1523.日本戦略の議論



江田島
上海香港の分離独立は、ユダヤソフトパワーがそれを望むか否かに
左右されます。

そして、分離独立は戦争を経ずとも、既成事実の積み重ねで可能で
す。要は日本はユダヤソフトパワーと歩調を合わせるべきというこ
とです。

私が考えるシナリオは

1.上海、香港間に外資への投資協定を結ばせる。
2.それを梃子にしてWTO勧告を徹底するように上海、香港に求める
  。北京を無視する。
3.受け入れられない場合の投資引き上げを示唆する。
4.上海、香港から共産党の影響を排除する形での投資を行う。
5.上海、香港への中国国内の他の地域からの移住を制限させる。

ここまでやれば、実質的に独立国でしょう。

これらを、先進国の総意として押し付けるのです。そして、これは
上海や香港の利益になります。逆に言えば、これが不可能なら、投
資すべきではないでしょう。港を支配すれば、その大陸を管理でき
ます。

前例として、ユダヤソフトパワーはスペインを追放された後、オラ
ンダに渡りました。そしてアムステルダム港を手中にするため、対
スペイン独立戦争を起こしました。港を支配することがシーパワー
の根幹です。

なお、私が中国との提携に否定的なのは、反日感情が理由ではあり
ません。もちろん、それも一つの理由ではありますが、根本的には
、「ランドパワーとシーパワーは棲み分けるべき」というのが世界
史の鉄則だからです。これを破った過去の文明は全て崩壊してます
。シーパワーが大陸に進出することもその逆も国家戦略上妥当では
ないのです。

つまり、国家は「戦略的二正面作戦を避けよ」というのが基本姿勢
であり、それは、今現在「二正面作戦」をする能力があったとして
もいずれは破綻するものです。

例として、英国は伝統的に大陸欧州への関与を避ける光栄ある孤立
政策をとっていたときが一番栄えてました。根底にはユダヤ人によ
る大陸欧州のパワーバランス戦略があるのです。
リデルハートも百年戦争の歴史から、「英国は大陸に戦略の幅を狭
められるような利権をもつな」との名言を残してます。日本にとっ
ても大いに参考になります。

「そして、ソフトパワー、インフォパワーはそのような柔軟性の上
に成り立っていると思います。そして、そのような考え方が日本を
経済大国にしているのです。」との指摘には同意できません。日本
を経済大国にしたのは、ユダヤソフトパワーがそれを望み、支援し
てくれ、かつ、国民の勤勉性、手先の器用さ物作りの伝統があった
からです。中国に柔軟に対処したからではありません。日中国交回
復以来の歴史を見てください。「江田島さんのように中国と韓国を
仮想敵国のように扱うのは反対ですね。」「また、敵対関係をなく
さないと、相互の理解が深まらないし、反感の感情の連鎖を起こり
ます。」とのことですが、戦後一貫して、日本は友好関係樹立の努
力をしてきました。
しかし、結果として彼らとの間に友好関係樹立できましたか?その
努力は今後もすべきは当然ですが彼らが日本を仮想敵視している事
実をお忘れなく。
また、マネジメント教の教祖ピーター・ドラッカーが、「十年以内
に中国で社会争乱が起こる確率は50%ほどある」(「フォーチュ
ン」誌へのインタビュー)。「またインドへの投資のほうが中国よ
り魅力的である」と発言しているそうです。

さらに、東南アジア諸国への中国の影響力増大はご指摘のとおりで
すが、肝心な点は「中国と同盟関係を継続できた国はない」という
事実です。東南アジアの反中感情は根強いものがありますよ。そし
て、華僑は親中派では必ずしもありません。現時点では対中貿易を
優先しているから親中政策をとってるに過ぎないのです。容易に変
わりうるものです。
そして、私は東南アジアが日本の戦略パートナーとは思っていませ
ん。唯一シンガポールだけです。
それも、海軍基地の租借でいいのです。日英米豪で共同で依頼すれ
ば、基地租借に応じてくれるでしょう。それで必要十分です。環太
平洋連合を樹立し、日本の海自、海保、米豪海軍が共同でマラッカ
海峡と東シナ海を哨戒すれば、ASEANの目はどちらをむくか・・・
 
非常に興味ありますね。彼らは日本のコミットメント求めてますか
ら。さらに、制海権は制陸権に勝るのは米ソ冷戦で証明ずみ。中国
がいかに陸上でASEANを支配しようとも、制海権が握れなければ意味
はないのです。
 
最大の問題点はアメリカが中東に介入するあまり、東アジアを中国
に譲るという選択をすることです。米中談合で沖縄や台湾を中国領
にするという可能性を懸念すべきです。
そうさせないために、英や豪と共同でアメリカをかってのシーパワ
ーに戻す必要があります。事は一刻を争います。そのための枠組み
が環太平洋連合なのです。
 
「国際政治上では敵対国家を作らない方が国民を豊かにする」との
ご意見はそのとおりです。
しかし、今後の世界において、アメリカ幕府が衰退し、戦国時代を
訪れる可能性が非常に高く、そのような国際環境で八方美人は通用
するでしょうか?このような観点から、戦略的グループ作りが喫緊
の課題です。
 
そして、近い将来、台湾問題や日本近海の海洋資源をめぐって日中
は死活的対立に入ります。この現実を直視すべきです。そしてオリ
ンピック後に、中国はその本領を発揮するでしょう。
 
私は中国が陸地に手を出す限りにおいては、それがタイであろうが
韓国であろうがEUであろうが眼中にありません。好きにすればいい
んです。ランドパワー連合なぞ長期的に継続したためしはありませ
ん。ほっといても崩壊します。中ソ同盟がそうであったように。

しかし、台湾海峡や日本近海の制海権に手を出したら座視できませ
ん。そうなったら、海空自衛隊で東海艦隊、南海艦隊を全滅すべき
と考えます。P3Cのハープ-ンで十分可能です。安保再定義、周辺事
態、イラク特別措置法と日米軍事関係を拡充したのは全てこのため
です。北朝鮮が対象ではないのです。
そうならないことを祈りますが、ビジネスを行う上でも、このリス
クを織り込んでください。
 
なお、現在、世界で起きていることは、ユダヤVS非ユダヤの2000年
戦争の最終局面です。このままいくと核が使用されるかもしれませ
ん。この争いを止揚できるのは日本だけです。
日本政府はアメリカの下僕ですが皇室は欧州と関係が深く、南米や
イスラムも親日的です。一神教の相克を唯一止揚できる立場にあり
ます。その戦略対話をユダヤソフトパワーと行うべきです。
日英豪米同盟は不可能でしょうか?私はまだ可能性はあると思いま
すが。
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(Fのコメント)
米国が経済崩壊する危機に直面する可能性があり、現時点ではその
崩壊を助けることができるのは、日本ではなく、欧州なのです。
日本は今後経済発展を見込めませんが、中国・ロシア・東欧などは
経済発展が可能です。この経済発展を見越して、欧州と米国は陣取
り合戦している。残念ながら、日本の国家としては、そのような動
きをしていません。

それを助長しているのは経済が分からない人たちが、時代遅れのバ
カな妄言を言っている。そして、政治家も経済的な原理を知らない
ために、その妄言に引きずられている。このため、欧米の経済的な
戦いに参加も出来ない。その観点がないのですから仕方がない。

制陸権<制海権<制空権<(平和が確保されれば)制経権<制金権
ですよ。そして、米国に軍事的な戦いを挑む者は国としてはないで
すよ。テロしか米国に挑戦できないが、どうせテロ組織は負けるこ
とになる。しかし、その前に米国の経済が持たない可能性を心配し
ているのです。欧州が制金権を狙っているからです。
この戦いは軍事的なことではなくで、平和な戦争ですから、軍事的
な行動ができない。米国はどうするのでしょうか??という状況で
しょうね。

