテン語などである。
よって、この映画では普段英語で映画を見慣れているアメリカ人も
、まるで外国ものの映画を観ているように字幕を追わなくてはなら
ない状態になる。

これは意外な効果を生み出している。これはようするにセリフが英
語でないために、彼らは字幕の英語を必死で追うことになる。そう
なるとどうなるのかというと、観客はいくら残酷なシーンがあって
も、ストーリーを追うためにはどうしてもスクリーンから目を離す
ことができなくなってしまう。結果として、残酷なシーンもバッチ
リ見ざるを得ない、ということになってしまう。これを簡単な図式
で示すと、

残酷シーンを見たくない→でも聞くだけじゃわからない→字幕を追
う→残酷シーンを見てしまう

というサイクルに観客は陥ってしまうのだ。ようするに監督のメル
・ギブソンは、無理やり観客にこの残酷さを見せるように仕掛けた
のである。なぜそこまで残酷なシーンを見せたがるのか?メル・ギ
ブソンは「サド」なのか?

これには重大なキリスト教教徒のパラドックスがある。ご存知のと
おり、キリスト教ではキリスト(=神?)は人類の罪を背負って死
んだということになっているので、いかに彼の背負った罪が大きか
ったかということを見せるために、キリストに与えられた仕打ちが
大きければ大きいほど、そして残酷であれば残酷であるほど、それ
を背負うキリストの姿に感動するのである。しかもそれを(英語で
)「聞く」のではなく「映像・画像」として見せ付けられるのだか
らインパクトは充分だ。百聞は一見に如かずとはよく言ったもので
ある。

私のようなキリスト教になじみのない「異教徒」の人間からすれば
、メル・ギブソンの映画で描かれているのは単なる残酷イジメ映像
としか写らないのだが、キリスト教徒にしてみれば自分の代わりに
罪を背負って死んでくれた救世主の姿が悲惨であれば悲惨であるほ
ど、自分たちの信仰への決心が強まるのである。ここらへんの事情
を、日本人はもう少し理解しておいたほうがいい。

(3)の「聖母マリアの存在のクローズアップ」であるが、これはこの
映画を作った監督であるメル・ギブソンの宗教観にも関係している
。周知の通り、彼は熱心なカソリック教徒であり、カソリックとい
えばイエス・キリストよりも聖母マリアが大事にされているくらい
である。

ではこの聖母マリアを、メル・ギブソンはこの映画の中でどう使っ
ているのかというと、ズバリ、安心感をわれわれに与えてくれる強
い母親として使っているのである。

どういうことかというと、とにかくこの映画のなかで彼女は安心感
を与えてくれるキャラクターとしての登場回数が多い。しかもイエ
スの背負っている使命を誰よりも理解しており、いかに残酷なシー
ンが続こうとしても、最後のほうでは目をそむけずに自分の息子が
いかに死んでいくかをしっかりと顔を上げて見届けるのである。

▼この映画の政治的な意味
最後のまとめとして、この映画の政治的、宗教的な意味を述べてお
く。すべての映画は商品である以上、これを売り込む「ターゲット
層」というものがあるのだが、そのようなものがあるとすれば「カ
ソリック寄りの全キリスト教徒」ということになるだろう。

上で述べたようにこの映画はたしかにカソリック的な要素がかなり
多いのだが、だからといってプロテスタントを排除しているわけで
もなく、むしろその狙いは「全キリスト教信者」と言ったほうが正
しいのだ。ある分析では、この映画はカソリックとプロテスタント
(とくに福音派/宗教右派)を今までにないレベルでくっつけよう
としたことで一番成功していると説いている。もちろん以前から国
連などの国際機関を通じてキリスト教を統合しようという運動(エ
キュメニカル運動)を成功させたいという夢をもっているバチカン
のローマ法王は、この映画を絶賛している。

もちろんこれを深読みすると、カソリックの勢力が、アメリカ国内
、とくに現政権のユダヤ教保守派とプロテスタントの宗教右派との
結びつきを分断しようとしている、と見ることができる。たしかに
現ブッシュ政権はネオコンの政権だと言われているが、宗教的にみ
ればプロテスタント系の宗教右派とユダヤ教タカ派(ネオコン等)
の連合という傾向が強い。

ところがカソリック丸出しのギブソンのような人物が作った「全キ
リスト教徒たち、団結せよ!」というメッセージ性の強い映画が出
てくると、困るのはいままでたよりになる宗教右派と仲良くしてき
たユダヤ教保守派の人間たちである。なぜなら欧米で無条件にイス
ラエルを支援してくれていた強力な味方がいなくなってしまうから
だ。たしかにユダヤ系の保守派のコラムニストなどは、この映画を
かなり批判している。このような政治的な意図は、世界の宗教的な
動きにまったく疎い日本人の知らないところで動いているのである。

この残酷シーンだらけの映画は、精神健康上よくないのであまりオ
ススメできないのだが、その宗教的、政治的なバックグラウンドを
理解しておくのは非常に重要である。このような映画のイメージに
よって、欧米の人々の地理感覚(世界の捉え方)が影響を受け、今
後の国際政治の動きにも直結してくるからである。映画だって世界
政治をつくるプレイヤーであることを、われわれは忘れてはならな
い。メル・ギブソンの「パッション」は、そのような世界政治に影
響を与えることができるほど、スゴイ映画なのかもしれない。

■参考文献(順不同)
― 国際戦略コラム:1562.山岡・木村コラム
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/160312.htm

―日本語版オフィシャルサイト
http://www.herald.co.jp/official/passion/index.shtml

―Ponnuru, Ramesh. "A Movie and its Meaning: Mel Gibson's 
Passion is for all time", National Review (March 8th, 2004)
, p.30-32. 


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