特に、石油代金の決済をドルにするかユーロにするかの戦いをして
いるのです。もし、決済がドルからユーロになったら、その時点で
ドルの基軸通貨の位置は崩壊して、米国経済の崩壊に結びつくので
す。

もう1つの戦いが、現物(石油、金)経済と貨幣経済との戦いです
。ロシアは石油と金を産出するために、この現物を貨幣価値より
上位に置く動きをするはずです。ドル暴落は現物経済に戻る可能性
もあり、その準備をプーチンはしている。このため、石油価値を上
げるために、サウジと組むことも視野に入れている。このように
経済価値の戦いで世界を見ることが必要です。ユコスは米国の息が
かかっている為に、社長を逮捕したのです。これに怒って、パウエ
ルがプーチンに抗議しているのです。

中国・インドは、優秀な人を輩出して世界の工場またはバックオフ
ィスになり、経済価値を上げる戦いにいる。制経権、制金権の戦い
として、再整理することが地経学の目指す方向ですよ。

そして、この現物は世界的に偏在している。タイアモンドと金は、
ロシアと南ア、オーストラリアにあるのです。石油は中東とロシア
にある。人的資源はインド、中国にある。経済先進地域が米国、欧
州、日本でこの3者は、基軸通貨争奪戦となるのですね。地域性が
色濃くあるのです。その組み合わせの理論が必要になっている。

その意味では、地政学的な見解とは違う局面で欧米対決やロシア、
中国、インドで行われている。シーパワーでもなくランドパワーで
もない経済覇権の取り合いなのですよ。その面からの解析がない。

単にユダヤパワーとしてしまうことに違和感を感じている。ユダヤ
人は一枚にまとまっていないし、リアリストたちもユダヤ系の人た
ちが中心ですよ。ネオコンだけがユダヤ人ではないです。東欧系ユ
ダヤ人であるソロスも米国的な一国主義に反対している。欧州との
連合を取り戻すことを主張している。

ユダヤ人たちは、米国経済崩壊になれば、欧州に移住するだけです
よ。その基盤を欧州に作っている。おそらく、イスラエルも欧州の
政策に転換するはずです。それが国際社会に生きるユダヤ人たちの
変わり身の早さですよ。シャロンの政策が変化しているのも、欧州
にシフトするための移行期と捕らえているような気がする。

ダボス会議でも日本の話題はほとんどなく、中国とロシアの話題で
あったと聞く。特に中国の取り合いを欧州と米国が行うようである。
経済発展の地域をユーロ圏にするかドル圏にするかの戦いなのです。

シーパワーやランドパワーという話より経済的利得がどうかの議論
を世界はしている。日本の経済も中国との貿易は米国を抜かすまで
になっている。この事実をしっかりと確認して欲しいですね。この
ような現在の事実を元に議論するべきですよ。地経学の方が重要に
なっている。

安全保障は重要ですが、それだけでいいはずがない。世界覇権の大
きな部分は金融支配ができる基軸通貨の戦いなのです。経済的な問
題を討議することが必要です。それがおまりにもなさ過ぎるのです。

日本人は手が器用といいますが、中国人も同様に手が器用です。
それと現時点では中国人はガッツがあり、知識の習得に躍起になっ
ている。日本では感じられない雰囲気がありますよ。このため、中
国は今後も当分、経済的な発展をしますね。おそらく。世界の工場
に中国がなるはずです。私もこの事実に恐怖感を覚える時があるの
ですから、大変ですよ。その脅威を確認できるのがダボス会議で、
江田島さんは英語が出来るようですので、その記事を見てください
。このダボス会議がその年の動向を占う良い会議ですよ。

このような世界動向を見ないことが右の人の問題点です。日本だけ
で生きられるわけがないために、世界の動向を見て判断する必要が
あるのです。冬のダボス会議と夏のアスペン会議、それと欧米の秘
密会議であるビルダーバーグ会議は重要ですよ。世界の30人委員
会(ソニーの出井さんが委員)も重要ですね。ここで話されたこと
がG8やその他の会議で合意されることになるのです。

このダボス会議で中国の経済的な発展や元切り上げの問題が討議さ
れていたが、中国の発展が世界景気に大きな影響をもたらすという
結論であったようですよ。

中国の国家として、二制度でもいいと言っているために、香港では
江田島さんが主張しているようになっている。中国は住民の移動が
政府の許可がないとできない事実があることを知らないようですね。

しかし、盲流と言って、無許可で上海に出てくる人が居て、この人
たちが突貫工事で24時間の建設現場を支えているのです。全国を
移動できるのは大学卒業生や共産党の党員で、このため大学進学の
競争を勝つ抜くために、日本人以上に猛勉強している中国人が多い
のです。中国を評論するなら中国の現状を見ないと間違えますよ。
経済的な面と軍事的な面を同時に見ることが必要ですが、中国が経
済的問題であると言っているのは、世界の主流ではないことを見て
欲しいのです。

もちろん、不良債権が大量にある事実があり、これをどう解決する
かを見ることが必要です。しかし、元札を大量に印刷すれば、この
負債はなくなるのですよ。どこかの国が不良債権処理をおこなった
ような方法を使えばいいのです。国家としては大幅黒字で、外貨準
備高も日本や台湾より小さいが、増え方が大きい。

東風11号などの核ミサイル問題は米中欧露の核大国のバランスで
解決するしかない。このため、この面でも日本だけで解決できる問
題ではないですよ。日本はどこかの核大国と連合している必要があ
るのです。もしくは核武装をして核大国になることもできるのです
から、米国幕府の合意がとれるなら、すると結論をつけるべきでし
ょうね。ここでも外交的なバランスが重要に成っている。

しかし、それと中国の経済発展と日本の経済的な利得を得る問題と
軍事問題を一緒にしてはいけない。別物と位置付けていく必要があ
るのです。

戦略は現実に裏打ちされている必要があるのですよ。どうも、この
現実や世界的な分析を甘いような気がする。特に経済的な分析が、
ないか、おかしいような気がする。自分が気に入る情報しか見てい
ないことが問題であると感じる。戦略の構築には、自国にも冷酷な
事実を分析するリアリストであるべきでしょうね。

YSさんが提唱するグローバル・ビジネス・リアリストがいいと思
います。私FとYSさんは、どちらかと言うと私Fは右派(タカ派
)で、YSさんは左派(ハト派)の違いがあるが、ビジネス経済面
(地経学)での分析は、だいたい同じである。
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件名:胡錦濤・新体制の1年  

佛教大学教授 吉田富夫氏に聞く
中国は“1周遅れで併走” 経済発展妨げる“人治”

北京五輪機に体制変革か 党幹部への不満募る 反腐敗姿勢で「民衆
重視」へ 

 ――中国は長い歴史を持ち、あらゆる面で簡単には理解できない
ほど大きな国だ。そんな中国のどこにポイントを置いて観察してい
るか。

 それは、民・百姓がどれだけ食べることができているか、という
点だ。あの国は衣食住の中で、何と言っても食文化が中心。アメリ
カ人などは食について無頓着な感じで、ファストフードでも平気と
いう面があるが、中国人は食にこだわる。今やかなりの地方でも市
場には食料品があふれ、活気があって、とにかく食べることに支障
は出ていない。

 もう一つ、中国について考える視点として私がよく言っているの
は、陸上トラック競技にたとえれば、一周遅れのランナーだという
こと。過去の歴史で生じた欧米先進諸国との間の遅れを取り戻そう
として、懸命にやってきた。そして、近代文明という点ではすでに
追い付いて横に並んだかなと思える部分もあるが、まだまだ一周遅
れがついて回っていると感じさせる体質が時々、露呈する。

 ――その体質というのは、長年の共産党一党独裁という政治体制
によるものだと思うが。

 中国共産党は日本の人口の半分ほどの党員を擁した、いわば途方
もない巨象だ。その巨象の足に一党独裁という重い足かせが絡まっ
ていることは、幹部たち自身がよく承知しているはず。共産主義運
動が労働者階級解放の世界的な革命運動として始まったことを思え
ば、今の中国は民族利益追求の旗を高々と掲げているから、そのこ
と自体が党名の変更をすら迫る“変質”と言うしかないし、内部に
深刻なジレンマを抱えている。ただ、巨大な図体だから急に方向転
換するわけにはいかない。周辺に多大な影響が出る。

 目覚ましい経済発展が今の中国を特徴付けるものとしてよく知ら
れているが、経済の発展は必然的に契約社会を生まざるを得ない。
契約社会は法律を必要とし、法体制が出来上がっていく。今はまだ
まだ“人治”という要素が強いので、“法治”へとどう移行させる
か、これも大きな課題だ。法治が定着する事態を待たずしては、
一党独裁体制は変わりようがない。

 ――胡錦濤氏が国家主席に就任してそろそろ一年だが、この期間
をどう見るか。

 彼らは過渡期の世代だ。前の江沢民時代が古い体質を引きずって
いたのを、胡氏らはそういうものを少しずつ破っていくための世代
として登場した。SARS事件が起こり、情報を隠すとか不手際は
あったが、これだけ世界に開かれた国になっているため、都合のい
いようにウソをつくというふうな従来のやり方はもう通用しなくな
った。

 江沢民氏の時だったら、もっと隠しただろう。外国人に取材もさ
せないとか。少しずつだが、新時代の中国へと脱皮していく途上に
ある。ただ、それが地滑り的に次世代にどう移行していくか、とな
ると、その先はもうひとつよく分からない。胡氏の任期は八年は続
くと思うが、ちょうどいいころに二〇〇八年の北京オリンピックが
ある。これを契機に、体制をリフォームできるのではないか。

 毛沢東時代から”小平時代へ、そして江沢民時代へと、中国は大
体、四半世紀刻みで進んできた。その後を継いだ胡氏は、SARS
の災難をうまく利用したというか、それに乗じて脱・江沢民へと動
いてきた感じがする。

 ――国家軍事委員会主席のポストにいる江氏が胡氏の背後で院政
を敷いているという見方もあるが。

 軍を動かす立場にあるので、それなりの発言力はあるにせよ、い
わゆる院政のような形はないだろう。分かりやすく言えば、日本の
中曽根さんみたいなものだろう。小泉首相は重要な決定をする時な
どに、いちいち中曽根さんにお伺いを立てたりしない。胡氏も、江
氏の鼻息をうかがうというようなこともない。

 従来の保守派にとっては、当然ながら江氏のやり方のほうが落ち
着くわけで、また、そこには世代間の闘争も絡んでいる。いわば、
党内のバランスを取るために江氏の存在は重要だ。そのあたりは胡
氏もうまく配慮しながら、事実上、なしくずし的に事を進めている
と思う。

 ――最近はアメリカの力が抜きんでていて、アメリカ一国主義だ
とか批判されたりする。伝統的に中華思想で来た民族として、中国
はアメリカにかなりの対抗意識や敵愾(てきがい)心を持っている
のではないか。

 そういうのはないと思う。アメリカの天下はいつまでも続きはし
ないと、あせらず冷静に見ているはずだ。かつて”小平氏は一九八〇
年代に、この国を半世紀かけて“小康状態”にもっていくと、そう
いう目標を掲げた。つまり二〇三〇年ぐらいまでに、衣食住を中心
にすべての面で国民がゆとりを感じられるような水準にまで発展さ
せる、と。それがほぼ予定通りに来ているので、二〇二五年ころに
は自分たちはもう一方の極に立っていると考えていると思う。

 大体、アメリカ一極とかよく言われるが、それはアメリカからの
視点であり、アメリカの願望であって、実際は中国やEU(欧州共
同体)、ロシアの存在は無視できない。日本で見ている世界と、北
京で見る世界とは随分と違う。中国でテレビを見ていると、それが
よく分かる。ニュースには東京のことなどめったに出てこない。
ブッシュ大統領の話だって、少ない。もっぱら報道しているのは、
第三世界のことやEU、それにロシアのこと。それらが、かなり詳
しく、満遍なく扱われている。

 ――それでは、昨年十月に成功させた有人宇宙船の打ち上げも、
対米意識の表れではないと思うか。

 あれは純粋な宇宙開発事業の一環だろう。もちろん、軍事的、経
済的な意味もあるが、アメリカに対抗するためという低次元のもの
ではない。中国の科学技術は確実性を増していると見ておくべきだ
ろう。日本は衛星打ち上げで失敗続きだが、中国の場合は軍をバッ
クにした開発だから、そこで差が出ている。一周遅れのランナーが
、ああいうところでは肩を並べた。とにかく画期的なことであるこ
とに間違いはない。

 ――最近の中国について特に注目している点は何か。

 まずは、民の不満だ。貧富の格差や党幹部の汚職など腐敗に対し
てうっ積したものがあり、いつ暴動が起こっても不思議ではない。
内陸部は乾ききった薪(まき)のような状況で、いつ火が付くか分
からないほどだ。先日も胡主席は党中央規律検査委員会の第三回全
体会議で反腐敗の強化を呼び掛ける演説をした。清潔な政治や反腐
敗の制度のほか、監督制度をつくるなどして、権力を正確に行使さ
せる有効なメカニズムを形成しなければいけないと訴えている。
反腐敗に厳しい姿勢を示すことで、「民衆重視」の政治スタイルを
より鮮明にしたかったようだ。

 ある新聞にも書いたが、一九九〇年代に入ってから急速に肥大化
した農村の行政機構が、重い負担になって農民にのしかかっている
。湖北省のある郷のケースを例に挙げると、八六年には二十人だっ
た郷役場の職員が、九〇年には百二十人に、そして二〇〇〇年には
三百四十人へと膨れ上がっている。増加した部分は、ほとんどが党
幹部の血縁・縁故関係者だ。その連中を養うために次々とポストを
つくり、機構は肥大化していく。党幹部の汚職や腐敗は日常茶飯事
。農民はさまざまな税負担に耐えかね、村を棄(す)てていく。
そういう“棄農”現象も深刻。ここにも一党独裁の弊害が出ている。

 次に、水の問題が挙げられる。近代化を推し進める際にぶつかる
壁は、膨大に必要となる水を確保できるかどうかということ。中国
大陸の北部では水不足が深刻で、これが今後の中国の足を引っ張り
かねない。地下水も使い過ぎてどんどん減っているし、渇水状態は
致命的なところまで来ている。中国がチベットを握って離さないの
は、いろんな理由があるが、大きな理由として揚子江と黄河の水源
地だからという説もある。


 よしだ・とみお 昭和10年、広島県生まれ。同33年、京都大
学文学部卒。現在、佛教大学文学部教授。現代中国文学史専攻。
著書に『文化と革命』(共著)、『五四の詩人王統照』、『志のう
た』(共著)など。訳書に賈平凹『廃都』『土門』、葉広●(=く
さかんむりに今)『貴門胤裔』、莫言『白檀の刑』ほかがある。
最近は、中国で最もノーベル賞に近いとされる作家・莫言の自選短
編集を翻訳した。世界日報 ▽掲載許可済み
Kenzo Yamaoka
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江田島
戦国時代以降の日本の歴史を考えてみたい。戦国時代の画期を示す
ものとして、1543年の種子島へのポルトガル商人漂着による鉄
砲伝来、1600年に豊後に漂着したオランダ商船リーフデ号(西
暦1600年4月19日、佐志生の入江に今にも壊れそうな、とてつもな
く大きな帆船が漂着した。遠いオランダの地から、東洋の国ジパン
グ(日本)へ向けて旅立った5隻の船団(ホープ号500トン乗員130人
、リーフデ号300トン110人、ヘローラ号300トン109人、トラウ号220
トン86人、スハッブ号150トン56人)の中でただ1隻だけ、1年10ヶ月
におよぶ苦難の航海の末日本に到着した船、それがオランダからの
初めての船、リーフデ号であった。この船には、江戸時代、日本と
イギリス、オランダ両国の友好をとりもつことになったウイリアム
・アダムスとヤン・ヨーステンが乗っていた。

1600年という年は、関ヶ原の戦いで徳川時代を決定した年である。

この時代、世界史の中では15世紀末にはじまった上述の大航海時代
の末期にあたり、ヨーロッパのプロテスタント国家オランダも東洋
進出に躍起になっていた。

オランダという国が正式に公認されたのは1648年だったので、リー
フデ号がオランダを出発した1598年という年は、オランダがスペイ
ンから独立を宣言した1581年からわずか17年しか経っておらず、ま
だ独立戦争の最中のことであった。)

が上げられる。日本には1543年に欧州勢力としてポルトガル商
人が種子島に漂着して火縄銃を伝達しているから、カソリック国と
は面識があったわけであるが、オランダ船により、プロテスタント
国との接点ができたわけである。時の権力者、豊臣政権の大老筆頭
徳川家康は、漂着したオランダ船に多大な興味を示した。船に載ま
れていた武器が、一番の目当てだった。リーフデ号が運んできた武
器は全て没収され、ヤン・ヨーステンとウイリアム・アダムスは大
坂、次いで江戸に上るよう命じられた。そこで2人は、ポルトガル語
の通訳を介して取り調べを受けることになる。運良く彼らの返答は
家康の気を良くし、臼杵で被った損害も補償された。日本に残った
乗組員のほとんどは、その後貿易に携わったり、日本人女性と結婚
している。この漂着者たちは、地図や航海術、造船術の知識、さら
には西洋諸国の戦況に関する情報など、非常に役立つものを握って
いた。(リーフデ号の乗組員のあるものは家康の上杉景勝討伐に砲手
として参加したと伝えられている。)中でもウィリアム アダムスは
三浦按針の日本名を与えられ、また江戸橋に邸宅、相模国三浦郡逸
見村に220石あるいは250石の領地を与えられ家康の外交顧問として
活躍した。彼の業績としては、日蘭貿易のための画策及びイギリス
東インド会社へ日英貿易の利を説き平戸のイギリス商館開設の窓口
となったことや航海士としての技術を生かした洋式帆船建造などが
あげられる。

ヤン・ヨーステンは家康に仕え外交の諮問に応じる立場として活躍
、オランダの日本貿易独占に尽力。東京中央区「八重洲」の地名は
、「ヤン・ヨーステン」が転訛したもの。

この中で私が注目するのはオランダ商船からもたらされた武器、長
射程艦載砲である。当時の日本にはなかったであろう、この武器が
、家康に天下取りの意欲をいだかせ、関が原合戦へと繋がったとは
言えないだろうか。わずか、関が原の半年前のことである。この因
果関係を証明する術はない。しかし、状況証拠を考えると、この時
期のオランダとの接触が家康に天下を取らせ、褒美がポルトガル、
スペインを排除してオランダへの独占的交易権の付与であったので
はないか。証明はできないが、辻褄はあっていると考えるがいかが
であろうか。もしこのことが証明されたらどうなるか。日本史は、
このとき以降独立した歴史ではなく、欧州勢力によって支配者が決
められるということである。間接的な意味での植民地である。陰謀
史観との謗りを覚悟で言えば、鎖国(この用語も適切ではない。

選択的開国というのが正しい)の真の意味とはオランダと徳川家で
談合して徳川家による日本支配とオランダの交易を相互承認し、他
の勢力(伊達、島津、毛利、前田等の外様大名)がカソリックのス
ペイン、ポルトガルと結びつかないようにするための規制、枠組み
であったのではないか。島原の乱(1637年のキリシタン一揆。
天草四郎時貞(当時16才)を総大将にし、原城(南有馬町)に総勢
3万7千人で90日間たてこもった。1637年12月 総大将天
草(益田)四郎時貞の下、キリシタン信仰を団結のよりどころに島
原天草の農民三万七千人の一揆軍が原城にたてこもり幕府軍十二万
五千人と戦いを繰り広げた。翌年の二月二十八日、一揆軍は総攻撃
を受け、老若男女問わず皆殺しとなった。日本史上もっとも悲惨な
事件とされる。)で幕府がカソリックに恐怖をいだいたことが最大
の契機となった。

このように考えると、カソリック勢力と接触し、支倉常長(慶長
18年9月15日(1613年10月28日)仙台藩主,伊達政宗
の命を受け,メキシコ,スペイン,イタリア,そしてバチカンと旅
した)け,メキシコ,スペイン,イタリア,そしてバチカンと旅し
た)を派遣した伊達正宗は徳川+オランダ連合にカソリックと組む
ことにより対抗しようとしたのではないか。

種子島に漂着したポルトガル商人によりもたらされた鉄砲が30年
後には織田信長により集中利用され、戦国時代を収束した点も重要
である。日本史の教科書には、この鉄砲の集中利用(長篠の戦い 
1575年(天正3年)には三千丁の鉄砲が集中利用された)が信
長の覇権を決定づけたような記載がされているが、ここで忘れては
いけないのは、鉄砲そのものは、日本刀の生産技術を応用すること
で国産が可能であった(砲身の尾栓を塞ぐネジの技術のみが当時の
日本になかった)が、火薬の原料たる硝石は国内では産出せず、ポ
ルトガル商人からの輸入に頼ったということである。信長が堺の支
配にこだわったのはマカオから堺にもたらされる硝石を独占するた
めなのである。これは、すなわち、この戦国期というのは日本史が
、欧州から影響を受け、ありていにいえば、シーパワーたる欧州勢
力との提携が国内政治の覇者を決めるようになった時期なのである。
これをエージェントというべきかどうか意見はわかれると思う。
江戸時代に入ると欧州シーパワーの中でイギリス、オランダという
プロテスタント諸国にのみ交易を許し、スペイン、ポルトガルは排
除した。イギリスはアダムスや初代館長コックスの賢明な営業努力
にもかかわらず、オランダとの競争に敗れ、10年で平戸を撤退し
た。これは幕府が排除したのではなく、単に営業的判断であったろ
う。幕府はカソリックを南蛮人、プロテスタントを紅毛人と呼んで
明確に区別していたのである。オランダとの交易の重要な点として
、オランダ船が長崎に入港すると、まず風説書が提出されたことが
挙げられる。これにはヨーロッパからアジアの政治情勢などが記載
されており、幕府の貴重な外交上の情報源として重用視されていた。 

 これは1641(寛永18)年以降その提出が義務づけられた。
むしろ、この情報を得る見返りに交易を認めたというのが真相であ
ろう。当時の日本にとってオランダから輸入するもので必要不可欠
なものはこの世界情勢に関する情報以外にはないのである。風説書
の内容は極秘扱いであり、老中以外は内容を知ることが出来ないた
め重大な情報を得たとしても適切な対応が出来なかった。が、極秘
扱いとはいえ、一部の諸藩はこれに大きな関心を持ち,長崎駐在の
聞役(藩と長崎奉行との連絡に当たる要職)の暗躍で,通詞の訳文
の控えが外部に洩れていたようである。 

 その情報はかなり詳しいものであり。例えば,1673年,イギリス
船リターン号が来航して貿易の再開を求めたとき,幕府はイギリス
の王室とカトリック国のポルトガル王室とが姻戚関係にあることを
理由にその要求を拒否している。その根拠となった情報は,1662年
の阿蘭陀風説書であり、チャールズ2世が1662年ポルトガル王女
カサリンと結婚した事による両国王室の姻戚関係を知っていたので
ある。これをどう見るか。言い方を変えると、オランダの情報に依
存するということは、とりもなおさず、オランダによる恣意的な加
工された情報にも頼ってしまうということである。カソリックが領
土的野心があるなどといったことも当然吹き込まれたであろう。

そして、現在の東京都中央区は運河と江戸時代初期の埋めたて地で
構成されるが、その造成にオランダの知識、技術があったのではな
かろうか。江戸期以降、中央区は日本のアムステルダムであり、本
家アムステルダム、ニューアムステルダム(ニューヨーク)そして
中央区は全てオランダシーパワーの紡いだ線で繋がっていたのであ
る。

これらの都市に金融センタが存在することが何よりの証拠である。
更に、近世の貨幣制度を確立したのは家康である。金・銀・銅の三
貨制度といわれている仕組みである。この三貨は家康以前にも存在
していた。しかし、使用法は異なっていた。まず金貨は主として贈
答や褒美用のものとして使われていた。軍功を立てた家臣にご褒美
としてつかわすといったものである。これに対して家康が慶長6年
(1601年)に発行した金貨、すなわち慶長小判は、実際に流通の用
に供するために鋳造され、合わせて四分の一の価値をもつ一分判が
発行された。家康はここに従来の使用法を改め、金貨である小判を
中心とした三貨制度を実施した。金貨を貨幣制度の中心に据えるこ
ともヤン・ヨーステンの発案ではなかろうか。更に、生糸輸入の超
過であり、金銀の海外流出が止まらず、必要量を補うため実施した
のが貨幣改鋳である。すなわち、金・銀の品位を下げて同じ量の金
・銀量からより多くの単位の金・銀貨を作ろうというものである。
これは綱吉の時代の勘定奉行・荻原重秀によって始められ、何度か
見直しはあったが、江戸時代を通じて財政危機を乗り越える苦肉の
策として何度も実施された。 

 重秀の発行した元禄小判の例では、慶長小判に対し金の含有量が
三分の二に減ってしまった。これを改めようとしたのが儒学者(儒
教はいうまでもないがランドパワーの教えである)新井白石である
。白石は失われた貨幣への信用を回復すべく、金銀の比率を「慶長
小判」、つまり幕府創設当初に戻した。さらに金銀の流出を防ぐた
めに長崎貿易の制限を行った。(正徳の治)

背景として、オランダシーパワーは長崎を通じ、当時の日本の経済
システムにも影響を与えていた。そして、このオランダによって紡
がれた日本とシーパワーを結ぶ線は次に見る、イギリスとオランダ
の闘争を通じて、イギリスに引き継がれるのである。

ここで、目を欧州に移してシーパワー同士の闘争を見てみたい。明
治以降の日本史に密接に繋がるイギリスとオランダおよびフランス
の海外植民地をめぐる激闘である。 

イギリスにおいて、1649年チャールズ一世に死刑が執行される(清
教徒革命)。2年後、クロムウェル主導による共和制政府[1649-60]
が航海条例(Navigation Acts:航海条例、貿易拡大、植民地貿易独
占のため1651年以降数次にわたって発布; 1849年に廃止された)を
制定したことで、1652-4年の第一次オランダ戦争が起きる。この条
例は、いままでの政策を吸収し、それを包括したものであった。
この基本法令のほとんどが、この後約200年間有効となる。

 イギリスとフランスは、自由な通商により繁栄を謳歌するオラン
ダを17世紀後半以後、締め出そうとする。上記の1651年のイギリス
航海条例の発布とそれに端を発した1652年以後1674年まで3次にわ
たって繰り広げられる英蘭戦争であり、またルイ14世による対オラ
ンダ戦争である。17世紀後半の度重なる英仏との戦争によってオラ
ンダは衰退した。シーパワーたるイギリスとランドパワーたるフラ
ンス双方を同時に敵に回したのだからたまらない。島国と沿岸国で
ある、地理的条件の差異が運命を分かったのである。

オランダが衰退した後に登場してくるのが17世紀末以後のイギリス
とフランスの残った強国同士の激突である。この英仏両国がオラン
ダを打ち負かして互いを仮想敵視するようになるのは、1680年代の
ことであろう。英仏は18世紀を通じて、海外植民地を争う。

 当然のこと、両国の争いは、ヨーロッパ大陸にのみ限定されるも
のではなく、世界の全てのエリアの分割を視野に入れて行われた。 

 戦いは「ウォルポールの平和」(1721‐1742年)という一時的休戦
を挟んで100年近くにわたり行われている。第二次百年戦争とい
うこともある。「名誉革命」により妻メアリー2世とともに王位に
ついたウィリアム3世(在位1689-1702年)は、ファルツ侵略を開始し
たルイ14世と、アウグスブルク同盟を率いて戦ったが(1688-1697
年)、この戦いは北米では「ウィリアム王戦争」として展開された(
ちなみに、イングランド銀行の設立(1694年)により、戦費調達が可
能であった。課税によりまかなうには王権が弱く、イギリスの国力
が貧弱で、植民地戦争が実質的に金融資本主導の戦争であったこと
を物語る)。さらにこれに続いて、スペイン王位継承戦争(1701-1713
年)や北米での英仏植民地戦争(「アン女王戦争」。1702-1713年)が
生じた。これらの戦いにイギリス側は陸海軍ともにフランスを圧倒
し、ユトレヒト和約(1713年)により、ニューファウンドランドやハ
ドソン湾を獲得することになった。 

「ウォルポールの平和」の後は次のようなものであった。オースト
リア王位継承戦争(1740-1748年)が発生した。イギリスはフランスを
破り、終戦のためにアーヘン和約が結ばれることになった。しかし
英仏間のヘゲモニーが確立したのは七年戦争(1756-1763年)において
である。オーストリア=フランス 対 イギリス=プロイセンの戦いで
あったが、イギリスはカナダ、インドなどの戦いでフランスを完膚
なきまでに撃破した。この戦いでイギリスは、カナダ、インドを支
配下に治めたのみならず、ミシシッピ川以東のルイジアナ、フロリ
ダなどを取得した(パリ条約)。このようにして、18世紀中期、ア
フリカを除く世界の大半でシーパワーとしてのイギリスの優位が固
まった。注意すべきは、この時期、イギリスの対外活動、商工業活
動は、貿易、金融に従事する金融資本主導であったことである。
上述のイギリスのプロテスタント化により、および、17世紀の二
度の革命により王権に勝利し、金融資本に活動のフリーハンドが与
えられたことが非常に大きいのである。逆に言えば王権が弱く、商
人、金融資本に頼らなければ、強大な王権を誇るルイ王朝のフラン
スと張り合えず、世界帝国を形成できなかった。

産業革命以前の製造業としては毛織物が挙げられるが、それは地方
、農村を基盤として、農民の土地を奪い階級分化を促した。羊が農
民を食い殺すといわれたのである。しかし、このシステムはマニュ
ファクチャや問屋制家内工業の域を出ず、イギリスが世界に乗り出
すシーパワーとなるには、上述の金融資本による、本国と植民地で
進展していった経済発展を、たくみに連結させる三角貿易が必要で
あった。

繰り返すがこれは、王権が行ったことではない。貧弱な王権(弱い
規制)にともない金融資本のフリーハンドが実現したことによるの
である。

さらに、イギリスの特質として、金融資本と土着の地主貴族(Sirの
称号をもつ)の相互交流が認められたことが大きい。ありていにい
えば、商人を貴族にしたのである。ビクトリア朝を特徴付けるこの
動き(the Victorian Compromise=ビクトリア朝の妥協と呼ばれる
)は近代のイギリス史を語る上で強調しすぎることができないほど
重要な点である。別の言い方をすると、商人が政権に入り、商業的
見地からcostとprofitを考えて外交政策を決定し、戦争する契機を
与えたのである。すなわち、市場獲得のための軍事力行使である。
この政策を推し進めたディズレーリ(Disraeli.Benjamin1874年、数
次の蔵相をへて、保守党首相。スエズ運河の買収、東インド会社の
政府移管を実行。)はその代表である。イスラエルという名前で分か
るとおり、彼はユダヤ系であった。世界史の教科書にはこのシステ
ムは帝国主義と書かれてるが、これこそがシーパワーの真髄なのだ
。背景として、この時期、アメリカ、ドイツの工業生産力がイギリ
スのそれを追い越し、イギリスとして、排他的独占市場を必要とし
たということがある。イギリスと植民地間の通信を営む事業者が、
国営のBritish Telecomではなく、民営のCable & Wirelessであり、
日本近代に際して来日したイギリス人が全て商人であったことは、
このことを雄弁に物語る。余談ではあるが、フランスはこれ(金融
資本との提携)ができず、金融資本を活かせず、逆に言うと王権が
強すぎたがために、中世(農業生産力)においては臣下であったイ
ギリスに、近代(商工業力)において敗れたといえる。かってのカ
ソリックによる国土回復後、金融資本を追放したスペインがそうで
あったように。世界をめぐる覇権争いでイギリスに敗れたフランス
はその後革命をむかえ、ルイ王朝期の一等国からころげ落ちてしま
う。ルイ王朝とは、本質的にランドパワーだったのだ。
 
日本において、江戸時代中期頃から日本近海に外国船が頻繁に出没
するようになった。この時期ランドパワーの徳川政権下で、シーパ
ワーの脅威を最初に説いたのが、仙台藩の学者林子平の書いた「海
国兵談」(寛政3年(1791年)刊行)である。「江戸の日本橋
より唐・オランダまで境なしの水路なり」。松平定信によって人心
を惑わせるとのことで発禁となったことがランドパワーの世界観の
閉鎖性を物語っており、興味深い。鎌倉期の日蓮による立正安国論
も同じように蒙古の脅威を説いたものであるが、幕府によって弾圧
された。

このような流れの中で、欧州シーパワー諸国の最終勝利者たるイギ
リスは、インド、シンガポール、香港と地歩を伸ばし、いよいよ、
日本に接触してくる。

明治維新を断行した薩摩長州であるが、彼らは実は江戸時代からシ
ーパワーであったことはあまり語られていない。江戸幕府とは、外
交顧問たるオランダの指導により、東南アジア進出が南蛮国(スペ
イン、ポルトガル)との対立を招くという観点から、海外進出を諦
め、国内の土地配と交易の制限(鎖国)および商業取締りをエトス
としたランドパワーであった。大陸諸国のランドパワーと違うのは
薩摩長州といった反対勢力(外様大名)を体制内に残したことであ
る。薩摩長州は関が原以降仮想敵とされ長州藩などは120万石を
大幅に削られ36万石となったが、実際の財政は石高以上に交易に
より潤っており、幕末には実質100万石を達成していた。薩摩藩
にいたっては幕府の目を盗み琉球や種子島との貿易により潤ってい
た。

反面幕府は直接支配する直轄地(天領)は約400万石で、旗本領
を合わせると約700万石となり、全国の石高の約4分の1を有し
ていたが、実際には農民は畑作(商品作物)の栽培にいそしみ米穀
の収入は激減していて屋台骨は大きく揺らいでいた。これが倒幕を
可能ならしめた一つの大きな理由なのである。このような時代背景
で、イギリスは薩摩長州と接触した。その契機は生麦事件(1862年
、文久元年8月21日、旧東海道の一漁村生麦村で起きた薩摩藩主島
津久光の行列を無礼にも騎馬のまま横切ったイギリス商人リチャー
ドソンを薩摩藩士が抜刀のもと切り捨てた)につづく薩英戦争(生
麦事件で,薩摩藩はイギリスの犯人処刑と賠償金支払い要求を拒否
し、攘夷実行の準備を着々と進めた。イギリス艦隊は、本国からの
訓令に基づいて、同2(1863)年7隻が鹿児島に来攻した。
同年7月2日イギリス艦隊は行動を開始,荒天の中で激しい交戦が
続いた。イギリス海軍の世界最新のアームストロング砲は,十分に
威力を発揮して,市街焼失1割の損害をあたえた。古い装備の薩摩
軍は,士気が旺盛で訓練も十分であったので、戦死者60余名におよ
ぶ打撃を与えた。薩摩藩は、この戦争で攘夷の不可能を悟り、藩論
をイギリスとの提携へ大きく転回した。)さらに、元冶元年(1864年
)、長州藩は、8月4日、英仏欄米の四カ国艦隊に砲撃。近代兵器
の威力の前に、長州の武士は為すすべもなく、6日には、イギリス
海兵隊1400、仏国兵350、阿蘭陀兵200が前田に上陸。茶臼山、前田
、壇ノ浦一帯の砲台を占拠、破壊。彦島の砲台も砲撃。8日、前田
、彦島の砲台から砲を捕獲。午後、高杉晋作らが休戦協定を締結。
これを契機に長州藩は「開国」政策に転換し、やがて維新への大激
動となっていく。

等の交戦を通じ、薩摩長州藩士の士気の高さに驚き、他の植民地に
ない知性と礼節を弁えた日本の武士の存在を知り、パートナーとす
るに足る存在であることを認めたのである、この後、薩長はイギリ
スの支援を受け(特に最新式の銃火器を大量に安く調達できた。
最初はミニエー銃、仏軍、ミニエー大佐が、椎実弾の底部に木栓を
はめ、発射時にガス圧で木栓が弾丸中に押し込まれ、スカート部が
拡張してライフルに食い込ませるという弾丸「ミニエー弾」を発明
した。ミニエー弾であれば、口径より少し小さい弾丸でも、回転を
与えられるため、従来の弾丸よりも格段に弾込め作業が簡単になっ
た。) 

薩摩藩は、薩英戦争後に攻められた後の軍制改革で、これを一万挺
購入した。
火縄銃しかもっていなかった幕府軍に対して、火力で圧倒的優位に
立ったのである。
(薩長に武器を売ったのは、長崎グラバー邸で有名なグラバーだ。
1859年、長崎開港直後、21歳で来日し、グラバー商会を設立。
お茶や鉱山設備も扱ったが、武器や船が主だった。1866年イギ
リス政府は、エンフィールド銃(イギリス風改良ミニエー)前装銃
を、後装銃に改造し、エンフィールド・スナイドル銃と呼んだ。
戊辰戦争でも、西軍は江戸城占拠後、イギリス製ミニエー銃を、ス
ナイドル銃に改造した。

この銃は、西南の役の頃も、明治政府軍の標準銃として使われている。
幕府はナポレオン三世に率いられたフランスの支援を受け、内戦状
態に陥る。まさしく、シーパワー連合VSランドパワー連合の構図で
ある。アメリカは国内問題(南北戦争)を抱え、日本への関与どこ
ろではなくなってしまう。

 結果はイギリス金融資本に支援を受けた薩長の勝利であった。
ここで、私は幕府が自壊したのは、フランスが普仏戦争(1870年〜
1871年プロイセンとフランス間で行なわれた戦争スペイン国王選出
問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦プロイセン側が圧倒的
に優勢でナポレオン3世はセダンで包囲され、1870年9月2日同地で降
伏 )を抱え、日本への関与ができる余裕がなくなったことが大きい
と考える。イギリスとフランスが談合し、日本はイギリスへまかせ
るというような密約、取引があったと思うのは考えすぎであろうか。

この後成立した薩長による明治政府は外交の観点からはイギリスの
門下生となり、実質的にはイギリスの間接統治のような形態であっ
た。若手をイギリスに留学させ、内政については憲法と陸軍を当時
勃興してきた新興国プロイセンに学んだため、ランドパワーであっ
た。当初、内政や憲法もイギリスに学ぼうとしたところ、イギリス
の近代化は上述のように金融資本主導であり、日本の薩長主導によ
る上からのそれとは事情が異なったため、当時興隆していたビスマ
ルクのドイツ帝国がプロイセンという封建領主国主導で上から近代
化を行っており、日本に似た事情から、参考になるとのアドバイス
を得たのではと推察される。当時としてはやむを得ない選択である
と考えるが、このシーパワーとランドパワーの重層構造が後に破滅
を招くことになる。

安全保障上の観点から朝鮮半島支配をめぐって、ロシアとの衝突に
及んでロシア(ランドパワー)と組むかイギリス(シーパワー)と
組むかという対立が起きる。前者の旗頭は伊藤博文であった。結果
的にはイギリスと組んでロシアと開戦(日露戦争1904(明治37)年
2月6日〜1905(明治38)年9月5日朝鮮・満州の支配をめぐる日本とロ
シア帝国の間で戦われた戦争朝鮮半島・満州を主戦場とした。1904
(明治37)年2月8日瓜生戦隊による仁川港奇襲で戦争開始、10日宣戦
を布告。陸軍は4軍を編制、総司令官大山巖、総参謀長兒玉源太郎の
もとに満州軍総司令部を設けて全軍を統轄。同年8月〜翌1905(明治
38)年1月の旅順要塞、1905(明治38)年3月の奉天会戦、同年5月27日
の日本海海戦など一連の戦闘で日本が制限つきながら勝利)に至っ
たのであるが、イギリスの出方次第では逆の可能性すなわちロシア
と組んでイギリスと開戦といった可能性だってあったのである。
はからずも、この構図は40年後に実現する(三国同盟+日ソ不可
侵条約で対英米開戦)。このことはいくら強調してもしきれるもの
ではない。歴史にIfは禁物であるとされる。しかし、歴史の転換点
というのは必然の結果ではなく、偶然の産物であることも多々あり
、地政学的観点からリムランドの日本は大陸勢力と海洋勢力の相互
の影響を受け、激突の最前線なのである。

いかにして明治期の日本がシーパワーとして台頭してくるかに関わ
るため、この辺りを少し詳細に見ていきたい。イギリスは、上述の
ように、17世紀の二度の革命を通じて、実態は共和制であり、国
王ですら勅許なしには入れなかったCityを動かす金融資本家が国家
の主である事は論を待たない。ロンドン市長とは永らく、この金融
資本家による互選で選出されたギルドの組合長を指しロンドン市と
はあくまでCityの内側を指すのである。普通選挙でロンドン市長が
選出されたのはつい最近が始めてである。彼らが大航海時代、産業
革命を通じ世界に乗り出していったであり、現在にいたるまで、
イギリスの政策決定に大幅な関与を有している。イギリスとは商人
すなわち金融資本が築き、その利権を守るため軍隊(国家)が乗り
出すという構図なのである。日本で言えば戦国期の堺や博多がその
まま自治権を獲得し、国家を裏から操っているがごときである。
彼らは資本主義を信奉し不断に市場を求め資源を求める。極東にお
いては阿片戦争で清を屈服させ上海、香港といった地域での利権を
確保し、日本とも貿易の実をとるべく安政の五カ国条約で鎖国政策
を放棄させ通商権を得た。しかも治外法権と関税自主権を認めない
という片務的かつ互恵でもなんでもない形で。

清に対する軍事力によるアプローチと日本に対する薩長を背後から
操る間接支配のアプローチ(上述のように、薩摩長州が倒幕に成功
したのはイギリスの支援で最新式の銃火器が安く調達できたことに
よる。戦国期の織田信長がポルトガルから硝石を輸入できたことに
より、鉄砲の集中運用から、国内の統一ができたこと、徳川家康が
オランダ船から長射程艦載砲を譲受け、関が原に勝利したことと、
さらに、江戸期、徳川家による支配を安定させるため、諸大名に外
国貿易を禁じたことと、本質は同じである。薩長がイギリスという
外国勢力と提携したために、幕府は滅びたことは、この鎖国という
政策が、徳川家の維持には役立ったことを反対証明として、雄弁に
物語る。認めたくないが、外国勢力が日本の支配者を決めるという
慣行なのである。これを対等なパートナーが見るか、エージェント
(代理人)と見るかは読者の判断にまかせる。重要な点は彼ら外国
人がその戦略商品を他の大名に渡していたら、そちらが天下を握っ
ていたか可能性が高いということである。)の対比は興味深い。
清においては中央集権国家であり薩長のようなコントロールできる
反対勢力が存在せず、かつシンガポールという後背補給港を有して
いたことから軍事攻撃が可能であったこと。又、1860年代にイ
ギリスが植民地政策から自由貿易政策へとシフト(穀物法が1846年
に撤廃されると、英国の内側では産業資本主義が定着し、国際社会
に対しては帝国主義が退き、グラッドストン内閣下自由主義的な「
小英国主義」が基調となった。)したことがその理由であろう。
植民地直接支配はコスト高でペイしないことをインドで学んだこと
もあろう。

この日英の蜜月言い方を変えれば師匠と門弟の関係は日露戦争まで
続く。

日英同盟によりロシアの南下を防ぐことに成功したわけであるが、
1905年の改定でインドを守備範囲に入れていたことを知る人は
少ない。これはインドにおける英の利権を守るために日本海軍は出
動するということである。このように、日本はイギリスの忠実なる
パートナーまたはエージェントであったため、両国に利害の対立は
なかったのである。

(1)英米対立と日本の孤立化
第一次世界大戦の真の意味ということになるが、結果論ではあれ、
3つの王制が破壊され欧州が困窮し日米が利を得た。ここで忘れて
はいけないのはアメリカはイギリスのため、同盟関係にもないのに
、血を流したという事実である。

しかるに日本は駆逐艦派遣といったお付き合い程度であり、その後
イギリスの信頼が若干揺らいだのは指摘できよう。

英米日ともに「シーパワー」であり、日英間では利害調整ができて
いたのだがそれを快く思わない新興海軍国たるアメリカ主導で日英
同盟破棄が決定されたのが1921年のワシントン会議である。
このことの意味は決定的に重大である。

私は本項の表題を「英米対立」とした。「日米」対立ではないので
ある。

イギリスの統治とは自由貿易を通商面からサポートする海運および
海軍力が前提である。そして日本もしかり。かつ、日英間では利害
の対立はなかった。しかるにアメリカは後発海軍国でイギリス同様
海外に市場を求める以上、両者の利害対立は決定的なのである。
これは第二次大戦後、日本、中東を筆頭にイギリスの影響下にあっ
た国や地域がほとんどアメリカ傘下に下っていることを見れば理解
できよう。アメリカの日英ともに仮想敵とする長期戦略により、
両国ともに同盟を失い漂流した。イギリスは英連邦があったが日本
にはそれすらなかった。肝心な事は、英米ともに「金融資本」が主
導する国であり彼らの関心事は市場と資源という点での世界の分割
のみである。さらに、どちらもシーパワー同士であり、上述の法則
に従いシーパワー同士は市場を巡って利害対立するのである。

騙されてはいけない。民主主義や人権など、金融資本の本当の意図
を粉飾し粉塗するための大義名分にすぎないのである。そのような
観点からみると、両者の利害は対立するに決まっているのである。
アメリカは二度の世界大戦でイギリスを助けたではないかと思われ
る向きもあろうが、それは表面的な見方にすぎず結果として日本を
筆頭にイギリスそのものが米の傘下に下った事実は否定できない。
要は、英米ともに金融資本という「商人」が持ちたる国であり、江
戸期以来今日に至るまで、二本差し(武士)=官僚が経済を差配し
ていた国とはまったく社会構造が逆で、マインドが大きく異なると
いうことを理解する必要がある。次項でアメリカがいかにしてシー
パワーとしての「商人」すなわち、イギリスと同じような金融資本
の持ちたる国となったかを見ていくこととする。

(2)アメリカの台頭
第一次大戦を通じアメリカが世界のスーパーパワーとして名乗りを
あげてくる。かの国は孤立主義を国策として欧州への不介入を貫く
はずだったのだがこの戦略転換の背後になにがあったのか?私はア
メリカにおける金融資本家の政策への影響を看過できない。

1929年NYで発生した大恐慌の結果、世界がブロック化してい
く中で日独といった後発資本主義国が武力に訴え生存圏を確保しよ
うとする端緒となったしかし、大恐慌そのものの評価について、世
界経済に与えたインパクト以上にアメリカにおける連邦政府の存在
がクローズアップしてきたことは看過し得ない事実である。もとも
と、合衆国とは州に主権があり各州の主権を制限しない範囲で連邦
に外交や安全保障を委ねてきたのである。そして外交的孤立(モン
ロー主義)を国是としていた。しかるにルーズベルト大統領のとっ
たNewDeal政策は連邦主導の経済政策であり、この時期FBI、
FRBを初めとする連邦諸機関が創建され強化されているのである。
まさしくアメリカにおける連邦主権の管理国家が完成したのがこの
大恐慌期なのである。建国の父たちの理念、州の連合により中央集
権ではないキリスト教原理主義に基づく理想郷を築くことはこの時
期死んだということが言えよう。ルーズベルト大統領のとった政策
は違憲判決が多数出されていることも忘れてはいけない。

この視点は決定的に重要である。その後アメリカは連邦政府に引き
連られモンロー主義という伝統的孤立主義の国策を捨て、世界に市
場を求め、干渉していくのである。戦後の海外への米軍展開、駐留
は合衆国憲法になんの根拠もない。そして、本来根拠がない事項は
州に留保されるとの憲法上の規定(修正第10(州と人民の留保す
る権利)本憲法によって合衆国に委任されず州に対して禁止されな
かった権利は、各州と人民に留保される。)があるが、米軍の海外
駐留展開に対して州が同意を与えた形跡はない。はっきりいえば、
海外市場獲得のため、NYの金融資本家がワシントンを通じて、ア
メリカを操作する契機を与えたのが大恐慌なのである。そして、彼
らの究極の目的は中東と中国である。

(3)第二次世界大戦
大恐慌後のブロック経済化、市場獲得競争は武力進攻という形をと
り、結果日独は敗戦した。今日、第二次大戦というと日独VS連合国
としての史観しかない。しかし私が見るにこの大戦の本筋は世界の
市場獲得における英米のデスマッチというのが真相であり、日独は
単なるバイプレーヤーに過ぎず世界史的観点から見れば本当の意味
は、イギリス金融資本(City)からアメリカ金融資本(NY)
への覇権移行であると考えられる。

今日、日本人の大部分はこの歴史の真相を理解しているのであろう
か?戦後チャーチルが吉田茂に日英同盟を破棄したのは失敗だった
と告げたのはこのことを指しているのである。

(4)太平洋戦争
太平洋戦争の歴史的意義についても、ランドパワーとシーパワーの
観点から読み解く必要がある。上述のように、日本は明治以来、陸
軍はドイツに学び海軍はイギリスに学んだ。両者の戦略はそもそも
大陸志向か海洋志向か大きく異なっており、相互の調整や連絡、あ
えて言えば国家戦略は全くなかった。それでも日露戦争の頃までは
明治維新第一世代、いわゆる元老(伊藤博文や山縣有朋など)が実
質的な陸海軍ひいては日本国家のオーナーとしてイギリスにお伺い
を立てながら国家戦略を策定していた。日英同盟(1902年)締
結にともなう日露戦争はその最たる例である。

しかし大正昭和と時代が下がるにつれ、元老という「オーナー」を
失い官僚国家となっていく過程で陸海軍両者の意識あわせ、利害調
整はできなくなってしまった。いわば官僚制度の弊害が極度に現れ
たのである。このような流れの中で、私は太平洋戦争開戦を決した
のは2.26事件であったと考えている。

2.26事件(1936年、昭和11年2月26日、東京は30年ぶ
りの大雪だった。早朝、午前5時頃1400名の将兵が岡田首相官邸、
斎藤内大臣私邸、渡辺教育総監私邸を襲撃し、夫れ夫れを殺害、高
橋大蔵大臣私邸、鈴木侍従長官邸等も同時に襲って夫れ夫れに負傷
を負わせた。朝日新聞など報道機関も占拠され、午後3時第一師団管
下、戦時警備下令なった旨の軍師令部発表が放送されたのが午後7時
、以上の概要が陸軍省から発表になったのは午後8時15分で一般には
翌日の朝刊でヤット報道されたのであった。3日程後、岡田首相は
生きていて、殺されたのは義弟の松尾大佐だった旨、号外が出た。
表面的には一部の青年将校たちが起こしたクーデターで3日後には
無血で鎮圧され、スピード裁判で首謀者17名が処刑されて収まった
。)の史的意義についてであるが、表面的には陸軍皇道派青年将校
の決起と鎮圧とされている。しかし、より重大な意義は、それが陸
軍上層部が意図していたことではなかったにせよ、客観的には陸軍
が海軍に戦争を仕掛け、昭和天皇が鎮圧を決しなかったなら、陸海
は内戦に陥っていた可能性があったということである。青年将校の
決起直後、陸軍上層はこれを黙認あるいは追認する素振りをみせた
。また、海軍は重鎮を殺されたため、戦艦長門を東京湾に入れ、陸
戦隊を上陸させたのである。

結果として、昭和天皇の決断により暴徒として鎮圧され、内戦の事
態は回避されたが、以後海軍は陸軍によるテロを恐れるようになり
主導権を陸軍に握られていく。

その後の展開は、昭和14年にノモンハンで陸軍は仮想敵のロシア
に大敗を喫し、中国戦線も膠着すると、全ての問題解決を海軍に振
った。即ち三国同盟+日ソ不可侵条約(陸軍主導のランドパワー連
合)から対英米(シーパワー)開戦である。当初海軍はアメリカと
の開戦に反対であった。彼我の工業力の差から勝ち目がないし、石
油をはじめとする戦略資源を英米に依存していたことを熟知してい
たからである。しかし、対英米戦を想定し、予算や人員を取ってい
たため、開戦できませんとは言えず、山本の近衛に対する五相会議
での有名な発言「半年や一年は暴れて見せる」に繋がるのである。
これは裏を返せば「半年や一年しかもたないから開戦するな」とい
うメッセージを官僚的な保身と修辞でいっただけである。陸軍に押
し切られてしまったのである。仮に2.26事件がなく、何らかの
形で海軍主導が確立していたら、英米と連合しソ連と開戦していた
であろう。実際、関特演(関東軍特別演習1941(昭和16)年7月7日
独ソ開戦のとき日本陸軍が行なった動員。通称、関特演。6月に独ソ
が開戦すると日本は対ソ参戦を想定し、7月7日関東軍を動員。兵力
を戦時定員に充実するほか、多数の部隊、弾薬・資材を満州(中国東
北)に輸送した。この結果、関東軍は70万を越す大兵力となった。)
はこの可能性を如実に示す。図らずもこの構図は戦後冷戦という形
で実現する。上述の日露戦争と同じく、太平洋戦争の本質とはその
ようなものなのである。

注意していただきたい。日米対立の原因を作ったのは陸軍が満州事
変からシナ事変へ至る、大陸派遣軍の独走を中央が事後的に追認す
る形でいたずらに戦線を拡大し、膠着状態に陥った、いわば、大陸
政策の破綻である。そのツケを彼らは自ら払う(中国本土からの段
階的撤兵=責任問題発生)ことなく、全て海軍に振ったのである(
対米開戦)これは我々がいやというほど見せ付けられてきた霞ヶ関
の保身と問題先送り、無責任体制と全く同じではないか。薬害エイ
ズ、BSE、不良債権処理と全く同じ官僚の保身と問題先送りが戦争の
原因で300万の戦没者はその犠牲者即ち薬害エイズの犠牲者やBSE
の農家、貸し剥がしにあう中小企業と変わるところはない。上述の
ところと矛盾するようであるが、ランドパワーやシーパワーなどと
いうまでもなく、官僚の保身と問題先送りによって太平洋戦争の真
の意味は語ることができ、さらにはその結果責任を誰も取らされて
いない!ことに気づくべきである。わが国政府は今日もA級戦犯は
すべて戦没者として扱ってるのであり、今日に至るまで、先の大戦
を総括できてない。よって、不良債権処理も全く同じ結果に終わる
であろうと考える。即ち誰も責任取らず、犠牲は国民へと。


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